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2012年2月

2012年2月20日 (月)

なるほどポキン(石子順造的世界)

 

 府中市美術館で「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」というタイトルの展覧会を開催中(2012年2月26日まで)。というわけでお出かけ。

 

 

 肩書きとしては「美術評論家」であったらしい石子順造は、マンガ批評でも知られている。それがタイトルに反映され、展示内容に反映されているわけだ。

 

 60年代から70年代にかけてのいわゆる「現代美術」と共に生き、マンガをマンガとして評価し、同じ視線でキッチュの世界を見透し、世界を、現代というものを理解しようとした。

 展示会場も三つに分けられているが、それぞれに石子の注いだ視線のあり方を意識させられながら作品や展示物を見ることで、かつて目にした作品も別の姿で立ち現れるのを経験する。

 

 「美術」とは何なのか?何がどのようにして「美術作品」と呼ばれることになるのか?

 そこには一種の社会的合意として、半ば意識的半ば意識されることなく定義された、「美術」というものの社会的に期待されたあり方が前提として存在する。そしてその期待・前提を破棄させ、あらたな「美術」としての可能性を提示する運動自体が、「美術」という行為には含まれ、それが作品として形象化されるわけである。

 運動としての「現代美術」とは、まさにその過程の意識化であったのだなぁ…なんてことを実感させられながら「美術」エリアを進む。

 

 「マンガ」のエリアでは、様々な作品の複製を手にとって読むことが出来る仕掛けになっているが、つげ義春の「ねじ式」だけは、その原画の展示を通して再会することになる。照明を落とした会場スペースのガラス越しに、「ねじ式」の原画の全てが展示されており、展示された原画を通して、かなり久しぶりに「ねじ式」を読むことになった。「ねじ式」には、本質的なものとして、読めば読むほど「見てはいけないものを見て(見続けて)しまう」ような場所へ読者を誘い込んでしまうような仕掛け(というのは適切な表現ではないが)がある。照明の暗い中で年代を経た「ねじ式」の原画と対面することで、その感覚はより強められる(展示設計が見事だと思う)。

 マンガ表現というものへの期待・前提を破棄させた作品、あらたなマンガ表現の可能性を提示した作品であることを深く実感させられるのである。

 

 「キッチュ」のエリアは明るい(しかも写真撮影オーケー!)。銭湯のペンキ絵もあれば、観光地の土産物のペナント、食品サンプル、各種の優勝トロフィー、招き猫、怪獣のソフビ…と、様々な展示物が並ぶ。

 ここに並んでいるのは消費者マジョリティーの期待・前提に適うことで(むしろ拡大することで)商品として成立する、必ずしも実用的ではない品々である。しかし、これが楽しい。また「美術」における「作品」とは対極的な存在でもあるようにも感じられるが、それが大量生産品であるからではないことを、銭湯のペンキ絵や相撲取りの化粧回しのような一点モノの存在が明らかにもする。

 

 

 ここでは、作品なり生産物なりを享受する側の期待・前提とその期待・前提自体の破棄への期待の有無という観点を、三つのエリアに通底するものとして展示を見通してみたわけだが、もちろんそれはひとつの見方に過ぎないのであって、石子順造が残し提供してくれた問題はそれだけではない。

 

 

…と、マジモードで書いてきたが、実は「キッチュ」のエリアで、私はかなり後悔の念に襲われていたのである。

 昨年末に、国分寺の「switch point」というギャラリーで「不幸なる芸術」というタイトルの展覧会に遭遇していたのだ。そこで私は成相肇氏の「作品」に出会うことになったのだが、その成相氏こそは今回の石子展のキュレーターなのであった。

