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2011年12月18日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)

 

 

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

 

…というのは、言うまでもない話だと思うが、それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

 

 国家の呼称としての「大日本帝國」の用例の代表的なものと思われるのは、

 

 

 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 淸國に對する宣戰の詔」 明治二十七年八月一日 官報 (森清人 『詔語索引』 啓文堂書店 昭和十七年 173~174ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 露國に對する宣戰の詔」 明治三十七年二月十日 官報 (前掲書 190ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ獨逸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「大正天皇 獨逸國に對する宣戰の詔」 大正三年八月二十三日 官報 (前掲書 213ページ)

 

 天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…(以下略)
     「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」 (前掲書 ただし扉ページの表記―これ以外の引用は本文の表記によるものであり、句読点が添えられているが、本来は句読点なしのものである―による)

 

 

…といったものであろう。これらでは、「大日本帝國」という国家の皇帝あるいは天皇(その称号表記の変遷も興味深いが、ここではその問題には立ち入らない)により、「宣戰の詔」が発せられているのである。「詔書」という最高度に公的な文書の中で、「大日本帝國」という呼称が、明治・大正・昭和の三代にわたり、国家の自称として用いられている事実が確認出来るだろう。

 

 

 

 
 さて、「大日本帝國憲法」における「大日本帝國」表記の成立過程を、清水伸『明治憲法制定史 下』(原書房 明治百年叢書 1973)により見ておきたい(原著の刊行年は昭和15年)。示されるのは、枢密院における憲法原案の討議過程である(底本とされているのは、枢密院議長伊藤博文秘書官であった伊東巳代治による「憲法草案枢密院会議筆記」である)。

 

 

     二 国号「大日本帝国」の決断(第一条)

 第二読会の討議は、原案「第一章 天皇」、「第一条 日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」からはじめられた。この条は、原案に見るように、「日本」に「大」が無いことが、まず議場の注目をひいた。すなわち寺島宗則提議して曰く、
  『皇室典範には大日本とありて、此憲法には只日本とのみあり。故に此憲法にも大の字を置き、憲法と皇室典範との文体を一様ならしめん事を望む。』
 さきに枢密院で決議した皇室典範「第一章 皇位継承」、第一条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、その国号には「大」を冠したのに、憲法にはこれがないのは、首尾一貫せぬ不体裁といわねばならなかった。したがって森有礼、大木喬任、土方久元等も進んで寺島の一元化の提案に賛成した。しかし、「大」を除いたのは、起草者の十分に意識していたところであり、決して書落としなどの結果ではなかった。井上毅は寺島にその諒解を求めた。
  『皇室典範には大日本と書けども、憲法は内外の関係もあれば、大の字を書くこと不可なるが如し。若し憲法と皇室典範とは一様の文字を要するものなれば、叡旨を受て、典範にある大の字を削り、憲法と一様にせんことを望む。英国に於て大英国(グレイト・ブリタン)と云ふ所以は、仏国にある「ブリタン」と区別するの意なり。又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。』
 かえりみるに当時の日本は、維新の業成って漸く二十余年を経過したばかりで、国際的地位はきわめて低かった。情けないことに、列強の顔色を恐れ気兼ねする結果、国号に大の字を冠するさえ、左顧右眄せねばならなかったのである。世界の大勢に明るかった森有礼は、井上の見解に同意してかどうか、直ちに井上説による文体の統一を支持して、
  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』
 ところが吉田清成はこれと反対であった。すなわち、
  『典範には已に大日本とあり。又此憲法の目録にも大日本とあり。故に原案者は勿論同一にするの意ならん。』
 ただし吉田の大日本説も、起草者の、「内外の関係もあれば……自ら尊大にするの嫌いあり」との思慮に対して触れず、僅かに典範の前例を指摘して、前後の矛盾を言及するにすぎなかった。
 「日本」か「大日本」か。これ、第二読会の最初の憲法上の問題であった。かくして国号問題の解決が必要になったのであるが、この問題は、これ以上の論議なく、にわかに解決を見た。それは伊藤議長の決断であった。曰く、
  『此事は別に各員の表決を取らずして、大の字を加えて可ならん。故に書記官に命じて大の字を加えしむ。』
 これは伊藤が、議場に「大」の賛成者が圧倒的だったのに、当事者のみが原案を固執する無意味を察し、かく改めさせたものと思われる。ついでその他の点に関する異論を待ったが、それらしいものはなかったので、
  『本条につき別に意見なければ、直に原案同意の起立を乞ふ。』
 会議手記には『起立(全会一致)』とあり、実にわが「大日本」は、このようにして決定されたのであった。よって伊藤は、
  『全会一致に付、本条は原案に可決し第二条に移る。』
と、この成立を宣したのである。
 思うに、伊藤のこの「大」に対する決断が、はたしてわが国に対するそのような信念にもとづいたものであったかいなかは不明である。なぜなら、政府は憲法発布と同時にその英訳を公表したが、そこには、原文の「大日本」は、”Great Japan”と訳されていなかった。恐らく当時の伊藤は、「大」の拒否が井上の言う様に外国に対する気兼ねだけの理由ならば、英訳の際に手心を加えればそれでよい、とも考えていたためだったのではあるまいかと思われる。
          (156~159ページ)

