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2011年5月24日 (火)

歴史の中の「放射能が健康へ与える悪影響」 1

 

 2011年4月5日付、オンライン掲載の『Nature』記事には、

 

低線量被曝の生物学的影響について、個人レベルでも集団レベルでも予測できないのはなぜなのだろう? 1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている。それなら今頃は、政策決定に必要な、正確な科学的知識は、十分得られているはずではないのか?

 

…とある(http://www.natureasia.com/japan/nature/special/nature_news_040511.php)。

 記事にあるように、「放射能」の存在と人類との出会いは19世紀末から20世紀初頭にかけての(つまり「1世紀以上前」の)ことであった。

 『ウィキペディア』にある「マリ・キュリー」の項から引用すれば、

 

このような苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年にかけて32の研究発表を行った。それらは他の学者たちに放射能や放射性元素に対する認識に刷新を迫り、研究に向かわせた。放射性元素の追求はいくつかの同位体発見に繋がり、さらにウィリアム・ラムゼーとフレデリック・ソディのラジウム崩壊によるヘリウム発生の確認、アーネスト・ラザフォードとソディの元素変換説などがもたらされた。これらは、当時の概念であった「元素は不変」に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

 

…という一連の研究とその成果として描かれている、1895年のレントゲンによるX線の発見に始まる人類の歴史の一齣である。『Nature』記事には、「1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきた」とあっさり書いてあるが、放射能の発見と放射線の危険性の認識の時点にはズレがあるのも事実である。『ウィキペディア』記事の続きを読もう。

 

さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らと協同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった。この頃、夫妻は有害な放射線被曝(en)の影響について認識しておらず、放射性物質を扱う作業に防護対策を行わなかった。夫妻は、これらの研究が健康についてどれだけのリスクを払っているか念頭に置いていなかった。

 

 つまり、放射線についてまず注目されたのは、医学的な治療効果(の可能性)だったのであり、放射線の危険性の認識は、その後にもたらされたものだ。『ウィキペディア』を読み続けよう。

 

だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。

 

…とあるように、「放射能が健康へ与える悪影響」が人類の視野に登場するのは、1920年代になっての話なのである。しかも、放射線被曝による健康被害の最初期の事例のひとつは日本人の身の上に起きたものなのであった。が、「しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった」のも事実なのである。定量的・定性的な「因果関係」の確認には事例の積み重ねが必要であり、被曝と発症の「因果関係」の把握を抜きに、有効な「対処法」を見出すことは出来ないのである。

 もっとも、生体への放射線照射が「健康に与える悪影響」への注目は、ある種の実用化の試みにも結びつくことになった。

 アウシュヴィッツの医師ホルスト・シューマンを取上げた『ウィキペディア』の項目には、

 

1941年7月28日にアウシュヴィッツ強制収容所へ赴任。アウシュヴィッツでX線による不妊化と去勢の実験を行った。シューマンの不妊化実験に使われた女囚達はほとんどが死亡させられた。生き残った者も数ヶ月後に不妊の効果を調べるため、生殖器官を切開されたという。この手の実験は週に二・三度あり、一度に三十人ほどの女性が実験体にされたという。また男性囚人には睾丸だけを摘出して太陽光線にあてるという実験が行っていたという。シューマンはこの睾丸をベルリンへ送っていた。こうした実験に使われたのは若くて丈夫な囚人だった。特にギリシアのユダヤ人が多かったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 

…と書かれている。ナチスの医師たちは「X線による不妊化と去勢」の実用化に挑戦し、強制収容所内で人体実験を続けていたのである。人間の命を使い捨てのものとして行なわれた人体実験であった。

 再び『Nature』記事に戻れば、そこには「放射線の危険性に関する研究は…、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている」と書いてあったわけだが、「50年以上も前」のこととして指定されている人類の経験は、ヒロシマ・ナガサキの被爆であろうことは言うまでもない。

