« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月25日 (水)

歴史の中の「放射能が健康へ与える悪影響」 2

 

 どんなものであれ、科学的知見というものはデータの蓄積の上にしか築かれ得ないものである。

 放射能と呼ばれる、ある種の物質の未知の作用の発見と確定の前にはデータの蓄積が必要であったし、放射線被曝による健康への障害発生とそのメカニズムの理解の前にもデータの蓄積は必要であった。後者の場合、データとなるのは被曝により健康を害され、最悪の場合は死に至った人々の運命なのである。つまり被曝した人々の犠牲の蓄積が、現行の「放射線リスク評価」の基盤を形作っている(という悲しい)事実を理解しておく必要がある。

 『Nature』記事にあった、「1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている」という記述の背景には、そのような構図があるのだということを再確認しておきたい。

 

 

 「放射能が発見されて以来」の初期の流れを概観しておくと、

 

 X線が発見されて間もないころは、大量の放射線が人体に障害をおよぼすということまでは知られていませんでした。ですから研究者たちは無防備でした。このためX線発見の翌年には早くも、X線管の製作に従事していた米国人技術者が皮膚炎にかかりました。治療の目的でX線を使っていた医師たちは、患者に皮膚炎が起き、潰瘍にまでおよんでいることに気がつきました。
 ウランの放射能を発見したベクレルは、微量のラジウムの入ったガラス管をポケットに入れて持ち歩いたところ、腹部の皮膚に紅斑ができました。これを聞いたキュリー夫人が、実験の意味で同じ試みをしたところ、腕に紅斑ができました。
 夜光時計を作っていた米国の女子工員のラジウム中毒事件は有名です。彼女たちは第1次世界大戦から1924年ごろまで、時計の文字盤にラジウム入りの塗料を塗る仕事をしていたのですが、筆の先をなめなめ塗っていたのでラジウムが大量に体内に入り、骨の周辺にできるがん(骨肉腫)のほかいろいろな障害を起こし、死亡するものも出てきたのです。このような事件が続いたこともあって、放射線の生物への影響の研究が始まることになります。
     『放射線の影響がわかる本』(http://www.rea.or.jp/wakaruhon/mokuji.html

 

…ということになる。

 海野十三の日記にあった、東大都築外科の都築博士のエピソードを思い出そう。

 

  なお博士は二十年前、アメリカのレントゲン学会で、これに関した報告を出したことがある。レントゲンをウサギに三時間かけると全部死ぬ。二時間かけると、二週間後までに九割死ぬというのである。米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤ったが、今日原子爆弾によってその研究報告の値打ちが燐然と光を増したわけである。

 

…と、海野十三は記していたわけだが、「夜光時計を作っていた米国の女子工員のラジウム中毒事件」が明るみに出つつあったのと同時代に、都築博士は「そんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤」われていたことになる。

 「ラジウム中毒事件」の経緯は、

 

 放射性物質としてはラジウム(226Ra,228Ra)が1900年代の初めからアメリカで主として夜光時計用に用いられていた。使われていたラジウムの量は1個当たり3.7キロベクレル(kBq)から100キロベクレル程度と言われている。夜光時計を製造していたのはラジウムダイアルペインターと呼ばれていた女子作業員で、とくに、抜歯をした後に顔が腫れたり、貧血、白血球の減少、感染症などで亡くなる人も出た。その後、しばらく経ってからも骨がんや骨折が多発した。1929年、MartlandとHumphriesは骨肉腫の発生を報告し、その後数多くの障害が明らかにされた。
     原子力百科事典 (ATOMICA). 財団法人 高度情報科学技術研究機構 (http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-03-01-10

 

…というものであった。ここには「抜歯をした後に顔が腫れたり、貧血、白血球の減少、感染症などで亡くなる人も出た。その後、しばらく経ってからも骨がんや骨折が多発した」という形で、障害の発生・発症形態に2タイプあったことがわかる。現在の用語で言えば、急性障害と晩発障害に(ある程度は)相当するであろうか。いずれにしても、1929年のMartlandとHumphriesによる報告が画期となっているようであり、放射線被曝障害理解についての歩みの実態としては、その時点では未知の部分の方が大きかったであろうことは否定出来ない。