 

 

 これが、「国号」としての「大日本帝國」表記の可否が論じられた、枢密院(これは「議会」ではない)での憲法制定に際しての議論の実際であった(憲法上の表記は国号として機能してしまうものなのである)。

 

 ここでは、皇室典範では「大日本帝国」ではなく「大日本国」表記であったらしい点が気になるが、今回はその問題に立ち入ることはしないでおく。

 

 また、手元にある明治以来の貨幣を見ると、すべて「大」が加えられた「大日本」となっている。たとえば明治4年の20銭、大正2年の10銭、昭和12年の1銭、すべて「大日本」表記であり、少なくとも貨幣上の国号表記に関しては、明治初年から戦前期昭和に至るまで、「大日本」で一貫していたらしいことがわかる(貨幣に関しては、「大日本國」あるいは「大日本帝國」ではなく「大日本」なのである)。

 

 いずれにしても、

  又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。

…との井上の主張は、皇室典範との表記の一貫性の保持という形式性の方が重視された、枢密院の議論過程で顧みられることがなく終わったのであった。「自ら尊大にするの嫌いあり」と、井上に指摘された国号「大日本帝國」が、こうして選択・決定されたわけである(註:1)。

 

 

 

 「国号」としての「大日本帝國」表記の使用事例として、もうひとつ、ここでは昭和初期に用いられた教科書(もちろん「国定」教科書である)の記述を参照してみたい。

 

 

     第三課 擧國一致

明治三十七八年戰役は、我が大日本帝國が、國家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戰つて、國威を世界にかがやかした大戰争であります。明治三十七年二月十日に宣戰の詔が下ると、國民は皆一すぢに大御心を奉體して、帝國の為に盡さうとかたく決心しました。
…(以下略)

 

     第二十七課 よい日本人

我が大日本帝國は萬世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は數千年来、心をあはせて克く忠孝の道に盡くしました。これが我が國の世界に類のないところであります。我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで、忠君愛國の道に励まねばなりません。忠君愛國の道は君國の一大事に臨んでは、擧國一致して奉公の誠を尽くし、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、國家の進歩發達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の勤めを盡すのは、やはり忠君愛國の道を實行するのであります。
…(以下略)

 

 

…と、「尋常小學校修身書 巻五」(ここでは大正11年から用いられた、いわゆる「第三期」の修身教科書から引用―『日本教科書体系 近代編 第三巻』 講談社 1962 172ページ 193~194ページに収録)にある通り、ここでも「大日本帝國」表記が採用されているのを読むことが出来る。

 つまり、文部省による「国定」の教科書中に、「大日本帝國」という呼称が採用されており、教科書を通して「大日本帝國」という呼称を学ぶことにより、「国号」としての「大日本帝國」は、日常的場面にも流通していったはずである。

 

 

 

