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2011年11月

2011年11月30日 (水)

『アンダー・コントロール』&『あゝ、荒野』

 

 第一目標、イメージ・フォーラム。…というわけで、まずは渋谷駅東口へ。

 渋谷到着が昼時で、まず昼食から(軽くパスタ)。

 そしてイメージ・フォーラムへ。

 

 フォルカー・ザッテル監督のドキュメンタリー『アンダー・コントロール』(2011)を観る。

 ドイツの原子力エネルギー産業の現在を描いたドキュメンタリーで、三年間の撮影期間を経て編集された作品。つまり、基本的にフクシマ以前のドイツの原子力産業が主人公である。

 三年という撮影期間が示すように、じっくり腰を据えて撮られた、プロパガンダ映像ではないドキュメンタリーの魅力が味わえる作品であった。悲憤慷慨して何かを糾弾するのがお好きな人(指図されたり指図することがお好きな人)には向いていない、そんなドキュメンタリーである。私たちの時代が造り出してしまった原子力産業の遺産(実質的には、遠い未来の世代にまで相続される負債である)を、その現実を徹底的に見つめること。ザッテル監督が行なったのはそのような作業であり、画面の前の我々も、ザッテルの視線に導かれながら、その作業を遂行することになるのである。

 映像として提示された、巨大技術の集積による巨大技術とでも言うべき原発の姿は、不安の巨大な集積であると同時に、精緻な部品の巨大な集積として組み上げられた技術的人工美の巨大な極致を示すコンクリート製モニュメントのようにも見える。

 描かれているのはモノ(つまり施設)としての原発と、それを支える誠実に仕事をする技術者達の姿。

 原発技術者達のインタビューでは、明るい未来を夢見て原発設計や建設運営に携わった、かつての自らの日々が語られている。しかし、それが昔語りとして、つまり、終わってしまったこととして語られているように感じられる(画面に向かう者にはそのように聞こえるのだ)。

 私のパートナーは、映画を、

  原子力技術への静かなレクイエムのようだ

…と評したが、まさにそんな映像であった。

 

 しかし、言うまでもない話だが(もっとも、フクシマ以前には、多くの日本人にはほとんど関心の向けられない、言わば「言っても無駄な話」だったわけだが)、フクシマの出来事により多くの日本人にも明らかになった巨大事故の可能性と共に、事故の有無とは関係なく膨大に生み出され続ける放射性廃棄物処理の問題が原子力エネルギー稼動には付きまとうのであり、廃炉となる原子炉を含めた核廃棄物の問題の方に映画の焦点は当てられていた。つまり、フクシマ以後であれば、現実化した巨大事故の問題がクローズアップされることになるのだろうが、フクシマ以前においても既に取り返しのつかない状態にまで放射性廃棄物の存在の問題が立至っていた現実を、冷静な映像によって描き切っているのである。

 

 

 スローガンとアジテーションとは無縁なドキュメンタリー映像は見事だ。それは「どっちつかずの中立的立場」ということを意味するのではなく、批判精神の充溢とその的確な表現を意味するのである。

 

 

 

 4時近くなった街へ戻り、西口へと向かう。途中、ケーキで一服(娘の希望で、懐かしの不二家レストランである)。

 

 東急本店横の(アヤシイ)路地を入ると、その奥の(アヤシイ)階段を上がった所にあるマンション内に、目的地の「ポスターハリスギャラリー」はあった。

 イメージ・フォーラムで体力(と精神力)を使い果たし、既に帰宅モードになっていた娘だったが、会場内に入るや別人として甦った(これぞ写真の力であろうか)。

 開催されているのは、森山大道の写真展なのだ。

 

 企画としては、寺山修司の『あゝ、荒野』と森山大道による写真のコラボ展ということになる。小学校時代にケーブルテレビで放映された森山大道のドキュメンタリーを観て以来、娘は森山ファンなのだ。そして最近は寺山修司のファンにまでなっているのである。そういえば、80年代の女友達の一人が寺山ファンだったことも思い出す。私は、寺山修司に特別な思い入れもなく過ごしていたが、こうして娘を通して寺山に再会するというのも、

