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2011年6月 4日 (土)

歴史としての「原子力の明るい未来」

 

 『ウィキペディア』で「下條アトム」の項目を読むと、

 

アトムという名前は本名であり、父・正巳が第二次世界大戦後間もなく生まれた息子を、将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え、ならばアルファベットのAで始まる名前なら最初に呼ばれるという理由で、さらに「今後の原子力は戦争ではなく発電など平和のために使われるはずである」という願いを込めて、原子を意味する英語atomから名付けた。

手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』は下條アトムの命名より後に描かれたものであり、同名は偶然の一致であるエピソードは有名である。鉄腕アトムの連載当時、アトムという名の少年が実在することが話題となり、当時少年だった下條は手塚治虫と対面している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%A2%9D%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0

 

…なんて書いてあるのに出会う。

 下條アトムは1946年11月26日生まれなので、戦後の「原子力の平和利用」としての原発推進政策採用をはるかに先立つ命名だということになる。『ウィキペディア』には、

  「今後の原子力は戦争ではなく発電など平和のために使われるはずである」という願いを込めて…

…とあるが、「発電」のためのエネルギーとしての可能性を彼の父がどこまでその時点で意識していたのかについては若干の疑問が残らぬでもないにしても、原爆として実現された軍事力としての原子力エネルギーの巨大さは、敗戦後(当時の用語で言えば終戦後)の日本人に圧倒的な印象を残していたことは確かであろう。

 エネルギーの巨大な可能性という意味ではその延長でもあり、非軍事的可能性という意味ではその反転でもあるイメージを、自分の子供の命名に際して思いついた、戦後間もない時期の彼の父の姿を、あらためて振り返っておきたくなったわけだ。いずれにせよ、当時から現在に至るまで、アトムという男の子の名が流行することはなかったが、変わった名前ではあっても、マイナスイメージに伴われる名前として受け取られた形跡はなかったように感じられるのである(当人に確認したわけではないが)。

 ところで、「将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え」たという彼の父親の心中では、日本の敗戦と米軍による占領が、それまでの大日本帝國による朝鮮半島の統治支配と重ねられてイメージされていたようにも思われる。そこにあるのは、敗戦が占領軍による創氏改名を伴うかも知れない事態としてイメージされた可能性である。

 福島の原発事故の圧倒的なイメージは、原子力エネルギーへのマイナスイメージを自明のことであるが如き状況を作り出してしまったが、少なくとも戦後間のない日本人のひとりには、明るい未来の予兆として感じられていたことを再確認しておきたい。

 
 
 

 手塚治虫の『鉄腕アトム』の方を『ウィキペディア』で読むと、

 

21世紀の未来を舞台に、原子力(後に核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット、アトムが活躍する物語。米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。

本作は、1951年(昭和26年)4月から、翌年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを主人公として、1952年(昭和27年)4月から1968年(昭和43年)にかけて、「少年」(光文社)に連載され、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてフジテレビ系で日本で初めての国産テレビアニメとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E8%85%95%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0

 

…とあり、下條アトムの誕生から5年過ぎてのデビューであることがわかる。原作の設定では、

1 善悪を見分けられる電子頭脳。よい人とわるい人の見分けが付くに変更され、電子頭脳も頭部から胴体へ変更された。
2 60か国語を話せる人工声帯。
3 涙もでるサーチライトの目。
4 10万馬力の原子力モーター。「地上最大のロボットの巻」では100万馬力に改造されている。(「アトム大使」の初出版では、五百万ダインと表記されていた。)
5 足のジェットエンジン。最大マッハ5で空を飛ぶ。宇宙空間ではロケットに切り替わり最大マッハ20で飛ぶ。
6 鼻がアンテナ。鼻が伸びて送信アンテナに。

…となっており、現在の私たちの関心からは「10万馬力の原子力モーター」というところが注目点となるわけだ。既に原子力エネルギー利用が、未来世界の肯定的イメージの基底に据えられているのである。「原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる」との記述もあるから、アトムは現在8歳ということになるが、その2011年に福島第一原発は、原子炉事故の過酷さを、人類の歴史に刻み込んだわけである。「鉄腕アトム」では未来世界であった2011年は、原子力エネルギー利用の否定的イメージに覆われる世界として現実化していくのであった。

 
 
 

 現在に続く日本の原子力政策を振り返れば、中曾根康弘の名と原子力政策の歩みが一体であることがわかる。再び『ウィキペディア』を引くと、中曾根康弘の項に、

 

1954年(昭和29年)- 3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。
1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。