 しかし、実際には、当時の各種の公文書類を読むと、「大」を欠いた「日本帝國」や「大」もなければ「帝國」でもない「日本國」といった表記に出会うことも珍しいことではなく、当時の「国号」の表記法自体が、それほど厳密な一元化されたものではなかったと考えることも出来るだろう(註:2)(註:3)。

 たとえば、先の『詔語索引』にある、「大正天皇 (摂政御名) 學制頒布五十周年記念式典に際し下し給へる勅語」の出典名は、「大正十一年十月三十日 日本帝國文部省第五十年報」となっているのである(先の第三期教科書出版年次と同じ、大正11年のものであるのにもかかわらず)。「國定教科書」の元締めである文部省自身が、「大日本帝國」ではなく、「大」のない「日本帝國」を、自省の年報という公的文書の表示で用いていたというわけである(註:4)。

 

 

 

 

 

 私自身は、「大日本帝國」表記を愛用しているが、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」表記を愛用し、「日中戦争」ではなく「支那事変」を愛用しているのと同様、それが歴史的用語としての妥当性を持つと判断しているからである。実際にこれまで見たように、公的に厳密な場面での使用例を多く見ることが出来るし、あの事大主義的国家の呼称として、「自ら尊大に」振舞った果てに亡国への道を辿った国家の呼称として、「大日本帝國」表記は実にマッチしたものであると判断しているからでもある。

 

 

 

 最後に、もう一度、

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という最初の問いに立ち戻ってみよう。確かに、

  それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

…という答え方は間違ってはいない。しかし、ここで新たに、

  「大日本帝國」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という問いを立ててみると、

  その国家の「憲法」に「大日本帝國」と書かれているからである。

…という答えが得られることになるだろう。

 そこには、国家と憲法の密接な関係のあり方の特異性が見出されるはずである。国家の存在が憲法を生み出し、生まれ出た憲法によって国家のあり方が規定され直されることになるのである。

 

 

 

 

 

【註:1】
 「大日本帝國憲法」は、

朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
     (憲法發布勅語)

將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
     (上諭)

…とあるように、天皇により「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」ることで発効し、「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執」ることでのみ「條章」の「改定」が可能になるものであった。
 憲法條章の改定に関しては、天皇の発議によるもののみが可能であり、それ以外は「朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」とされ、つまり天皇以外に憲法の改定を発議出来る存在はなかったのである。
 ここに「天皇大権」の意味がある。議会の権能は、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外」には存在し得ないのである。国民=臣民=議会には、憲法改定の発議権はないというのが、大日本帝國憲法の原則なのであり、それが「国民主権」による「日本国憲法」との決定的な相違点なのである。

 つまり、「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布」した後には、その條章の改定には天皇の発議が要件とされ、である以上、発布後は「大日本帝國」という「国号」の変更についても、天皇の発議による以外にはなし得ないことになる。
 国号の変更についても、国民(議会)は発議し得ないというのが、大日本帝國憲法上の原則なのである。

 しかし、一方で、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という文言、そして「第三十七條 凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」というような條規の解釈により議会の権能を強化しようと試みたのが、いわゆる「天皇機関説」なのであった。「君臨すれども統治せず」との言葉で表現される「立憲君主」としての天皇像は、いわば解釈改憲の産物なのである。大正期から昭和初年には、その天皇機関説が公的天皇像を支えるものにまでなったが、その後の「国体明徴運動」とそれに促された政府の「国体明徴声明」により「天皇機関説」が公的に否定され、天皇大権の強調による「君臨し統治する」天皇像(御親政的天皇像)が、敗戦に至る昭和期の大日本帝國を規定するものとなったのである。
 その結果として、「裁可ノ権」のみでなく「裁可セザルノ権」をも保有した、大権の保持者としての天皇像が国家運営の基本に位置付けられるようなことにまでなってしまった。これは、昭和天皇自身が天皇大権を積極的に行使し、独裁的に振舞ったということを意味するわけではない。しかし、政治システムの中での天皇大権の位置付けが、政治的意思決定の硬直化と責任主体の曖昧化に結びつき、敗戦に至るこの国の歴史過程を支配したことは否定出来ない。それは、大枠としては、天皇の意思の問題ではなく、憲法システムの問題なのである。