 現在、国際的に「放射線リスク評価」の指標として用いられているのは、ICRP(国際放射線防護委員会)によるものだが、ICRPの前身である「国際エックス線・ラジウム防護委員会」が設立されたのも1928年のことなのであり、その意味では1920年代後半というのは放射線被曝の実態解明へ科学者達の目が向き始めた時点と考えることも出来る。いずれにしても、彼らにとっても未知の領域だったのである。

 

 科学者達が安全地帯にいたわけではないことは、『放射線の影響がわかる本』に付された「代表的な放射線被ばく調査事例一覧」を読むことで理解出来るはずだ。そこには、

 

ドイツ放射線学会の放射線被ばくで死亡した放射線学者の顕彰書には、15ヵ国、360人の名前が掲載されている(日本人28人を含む)(1900年-1960年の死亡者数)

 

…と書かれている。科学者自身を含む放射線被曝の犠牲が、データとして蓄積されることにより現在の知見が得られているのであり、その中でも広島・長崎市民の原爆による犠牲が、科学的知見の確保へ向けての大量のデータとして機能したことは確かなことである。

 広島と長崎の市民が、放射線被曝のデータ獲得のために原爆投下の犠牲になったと考えることは妥当ではないと思われるが、彼等の犠牲が人体実験の機能を果たしたことも否定出来ない(そもそも、ヒロシマ・ナガサキに前後する米国内での原爆実験に際し、陸軍地上部隊による爆心地への進撃訓練が付随していた事実は、米国当局者自身が被曝被害の可能性を軽視していたことによるのであり、米軍兵士を用いての人体実験の試みであったとは考え難い以上、ヒロシマ・ナガサキでの同様の意図を想定することが妥当だとは思えないわけである)。

 強制収容所での非人道的人体実験による犠牲者の苦痛に躊躇することのないナチス体制存続への危機感が生み出した原爆が、結果的に広島・長崎市民を用いた放射線被曝人体実験の様相を呈してしまったことは、歴史の悲劇と言うしかないだろう。

 

 

 

 『放射線の影響がわかる本』の巻末にある「代表的な放射線被ばく調査事例一覧」を見ると、最初にあるのが「広島・長崎原爆」であり、続いての項目で「チェルノブイリ事故」が「代表的事例」として示されている。

 放射線の人体への影響が定性的・定量的に把握されるためには事例(データ)の蓄積が必要なのであり、「広島・長崎原爆」と「チェルノブイリ事故」の犠牲者は、その事例(データ)となることで「科学的知見」の形成基盤となったわけである。

 参考までに、他の「事例」を書き出すと、「X線発見当初の被害」に始まり、「テチャ川住民(旧ソ連のマヤック軍事工場において1949年~1956年に多量の高レベル放射性廃棄物をテチャ川に放出)」、「マヤック工場従業員(1950年前後)」、「東ウラル核事故(1957年、マヤックの液体放射性廃棄物タンク爆発)」と、旧ソ連の軍事核施設関連のものが続き、「放射線治療患者」と「被ばく事故(世界の各国で、放射性物質をそれとは知らずにもち歩いたことによる被ばく、放射線発生装置の操作ミスによる過剰被ばく、など多数の事故による被ばくがあり云々)」が並べられている。

 その他にも、地上大気圏内核実験が繰り返された時期があり、関与した各国(核保有国)には、それぞれにデータの蓄積はあるはずである。

 

 

 いずれにしても、前世紀の初めには未知の領域であった「放射線被曝の人体への影響」に関して、20世紀を通じて得られた「科学的知見」の影には、多くの犠牲者が存在するということなのである。

 

 

 さて、再び『Nature』記事を読むと、

 

低線量被曝の生物学的影響について、個人レベルでも集団レベルでも予測できないのはなぜなのだろう? 1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている2。それなら今頃は、政策決定に必要な、正確な科学的知識は、十分得られているはずではないのか?