  これまで生きていたからこその思いがけずもそうなってしまった

…とでも言うしかない種類の出来事なのだろう。

 個人的には、森山大道によって画像として定着された1970年の青森、三沢の光景が、かつての立川の街並みに重なり(どちらも基地の街であり、そこには敗戦と占領の歴史が埋め込まれている)、記憶の深みを掘り返されたような感じを味わった。

 森山大道についても寺山修司についても、ここでわざわざ駄弁を弄する必要はないだろう。日没後のディープな渋谷(なんと贅沢なシチュエーション!)で、寺山修司×森山大道を味わったということを報告するだけである。

 

 

 

 帰宅後は、出かける前に観ていた荻上直子監督の『トイレット』(2010)の続きを観た(こういう観方は好きじゃぁないが)。これまた味わい深い作品で、こうして生まれ生きてしまっていることも詰まらぬことというわけではないなぁなどと思いながら、日曜の一日を終えるのだった。

 行き帰りの電車内では、折原脩三の『辻まこと・父親 辻潤』(平凡社ライブラリー 2001)を読んでいたのだが、それもまた、そんな日曜の感想を背後で支えていたように思われる。今ここに生きてしまっているという事実が(その事実が生み出すこの現実が)、生きているという事実を(絶対的な問題―そこにあるのは絶対的な無意味性である―としては)詰まらなく思わせもするが、生きていることがそれほど詰まらぬことでもないという思いを(相対的な問題―生きている事実はたとえそれが相対的であれ意味を産出してしまうのである―として)生み出させもするのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/27 21:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/176395/

 

 

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2011年11月13日 (日)

自由貿易原理主義と国民経済学

 

 いわゆる「TPP」問題関連の話である。

 

 

 「TPP」の根底にあるのは、いわば「自由貿易原理主義」のように感じられるのだが、この問題を考える際には、かつてのフリードリヒ・リストの「国民経済学」とその背景を思い起こすことも重要であろう。

 リストの「国民経済学」に関する詳細説明については、(手抜き感は否めないが)『ウィキペディア』先生の「歴史学派」の項からの抜書きで対応しておく(註:1)。まず概観すると、

 

【歴史学派】

歴史学派(れきしがくは / 独:Historische Schule (der Nationalökonomie))とは、19世紀半ばのドイツで成立し、同世紀後半にかけてのドイツで隆盛を誇った経済学の学派もしくは思潮である。「歴史学派経済学」とも呼ばれ、またドイツに限定した場合は「ドイツ歴史学派」とも称される。

〈概要〉
歴史学派の経済学は、フランス革命後のドイツにおいて、啓蒙思想への反動として登場したロマン主義・歴史主義の思潮を背景として成立し、同時期のイギリスで発達した古典派政治経済学を批判して、各国の独自性を規定する歴史を重視し、すべての経済事象を歴史から説明しようとした。
ドイツ歴史学派はフリードリヒ・リストを先駆者(創始者)とし、経済学史上は、その次世代であるロッシャー、ヒルデブラント、クニースらの旧歴史学派(先駆者リストを含む場合もある)と、シュモラー・ヴァーグナー・ブレンターノを中心として成立した新歴史学派に大別される。さらにゾンバルト・ヴェーバーらより若い世代の学者を最新歴史学派と称することもある。
政治史的に見ると、旧歴史学派は、プロイセン王国によるドイツ統一が進展する時期に活動していたため、発展途上のドイツ工業を育成するための保護貿易政策を主張した。これに対し、新歴史学派はドイツ帝国発足後の時期に活動し、工業化の進展から発生した社会問題を背景に、国家による社会政策を主張した点に特色がある。

 

…として位置付けられる、当時の発展途上の工業国としてのドイツで展開された経済学的主張である。

 むき出しの経済原理による(ここでは特に、自由貿易主義に基づく徹底的かつグローバルな―といっても当時は大英帝国が体現していたわけだが)資本主義的収奪からの国民の保護を国家の役割(国家による社会政策)として規定しているという点が、今回の「TPP」関連の議論に際し、かつての「ドイツ歴史学派・国民経済学」の姿を参照することの意味となる。

 で、『ウィキペディア』先生からの抜書きを続けると、

 