 そのような「裁可セザルノ権」をも保有した御親政的天皇像(それは「立憲君主による御親政」なのである)の下では、「議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という規定が存在しようとも、その議決の結果を「裁可セザルノ権」をもって否定することさえも天皇には可能なのである。現在の日本国憲法下の感覚からすれば、「朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ」なる文言を、天皇が議会の議決に拘束される存在であるかのように解釈してしまうことにもなるのであろうが、それは「国民主権」の下にある現代人の感覚で帝國憲法を語ろうとする試みに過ぎず、そのような感覚では帝國憲法下の政治的意思決定過程は理解し得ないのである。
 あくまでも「裁可ハ天皇ノ独有主権ナリ。天皇ハ自由ニ裁可シ又ハ裁可セザルコトヲ得。故ニ天皇ノ裁可権ハ、其提議権ノ為ニ束縛セラレ、帝国議会ニ対スル政府ノ宣言ノ為ニ羈束セラレ、及帝国議会ノ決議ノ為ニ左右セラルルコトナシ。天皇ハ議会ノ決議ニ反シ法律ヲ裁可スルコトヲ得ズト雖モ、議会ノ決議シタル法律ヲ裁可スベキ羈束ヲ受クルコトナシ」というのが、大日本帝國憲法制定時の制定者の理念なのであり(伊東巳代治 「大日本帝国憲法衍義」)、その理念が国体明徴論者により強化され解釈運用されたことが、あの大日本帝國の歴史の骨格を形作っているのである。

 この構図を把握しない限り、敗戦に至る大日本帝國期の歴史は理解し得ないし、大日本帝國憲法の歴史的意義を理解したことにもならない。

 

《「この構図」の詳細については以下の記事も参照のこと》

日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3d4d.html

日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-156d.html

日本国の象徴と、國體の本義 15(「輔弼」と「助言と承認」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-535e.html

日本国の象徴と、國體の本義 16(天皇と「裁可セザルノ権」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-5311.html

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/17-aa35.html

 

【註:2】
 現在の外務省のページでは、この問題について、

 日本の国号標記に関しては、外務省条約局作成(昭和11年5月)の「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)に、従来の経緯や諸学説、外国での実例などの調査結果が記されています。
 1927年(昭和2年)、日本の国号について日本政府は、各国がどのように呼称するかは便宜上の問題であり、一般的に周知されている呼称を用いることが適当であるとして、各国が「ジャパン」という呼称を用いても構わないとの見解を明らかにしました。しかし、その後、1934年(昭和9年)に文部省の臨時国語調査会が国号の呼称を「ニッポン」に統一し、外国に発送する書類にも“Japan"ではなく“Nippon"を用いるべしとの案が政府に提出され、また翌1935年(昭和10年)には、衆議院に対して、「ジャパン」という呼称は「我ガ帝国ノ威信ヲ損スル」ものであり、世界各国に対して日本の国号の呼称を「大日本帝国」とするよう求める建議がなされるなど、国号標記の変更を求める動きが強まりました。こうした動きを受けて外務省は、1935年(昭和10年)7月、外務省所管である条約など外交文書の日本文(漢文もこれに準じる)について、それまで「日本国」「日本帝国」「大日本国」「大日本帝国」と様々な標記がされていた国号の標記を、「大日本帝国」とすると決定しました。しかし、英語標記については結局、統一的な見解が示されることはありませんでした。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html