端的に言えば、低線量被曝をした人々の健康への影響を直接検出し、定量化することは難しく、たいていは不可能なのだ。低線量被曝に関連した長期的健康被害の中で、最も心配されているのは、がんである。しかしながら、どのような集団でも約40%の人がいつかはがんになることを考えると、被曝した人々の集団が非常に大きく、個人の被曝線量が比較的よくわかっていないかぎり、被曝に関連した発がん率のわずかな上昇を評価することは、かなり不確実である。

 

…と、「低線量被曝の生物学的影響」の評価の難しさが記されている。逆に言えば、広島・長崎の原爆被害やチェルノブイリ事故の検証の結果、あるレベル以上の放射線量被爆の生物学的影響については、かなりの程度の確定的評価が可能になっていることを意味する。

 

 

 その影にあるのは、

 

   その日
  いちめん蓮の葉が馬蹄形に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
  足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の片付に出ていた女学校の下級生だが、顔から全身にかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、包帯などのために汚穢な変貌をしてもの乞いの老婆の姿のよう。

   五日目
  手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
  足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔で蠢き、傷にたかる蠅を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面のような表情が見おくっている。

   八日目
  がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空き地に積み上げた死屍からの煙があがる。

  柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
  無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
  K婦人も死んだ。
  -収容者なし、死亡者誰々-
  門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
  むしりとられた蓮の花辺が、敷石の上に白く散っている。

 
     峠三吉 「倉庫の記録」 (『原爆を見た建物』 西田書店 2006 による)

 

…という、昭和20年8月6日の広島の光景であることは、くどいようだが、再確認しておきたい。「事例(データ)」となることが当事者に意味していたのは、そのような光景の中を生き、そして死んでいくことだったのである。

 

 

 

 

 

 ここであらためて、「広島・長崎原爆」と「チェルノブイリ事故」の犠牲者達が「放射線の人体への影響」の深刻な事例(データ)となることで、人類の「科学的知見」が形成されていった過程を、「代表的な放射線被ばく調査事例一覧」から概観してみたい。

 

 まず、「広島・長崎原爆」の項の「概要」。

 

原爆投下時人口             580千人
4ヵ月以内死亡者            180千人
     (熱風、外傷等による者を含む)
屋外での線量              (広島の例)
     500m地点         9500mSV
     1km地点          6200mSV

寿命調査:
 被ばく者(2.5km以内)      86.5千人
   5mSV未満            34.3千人
   5mSV以上            52.2千人
 非被ばく者              26千人
 被ばく者平均線量           200mSV

 

 次に「急性症状」として、

 

死亡
 半数死亡線量        3000mSV
 同上の距離         約1km
   (広島での爆心地よりの距離)

急性・亜急性症状
 造血器官障害、各部出血、脱毛など

熱風、外傷などの放射線以外の症状による障害や死亡も多い

 

 「慢性症状」としては、

 

増加死亡率
 白血病   : 1.1%/1000mSV
 固形がん  : 10.9

がん増加時期
 白血病   : 被ばく後2~10年の間増加
 固形がん  : 10年以上経過後増加

がんの増加傾向
 線量に応じてがん死亡率は次のように増加する
 白血病   : 直線+二次曲線
 固形がん  : 直線的

白内障発生率 : (長崎の例)
 線量2000~4000mSVで55%
 5000以上で90%

精神発達遅滞(体内被ばく児)
 線量200mSVで     ほぼ0%
   600mSVで       10%

 

…というデータが示されている。広島・長崎の原爆被爆者調査に関しては、

 

第1群 爆心地から2km以内で被爆した被爆者全員
第2群 爆心地から2~2.5kmで被爆した被爆者全員
第3群 爆心地から2.5~10kmで被爆した被爆者全員のうち、第1群と性別年齢が一致するように選ばれた人
第4群 1950年代前半に広島・長崎に在住していたが、原爆時に市内にいなかった人のうち、第1群と性別年齢が一致するように選ばれた人

という形で、1,2,3群あわせて、爆心地から10km以内で被爆した93741人と、対照群となる第4群の原爆時市内不在者26580人を対象とした調査

 

…という形の要約もネット上で読むことが出来たが、これが『Nature』記事にあった、

 

  1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている。

 

