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2011年10月27日 (木)

清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い

 

 武蔵野美術大学の美術館で開催中の、「清水多嘉示資料展 第2期 昭和の記録―清水多嘉示の道程:敗戦まで」というタイトルの展覧会は、大変に地味なものではあるが個人的には興味深いものであった。「あの戦争」を中心とした近・現代史を生き抜いた彫刻家の姿という意味で、いろいろと考えさせられたのである。

 

 1897(明治30)年に生まれ、1920年代にフランスに渡りブールデルに師事し、帰国後には帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の助教授となる。戦後も同校(武蔵野美術学校、武蔵野美術大学と校名は変化する)で教鞭をとり、1980年には文化功労者に選ばれ、翌1981年に84歳でその生涯を閉じる。そこにあるのは、彫刻家としての見事な経歴、と言えるであろう。

 近・現代史的に見れば、彫刻や絵画というジャンル、総称としての美術というジャンル自体が明治以降のものである。木彫であれブロンズ像であれ絵画表現であれ、仏の姿は、明治以前には寺院の中の信仰の対象ではあっても、「芸術作品」として鑑賞の対象とされるものではなかった。

 日清戦争と日露戦争の間に生まれた清水が渡仏し、ブールデル門下となる背景には、日本が近代的造形としての彫刻と出会い、吸収していく過程が埋め込まれているわけである。美術(そして彫刻)という近代の新しいジャンルの中で、その先頭にいた人物の一人が清水なのである。

 

 

 展示が地味であると書いたのは、「資料展」とある通り、彫刻作品ではなく「資料」中心の展覧会であることによるが、彫刻作品の展示がないわけではない。

 その目玉(?)となると思われるのが、1940(昭和15)年制作の「千人針記念碑の一部」と題された、等身大より一回り大きな彫像(ブロンズ風に着色された石膏像)である。「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」の出品作であり、それが「千人針記念碑」とくれば、美術家(彫刻家)の「戦争協力」という文脈で語られてしまうことになるであろう作品ではある。しかしここで、そのような話を始めようというわけではない。

 

 資料中心の展覧会であることには既に触れたが、小さな会場の壁一面、そして天井の梁にまで隙間なく貼り込まれているのは、清水の手紙でありメモであり様々な展覧会の案内状であり公文書でありスケッチなのであった。その会場に溢れるばかりの資料群を通して、1920年代の終わりから敗戦までの清水の軌跡を追うことが出来る。

 そこにあるのは近代化過程にある日本である。モダンな東京があり、美術展が日常的に開催される世界がある。現代につながる都会生活がある一方で、日清・日露戦争以来の軍事力を背景とした大陸での利益追求も新たな段階を迎えている。満洲事変の成功(1931年)は、国内的には軍事力行使が権益獲得の有効な手段であるとの幻想に結びついたが、国外的には近代国民国家形成過程にある中国人のナショナリズムを大いに刺激し、排日・抗日運動への求心力を高めることにも役立ったわけである。そして1937(昭和12)年の盧溝橋事件以後、両国民は、支那事変(いわゆる日中戦争である)と呼ばれる直接的軍事衝突の渦中に巻き込まれていく。

 

 資料展会場には、そんな時代を生きた彫刻家の姿が展開する。

 

 1938(昭和13)年には、海軍航空隊の源田実(!)をモデルにブロンズ像「海の荒鷲」を制作(形象としては靖国神社の遊就館前にある特攻隊員の像のイメージを思い浮かべて欲しい)。作品は海軍に納められたが、その引渡し式の写真には山本五十六の姿もある。1939年制作のレリーフ「南昌制覇」は、主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっている。どちらも実物ではなく当時の写真だけだが、「南昌制覇」の方は制作の際の多量のスケッチが展示されており、清水の作品への「入れ込みぶり」も伝わってくる。

 そして清水も(兵士としてではないが)従軍することになる。会場には「従軍彫塑家」という肩書きの記された腕章が、従軍の際の各種身分証明書(「画家」という肩書きのものもある)と共に陳列されているのだ。従軍先は海軍で、海軍航空隊基地(漢口と思われる)でのスケッチ群が印象的である。明るい色彩で、九六式陸上攻撃機をはじめとした海軍機の姿が記録されているのだ。事変当初の南京への「渡洋爆撃」以来、海軍は空からの陸上攻撃の主役となっていたのである。

 従軍先が陸軍ではなく海軍であった(戦闘艦に乗船してのスケッチもある)ことは、清水が大陸の戦場の悲惨から距離を置いた場所から事変を経験したことをも意味するように思われる。その後も続く「戦争協力」的作品の背景には、そのような清水の戦場体験のあり方が関わっているように感じられもするのだ。

 