〈背景〉
 イギリス古典派経済学の受容と反発
ドイツにおいては従来、政治経済の広範な領域を探究する「官房学」という独自の学問が発達していた。その後フランス革命やナポレオン戦争の影響を受け、プロイセンを始めとする諸領邦国家において啓蒙主義に影響された開明的官僚層による自由主義的改革が進められると、当時の経済(学)先進国であったイギリスから古典派経済学が輸入され、これと従来の官房学が融合して「ドイツ古典派」と称される学派が成立した。
しかし19世紀前半になると、古典派経済学(およびそれに基づく経済政策)が果たしてドイツの国情に合致するのか疑問が投げかけられるようになった。すなわち、古典派経済学の自由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国のエゴイズムを体現した理論であり、ドイツのような後進国においては自由貿易が国力を減退させる結果を生むことが判明するにつれ、出来あいの経済政策ではなく、自国の実情に即した独自の政策体系を求める声が高まっていったのである。
この結果、経済学においても、各国の独自性を規定する歴史へと関心が向けられ、理論と現実、理論と歴史との関連が問題化されることとなった。すなわち、古典派のように利己心を行為動機とする個人から構成された競争的市場社会を想定して一般的経済法則の解明に向かうのではなく、行為者を社会組織に帰属し共同意識を有する存在と見なし、またその動機も利己心ではなく法・慣習・モラル・宗教などの文化的・倫理的・制度的要因に強く規定されていることを踏まえ、各国別の国民経済を単位に一つの有機体として形成された経済社会の段階的・歴史的進化を理論面・実証面で解明しようとする方向に進んだ。例えば前記のA・ミュラーは、スミス経済学に見られる利己的な人間観や原子論的な社会観を批判し、有機体的な国民経済論を対置している。

 

…という構図として描かれることになる。

 ここで重要なのは、

  すなわち、古典派経済学の自由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国のエゴイズムを体現した理論であり、ドイツのような後進国においては自由貿易が国力を減退させる結果を生むことが判明するにつれ、出来あいの経済政策ではなく、自国の実情に即した独自の政策体系を求める声が高まっていったのである。

…という視点であろう。現実の現代日本は既に「工業先進国」ではあるわけだが、それであっても「自国の実情に即した独自の政策体系」の必要性が失われるわけではないし、我々自身が倫理的であろうとするならば、我々自身が「後進国」の国民に対する容赦のない資本主義的収奪の主体となる可能性もまた考慮しなければならない。

 

 

 実際には、やがてドイツも「先進工業国」の一員となっていくわけだが、そのドイツ産業の発展に沿うように、「ドイツ歴史学派」も「新歴史学派」と呼ばれる段階に到達する。再び『ウィキペディア』先生にご登場いただくと、

 

〈沿革〉
 新歴史学派
ビスマルクを事実上の指導者としてドイツの国内統一とドイツ帝国の発足がなされ、歴史学派の一応の目標が達成されると、旧歴史学派の次世代であるG・シュモラー、A・ヴァーグナー、L・ブレンターノ、G・F・クナップ、K・ビュヒャーらは、先行世代が歴史研究を通じて拙速に経済の一般法則を導こうとしたことを反省し、演繹的方法で一般法則を定立するには歴史的データの蒐集が不充分であると考えた。「新歴史学派」(Jüngere Historische Schule)と称されるようになった彼らは、旧歴史学派の「実在としての有機体的観念」を斥け文献・統計資料を駆使した詳細かつ実証的な歴史研究を推進した。この結果、莫大な数の社会経済史のモノグラフが蓄積されることとなり、本格的な社会経済史学の成立につながった。また学派の自称として「歴史学派」が定着したのも、この時期である。
新歴史学派は、以上のように経済学の歴史学的側面を重視する一方で倫理的側面の重要性も強調した。すなわち彼らは、ドイツ統一前後の工業化と資本主義の興隆にともない発生した労資対立の激化や社会主義勢力の拡大に直面して「社会問題」への関心を強めた。そして社会問題の解決には所得再分配を目的とする国家が不可欠と考え、資本主義の弊害を社会政策によって解決し社会主義への道を封じる社会改良的政策を主張した。1873年に社会政策学会が設立されて以降、新歴史学派は歴史的方法を通じて特定の政策課題に解答を与える体制の学としての性格を強めていき、ドイツの大学アカデミズムにおいて支配的影響力を行使するとともに、社会問題における自由放任を主張するドイツ・マンチェスター派と激しい論争を展開し、「講壇社会主義(者)」という貶称を与えられた。しかし社会政策学会に結集した新歴史学派の学者たちは、自由放任主義や社会主義を批判し、社会政策による経済への介入を主張する点では共通していたものの、社会政策の主体については見解の相違があり、大まかに分けて国家による上からの社会政策を主張するヴァーグナーらの右派、労働組合による下からの社会政策を主張するブレンターノら左派、両者の折衷的立場に立ち社会政策学会で主流派の位置を占めたシュモラーらの中間派が存在した。