…の内実、つまり放射線リスク研究の歴史の中での「50年以上も前」の出来事なのである。広島・長崎の被爆者の存在が、「かなり突っ込んだ研究」を支えたということなのである。投下された原子爆弾による広範囲かつ大量の被曝者の存在こそが、それまで未知であった被曝線量と放射線障害の因果的関連を、人類の科学的知見に加えることになったのであった。ナチス体制の下ではそれでさえ人体実験の対象となった可能性を排除出来ないが、まさにそのナチス体制を地上から排除する目的で開発・製造された原爆は、広島・長崎を実質的な人体実験の場としてしまったわけである。

 

 

 続く代表的事例が、チェルノブイリの原子力発電所事故となるわけだが、『Nature』記事から抜書きすると、

 

1986年に旧ソ連で発生したこの事故は、今回の日本の事故よりもはるかに深刻で、「最悪」の原発事故のシナリオを検証することを可能にした。被曝した人々の集団は大きく、その被曝線量の幅も広かったため、健康に関する集団研究を行うには絶好の対象であった。しかし、事故から25年が経過した今、甲状腺がんと白血病を除き、被曝した人々を対象とする大規模かつ組織的ながん研究は行われていない(Nature 2011年3月31日号547ページ、562ページ参照)。一方で、こうした研究では被曝線量の見積もりがカギとなるが、その作業はすでにかなり進んでいる。今後、我々は、これらの研究を一般的ながんのすべてに拡大するため、いっそう努力しなければならない。

 

…として位置付けられている。チェルノブイリ事故では放射性ヨウ素汚染と甲状腺がんの関係が明確になったわけだが、その影には小児甲状腺がん発症の犠牲者の存在があることを見落としてはならない(手術による対処法も確立されたにせよ、何の罪のない子どもたちが甲状腺がん患者となった事実は否定出来ない)。科学的知見の増大の影にある犠牲には敏感であり続ける必要がある。

 

 

 『Nature』記事は、

 

我々はまた、今回日本で被曝した人々を対象に大規模な集団研究を行うことが合理的であるかどうかも検討し始めなければならない。ここでは、被曝したすべての人々の被曝線量を個別に確定することがカギとなる。これは、放射線の危険に関するあらゆる研究に当てはまることだ。

 

…と続くのだが、そして確かに記事の通りであるのだが、そこで期待される科学的知見の増大の源泉となるのは、福島第一原子力発電所事故の被曝者の健康被害であり、健康被害への不安の日々なのである。

 誰も意図したものではないにしても、フクシマは人体実験の場として機能しかねない現実に見舞われているのである。人体実験の場として機能してしまったとすれば、既にそこに被曝犠牲者が存在するという、誰からも期待されるべきではない事態の現実化を意味するのである。

 福島での避難指示をめぐる政府の混乱の深層には、低線量被曝に関する科学的知見不足という事実があるようにも思えるが、科学的知見が存在しないこと自体は政府の責任ではないにしても、福島を低線量被曝の人体実験場にしてしまったら、それは政府の責任なのである。

 

 

 

〔追記 : 2011年6月12日〕
 当人にとって(あまりに)自明なことが書き落とされてしまう、という事態が、時として生じることがある。読み返してみて、今回のシリーズでも「それをやってしまった」ように感じたので「追記」として書いておくことにした。

 『Nature』記事の背景にも、言うならば、

  「低線量被曝」については、その結果としての健康被害発生を定性的・定量的に示す疫学的データが得られていない

…という現状認識があるわけだが、そのことの意味は、あくまでも、

  低線量被曝と健康被害発生に関する科学的知見は(現状では)十分なものではない

…ということに尽きるのであり、

  低線量被曝による健康被害発生の可能性は存在しない

…という意味なのではない。つまり、現在の知見からは、

  低線量被曝により健康被害は発生しない

…と断言することは出来ないし、同様に、

  低線量被曝により健康被害が発生する

…と断言することも出来ない、ということなのである。ましてや、

  低線量被曝により健康状態が改善される

…との主張には、未だ十分な疫学的データの裏付けが存在しないと、一般的には考えられているのである。
 その上で、「低線量被曝により健康被害は発生しない」と断定することの出来ない現状に鑑み、危険回避の立場から「低線量被曝による健康被害発生」の可能性を仮定して対応するというのが、放射線防護のあり方として国際的に共有されている態度なのだということを理解しておきたい。