 「不幸なる芸術」展では「美術作品」の「作品性」が、経済的側面から追求されていたのである。そこにあったのは、美術作品の値段とは何なのか?という問いであった(と私には思われた)。「作品」と呼ばれるのは、美術市場での商品価値が社会的に認められた事物・物品なのであり、その社会的事実が「値段」として表示されるのである。美術市場での商品価値が認められなければ、そこに社会により見出されるのは(多くの場合)「実用的でない品々」であるに過ぎず、単なる「ゴミ・ガラクタ」として処理されてしまう可能性も高い。成相氏は、その構図を自らの「作品」として提示していたのだ。

 その「不幸なる芸術」展の会場で、今回の石子展の「キッチュ」エリアの展示物のいくつかが「作品」として(予約)販売されていたのである(いわゆる美術作家によリ作成された「作品」ではなく、今回の展示用に購入された量産品なのだが、ギャラリースペースで値段をつけ販売されることにより、成相氏の名を刻印された「作品性」を身にまとうことになる)。もちろん「お買い上げ」を考えた私であったが、それを(財布の中身の参照という)「理性」が押し止めてしまったのだ。

 やっぱり買っとけばよかった、と「キッチュ」エリアに並ぶ様々な「消費者マジョリティーの期待・前提に適うことで(むしろ拡大することで)商品として成立する、必ずしも実用的ではない品々」を前に後悔したのであった。

 

 

 

 ちなみに、「石子順造的世界」展図録は300ページくらいのハードカバーでありながら2000円!! ボリューム的にも内容的にもお買い得感たっぷりなのであった(もちろん、こちらは迷うことなく「お買い上げ」)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/12 22:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/182272/

 

 

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2012年2月16日 (木)

戦争のトラウマ 2

 

 「戦争体験を語り継ぐ」ということが果して可能なのかどうか?

 

…という問題が、そもそもはあるのではないか?

 

 

 およそそれがどのような「体験」であれ、「体験」とは本質的に個人的なものなのであり、「戦争体験」もまた、それを体験した当事者としての個人を離れたところで語り得るものなのだろうか? 当事者としての個人を離れたところで語られる「体験」とは、どこまでその名に値するものなのだろうか?

 

 

 そんなことを考えたりしていたのである。

 

 

 ネットを介して、「戦争体験の語り継ぎ」という行為に加担しつつも、その行為自体の可能性と共に「語り継ぐ」という意思(志すこと)の限界にも気付かざるを得ない。

 他人の「体験」を自らのこととして語ること、語ろうとすることの限界である。

 

 

 

 そんな中で、先日、ネット上(メーリングリスト利用)でお付き合い下さっている方々と顔を合わせる機会を持つことが出来た(いわゆる「オフ会」である)。

 20代から80代までの男女取り混ぜて十数名が集り、話をしたわけだ。ネット上のお付き合いでは「文」でしか知らない相手と、顔を合わせ、言葉を交し合ったわけである。

 

 80代のシベリア帰りの元少年航空兵が、実は日本橋浜町生まれ新宿育ちのチャキチャキの江戸っ子シティーボーイであり、戦前のモダンボーイ生活の延長にある軍国少年化であり、その果ての戦場体験・シベリア抑留体験であったことが、あらためて判明する。ネット上のメールのやり取りでは、元少年航空兵の歯切れのいい江戸弁は伝わらないのである。

 ご当人は、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

あるいは、それに加えて、

  戦場体験というのは、話す人の数だけあります。軍隊は、人を殺すための軍隊です。同時に、軍隊の中の身分が将校か下士官か兵隊かという違いや、古参兵だったのか新兵だったのかで、同じ体験に遭っても全部違ってきます。それぞれの考えも違っています。同時に日本に帰ってきた後、どのような生活体験をしたかによっても思いが違ってきます。その意味で、一人の人の体験が全てではないのです。同じ場面に遭っても、指揮する立場と、指揮される立場とは全然違います。
  やがては消えていく体験なので、より多くの人に語り残していくということが求められているのです。