 

…として記される展開を見せる。

 ここでの注目点は、

  そして社会問題の解決には所得再分配を目的とする国家が不可欠と考え

…という一節の存在であろう。

 我々は、理念としては「世界市民」であり得ようとも、現実的にはいずれかの国家の「国民」であることによってのみ、行政的手段による人権の保護を享受し得るのである。

 もちろん、国家が人権抑圧装置として作動する事例はありふれたものであるにしても、人権の保護において国家以上に機能するシステムが存在しないという現状は、深く心に刻み込んでおくに値する。

 ここでは「所得再分配を目的とする国家」として描かれた「国家」が、自由主義的経済原理の貫徹により必然的にもたらされるであろう格差社会化を抑制し、国民の同質性を維持することにより、国家を支える国民の一体感が確保されると考えられているのである。格差社会化は、格差の再生産的固定化による階級社会化につながり、そこでは等質性により規定される「国民」(これが近代国民国家を支えた国民である)が解体されてしまうのである。自由主義経済からの利益分配の対象から外され、社会の底辺層へと転落した人々からは国家社会への帰属感が失われることになる。当然のこととして、経済的利益を独占する国家の統治階層への彼らの不満は増大し、階層間の摩擦も大きくなる。国家社会への帰属感の喪失は順法意識の喪失につながり、社会からは「安心」が失われ、上層階級の利益の維持のための治安コストだけが上昇することになる。

 

 「自由貿易原理主義」の貫徹は、経済的側面における国家の機能を最小化することにつながり、結果として我々が、人間の生への資本主義的侵害の抑制機構(所得再分配装置としての国家)を喪失してしまう可能性につながってしまい得るものなのである。

 「TPP」問題には様々な側面があるが、今後の我々の抱く「国家像」のあり方もまた問われていることを見落としてはならない。原理主義的な自由主義経済の貫徹は、国家間にも国内的にも経済的格差の増大をもたらし、結果として、多くの人間から生存権を奪うものとなりかねないのである。

 

 

 

 私のような「反国家主義(と言っても、あくまでも「国家主義」へのアンチであるのだが)」を信条とする個人主義的人間が、このような形で「国家」の機能の再評価を主張することになろうとは、自分自身にも意外な展開ではあるが、これもまた21世紀的現実なのであろう。

 

 

 
 
…と、『ウィキペディア』の記述に頼るという安易な方法を採ってしまったが、この際だから、以下にもオマケ的に『ウィキペディア』先生から、フリードリヒ・リスト以来の「国民経済学」そして「ドイツ歴史学派」の現代的意義と、日本近代史への影響に触れた部分を引用しておこう。

 

〈影響〉
ドイツ語圏においては、歴史学派それ自体は解体したものの、最新経済学派における理論と歴史を統合する総合的・現実的視点は、シュンペーターに継承され、また第二次世界大戦後の「社会的市場論」(W・オイケン)にも影響を及ぼしている。
歴史学派の経済学・社会科学は、ドイツと同様、国民国家の形成に出遅れつつ近代化・工業化を進める西欧各国・アメリカ合衆国・日本にも影響を及ぼした。イタリアではロッシャーに学んだL・コッサが歴史学派理論を紹介してイタリア歴史学派と称され、合衆国ではR・イリーがドイツ社会政策学会にならってアメリカ経済学会を1885年に設立、またT・ヴェブレンは歴史学派の方法論に学び進化論的な制度学派の創始者となった。また経済的先進国であり、歴史学派と対立した古典派経済学の本拠地であるイギリスにおいてもJ・ロジャーズ、W・アシュリーらイギリス歴史学派によって歴史学派経済学の導入がすすめられ、経済史研究が発展した。
日本においては、グナイスト・ロエスレルら歴史学派の法学者たちが御雇い外国人などの形で直接・間接に明治憲法制定に影響したほか、大島貞益がリストの著作を翻訳(重訳)して保護貿易を主張、「日本のリスト」と称された。さらに1890年代後半には、ドイツに留学して新歴史学派の経済学を学んだ金井延・桑田熊蔵らが「講壇社会党」を自称しドイツ社会政策学会にならって日本でも「社会政策学会」を結成(1897年)、工場法などの社会政策立法の制定に貢献した。