 いずれにしても、被曝とは継続的蓄積が問題となるものであり、一過性の低線量被曝に関してはそれほど深刻に考える必要がないと言うことが出来るにせよ、その場所に居住し続けるというような状況は、結果として被曝量の蓄積を生み出し、健康被害発生の原因となり得るものなのである。

 ネット上に散見される「低線量被曝は健康にいい」的な論調に対する違和感が、今回の記事を書く上でのそもそもの動機であったのだが、その重要な論点に関するこちらの考えを書き落としていたという事実は、今後の反省材料としなければならない。
          (…と、現在反省中でございます)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/05/24 20:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/165101/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年5月24日 (火)

歴史の中の「放射能が健康へ与える悪影響」 1

 

 2011年4月5日付、オンライン掲載の『Nature』記事には、

 

低線量被曝の生物学的影響について、個人レベルでも集団レベルでも予測できないのはなぜなのだろう? 1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている。それなら今頃は、政策決定に必要な、正確な科学的知識は、十分得られているはずではないのか?

 

…とある(http://www.natureasia.com/japan/nature/special/nature_news_040511.php)。

 記事にあるように、「放射能」の存在と人類との出会いは19世紀末から20世紀初頭にかけての(つまり「1世紀以上前」の)ことであった。

 『ウィキペディア』にある「マリ・キュリー」の項から引用すれば、

 

このような苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年にかけて32の研究発表を行った。それらは他の学者たちに放射能や放射性元素に対する認識に刷新を迫り、研究に向かわせた。放射性元素の追求はいくつかの同位体発見に繋がり、さらにウィリアム・ラムゼーとフレデリック・ソディのラジウム崩壊によるヘリウム発生の確認、アーネスト・ラザフォードとソディの元素変換説などがもたらされた。これらは、当時の概念であった「元素は不変」に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

 

…という一連の研究とその成果として描かれている、1895年のレントゲンによるX線の発見に始まる人類の歴史の一齣である。『Nature』記事には、「1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきた」とあっさり書いてあるが、放射能の発見と放射線の危険性の認識の時点にはズレがあるのも事実である。『ウィキペディア』記事の続きを読もう。

 

さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らと協同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった。この頃、夫妻は有害な放射線被曝(en)の影響について認識しておらず、放射性物質を扱う作業に防護対策を行わなかった。夫妻は、これらの研究が健康についてどれだけのリスクを払っているか念頭に置いていなかった。

 

 つまり、放射線についてまず注目されたのは、医学的な治療効果(の可能性)だったのであり、放射線の危険性の認識は、その後にもたらされたものだ。『ウィキペディア』を読み続けよう。

 

だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。

 

…とあるように、「放射能が健康へ与える悪影響」が人類の視野に登場するのは、1920年代になっての話なのである。しかも、放射線被曝による健康被害の最初期の事例のひとつは日本人の身の上に起きたものなのであった。が、「しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった」のも事実なのである。定量的・定性的な「因果関係」の確認には事例の積み重ねが必要であり、被曝と発症の「因果関係」の把握を抜きに、有効な「対処法」を見出すことは出来ないのである。

 もっとも、生体への放射線照射が「健康に与える悪影響」への注目は、ある種の実用化の試みにも結びつくことになった。

 アウシュヴィッツの医師ホルスト・シューマンを取上げた『ウィキペディア』の項目には、

 

1941年7月28日にアウシュヴィッツ強制収容所へ赴任。アウシュヴィッツでX線による不妊化と去勢の実験を行った。シューマンの不妊化実験に使われた女囚達はほとんどが死亡させられた。生き残った者も数ヶ月後に不妊の効果を調べるため、生殖器官を切開されたという。この手の実験は週に二・三度あり、一度に三十人ほどの女性が実験体にされたという。また男性囚人には睾丸だけを摘出して太陽光線にあてるという実験が行っていたという。シューマンはこの睾丸をベルリンへ送っていた。こうした実験に使われたのは若くて丈夫な囚人だった。特にギリシアのユダヤ人が多かったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 

