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2011年9月

2011年9月11日 (日)

近現代史の中の蚊(あるいはモスキート)

 

 

 蚊取り線香が近代日本の発明品であることは案外知られていない。KINCHO(大日本除虫菊株式会社)の創業者上山英一郎が、明治19年(1886)、米国人アモアから除虫菊の種を入手、日本で最初の栽培に成功し、その普及に努めた。蚤取粉の製造を行い、明治23年(1890)には棒状の蚊取り線香を、さらに渦巻き型を開発して明治35年(1902)に販売開始。除虫菊粉や蚊取り線香は、海外にも広く売り出され、日本の殖産興業の一翼を担った(『金鳥の百年』1988)。

     神野善治 『災厄防除-まもる姿・ふせぐ形-』(同名の展覧会図録の解説文より) 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2011 39ページ

 

 

…という話は、初耳というわけではなかったが、あらためて年代を見ると、帝國憲法発布(1889)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)という日本近代史の節目に近いところで、蚊取り線香の発展があったことを再認識させられた。それも国内だけの話ではなく、当初から輸出品としてわが日本の外貨獲得に貢献していたというのだ。

 同ページには、図版として昭和10年ごろの海外向けと思われるポスターも掲載されており、そこには、

 

  "COCKSEC" MOSQUITO KILLER
    WORD RENOWND INSECTCIDE

 

…なんて文字が、団扇を手に微笑む和服姿の美人と、その前に並べられた当時の金鳥製品のラインナップ・イラストの上に記されているし、図録の次のページの図版の説明には、

 

  棒状蚊取り線香誕生の頃(明治20年代)から第二次大戦前まで海外輸出もされた。専用の線香立て金具を備え、約40分間燃焼した。

 

…とあるくらいだ。開発当初は「棒状」の文字通りの「線香」タイプであり、現行の「渦巻き型」の登場はその後のことらしいが、それにより燃焼時間が6時間となったという(件のポスターには両タイプの製品が並び、噴霧タイプの液体殺虫薬水まで掲載されている)。

 また、当時の渦巻き型は「手巻き」で形成された円形断面のものだが、現行製品は知っての通りの長方形断面の型抜きによるものであることも、展示品により理解出来る。レトロイメージをくすぐられる「蚊取り線香」の姿もまた、時代と共に変化しているのだ。

 いずれにしても、蚊取り線香が戦前期のわが日本(つまり「大日本帝國」だ!)の貴重な輸出品の一つであったことは確からしい。原料は国内で栽培した除虫菊だから、紛れもない純国産品でもある。

 

 

 さて、ここまでは、かつて読んだ話の再認識という側面があるのだが、その先までは知らなかった。

 つまり、「第二次大戦前まで海外輸出もされた」という、それからの歴史である。戦争状態(第二次大戦の開始)は、蚊取り線香の輸出にも影を落とし、つまり蚊取り線香は広い海外市場を失ったわけである。真珠湾攻撃により日本は輸出先としての米国を失い、米国は日本からの蚊取り線香の輸入に期待することが出来なくなった。

 

 で、問題の「その先」の話なのだが、図録のその先の49ページに答えがある。

 そこには「合成殺虫剤の時代へ」という表題の下に、噴霧器型(スプレータイプ登場以前はこれが主流であった)の「ワイパア」(これは大正製薬製造)と、「DDT」の赤い円筒缶(こちらはなんと、あの「味の素」製品であった―つまり「味の素」は食品メーカーである以前に化学製品メーカーということなのだろう)の写真があり、

 

  19世紀末ドイツで開発された合成化合物に殺虫効果があることを1939年にスイスの科学者が発見。第二次大戦で日本の除虫菊が途絶えたアメリカで大量生産が可能になり、戦場に持ち込まれた。大戦後の日本にもやってきて日本の衛生状態の向上に貢献し、その後は農薬としても大量に用いられたが、新たな公害の原因にもなった。

 

…なんて解説が付されている。

 敗戦後日本の風景として、DDTを噴霧される復員軍人や浮浪児の姿こそは、当時の記録フィルムにも残されている戦後史の代表的なエピソードであるが、あのDDTの起源が、米国による日本からの輸入の途絶えた蚊取り線香の代替製品開発にあったことまでは、これまでに読んだ記憶はない(ただし、最近は忘却力が向上しているので、忘れただけかも知れないのだが)。

 いずれにしても「殺虫効果」の発見が1939年、つまりドイツ(そしてソ連)がポーランドに侵攻し、第二次大戦が始まった年なのだ。大日本帝國の対米英開戦は1941年だが、その直前に「合成化合物」の「殺虫効果」が大戦の中立国となるスイスで発見されていたことが、戦時下の米国でのDDTの製品化につながったわけで、なんともなタイミングであったわけだ。もちろん、それを可能にしたのは、米国の科学技術力であり、米国の工業力であり、つまり米国の国力であった。戦時下に、殺虫剤の開発に資本と人員を投下し、その大量生産を実現する能力である。

 そして、そのDDT(展示品の缶のひとつには確かに「ディーディーティー」と表面にカナが振られていたが、当時の語感―「ディズニー」が「デズニー」であった時代である―からは「デーデーテー」という訓みでの流通をイメージしておくべきか?)が、敗戦後の日本から蚤虱を追放したのだから、これまたなんとも皮肉な話である。

 

 

 

…というのは、実は本日、ムサビ(武蔵野美術大学)の美術館で現在開催中(10月8日まで)の「くらしの造形 19  災厄防除-まもる姿・ふせぐ形-」展を観に行って、個人的にもっとも印象的だった話題なのだが、もちろん他の展示品もそれぞれに興味深い。

 会場内は、「災厄・疫病を防ぐ」、「火災を防ぐ」、「日射・風雨を避ける」、「盗難を避ける」、「鳥獣害を避ける」、「虫害を避ける」と題されたコーナーに分けられており、かつての日本の伝統的な社会が何を恐れ、どのように対処していたのかの実際を民俗資料を通して見渡そうとするもので、当時の様々な用具と共に信仰的側面にも配慮しながらの展示構成となっている。

 「火災を防ぐ」のコーナーの中心にある、桑田三千雄氏のコレクションだという「火消刺子半纏」なんか、実に見事なものだ。火消装束の内側が、錦絵の図柄で染め上げられているのだ。なんとも粋の極み!