 

 近代における国民と国家、そして経済原理の関係を考える上での重要な視点が、ここにはあるように思われる。

 そしてその先には、「所得再分配を目的とする国家」こそが、国民による軍隊を組織し、対外戦争を遂行する国家であったという、近代史の重要な側面も見出されるはずである。

 

 

【註:1】
 『ウィキペディア』先生に頼るだけで済ませてしまうのも読者の皆様方に申し訳ないので、フリードリッヒ・リストの主著である『経済学の国民的体系』についての、小林昇による内容紹介から一部を引用しておくことにする(2012年3月7日追記)。

 自由・独占・保護
 一八世紀以来、世界には唯一の超大国であるイギリスが君臨していたが、この国の誘いに乗って自国の農産物とイギリスの製品との交換―そういう内容の自由貿易―に踏み切った国々は、特にポルトガルがイギリスと結んだメスュエン条約(一七〇三年)や、フランスが同様に締結したイーデン条約(一七八六年)の例が示すように、その幼弱な工業を押しつぶされた。ことにナポレオンの大陸制度の撤廃以来のドイツは、いっそうイギリスの重圧を感じている。ドイツはナポレオンの支配以後、死せるアダム・スミスの支配下に置かれたのであり、ドイツ人にとって「彼ら二人は地上最強の君主」である。しかし、いわゆる経済発展段階説の教えるところは、都市国家ヴェネチアの例において最も広くまた深いであろう。ヴェネチアは、その発展の諸段階にあたって貿易の自由と制限とを適切に相継続して用い、一五世紀には「製造業と防疫の支配権の座」にのぼった。しかしそうなってからも、貿易の制限を固守しまた都市国家の殻を破ってイタリア国民国家を構想することができなかったために、衰退したのである。ともあれ、おなじ「自由」といっても貿易の自由と宗教上・市民生活上の自由とを混同してはならない。近代の国民国家にあっては、貿易の制限は広大な国内市場での取引の自由を保障するためのものでなければならないのであって、それゆえ、それは独占ではない。「外国貿易の場合には最高度の個人的自由が最高度の制限と両立できるのである。」
 国民経済学
 すでに理解されたように、歴史の教えるものは、貿易政策の選択いかんによる国民経済と国民自体との盛衰の跡である。そうして国民の盛衰は、その各成員の福祉を左右するものであり、国民の各人の行為は同じ国民のつぎの世代に責任をもつべきものであるから、一時点での個人の交換価値上の利益の極大は、かならずしも国民の貿易政策の基準とはなりえない。また自由な国際分業の利益はかならずしも自立した国民の利益ではない。すなわち、現実には世界と個人の中間には国民ないし国民国家があって、この諸国民国家の平等な発展と共存とののちに、古典学派の基礎理論とその自由貿易論とははじめて結合することができるのである。そうだとすれば、第四段階に達した後進諸国にとっては、中間的実在である国民のために保護貿易に支えられた経済建設を行なうことこそ緊要であり、「私経済学」ないし「世界主義経済学」に対する「政治経済学」ないし「国民経済学」の建設こそ重要な課題であろう。
 この「国民経済学」にあっては、古典学派の理論は哲学・政策・歴史の三位一体のなかの「哲学」として位置づけられ、むろん無視されることはない。なぜなら、保護関税で守られた国内市場においては、自由競争の原理が貫徹すべきであるから、そこに当然、交換価値の分析から出発するというスミス以来の方法にもとづいて経済法則の発見が意図されねばならず、また平和な世界連合が成立するにいたったのちには、経済のあらゆる局面でこの法則に従うことが、人類の創意の十分な発揮のための条件となるはずだからである。だが保護貿易を必要とするような段階と状況に置かれた国民経済にあっては、経済学によって求められるべき課題はおのずから別個のものでなくてはならない。
     小林昇 「フリードリッヒ・リストの国民経済学」 『東西リスト論争』 みすず書房 1990 (16~18ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/12 22:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/175353/

 

 

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