…と書かれている。ナチスの医師たちは「X線による不妊化と去勢」の実用化に挑戦し、強制収容所内で人体実験を続けていたのである。人間の命を使い捨てのものとして行なわれた人体実験であった。

 再び『Nature』記事に戻れば、そこには「放射線の危険性に関する研究は…、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている」と書いてあったわけだが、「50年以上も前」のこととして指定されている人類の経験は、ヒロシマ・ナガサキの被爆であろうことは言うまでもない。

 しかし、原爆の開発は「放射能が健康へ与える悪影響」への着目により開始されたものではない。原爆開発の軍事的意味は、基本的に物理的破壊力の巨大さとして考えられていたのであり、その時点では、放射線被害の問題は前景化されていなかったように見える。

 ここでは、1939年8月2日付けの、「物理学者アインシュタインからルーズベルト大統領宛に送られ、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙」(『ウィキペディア』による)を読んでおこう。

 

 過去4か月の間に、アメリカのフェルミとシラード、またフランスのジョリオの研究によって、大量のウランによる核連鎖反応が有望なものとなってきました。 このことによって、極めて強い力と、ラジウムに似た大量の新元素とが生成されるでしょう。 これが近い将来に成し遂げられるのは、現在、ほとんど確実なことであると思われます。
 またこの新たな現象は爆弾、それも、あまり確かとは言えないのですが、考えられることとしては極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかもしれません。 船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体はおろかその周囲の領域をも非常に広く破壊するかもしれません。 ですが、また、こうした爆弾は航空機で運ぶにはあまりに重過ぎることが判るかもしれません。
 …(中略)…
 私の知るところでは、実際ドイツは、ドイツが接収したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を停止しています。 こうした、いち早い行動をドイツが取ったことは、おそらくはドイツ政府の外務次官フォン・ヴァイツゼッカーの子息が、現在ウランに関するアメリカの研究のいくつかを追試しようとしているベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していることを根拠として理解できるでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99

 

…とあるように、「爆弾ひとつで、港全体はおろかその周囲の領域をも非常に広く破壊する」可能性として示された巨大な破壊力を持つ「新型の爆弾の製造」が、ルーズベルト大統領に提案されていたわけである。ナチスの原爆開発・保有の可能性が指摘され、その可能性への対抗措置としての提案なのであった。ナチス体制からの亡命者達の提案であったことには、その切実さを理解する上で、留意しておきたい。躊躇することなく「X線による不妊化と去勢」の人体実験を実行してしまうような体制への不安と恐怖心が生み出した提案なのである。

 
 
 
 

 原爆投下直後の日本の知識人の反応を、当時の日記から読んでみよう。

 
 

「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
     高見順 『敗戦日記〈新装版〉』 (文春文庫 1991 222頁 昭和二十年八月七日条)

 
 

〇今朝の新聞に、去る八月六日に広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だということである。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
 降伏を選ぶか、それとも死を選ぶか? とトルーマンは述べているが、原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなることであろう。
 戦争は終結だ。
 ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。
 これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
 ソ連といえども、これに対抗して早急に同様の原子爆弾の創製に成功するか、またはその防御手段を発見し得ざる限り、対米発言力は急速に低下し、究極に於いて日本と同じ地位まで転落するであろう。
 原子爆弾の成功は、かくしてすべてを決定し、その影響は絶対である。
 各国共に、早くからその完成を夢見て、狂奔、競争をやってきたのだが、遂にアメリカが第一着となったわけだ。
 日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科博士の心境如何? またわが科学陣の感慨如何?
     『海野十三敗戦日記』 (中公文庫 2005 120~121頁 昭和二十年八月十日条)

 
 

 それぞれに破壊力の大きさについては語られているが、放射線被害の問題にはまだ目が向けられていないわけである。

 
 
 

 そして話は「戦後」へと続く。
 
 