…と、説明している。

 その「我国国号問題二関スル資料(正式な表記は「我國國號問題二關スル資料」である)」の「緒言」を読むことで、問題の概略を把握しておきたい。

     第一 國號問題の概要
(一)緒言
 我國國號問題ニ付テハ従来種々の議論(内大臣府及議会ニ対スル請願或ハ議會ニ於ケル建議案ノ對象ト為レルコトモ屡々アリ)アル處要スルニ問題ノ中心ハ
 (イ)國號ハ之ヲ「大日本帝國」トスヘシ
 (ロ)右ハ日本文ニ於テノミナラス條約其ノ他ノ文書ノ外國文ニ於テモ之ヲ其ノ儘羅馬字ニテ表示スヘシ
 トノ二点ニ帰着スヘシ
 仍テ左ニ國號問題ニ關スル従来ノ經緯ヲ述ヘ然ル後将来ノ問題ニ及フヘシ
(二)従来ノ経緯
 我國號ハ明治初年以来條約其ノ他ノ文書ニ於テ「日本國」「日本帝國」「大日本國」等種々ノ名稱用ヒラレ近時條約ニ於テハ略「日本國」ニ統一セラレタル處昭和十年六月條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題起リ爾来当省ニ於テ研究ヲ重ネタル結果國號ノ一般的統一其ノ他ノ本件ノ根本的解決ハ姑ク措キ外務省所管タル條約其ノ他ノ文書ノ日本文(漢文之ニ準ス)ニ於テハ右名稱ニ依ルコトニ決定シ昭和十年七月内閣及宮内省側ニモ之ヲ通知シタル上
 (イ)條約トシテハ昭和十年十二月二十七日公布セラレタル日満郵便條約
 (ロ)其ノ他ノ文書トシテハ八月十六日附〇羅國駐箚矢田部公使ニ対スル更新御信任状
 以来實行シツツアリ
 尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ
          (外務省記録 外務省外交資料館 我国国号問題ニ関スル資料 1 1~4ページ アジア歴史資料センター B02031473100)

…という具合で、外務省において「條約其ノ他ノ文書」上の国号表記が「大日本帝國」に統一された(言うまでもないこととは思われるが、これは国号の「変更」ではなく、国号の表記法の「統一」に過ぎない)のは、昭和10年以降のことなのであった。
 また、

  尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ

…とあるように、宮内省においてでさえも国号の「大日本帝國」表記が原則化されたのが、この昭和10年になってのことなのである。

 言うまでもないが、この昭和10年とは、あの「国体明徴声明」が政府から発せられた年である。詰まるところ、「国体明徴運動」とは、井上毅の保有していた「大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり」との感覚を失ってしまった時代精神の表現なのであろうか?

 注目点としては、「国号」を「大日本帝國」に統一すべしとの議論の根拠が、

  條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題

…という形で、憲法第一條の文言に求められているところであろう。
 憲法上の表記と「国号」の相関については、枢密院での憲法原案審議段階での、

  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』

…との、森有礼の発言にあるように、当初から意識されていたところではあった。
 しかし、国号が「大日本帝國」であるはずの国家で実際の文書作成に当たった官吏達は、異なる表記を用いることに特段の問題を見出すこともなく、昭和10年までの日々を過ごしていたというわけである。

 もっとも、「我國國號問題二關スル資料」で取上げられている「資料」の多くは、「国号」としての「大日本帝國」表記の問題ではなく、“Japan"ではなく“Nippon"たるべしという問題と、その前提としての「ニホン」なのか「ニッポン」なのかの問題の方についてのものであることも申し添えておくべきであろう。その問題に関しては、集録された様々な資料の中でも、昭和9年2月19日の第六十五議会貴族院の速記録(昭和我国国号問題ニ関スル資料 2 B02031473200)にある、政府委員としての金森徳次郎の答弁が秀逸なものなので、場をあらためて紹介したいとは思っている。

 

【註:3】
 「条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件」(外務省記録)によれば、条約文中の国号表記の実際は次のようなものであった。