1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億500万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。1955年の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%BE%E6%A0%B9%E5%BA%B7%E5%BC%98

 

…と記されている通りである。『鉄腕アトム』から少し遅れての、現実政治を舞台にしての「原子力の平和利用」の開始だったわけだ。

 確認したわけではないが、この時点で、中曾根康弘あるいはその周辺の原子力政策推進役であった人々が、原発操業のマイナス面としての核廃棄物処理問題の深刻さを真正面から考えていたようには思われない。それは彼等の無責任さの現われというよりは、当時の想像力の範囲がそこまで及ばなかったということであるように感じられる。実際、工場排水をそのまま河川や海に垂れ流すのが当たり前であった時代の話なのである。いわゆる「公害」が問題化し、その対策が政治課題となり、国家行政の対応として環境庁が発足するのは1971年になってのことなのだ。工業生産に伴う有毒な廃棄物の処理問題に関心が持たれていない時代背景を考えれば、原子炉稼動に伴う核廃棄物処理問題が関心の対象でなかったことは、現在の視点からは批判されるべきことであるにせよ、歴史的事象としては理解可能な話のように思われる。

 一方で、この1954年3月2日の前日には、ビキニ環礁での米国による水爆実験で、第五福竜丸が被爆している。ヒロシマナガサキに続く日本人の放射線被曝と、それによる死(久保山無線長は半年後に死亡)が、「放射能」の恐ろしさを日本国民に深く印象付けたであろうことは疑いない。つまり原発と原水爆のイメージが「放射能」を共通項として重ね合わされた時点であり、原発推進を国民に受け入れられるものとするには、その両者のイメージを切り離すことが必要であったはずである。『鉄腕アトム』の描く未来世界のビジョンは、「原子力の平和利用」としての原発イメージの構築を課題としていた人々には都合よく感じられたであろう。

 
 
 
 

 ちなみに1969年連載開始の藤子不二夫の『ドラえもん』は、

 

体内には、原子程度に分解してエネルギーに変換する「原子ろ」と呼ばれる胃袋を有し、人間同様に食事をする。基本的に人間と同じものを食べる。食べた物の消化率は100%、動物のように糞尿は一切排出しなくてもすむが、トイレに行って用を足しているようなシーンも存在する。ドラえもんは子守用のロボットとして作られた為、子供にトイレのしつけをするためにトイレで用を足すという設定もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_(%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC))

 

…という設定になっている。ドラえもんの場合には廃棄物の問題は存在しないらしい。「原子ろ」という名称に原子力エネルギーへのプラスイメージの反映(藤子不二夫もまた、下條アトムの命名を大きな違和感なく受け入れられる世代であろう)を見出すことが出来るように思われるが、少なくとも危険性は排除されているわけだ。

 今回の記事は思い付きを記している段階なので、『鉄腕アトム』では核廃棄物問題がどのように想定されていたかについてまでは、まだ調べがついていない。しかし、アトムが事故に遭ったらと考えると、それは小型原子炉事故を意味するわけで、事故処理の困難さを想像してしまうのは私たちが既にフクシマ後の世界の住人だからということになるのであろう。

 

 原子力エネルギーに関しては、プラスイメージもマイナスイメージも歴史的に理解しておく必要がある。私たちが「歴史」を対象に考える際には、現代の視線で当時の感覚を考えてはならないという歴史の鉄則を、ここでも思い出しておきたい。原発推進派も、必ずしも、危険なものを安全と考えて始めたわけでもないかも知れないことへの想像力を持った上で、原発依存政策の定着過程を検証することが重要なのではないか。これは原発反対派が、その都度、どのような論点を反対運動の柱として来たのかの検証と相補的に行なわれることで、歴史を単純で平板な善悪対立の物語としてではなく、当事者にも予測不能なダイナミックな過程として、立体的に把握することへとつながるはずである。
 
 明るい未来を築く「原子力の平和利用」であるはずの原子力発電推進の、どこがどのように「危険」と考えられ、それに対しどのような論理で「安全」が強調されたのかは相補的な問題であり、それは原発推進政策が国民にどのように受容されていったのかという歴史の過程に反映されているはずなのである。原発の危険性が自明となってしまった現在の視点からは見落とされる可能性のある問題として、今回はあえて『ウィキペディア』の記述のみに頼るような(安易と指摘されかねない)手法を用いて、ここに書き記しておくことにしたわけだ。
(その後、この問題は、あらためて、歴史としての「原子力の明るい未来」 広島篇   として取り上げたので参考にしていただきたい)
 
 
 
 
 
 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 : 2011/06/03 22:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/165863/
 
 

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