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2012年2月14日 (火)

戦争のトラウマ 1

 

 戦争というものは、その非日常性において、渦中に巻き込まれた人間に昂揚感をもたらすと同時に、やがて日常性として体験されることになるその悲惨さは、それを体験した個人の中にも大きな傷痕を残すものである。

 同時に、戦争とは国家というレベルでの出来事であり、国家という枠組み、国家という枠組みを形成する国民というレベルにおいても、大きな傷痕(つまりトラウマ)を刻み込むものである。その前後での意識の変容は、無視するにはあまりにも大きい。

 戦争という体験は、いわば、「国民意識」のレベルでの変化を引き起こすものなのである。

 

 そして、その変容のあり方は、その戦争をどのように体験したのかに、そしてその体験をどのように解釈するのかに規定される。

 

 

 第二次世界大戦の経験は、日本とヨーロッパで、まったく相反すると言ってもよいくらいの認識をそれぞれにもたらした。

 日本では「大東亜戦争」と呼ばれる「あの戦争」の体験は、軍事力そのものへの忌避感として表明され、現行憲法の第九条の規定に集約的に表現された。そこでは国家による軍事力保有自体が忌避されたのである。

 それに対し、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチス・ドイツにより引き起こされた戦争の体験により生まれたのは、軍事力そのものへの忌避感ではなく、むしろ適切なタイミングでの軍事力行使の必要性の認識であった(と私は思う)。戦後のヨーロッパに深く刻み込まれたのは、軍事力保有自体への忌避感情ではなく、保有した軍事力を適切に行使する政治判断の重要性である。

 1938年の英仏と独伊の四国によるミュンヘン会談は、「平和裏に」チェコスロバキアの分割によるドイツへの併合を決定し、それが当面の戦争の可能性を回避したものとして広く歓迎された。

 もちろん、その影にあるのは第一次世界大戦の経験であり、その経験によりもたらされたヨーロッパにおける戦争への忌避感情である。大戦の惨禍の大きさは、「戦争」そのものへの忌避感となって結実し、ミュンヘン会談の「成果」は、独伊の国民だけではなく英仏の国民からも熱烈に支持されたのであった。英仏の国民はチェコスロバキア国民の感情に配慮する必要よりは、協定により確保された当面の「平和」を受け容れる方を選んだのである。

 しかし、ミュンヘンの成果は、ヒトラーへの手法へのドイツ国防軍内の懐疑を減少させ、ドイツ国内におけるヒトラーの権力基盤の拡充をもたらした。同時にヒトラーの手法を国際社会が受け容れたこととして理解され、保有する軍事力の脅迫的運用の有効性を、ヒトラーに知らしめる結果となった。

 そして1939年の9月にヒトラーのドイツは、スターリンのソ連の合意の下でポーランドに侵攻し、ポーランドをソ連と分割することで第二次世界大戦が開始されることになる。軍事力が脅迫の手段ではなく、軍事的侵攻の手段として行使され、つまりヨーロッパでの新たな戦争が始まったのであった。

 戦後のヨーロッパは、その過程を回顧し、ミュンヘン会談の評価を、その当時とは異なるものとしたのである。あの時点でヒトラーの軍事的脅迫に対し、英仏が適切に軍事力を背景とした政治外交を行なっていれば、その後の第二次世界大戦は回避出来たのではないのか? それが、大戦後のヨーロッパの人々、大戦後のヨーロッパの政治家に深く刻まれたトラウマ的感覚となったことを、私たちは知っているはずである。イラク戦争に先立って(ブッシュにより)用いられたのは、サダム・フセインをヒトラーのイメージで語るレトリックであった。サダム・フセインに対する軍事力の行使に対する躊躇は、ミュンヘンでのヒトラーへの躊躇と重ねてイメージされ、チェンバレンの後裔としてのブレアの判断に大きく影響を与えていたはずである。

 

 それに対し日本国民の経験は、山東出兵以来の脅迫的な軍事力の運用と、満洲事変以来の実際の軍事的侵攻への軍事力の使用の歴史と、その帰結としての未曾有の敗戦として描かれる、「あの戦争」の姿となった。国家の存立を保証するはずの軍事力が、国家的な破局をもたらしたのである。

 反省的に見れば、そこに存在するのは政治によるコントロールを欠いた軍事力の暴走であり、政治をもコントロールしようとし実際にコントロールした軍人の姿であった。対米英戦争の進行と共に、より多くの人々が家族を失い、生活の惨めさを徹底的に味わうこととなった。その経験が軍事そのものへの忌避感となって結実したことも当然のことと思わざるを得ない(それは、既に第一次世界大戦後のヨーロッパで広く共有された感情でもあった―つまり近代総力戦のもたらす悲惨さという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を、遅れて日本が味わったことを意味する)。

 戦後の日本は、軍事力の保有に積極的ではなく、保有した軍事力を自らコントロールしようとすることにも積極的ではなかった。保有する軍事力をコントロールすべき政治を、国民自らコントロールすることを望もうとはせず、米国のコントロールの下へ置くことを選択したのである。

 少なくとも、その選択の結果、大東亜戦争に至る時期の軍事的暴走の結果もたらされた生活の惨めさからの脱却には成功し、日本国民はその戦後を、それなりに満足しながら生きていたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/30 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/181268/

 

 

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