 しかし、原爆の開発は「放射能が健康へ与える悪影響」への着目により開始されたものではない。原爆開発の軍事的意味は、基本的に物理的破壊力の巨大さとして考えられていたのであり、その時点では、放射線被害の問題は前景化されていなかったように見える。

 ここでは、1939年8月2日付けの、「物理学者アインシュタインからルーズベルト大統領宛に送られ、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙」(『ウィキペディア』による)を読んでおこう。

 

 過去4か月の間に、アメリカのフェルミとシラード、またフランスのジョリオの研究によって、大量のウランによる核連鎖反応が有望なものとなってきました。 このことによって、極めて強い力と、ラジウムに似た大量の新元素とが生成されるでしょう。 これが近い将来に成し遂げられるのは、現在、ほとんど確実なことであると思われます。
 またこの新たな現象は爆弾、それも、あまり確かとは言えないのですが、考えられることとしては極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかもしれません。 船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体はおろかその周囲の領域をも非常に広く破壊するかもしれません。 ですが、また、こうした爆弾は航空機で運ぶにはあまりに重過ぎることが判るかもしれません。
 …(中略)…
 私の知るところでは、実際ドイツは、ドイツが接収したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を停止しています。 こうした、いち早い行動をドイツが取ったことは、おそらくはドイツ政府の外務次官フォン・ヴァイツゼッカーの子息が、現在ウランに関するアメリカの研究のいくつかを追試しようとしているベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していることを根拠として理解できるでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99

 

…とあるように、「爆弾ひとつで、港全体はおろかその周囲の領域をも非常に広く破壊する」可能性として示された巨大な破壊力を持つ「新型の爆弾の製造」が、ルーズベルト大統領に提案されていたわけである。ナチスの原爆開発・保有の可能性が指摘され、その可能性への対抗措置としての提案なのであった。ナチス体制からの亡命者達の提案であったことには、その切実さを理解する上で、留意しておきたい。躊躇することなく「X線による不妊化と去勢」の人体実験を実行してしまうような体制への不安と恐怖心が生み出した提案なのである。

 
 
 
 

 原爆投下直後の日本の知識人の反応を、当時の日記から読んでみよう。

 
 

「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
     高見順 『敗戦日記〈新装版〉』 (文春文庫 1991 222頁 昭和二十年八月七日条)

 
 

〇今朝の新聞に、去る八月六日に広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だということである。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
 降伏を選ぶか、それとも死を選ぶか? とトルーマンは述べているが、原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなることであろう。
 戦争は終結だ。
 ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。
 これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
 ソ連といえども、これに対抗して早急に同様の原子爆弾の創製に成功するか、またはその防御手段を発見し得ざる限り、対米発言力は急速に低下し、究極に於いて日本と同じ地位まで転落するであろう。
 原子爆弾の成功は、かくしてすべてを決定し、その影響は絶対である。
 各国共に、早くからその完成を夢見て、狂奔、競争をやってきたのだが、遂にアメリカが第一着となったわけだ。
 日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科博士の心境如何? またわが科学陣の感慨如何?
     『海野十三敗戦日記』 (中公文庫 2005 120~121頁 昭和二十年八月十日条)

 
 

 それぞれに破壊力の大きさについては語られているが、放射線被害の問題にはまだ目が向けられていないわけである。

 
 
 

 そして話は「戦後」へと続く。
 
 