…などという言い方をした上で(つまりそれがご自身の個人的な「体験」であることを念押しした上で)、様々な機会に様々な聴衆を相手にご自身の「戦場体験」について語っているわけだが、その「体験」を活字で読むのと、生で聴くのは異なる経験であることを実感させられたのである。かつてのモダン東京のシティーボーイが由緒正しい江戸っ子の語り口で語るのを聞くことの持つ意味を考えてしまったりするわけだ。

 活字で読む限り、どこまでも陰々滅々の暗い老人の話となってしまうのだが、そして実際に皇軍組織の救い難さの体験が語られているわけなのだが、それがシャレのわかる江戸っ子の歯切れのいい口調で語られるのを聞けば、(活字知識としての暗い話とは異なる)陰影あるかつての少年兵としての日々が伝わってくるのである。

 

 (そしてまた、この江戸っ子の語り口を語り継ぐことの不可能さをも思わざるを得ないのである)

 

 

 そんなことを思いながら、かつての少年航空兵のお話を伺っていたのだが、「戦場体験」を語る機会が増えたことの喜びを聞くと同時に、その難しさの指摘にもうなずかざるを得ない。

 小学生を相手に、零下20度のシベリアの寒さ(それも十分な毛布も暖房もない中でのいつまで続くのかもわからない日々である)をどのように説明すれば理解を得られるのか? 「飢え」の感覚、つまり単なる空腹感とは隔絶した「飢え」の感覚を現代の小学生に伝えることは出来るのか? そこが理解されなければ、本来伝えるべき話は伝わらないのである。

 

 

 そんな話の流れから、参加者の間でも当時の「飢え」が話題となった。戦後になっての日々、復興後の日々にも、決して「混ぜご飯」を食べようとしなかった家族(父親であったか?)のエピソードは、つまり白米のない戦時下・終戦直後の日々への反動である。あるいは家族にはお土産にバナナを買って帰っても、自らは決して食べようとしなかった復員後の父のエピソード(南方でのバナナだけで飢えをしのいだ日々への反動である)。

 このような話は、戦中派の体験談には珍しいものではない。戦後は決してカボチャをサツマイモをトウモロコシを口にすることなく過ごそうとした人々の話は、むしろ「ありふれた」という印象を与えるものにさえ思える。

 「飢え」のトラウマ、つまり、毎日それだけしか食べられなかったことへの反動から、それを絶対に食べないという決意が生まれたわけである。いや、「決意」という種類のもの(つまり頭で考えたという次元の話)ではなく、「それを身体が受け付けなくなってしまった」という種類の出来事であったようにさえ思われる。これはむしろ身体性に刻み込まれた「トラウマ」と言うべきだろう。

 

 

 

 そんなことを考えながら、この数日間を過ごしていたのであった。

 しかし、あらためて考えると、あの世代の「日の丸・君が代」に対する忌避感もまた、そのような身体性のトラウマとして理解すべきであるようにも思われてくるのである。

 あの世代の人間にとってカボチャを食べないのはリクツの問題ではないし、「日の丸・君が代」に対する忌避感もまたリクツの問題ではないのではないだろうか?

 戦後生まれとしては、正直なところ、あの、

  日の丸・君が代いやだ

…という感覚を体感として共有し合うことは出来ない。戦時下での体験を聞き、当時の記録類を読めば、なぜ彼らが「日の丸・君が代」への忌避感を持つに至ったのかをリクツとして理解することまでは、私たちにも可能である。家族が死に仲間が死に、家が灰となり街が焼き尽くされ、そこで飢えと不安をとことん味う惨憺たる日々を送った。その背後には日の丸があり、命令と服従の体系があり、日の丸には教壇から発せられ町内会長から発せられ古参兵から発せられそして軍司令官から発せられるあらゆる理不尽な命令をも正当化させる力があった。その日の丸の下で、愛着あるあらゆるものが失われたのである。

 そこに日の丸への(君が代への)忌避感が胚胎したであろうことは、リクツとして理解出来るし、リクツとして説明することは出来る。しかし、それはあくまでもリクツであり説明なのであって、戦争を生き抜いた世代の身体感覚に到達するものではない。身体感覚として刻み込まれた体験の質への想像力は(共感への道は)求め得ないものなのであろうか?