     條約ニ於ケル本邦ノ國號ニ關スル件
一、本邦カ明治維新前二外國ト締結シタル條約ニ於ケル本邦ノ國號ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表には、嘉永七年の「日米和親條約」から慶應三年の「日魯新約定書」までの事例について、「條約名」、「前文ニ於ケル稱呼」、「條文中ニ於ケル稱呼」が掲載されているが、ここでは略)
即チ二十四箇ノ條約中前文ニ於テ帝國大日本ナル國號ヲ使用セルハ安政五年ノ日米、日蘭、日魯、日英間ノ四通商條約、萬延元年ノ日葡、日魯間ノ二通商條約、慶應二年ノ日白、日伊間ノ二通商條約計八箇ノ通商條約ニシテ其ノ他ハ嘉永七年ノ日米和親條約外安政四年ノ日米下田條約、慶應二年ノ日丁通商條約ノ三條約カ帝國日本ナル稱呼使用シタル外全部(十三箇ノ條約)ハ單二日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ而テ條約ノ條文ニ於テハ例外ナク日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ
 (註一)最初ノ條約タル日米和親條約ハ前文ニテ帝國日本ナル文字ヲ使用シ條文中ニテハ英文ニハ The Empire of Japan トアレトモ 日本文ニテハ日本ト云ヘリ
 (註二)安政二年ノ日蘭條約ニ於テハ蘭文ノ前文ニ Great Japon トシ而モ括弧内ニ Dai Nipon ト註セルニモ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本ト稱セルハ面白キ事例ナリ
二、明治初年ニ締結セラレタル條約ニ於ケル例ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表は略)
即チ前文ニ於テ大日本又ハ大日本國ナル稱呼ヲ使用セルモノ三箇日本又ハ日本國ト云ヘルモノ八箇、帝國日本ナル稱呼ヲ使用セルモノ一箇アリ而テ條文中ニ於テハ原則トシテ日本ナル稱呼ヲ使用シ唯日丁傳信機條約書(第一條ノミ)、日布通商條約及日露千島樺太交換條約カ大日本國ト云ヒ日英郵便為替約定カ帝國日本ト云ヘルノミナリ
三、其ノ後本邦カ諸外國ト締結シタル條約(既ニ効力ヲ失ヘルモノト現ニ効力ヲ有スルモノトヲ問ハス)ヲ通覧スルニ前文ニ於テモ條文ニ於テモ原則トシテ日本國又ハ日本 Japan ナル稱呼ヲ使用シ(註)只逓信省關係ノ條約ニ於テハ多ク日本帝國 Japan ナル文字ヲ使用シタリ
 (註)例外トシテ明治四十三年日米難破船費用償還約定(前文)…(以下18の条約が例示されているが詳細は略)…等ニ於テハ日本帝國ナル稱呼ヲ使用セリ
四、尤モ前記三ニ對シテハ一大例外アリ即チ中華民國トノ間ニ締結セラレシ條約ニシテ此等ノ條約ニ於テハ左表ニ示ス如ク原則トシテ大日本國ナル稱呼ヲ使用セリ
  (表は略)
即チ右ニ依レハ明治時代ニ締結セラレタル諸條約ニ在リテハ日本文ニモ中國文ニテモ大日本國ナル稱呼ヲ使用シ明治二十八年ノ休戰定約、休戰延期條約、媾和條約三者ノ中國文ニテハ大日本帝國ト稱シタルモ大正時代ニ入リテハ中國文ニテハ大日本國ト記載スルニ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本國ト稱シタルヲ見ルヘシ
而テ中國ト最近締結セラレタル關税協定ノ中國文ニハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタリ
五、要之條約ニ於テハ本邦ノ國號トシテ明治維新前ニ於テハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタル事例相當アリ且昨春中國トノ間ニ締結セラレタル關税協定ノ中國文ニモ亦大日本帝國ナル文字ヲ使用シタルモ明治維新以後ハ原則トシテ日本國ナル文字ヲ使用シ只中國トノ關係ニ於テノミ大日本國ナル文字ヲ使用シタリト云フヲ得ヘシ
     (外務省記録 条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件 アジア歴史資料センター B04013428100)

 興味深いのは、「大日本」と「帝國」の組み合わせによる「帝國大日本」表記が、既に幕府の手により使用されていたことであろう。明治以前(帝國憲法以前に、でもある)に、領域名としての「日本」に「大」が加えられ、かつ「帝國」として政体が表示されていたことになる。
 また、明治以後の条約文における「大日本國」表記が、対中国のケースでは(他と異なり)一貫して使用されていた事実があるらしい。「中華」に対抗するに、「大」を加えた「日本」を用いたということであろうか? 漢字表記による表意という性質が、このような対応の背後にあるのかも知れない。