〇広島の原子爆弾の惨害は、日と共に拡大、深刻となる模様である。その日は別に何でもなかった人が、何でもないままに東京に戻って来た。するとだんだん具合がわるくなり、食事がのどにとおらぬことから始まって変になり、医師にかかった。医師がしらべてみると白血球が十分の一位に減り、赤血球は三分の二に減じていた。そのうちに毛髪がぬけ始め、背中にあったちょっとした傷が急に悪化し、そして十九日目に死んでしまった。解剖してみると、造血臓器がたいへん荒されており、骨髄、膵臓、腎臓などがいけなかった。これは放射性物質による害そのものであり、原子爆弾は単に爆風と火傷のみならず、放射物質による害も加えるものであることが証明された。
 これは東大都築外科の都築博士が、丸山定男一座の女優、仲さんを手当てしての結果である。
 なお博士は二十年前、アメリカのレントゲン学会で、これに関した報告を出したことがある。レントゲンをウサギに三時間かけると全部死ぬ。二時間かけると、二週間後までに九割死ぬというのである。米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤ったが、今日原子爆弾によってその研究報告の値打ちが燐然と光を増したわけである。
     『海野十三敗戦日記』 (中公文庫 2005 130~131頁 昭和二十年八月二十九日条)

 

…と海野十三は、「終戦」後まだ間もない日の日記に書き残している。「これは放射性物質による害そのものであり、原子爆弾は単に爆風と火傷のみならず、放射物質による害も加えるものであることが証明された」と。

 ここに「丸山定男一座」とあるのは、「桜隊(櫻隊)」として知られることになる劇団であった。『ウィキペディア』を引くと、

 

前身は、薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足により結成された苦楽座。旗揚げ公演以降、各地での巡回公演に取り組む。苦楽座解散後、桜隊として、日本移動演劇連盟に組み込まれ、地方への慰問巡演活動をはじめる。劇団の地方疎開に際して、広島に15人が疎開。中国地方の慰問公演を受け持つ。原爆投下により、広島市内の宿舎兼事務所にいた丸山定夫ら9人は8月下旬までに全員死亡した。応召、出産など様々な理由で広島への疎開に不参加または広島を離れていたメンバーが難を逃れた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%9A%8A

 

…とある。桜隊の被爆については、

 

1945年8月6日、広島市堀川町99番地の宿舎兼事務所にいた9人のうち、俳優の森下彰子、羽原京子、島本つや子、裏方の笠絅子、小室喜代の5人は即死。
1945年8月16日、丸山定夫は厳島の存光寺で死去。園井恵子と舞台監督の高山象三は、園井の神戸市の知り合いの家に助けを求めたが、高山象三が8月20日、園井恵子は8月21日に死亡。仲みどりは、東京の実家に戻り、8月16日に東京帝国大学付属病院に入院、都築正男教授による手厚い治療を受けるが、8月24日死亡。
1952年、徳川夢声が東京・目黒の五百羅漢寺に石碑を建立。

 

…と記されている。

 都築博士のレントゲン学会報告に対し、「米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤った」のは桜隊の被爆から20年前(つまり1920年代ということになるだろう)のことだったが、米人の手により開発製造された原子爆弾が、米人の軍隊により広島で(3日後には長崎で)使用され、広島や長崎の市民の身の上に「そんな場合」が現実化したことになる。

 冒頭にご紹介した『Nature』記事には、「1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている」と書いてあったわけだが、そこには広島と長崎が原子爆弾による被爆の対象となり、大規模で広範囲な高線量放射線被曝が現実のものとなった歴史の反映を見出さねばならない。

 放射線被曝と健康障害の因果関連についての人類の知見は、ヒロシマ・ナガサキ以後、一挙に拡大したわけである。そこには大量の被爆者が存在し、被爆者の犠牲の上に人類は被曝に関する大量のデータを手に入れることになったわけなのである。

 定量的・定性的な「因果関係」の確認には事例の積み重ねが必要であり、被曝と発症の「因果関係」の把握を抜きにしては、有効な「対処法」を見出すことも出来ない。高線量放射線被曝と様々な健康障害の因果関連が人類の知見に加わった背後には、人類がヒロシマ・ナガサキを経験したという歴史上の事実があることは否定出来ないのだ。もちろんそれは、原爆の犠牲となった広島市民と長崎市民にとって、何の慰めにもならない「事実」である。

 

 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/05/23 17:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/163600/

 

 

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