 しかし、そこに、

  カボチャが食べられない

…というあの世代の身体感覚を重ねることで、「日の丸・君が代いやだ」への理解への道が拓かれたように感じたのである。カボチャやサツマイモは、しかしそれでも彼らの食糧となり、彼らを飢えから救い、彼らを生き延びさせた、にもかかわらず、二度と口にしたくないものとなってしまっているのである。その彼らの皮膚感覚からすれば、「ニッポン」は彼らをそのような飢えに追い込み、「日の丸・君が代」はその飢えから彼らを救うものではなかった。家族や仲間の死は、そして自分の飢えは、日の丸を背負った命令と服従の体系の終着点に起きた出来事なのである。

 「戦争体験を語り継ぐ」と言葉で言うのは簡単だが、体感・身体感覚を離れたところでの「体験」の「語り継ぎ」の限界は思わざるを得ない。詰まるところ「体験」は代弁することが出来ないのである。しかし、それをあっさりと他人事で終わらせてしまうことには、実際に身近で話を聞いてしまった以上、抵抗感が残るのである。

 「日の丸君が代いやだ」の忌避感が身体感覚に刻まれたものであり、その刻まれ方が、「今でもカボチャが食べられない」の感覚を参照することで、戦後世代にも「理解」が可能になるのではないか? 「カボチャ」を参照することで、「日の丸・君が代」についての忌避感を「反日的」などと切り捨てる(いくらなんでもカボチャが食べられないことを「反日」とは言わないだろう)のではなく、ある時代のある世代の身体に刻み込まれた体験として、つまりこの国の歴史の重要なひとつのエピソードとして私たちが継承することを可能にするのではないか? 「代弁」は出来ないにしても、彼らの体験に、そして個人としての彼あるいは彼女の体験に、より近いところで寄り添うことは出来るはずである。その時、彼らの体験は「他人事」ではなくなっているはずである。

 

 そんなことを思ったわけだ。

 

 

 もちろん、この話も、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

…というのと同様で、すべてのあの世代がカボチャを食べないわけではないし、すべてのあの世代が「日の丸・君が代」への忌避感情を持ってしまったわけではない。あくまでも個別の問題である。

 しかし、その「個別」のあり方への想像力を持ち続けることこそが、現在を生きる私たちの重要な課題ではないのか? 「戦争体験の語り継ぎ」とは、まず、あの時代を生きた一人の人間と出会うことから始まるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/07 22:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/181876/

 

 

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2012年2月14日 (火)

戦争のトラウマ 1

 

 戦争というものは、その非日常性において、渦中に巻き込まれた人間に昂揚感をもたらすと同時に、やがて日常性として体験されることになるその悲惨さは、それを体験した個人の中にも大きな傷痕を残すものである。

 同時に、戦争とは国家というレベルでの出来事であり、国家という枠組み、国家という枠組みを形成する国民というレベルにおいても、大きな傷痕(つまりトラウマ)を刻み込むものである。その前後での意識の変容は、無視するにはあまりにも大きい。

 戦争という体験は、いわば、「国民意識」のレベルでの変化を引き起こすものなのである。

 

 そして、その変容のあり方は、その戦争をどのように体験したのかに、そしてその体験をどのように解釈するのかに規定される。

 

 

 第二次世界大戦の経験は、日本とヨーロッパで、まったく相反すると言ってもよいくらいの認識をそれぞれにもたらした。

 日本では「大東亜戦争」と呼ばれる「あの戦争」の体験は、軍事力そのものへの忌避感として表明され、現行憲法の第九条の規定に集約的に表現された。そこでは国家による軍事力保有自体が忌避されたのである。

 それに対し、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチス・ドイツにより引き起こされた戦争の体験により生まれたのは、軍事力そのものへの忌避感ではなく、むしろ適切なタイミングでの軍事力行使の必要性の認識であった(と私は思う)。戦後のヨーロッパに深く刻み込まれたのは、軍事力保有自体への忌避感情ではなく、保有した軍事力を適切に行使する政治判断の重要性である。