〇広島の原子爆弾の惨害は、日と共に拡大、深刻となる模様である。その日は別に何でもなかった人が、何でもないままに東京に戻って来た。するとだんだん具合がわるくなり、食事がのどにとおらぬことから始まって変になり、医師にかかった。医師がしらべてみると白血球が十分の一位に減り、赤血球は三分の二に減じていた。そのうちに毛髪がぬけ始め、背中にあったちょっとした傷が急に悪化し、そして十九日目に死んでしまった。解剖してみると、造血臓器がたいへん荒されており、骨髄、膵臓、腎臓などがいけなかった。これは放射性物質による害そのものであり、原子爆弾は単に爆風と火傷のみならず、放射物質による害も加えるものであることが証明された。
 これは東大都築外科の都築博士が、丸山定男一座の女優、仲さんを手当てしての結果である。
 なお博士は二十年前、アメリカのレントゲン学会で、これに関した報告を出したことがある。レントゲンをウサギに三時間かけると全部死ぬ。二時間かけると、二週間後までに九割死ぬというのである。米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤ったが、今日原子爆弾によってその研究報告の値打ちが燐然と光を増したわけである。
     『海野十三敗戦日記』 (中公文庫 2005 130~131頁 昭和二十年八月二十九日条)

 

…と海野十三は、「終戦」後まだ間もない日の日記に書き残している。「これは放射性物質による害そのものであり、原子爆弾は単に爆風と火傷のみならず、放射物質による害も加えるものであることが証明された」と。

 ここに「丸山定男一座」とあるのは、「桜隊(櫻隊)」として知られることになる劇団であった。『ウィキペディア』を引くと、

 

前身は、薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足により結成された苦楽座。旗揚げ公演以降、各地での巡回公演に取り組む。苦楽座解散後、桜隊として、日本移動演劇連盟に組み込まれ、地方への慰問巡演活動をはじめる。劇団の地方疎開に際して、広島に15人が疎開。中国地方の慰問公演を受け持つ。原爆投下により、広島市内の宿舎兼事務所にいた丸山定夫ら9人は8月下旬までに全員死亡した。応召、出産など様々な理由で広島への疎開に不参加または広島を離れていたメンバーが難を逃れた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%9A%8A

 

…とある。桜隊の被爆については、

 

1945年8月6日、広島市堀川町99番地の宿舎兼事務所にいた9人のうち、俳優の森下彰子、羽原京子、島本つや子、裏方の笠絅子、小室喜代の5人は即死。
1945年8月16日、丸山定夫は厳島の存光寺で死去。園井恵子と舞台監督の高山象三は、園井の神戸市の知り合いの家に助けを求めたが、高山象三が8月20日、園井恵子は8月21日に死亡。仲みどりは、東京の実家に戻り、8月16日に東京帝国大学付属病院に入院、都築正男教授による手厚い治療を受けるが、8月24日死亡。
1952年、徳川夢声が東京・目黒の五百羅漢寺に石碑を建立。

 

…と記されている。

 都築博士のレントゲン学会報告に対し、「米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤った」のは桜隊の被爆から20年前(つまり1920年代ということになるだろう)のことだったが、米人の手により開発製造された原子爆弾が、米人の軍隊により広島で(3日後には長崎で)使用され、広島や長崎の市民の身の上に「そんな場合」が現実化したことになる。

 冒頭にご紹介した『Nature』記事には、「1世紀以上前に放射能が発見されて以来、放射線の危険性に関する研究はずっと続けられてきたし、50年以上も前から、かなり突っ込んだ研究が行われるようになっている」と書いてあったわけだが、そこには広島と長崎が原子爆弾による被爆の対象となり、大規模で広範囲な高線量放射線被曝が現実のものとなった歴史の反映を見出さねばならない。

 放射線被曝と健康障害の因果関連についての人類の知見は、ヒロシマ・ナガサキ以後、一挙に拡大したわけである。そこには大量の被爆者が存在し、被爆者の犠牲の上に人類は被曝に関する大量のデータを手に入れることになったわけなのである。

 定量的・定性的な「因果関係」の確認には事例の積み重ねが必要であり、被曝と発症の「因果関係」の把握を抜きにしては、有効な「対処法」を見出すことも出来ない。高線量放射線被曝と様々な健康障害の因果関連が人類の知見に加わった背後には、人類がヒロシマ・ナガサキを経験したという歴史上の事実があることは否定出来ないのだ。もちろんそれは、原爆の犠牲となった広島市民と長崎市民にとって、何の慰めにもならない「事実」である。

 

 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/05/23 17:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/163600/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »