『アンダー・コントロール』&『あゝ、荒野』
第一目標、イメージ・フォーラム。…というわけで、まずは渋谷駅東口へ。
渋谷到着が昼時で、まず昼食から(軽くパスタ)。
そしてイメージ・フォーラムへ。
フォルカー・ザッテル監督のドキュメンタリー『アンダー・コントロール』(2011)を観る。
ドイツの原子力エネルギー産業の現在を描いたドキュメンタリーで、三年間の撮影期間を経て編集された作品。つまり、基本的にフクシマ以前のドイツの原子力産業が主人公である。
三年という撮影期間が示すように、じっくり腰を据えて撮られた、プロパガンダ映像ではないドキュメンタリーの魅力が味わえる作品であった。悲憤慷慨して何かを糾弾するのがお好きな人(指図されたり指図することがお好きな人)には向いていない、そんなドキュメンタリーである。私たちの時代が造り出してしまった原子力産業の遺産(実質的には、遠い未来の世代にまで相続される負債である)を、その現実を徹底的に見つめること。ザッテル監督が行なったのはそのような作業であり、画面の前の我々も、ザッテルの視線に導かれながら、その作業を遂行することになるのである。
映像として提示された、巨大技術の集積による巨大技術とでも言うべき原発の姿は、不安の巨大な集積であると同時に、精緻な部品の巨大な集積として組み上げられた技術的人工美の巨大な極致を示すコンクリート製モニュメントのようにも見える。
描かれているのはモノ(つまり施設)としての原発と、それを支える誠実に仕事をする技術者達の姿。
原発技術者達のインタビューでは、明るい未来を夢見て原発設計や建設運営に携わった、かつての自らの日々が語られている。しかし、それが昔語りとして、つまり、終わってしまったこととして語られているように感じられる(画面に向かう者にはそのように聞こえるのだ)。
私のパートナーは、映画を、
原子力技術への静かなレクイエムのようだ
…と評したが、まさにそんな映像であった。
しかし、言うまでもない話だが(もっとも、フクシマ以前には、多くの日本人にはほとんど関心の向けられない、言わば「言っても無駄な話」だったわけだが)、フクシマの出来事により多くの日本人にも明らかになった巨大事故の可能性と共に、事故の有無とは関係なく膨大に生み出され続ける放射性廃棄物処理の問題が原子力エネルギー稼動には付きまとうのであり、廃炉となる原子炉を含めた核廃棄物の問題の方に映画の焦点は当てられていた。つまり、フクシマ以後であれば、現実化した巨大事故の問題がクローズアップされることになるのだろうが、フクシマ以前においても既に取り返しのつかない状態にまで放射性廃棄物の存在の問題が立至っていた現実を、冷静な映像によって描き切っているのである。
スローガンとアジテーションとは無縁なドキュメンタリー映像は見事だ。それは「どっちつかずの中立的立場」ということを意味するのではなく、批判精神の充溢とその的確な表現を意味するのである。
4時近くなった街へ戻り、西口へと向かう。途中、ケーキで一服(娘の希望で、懐かしの不二家レストランである)。
東急本店横の(アヤシイ)路地を入ると、その奥の(アヤシイ)階段を上がった所にあるマンション内に、目的地の「ポスターハリスギャラリー」はあった。
イメージ・フォーラムで体力(と精神力)を使い果たし、既に帰宅モードになっていた娘だったが、会場内に入るや別人として甦った(これぞ写真の力であろうか)。
開催されているのは、森山大道の写真展なのだ。
企画としては、寺山修司の『あゝ、荒野』と森山大道による写真のコラボ展ということになる。小学校時代にケーブルテレビで放映された森山大道のドキュメンタリーを観て以来、娘は森山ファンなのだ。そして最近は寺山修司のファンにまでなっているのである。そういえば、80年代の女友達の一人が寺山ファンだったことも思い出す。私は、寺山修司に特別な思い入れもなく過ごしていたが、こうして娘を通して寺山に再会するというのも、
これまで生きていたからこその思いがけずもそうなってしまった
…とでも言うしかない種類の出来事なのだろう。
個人的には、森山大道によって画像として定着された1970年の青森、三沢の光景が、かつての立川の街並みに重なり(どちらも基地の街であり、そこには敗戦と占領の歴史が埋め込まれている)、記憶の深みを掘り返されたような感じを味わった。
森山大道についても寺山修司についても、ここでわざわざ駄弁を弄する必要はないだろう。日没後のディープな渋谷(なんと贅沢なシチュエーション!)で、寺山修司×森山大道を味わったということを報告するだけである。
帰宅後は、出かける前に観ていた荻上直子監督の『トイレット』(2010)の続きを観た(こういう観方は好きじゃぁないが)。これまた味わい深い作品で、こうして生まれ生きてしまっていることも詰まらぬことというわけではないなぁなどと思いながら、日曜の一日を終えるのだった。
行き帰りの電車内では、折原脩三の『辻まこと・父親 辻潤』(平凡社ライブラリー 2001)を読んでいたのだが、それもまた、そんな日曜の感想を背後で支えていたように思われる。今ここに生きてしまっているという事実が(その事実が生み出すこの現実が)、生きているという事実を(絶対的な問題―そこにあるのは絶対的な無意味性である―としては)詰まらなく思わせもするが、生きていることがそれほど詰まらぬことでもないという思いを(相対的な問題―生きている事実はたとえそれが相対的であれ意味を産出してしまうのである―として)生み出させもするのである。
(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/27 21:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/176395/)
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