 1938年の英仏と独伊の四国によるミュンヘン会談は、「平和裏に」チェコスロバキアの分割によるドイツへの併合を決定し、それが当面の戦争の可能性を回避したものとして広く歓迎された。

 もちろん、その影にあるのは第一次世界大戦の経験であり、その経験によりもたらされたヨーロッパにおける戦争への忌避感情である。大戦の惨禍の大きさは、「戦争」そのものへの忌避感となって結実し、ミュンヘン会談の「成果」は、独伊の国民だけではなく英仏の国民からも熱烈に支持されたのであった。英仏の国民はチェコスロバキア国民の感情に配慮する必要よりは、協定により確保された当面の「平和」を受け容れる方を選んだのである。

 しかし、ミュンヘンの成果は、ヒトラーへの手法へのドイツ国防軍内の懐疑を減少させ、ドイツ国内におけるヒトラーの権力基盤の拡充をもたらした。同時にヒトラーの手法を国際社会が受け容れたこととして理解され、保有する軍事力の脅迫的運用の有効性を、ヒトラーに知らしめる結果となった。

 そして1939年の9月にヒトラーのドイツは、スターリンのソ連の合意の下でポーランドに侵攻し、ポーランドをソ連と分割することで第二次世界大戦が開始されることになる。軍事力が脅迫の手段ではなく、軍事的侵攻の手段として行使され、つまりヨーロッパでの新たな戦争が始まったのであった。

 戦後のヨーロッパは、その過程を回顧し、ミュンヘン会談の評価を、その当時とは異なるものとしたのである。あの時点でヒトラーの軍事的脅迫に対し、英仏が適切に軍事力を背景とした政治外交を行なっていれば、その後の第二次世界大戦は回避出来たのではないのか? それが、大戦後のヨーロッパの人々、大戦後のヨーロッパの政治家に深く刻まれたトラウマ的感覚となったことを、私たちは知っているはずである。イラク戦争に先立って(ブッシュにより)用いられたのは、サダム・フセインをヒトラーのイメージで語るレトリックであった。サダム・フセインに対する軍事力の行使に対する躊躇は、ミュンヘンでのヒトラーへの躊躇と重ねてイメージされ、チェンバレンの後裔としてのブレアの判断に大きく影響を与えていたはずである。

 

 それに対し日本国民の経験は、山東出兵以来の脅迫的な軍事力の運用と、満洲事変以来の実際の軍事的侵攻への軍事力の使用の歴史と、その帰結としての未曾有の敗戦として描かれる、「あの戦争」の姿となった。国家の存立を保証するはずの軍事力が、国家的な破局をもたらしたのである。

 反省的に見れば、そこに存在するのは政治によるコントロールを欠いた軍事力の暴走であり、政治をもコントロールしようとし実際にコントロールした軍人の姿であった。対米英戦争の進行と共に、より多くの人々が家族を失い、生活の惨めさを徹底的に味わうこととなった。その経験が軍事そのものへの忌避感となって結実したことも当然のことと思わざるを得ない(それは、既に第一次世界大戦後のヨーロッパで広く共有された感情でもあった―つまり近代総力戦のもたらす悲惨さという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を、遅れて日本が味わったことを意味する)。

 戦後の日本は、軍事力の保有に積極的ではなく、保有した軍事力を自らコントロールしようとすることにも積極的ではなかった。保有する軍事力をコントロールすべき政治を、国民自らコントロールすることを望もうとはせず、米国のコントロールの下へ置くことを選択したのである。

 少なくとも、その選択の結果、大東亜戦争に至る時期の軍事的暴走の結果もたらされた生活の惨めさからの脱却には成功し、日本国民はその戦後を、それなりに満足しながら生きていたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/30 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/181268/

 

 

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