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2012年1月

2012年1月31日 (火)

『月あかりの下で』(救いとしての学校)

 

 どうやら、学校が救いの場である、という状況があり得るということには、私の想像力は及ぶことがなかったようだ。

 

 たまたま自主上映会のチケットをいただいたもので、ドキュメンタリー映画『月あかりの下で ~ある定時制高校の記録~』(太田直子監督 2010)を観ることが出来た(2012年1月27日、小平市中央公民館にて)。

 

 埼玉県立浦和商業高校定時制課程の2002年次入学の生徒たちの、卒業までの4年間を追ったドキュメンタリー作品である。

 映し出されていたのは生徒と担任教師の交流というよりは闘いであり、それは確かに闘いではあるけれど、真剣勝負は相互理解と信頼に至る道でもあるという過程が、日々のエピソードを通して描かれていた。

 経済的困難者への勉学の機会の提供手段としての役割は現在でも重要なものであるにしても、かつての定時制高校の果たした役割と現在のそれには大きく変容した部分もある。

 

 公立小中学校での問題として、登校困難状態に陥った児童の存在は無視することの出来ないものとなっており、その進学先という、もうひとつの問題もまた無視することは出来ない。

 そのような、小中学校での経験を抱えた子供たちの進学先の一つとして、現在の定時制高校の果している役割は小さなものではない。

 映画は、そんな定時制高校のひとつでのエピソードなわけだ。

 

 かつて不登校児童であった彼らが、定時制高校のクラスという場で一緒になり、それぞれの自己主張と、自己主張の仕方さえつかめぬ状態との格闘の中から、4年の時を経る中で相互理解と自己理解、そして相互の信頼感までを獲得していく。

 

…なんて紹介の仕方は、それはそれで間違ってはいないのだが、いきなり酔っぱらって授業中のクラスに登場する生徒の姿だの、とにかくどこまでも「お行儀」のよくない生徒たちが次々と登場するのである。

 映画の性格から言って、救いのない結末にはならないであろう期待というか予感はあるものの、シナリオの存在しない展開はスリリングでもある。

 2年3年と進級する中で、それぞれに芯の強くなっていく姿を見る一方で、それぞれの抱えて来た(そして現に抱えている)問題の深刻さにも気付くようになる。

 

 

 冒頭のシーンに、ハイヒールを履いた女子生徒が教室の机の上に腰掛けた状態で担任教師に応答する姿があるのだが、上映後の担任教師本人(平野先生)の話に、

  生徒の足下ではなく顔を見る

…という言葉があった。

 やがて彼女も校内で上履きを使用することになったことも語られたが、それはまさに「顔」をきちんと見る日々の中での関係性がもたらした変化であったに違いない。

 

 

 そんな彼女たちにとって、どうやら、学校は「救いの場」であったのである。時と共に、彼ら彼女らにとって、学校が「救いの場」としての意味を持ち始める。県により浦和商業高校定時制課程の廃校が決定されるのだが、その撤回交渉の場での先輩たちの姿は、彼らにとって学校がどれだけ深く「救いの場」として機能し、現在の彼らの存在を支え続けているのかを明らかにしている。しかし、県の決定が覆されることはなく、映像記録としてその最後の姿が残されはしたが、県立浦和商業高校の定時制課程は既に存在しない。

 「学校」という場に、まだ可能なことは残されていたのだ。通学する生徒にとっての「救いの場としての学校」という「可能性」が、である。それにもかかわらず、その可能性の証が「廃」されてしまったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/27 22:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/181053/

 

 


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2012年1月14日 (土)

昭和天皇の戦争責任問題と東京裁判

 

 

 さきの大戦につきましての天皇の法的な責任のみについて申し上げます。旧憲法下におきまして、天皇は統治権の総攬者でございまして宣戦の権能をお持ちになっておられましたが、国務大臣がそれにつきましては天皇を輔弼しまして一切の責任を負うことになっておりまして、天皇は神聖不可侵であるという規定が旧憲法第3条にあったわけでございます。この神聖不可侵であるということの意味の一つといたしまして、天皇は先ほどおっしゃいましたように無答責である、責任を負わないんだということにこの解釈は恐らく争いがなかったことであると思います。 したがいまして、天皇は旧憲法下におきまして国内法上一切の法的責任を負うことはないと、このようにされておりました。当時の憲法において一切の法的責任を負うことがないとされております以上は、その旧憲法当時の行為につきまして後になって法的責任があるというわけにはまいりませんので、国内法上は昭和天皇には戦争についての法的責任はないと考えてございます。  
 さらに、国際法上の問題についてご議論がございましたが、これはご指摘のとおり、昭和天皇の戦争責任の問題につきましては極東国際軍事裁判において検討がなされましたが、連合軍が昭和天皇に訴追を行わなかったということはご指摘のとおりでございまして、昭和天皇の国際法上の戦争責任の問題は既に決着した問題であるというふうに考えております。
 (1989年2月14日の参院内閣委における、味村治内閣法制局長官の答弁)