 

 

 

 

 

 

 で、ここから先は、展示の話ではまったくないが、「蚊」にまつわる話の続きではある。

 たまたま別のところで、木製の機体で有名な第二次大戦中のイギリスの高速軍用機「モスキート」(つまり英語で「蚊」と名付けられた空軍機)が話題となったのであった。このモスキートは爆撃機として開発されたのだが、機体を木製とすること(註:1)による重量軽減化の結果として得られた高速性能は、敵国ドイツの迎撃用戦闘機を上回るものとなったのである。当時は機体の全金属化の達成度こそが最新鋭機である証であったのに対し、戦時に貴重な金属資源の使用を抑えると同時に、既存の木工家具工場の技術を有効利用し、しかもドイツ戦闘機に追従不能な高速性能を確保するという成果を得たのだ(その高速性能は、本来は爆撃機として開発されたモスキートに、戦闘機型や偵察機型を派生させてもいるのである)。

 で、あらためて『ウィキペディア』なんかを見ていたら、夜間戦闘機型のモスキートのエースであったジョン・カニンガム(「猫目」として知られる)の名が出てくる。このカニンガムのエピソードを『ウィキペディア』の「ジョン・カニンガム」の項から引いて、今夜のオマケとしたい。

 

レーダー搭載の夜間戦闘型デ・ハビランド モスキートに乗り、第二次世界大戦でドイツ空軍との空戦で活躍した。 当時のイギリス情報部の宣伝により猫目のカニンガム(Cat's Eyes Cunningham)と呼ばれていたが、彼自身は酷い猫嫌いであり、このニックネームを嫌がっていた。

当時のイギリスでは、夜間戦闘の戦果がレーダーによるものであることを隠蔽するために、夜間迎撃部隊のパイロットは優れた夜間視力を得るために毎日ニンジンを食べていたと宣伝した。 この話は現在でも一部のニンジンに含まれるアントシアニンやカロテノイドが目に良いことの根拠として語られているが、イギリス情報部による全く根拠の無い捏造話である。 しかし、当時のドイツ軍はこの話を信じていた。

 

…という話(個人的には、猫嫌いの猫目のエースにウケてしまったのだけど)なんだそうだ。イギリス情報部、恐るべし。ドイツは蚊(モスキート)に悩まされ、イギリス情報部に騙されたのであった。

 嘘つきのイギリス軍情報部(軍の情報部に正直さを期待することは妥当ではないにしても)と、上空をわがもの顔に(まさに蚊のように)飛び回るモスキートを前にして、ドイツ軍に蚊取り線香の用意はないし、DDTもなかった(高速性能でモスキートを上回るジェット戦闘機の開発投入の事実はあるが、既に悪化した戦況の前では手遅れであった)のである。

 もっとも、ドイツ人は、合成化合物による殺虫剤の開発・製品化の方には成功し、それがユダヤ人の大量殺害に採用されたのも同時代のエピソードではある。

 

 

 一方で、対ドイツ戦では活躍した英空軍の「モスキート」も、大日本帝國を相手とした東南アジアの戦場では、その高温多湿な気候が合板材の弱点となり、活躍の機会は少なかったとも言われている。東南アジアの戦場で大日本帝國陸海軍が悩まされたのは、マラリヤを媒介するホンモノの「蚊」の方であった。その大日本帝國には「蚊取り線香」という優秀な対蚊兵器(?)が存在したが、あの戦争での日本の最大の弱点は補給であり、前線に十分な「蚊取り線香」を供給する能力もなかったものと思われる。もちろん、合成化合物による殺虫剤の開発・大量生産など、国力の及ぶところではなかった。

 

 

 

【註:1】
 先日、古書市で見つけて思わず買ってしまった(1050円也)『航空朝日』の昭和19年5月号には、立川飛行機技師中川守之氏による「撃墜『モスキート』を観る」と題された記事があり、

 主翼上皮、樺7・5ミリ合板(外側)、5・0ミリ合板(内側)、縦通材はスプルース、主翼桁は笠材スプルース、側板は樺合板、小骨はスプルースで、合板はいづれも樹脂接着合板であつた。ボルト締附部には樺の強化木、比重1・2程度のものをライナーとして使用してゐる。胴体の殻は外皮スプルース三枚合わせ、樹脂接着合板でバルサ心材を挟んでゐる。
 胴体、主翼、尾翼の表面を木綿羽布で被覆し、硝酸系繊維素の塗物をもって平滑仕上げしてゐる。
 木部の結合として樹脂接着剤の使用は見当たらず、総てカゼインを使用してゐたのは意外である。
 翼、胴体内部の防湿塗料は亜鉛華を含んだ繊維素塗料をもつてし、その他の処置は講じてない。
 右の主要材料中スプルース、樺等はアメリカものを使用してゐることは注意を要する。

…と、「使用材料」の項にレポートされている(原文の漢字は旧字体)。

 「モスキート」の木製の機体の実際は、

  スプルースと樺合板で心材がバルサ

…だった、ということらしい。そんな機体が、ドイツ軍にとっての「災厄防除」の課題のひとつだったわけである。 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/08 22:31 → http://www.freeml.com/bl/316274/170724/

 

 

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