 そして問題の、1940(昭和15)年制作の「千人針記念碑の一部」である。「海の荒鷲」や「南昌制覇」の舞台が戦場でありモデルが軍人であったのに対し、ここでは「銃後」がクローズアップされているというわけだ。泥沼化した事変は、今や遠い戦場の出来事ではなく、都会生活の日常風景の一部にまでなってしまっているのである(彫像のサブタイトルは、「出征兵士ヲ送ル」である)。紀元二千六百年の祝祭的気分の裏側には、近代総力戦状況の重圧が既に深く浸透していたのである。

 造形的に興味を引くのは、女性と足下の幼児の組み合わせで構成された彫像が洋装であり、しかもその顔があまり大和撫子的ではないという点である。前方を見据えて(視線の先には出征兵士―もちろんそれは彼女の「夫」であるはずだ―の姿があるに違いない)立っているのは、ウェーブした髪をなびかせた(どちらかと言えば)バタ臭い容貌に造形された、上半身はノースリーブで下半身はロングスカート(腰周りはリボンで結ばれている)に包まれた女性と、大和絵的と言うよりは西洋画の天使像を思わせる顔立ちの裸の幼児の姿には、あまり「千人針」という語から期待してしまう「日本的」なもののイメージは見出せない。

 そこに見出されるのは「日本的」な(ナショナルな)何かではなく、インターナショナルな同時代の表現であるように感じられる。つまり、この「千人針」像がエンパイアステートビルの装飾であっても、モスクワや東ベルリンやワルシャワの戦勝記念広場の彫像であっても違和感は生じないだろう、ということなのだ。

 もちろん、清水自身は本気で当時の国策を支持していたのであろうし、国策に一体化した心情の下に大規模な「千人針記念碑」の構想を練り(問題の彫像はその「一部」なのである)、彫像の制作に当たっていたのであろう。しかし、インターナショナルな美術の世界の同時代を生きる作家のものとして、作品は造形されてしまうのである。

 この「千人針」像は、確かに「あの戦争」の時代の、「あの戦争」の時代ならではの彫像である。制作に当たった彫刻家の精神的昂揚は否定出来ないだろう。それを「戦争協力」として切り捨てることは容易である。

 しかし、政治家でも軍人でもない彫刻家の作品の問題、という視点もまた必要であるようにも思われる。もちろん、総力戦時代の戦争は、政治家や軍人だけで遂行出来るものではない。まさに国民一人一人の積極的参加こそが「総力戦」を支えるものであり、そのような構図の中で彫刻家の「戦争協力」を考えてみることは必要である。しかし、そこで断罪という一方的な視線を注ぐのではなく、ある時代の中で自分の仕事(としての彫刻)に取り組み奮闘する一人の人間を様々な角度から理解しようとする試みとして、今回の「資料展」に接する態度もまた、「あの戦争」からこれだけの時を隔ててしまった現在、必要とされるし可能になっているもののように思われもするのである。

 

 

 私のこの、ある意味での歯切れの悪さの背景には、戦時下の清水の言動の詳細を私が知らないために評価の下しようがないという問題も、確かに存在する。しかし、それを知らない以上は尚更のこと、「戦争協力者」として安易に清水を断罪する無責任さからは身を離していたいと思うのだ。

 

 清水多嘉示のことを書きながら、リーフェンシュタールやアルノ・ブレーカーのことを考えていたのも事実である。ナチスと彼らの関係の問題ということになるが、リーフェンシュタールもブレーカーも、ナチスに媚びていたわけではない。ナチスに媚びることで彼らの作品が存在したのではなく、ナチスが彼らの作品を求めたのである。

 しかし、一方で、彼らの美意識は、まさにナチスのものでもあった。彼らの健康な肉体への憧憬は、あくまでもナチスの美意識に適合的なものなのである。

 そのような意味での清水の位置付けは、どのようなものとして考えられるだろうか? 国策に適合的な彼の作品には、注文者と作家の関係以上に、彼の積極的関与が見出されるように思われる。一方で、戦時期の代表作的な「千人針記念碑」の造形的イメージには、ナショナリスティックなものよりはインターナショナリズムが見出されてしまうようにも思われるのだ。当時の日本主義者達の目に、清水の作品(その美意識)はどのように映っていたのだろうか?

 近代という大きな文脈の中で、彫刻家(芸術家)となることによって身についてしまったインターナショナリズム(近代的芸術概念には「普遍性」への志向がある)と、後発帝国主義国家の近代化課程の渦中に生きる国民の抱くナショナリズムの双方を、清水は体現していたように、私には思える。同時代人ではない我々が、清水を「戦争協力者」として断罪することは、自らを無謬の高みに置くことによってのみ可能になる。そのような傲慢さを、私は選びたくない。

 

 

 展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/10/27 21:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/174233/

 

 

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