 

【註:4】
 あらためて明治期の詔勅上での国号表記の実態を調べてみた結果、帝國憲法発布以前に「大日本帝國」の使用例があり、また発布後にも「日本」、「日本帝國」が使用されている事実が判明した。

日本國 
 日本國天皇。告各國帝王及其臣人。…(以下略)
     天皇の稱を用ふるの國書 (明治元年正月十日 法規分類大全)

大八洲
 我大八洲ノ國體ヲ創立スル…(以下略)
     新刑律改撰に就き集議院に下し給へる御下問 (明治二年九月二日 集議院日誌一)

大日本帝國
 大日本帝國天皇睦仁、敬テ威望隆盛、友誼親密ナル英吉利、伊太利、荷蘭、魯西亜、瑞典、獨逸、墺地利、白耳義、葡萄牙、西班牙、丁抹、布哇皇帝陛下、米利堅合衆国、仏蘭西、瑞斯聯邦大統領ニ白ス。 …(以下略)
     特命全權大使派遣の國書 (明治四年十一月四日 法規分類大全)

日本
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本皇帝、此書ヲ以テ宣示ス。朕、全露西亜皇帝陛下ト…(以下略)
     千島樺太交換条約批准の詔 (明治八年十一月十日 太政官日誌)

日本
 …、右等貴君ノ日本交際ニ付、…(以下略)
     米國前大統領「グラント」に賜りし御沙汰 (明治十三年七月四日)

日本國
 …汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
     陸海軍人に下し給へる勅諭 (明治十五年一月四日 法規分類大全)

大日本國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践メル、大日本國大皇帝、敬テ朕カ良友ナル大朝鮮國大王ニ白ス。…(以下略)
     井上馨朝鮮派遣の國書 (明治十七年十二月二十一日 法規分類大全)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の告文 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の勅語 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の上諭 (明治二十二年二月十一日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ、萬世一系、歴代繼承シ、以テ朕カ躬ニ至ル。…(以下略)
     皇室典範制定の勅語 (明治二十二年二月十一日 三条實美公年譜二九)

大日本帝國
 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     淸國に對する宣戰の詔 (明治二十七年八月一日 官報)

大日本帝國
 …。朕、固ヨリ今囘ノ戰捷ニ因リ、帝國ノ光輝ヲ闡發シタルヲ喜フト共ニ、大日本帝國ノ前程ハ、朕カ即位以来ノ志業ト均ク…(以下略)
     戰勝後國民に下し給へる勅語 (明治二十八年四月二十一日 官報)

日本帝國
 …。然ルニ露西亜・獨逸・両帝國及法朗西共和國ノ政府ハ、日本帝國カ遼東半島ノ壌地ヲ、永久ノ所領トスルヲ以テ、東洋永遠ノ平和ニ利アラスト為ス…(以下略)
     遼東半島還附の詔 (明治二十八年五月十日 官報)

大日本帝國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ露國ニ対シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     露國に對する宣戰の詔 (明治三十七年二月十日 官報)

日本
 …。蓋シ淸韓両國ノ領土ノ保全ハ、我日本ノ獨立自衛ト密接ノ關係ヲ有ス。…(以下略)
     露國との國交断絶に當り海陸軍大臣に下されし勅語 (明治三十七年二月十日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國皇家ノ成典ハ…(以下略)
     皇室典範増補の詔書 (明治四十年二月十一日 官報)

日本帝國
 …。此ノ事態ニ鑑ミ、韓國ヲ擧テ日本帝國ニ併合シ…(以下略)
     韓國併合に付き下し給へる詔書 (明治四十三年八月二十九日 官報)

 以上、森清人『詔語索引』(啓文堂書店 昭和十七年)による。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/18 14:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/177965/

 

 

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