     竹前栄治・監修 高橋紘・著 『日本国憲法・検証 資料と論点 第二巻 象徴天皇と皇室 あるべき天皇像とは』 小学館文庫 2000  259~260ページ

 

 

 これは、自民党政権下での日本政府の公式見解である。

 ここでは、昭和天皇をめぐる「さきの大戦(つまり大東亜戦争)」についての「戦争責任」問題に関し、国内法上も国際法上も昭和天皇に「法的責任はない」ということが、日本政府の公式見解として明言されているのである。

 国内法上は大日本帝國憲法の条文が根拠とされ、国際法上は極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」である)の訴追過程が、その根拠として示されていることになる。天皇の「戦争責任」問題に関し、国際法上の「法的責任はない」と判断する理由が、東京裁判の過程に求められている点に注目しておきたい。

 つまり、天皇の戦争責任問題をめぐる自民党政権下の日本国政府の公式見解は、東京裁判の過程を根拠にすることで、天皇に国際法上の法的責任がないことを主張しているわけである。この主張が成立するためには、東京裁判の国際法上の有効性の認識が前提とならねばならない。

 

 その「前提」を支えているのは、サンフランシスコ講和条約の条項である。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

  日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…との文言があるのだ。つまり、ここで日本国政府は、「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行する」当事者として、「極東軍事裁判=東京裁判」の国際法上の有効性を認めていたことになる、と考えざるを得ないのである(註:1)。

 

 

 では、昭和天皇自身の「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判」に関する認識はどのようなものであったのだろうか?

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(連合軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

  有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

…として、サンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている(224~225ページ)し、そもそもその前任者であるマッカーサーの退任の際の会見(1951年4月15日)ではマッカーサーに対し、

  戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、この機会に謝意を表したいと思います

…と、連合軍最高司令官としてのマッカーサーの意図を反映する経過をたどった戦争裁判=極東軍事裁判=東京裁判への肯定的評価を表明している(119ページ)のである。

 また、英国国王宛の「親書」(1946年1月29日付)にも、

  私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

…との昭和天皇の言葉があるという(33ページ)。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 つまり、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えていたのだと考えねばならないのである。退任するマッカーサーとの会見の場でわざわざ「戦争裁判」の過程に謝意を表したり、リッジウェイとの会見の席でわざわざ「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」との講和条約評価を語ったり、英国国王宛ての親書中でわざわざ「ポツダム宣言の条項を忠実に履行」することへの「出来る限りの努力」について言及したりする昭和天皇の「積極性」には、十分に配慮する必要があるということだ。

 

 

 自民党政権下での日本国政府が「天皇の戦争責任」について、その法的責任がないことを主張する際の根拠を「東京裁判」の過程に求め、昭和天皇自身もサンフランシスコ講和条約を「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」と評価することで、「東京裁判」の過程を正当なものとして受け容れていたのだと理解しなければならない。

 戦後、「象徴」として天皇の地位が確保された背後には、「東京裁判」を正当なものとして位置付けた昭和天皇自身の判断が隠されているのである。

 

 

 

 「東京裁判」とは、

  戦争の勝者が、事後法により戦争の敗者を一方的に裁いた「裁判」

…という意味で、その正当性は損なわれているし、そこでは、

  敗者による「戦争犯罪」のみが訴追され、
  勝者による「戦争犯罪」が問われることはなかった

…という問題を指摘することも容易である。

 しかし、昭和天皇および日本国政府が、

  極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…という形で、裁判の全過程を容認し、そのことにより、

  天皇の地位および日本国政府の統治の正統性を維持した

…という事実も、構図として否定することは出来ないのである。

 東京裁判の全過程の受容の上にのみ、戦後の天皇の存在と日本国政府の正統性が成立していたのであり、その構図が、東京裁判批判を皮肉な状況に追いやってしまうのだ。

 つまり、東京裁判否定論は、昭和天皇の大御心に反する論となってしまうのである。

 ネット上では、サンフランシスコ講和条約の日本側の当事者であった吉田茂について、サヨクだの反日だのとのレッテル貼りをすることで、吉田茂の東京裁判受け容れを批判する論に出会うことが出来る。

 そのような吉田茂批判の論理の帰結は、歴代日本政府(それも自民党政権下!のである)を反日サヨクとして規定することにつながるし、そもそも昭和天皇をも反日サヨクとして告発するという事態へと発展せざるを得なくなってしまうのである。

 

      コレゾ不忠不敬ノ言論ナラズヤ

 

 

【註:1】
日本国との平和条約
 法令番号 昭和二十七年四月二十八日条約第五号
 施行年月日 昭和二十七年四月二十八日外務省告示第十号
第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

 条文の英文解釈に基き、日本国が「受諾」したのは「judgments=諸判決」であって裁判そのものではない、とする論もあるようだが、裁判所の権威を否定しながら「諸判決」を「受諾」することは法理的にあり得ない話である。日本国は「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷」の権威を認め、そこでの過程を受け容れてしまっているからこそ、「諸判決」を「受諾」しているのである。(2012年2月2日追記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/13 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/180050/

 

 

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