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2011年8月14日 (日)

1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 1961年8月13日、東西ベルリンの間に壁が築かれた。

 それから50年が過ぎたわけだ。

 

 

 『ウィキペディア』を引用すれば、

 

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (antifassistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

 

…と要約される出来事であった。

 

 ベルリンの壁の特異性については、これまでも度々取上げて来た(註:1)が、伝統的なヨーロッパの都市の城壁が外敵の侵入への防護を目的として築かれてきたのに対し、この『ウィキペディア』記事にあるように、1961年に築かれた「ベルリンの壁」は、

  実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった

…という事実に、そのユニークさが見出される。外敵の侵入(流入)に対する防護ではなく、東ドイツ国民の国外脱出(流出)の阻止を目的として築かれた「壁」なのであった。いわば、国家が自らをゲットーとして位置付けた瞬間である。

 

 その背後には、住民にとって共産主義者の支配が、資本主義者の支配より魅力的ではなかったという現実がある。当時の東ドイツの共産主義者達は、魅力ある共産主義社会の建設を目指すよりも、住民を共産主義社会に閉じ込める方が手っ取り早いと判断したのであろう。ちなみに、1961年当時ベルリンの壁の建設を指揮したのは、そのベルリンの壁が崩壊する1989年に最高指導者(国家評議会議長にして、ドイツ社会主義労働者党書記長)の地位にあったホーネッカーであった。『ウィキペディア』の「エーリッヒ・ホーネッカー」の項には、

  ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年にベルリンの壁の建設を担当した。

…と記されている。

 

 

 

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国民からすれば、ベルリンの壁に代表される東西ドイツ間の「壁」は、国境線内に国民を閉じ込めるためのものであった。彼らは、実際、閉じ込められたと感じ、壁の外への脱出を夢見ることになる。ある者は成功し、ある者はドイツ民主共和国国境警備隊員の銃弾に斃れることとなった。

 

 しかし、視点を移動させ、ベルリン(特に西ベルリン)に注目すると、東ドイツ国境内に西ベルリン市民を閉じ込めたものとして「壁」を位置付けることも出来る。西ベルリンとは、東独国境線内に存在する資本主義の拠点なのであり、「壁」は(西ベルリン市民をも含む)資本主義的世界を共産主義世界から隔離し閉じ込めるためのものとして位置付けることも可能なのである。

 つまり、こちらも一種のゲットーとして考えることも出来る。

 

 ゲットーとは、ここでも『ウィキペディア』を活用すれば、

  本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。

…とあるように、かつてのヨーロッパのユダヤ人隔離地区の総称であった。『ウィキペディア』を読み続けると、

 

13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた。

14世紀のペスト大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。

フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。

 

…と、ヨーロッパ史の一部として描かれているユダヤ人の「ゲットー」の姿を見出すことが出来る。19世紀から20世紀初頭にはゲットーからのユダヤ人の解放と、それぞれの国民国家への同化の歴史も存在する。しかし一方で、ナチスに収斂する新たな反ユダヤ主義の流れが始まるのもその時代であった。

 進化論と遺伝学を背景にした優生学的人種差別主義の台頭である。そこでは、ユダヤ人は人種的に(あるいは生物学的に)劣等なものとされ、遺伝的隔離の対象とされる。同時にこの優生学的人種差別は、公衆衛生学的視線とも合体し、感染症における病原菌のイメージがユダヤ人に重ねられることになる。

 本来の優生学的(つまり遺伝学的)視点からは、劣等さの「感染源」としてのユダヤ人というイメージは発生し得ないが、近代とは感染症の病因としての病原菌の発見の時代でもあり、近代科学的知識の大衆化は、優生学的視点と感染症の病理学を合体させ、ユダヤ人は二重の意味で隔離されるべき存在として取扱われていくのである。アーリア人種の清潔な世界からのユダヤ人の排除は、遺伝的隔離としてだけではなく、伝染病患者の隔離と病原菌の消毒という公衆衛生学的イメージの下でも進行することになってしまう。

 やがてヨーロッパはナチスドイツの占領下となり、ポーランドにはゲットーが復活し、各国のユダヤ人も強制収容所に移送隔離され、絶滅施設も稼動し始める。優生学と公衆衛生学の合体したところに、害虫駆除用ガスによるユダヤ人殺害と焼却による死体処理システム(ガス室と焼却炉!)が完成するのである。

 

 

 

 さて、問題は東独である。共産主義者からすれば、資本主義は伝染性の強い悪疫であり、資本主義の感染からの防衛は、国家の衛生上の問題としてイメージされることになる。

 その意味で、西ベルリンを囲む壁は、悪疫の感染源から東ドイツ国民を保護する防壁としてイメージされ得るものとなる。ナチスとユダヤ人の関係が、東独の共産主義者と西ベルリン市民の関係として再現されているわけである。

 

 

 ゲットーとして西ベルリンを考えることで、ナチスから東独の共産主義者に継承された、20世紀に大衆化された近代的科学知識の姿の一端を垣間見ることが出来るようにも思われる。

 

 

 

(註:1)
 たとえば、「壁を築くことの意味」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5ea5.html)を参照。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/08/13 22:29 → http://www.freeml.com/bl/316274/169469/

 

 

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