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2011年4月28日 (木)

電化の暮らし(昭和23年の窮鼠発電)

 

 今週は、幸運にも(?)、「計画停電」の対象となることなく過ごすことが出来た。

 

 しかし、21世紀になって、落雷でもないのに「停電」に見舞われるとは思いもよらぬことではあった。原発二つの事故が、ここまで電力供給に影響するなんてことを想像することもなく、20世紀以来の日々を過ごしていたわけである。

 停電により家庭生活も不便となったが、何より、電車での通勤・通学という生活スタイルへの打撃が大きい(に違いない)。私に限っていえば、現在では仕事場が市内なので通勤電車に乗る必要はないが、かつての日々を思えば、その大変さは想像がつく。娘も12日から春休み(幸運なことに学期最終日、地元駅に着いてからの地震で、帰宅難民化も免れた)なので、新学期が始まるまでは電車通学からは離れているから、わがパートナー(こちらは出先で地震に遭い電車不通となったが、幸運にもタクシーで帰宅)以外は、まだのんびりムードが続いている。

 

 もっとも、生活が電力消費に依存するようになったのは20世紀になっての話で、かつては電灯さえなかったのだ。

 しかし、そのエジソン氏の発明は世界を変えた。

 

 夜が暗闇ではなくなったのだ。

 

 もっとも、戦時中は灯火管制による暗闇が日本を覆ったし、戦後も停電の日々が続いていたことは、今、思い出しておく価値があることかも知れない。

 

 

 手元にある『昭和二万日の全記録 8 占領下の民主主義』(講談社 1989)は、昭和22年から昭和24年までの出来事を追ったものだが、書中に「線香送電」という当時の用語が紹介されている。

 

線香送電

電力事情はなかなか改善されず、庶民は度重なる停電にいちいち驚いてはいられなかった。少しは明るいろうそくならまだしも、これではまるで、「線香なみの送電」だと、庶民はすでにあきらめの境地にあった。

 

…と、昭和23年3月のエピソード中に記されている。同じページには、当時の物価も示されており、

 

外食券食堂料金=A定食5円50銭、B定食11円 ビール1本=124円 鶏卵1個=16円 あひる(ひな)1匹=180~300円

 

…などと書かれている。現在、あひるの価格はいくらなのだろうか? 他の項目は現在でも比較可能だが、あひるは…

 

 

 前年の3月22日の記事には、

 

関東配電では、二十日から二十一日にかけての降雨で発電の見通しがつき、この日から電力制限を解除。

 

…などとあるし、

石油ランプ

度重なる停電のため、暗い夜を過ごさねばならなかった二十二年ごろ、石油ランプが復活した。わが国に石油ランプが輸入されたのは江戸時代末期のこと。明治三十年代に全盛を迎えたが、その後はガス灯や電灯により駆逐され、忘れられた存在であった。不自由な生活だったが、石油ランプにノスタルジアを感じる都会人も多かった。

電球あんか

戦災で多くが消失した電気あんかに代わって、木箱に二〇㍗程度の電球一個を入れただけの手製のあんかが家庭で使われた。電熱器の使用は、電力事情の悪化により制限されていたが、二二年一二月二二日から緩和され、午後八時から午前六時までの使用が認められた。

 

…などという話も、昭和22年のことである。

 

 一度味わってしまった「電化の暮らし」は、停電を実に不便な状況と感じさせるようになっていたことであろう。現在から比べれば、当時の生活における電力への依存度など微々たるものに違いなのだが、戦後なお続く停電は、人々の不満の種となっていったわけである。

 

 

 斎藤智久の『智久日録』(幽玄閣  昭和31年)にある、そんな日々の中でのエピソードを紹介しておこう。

 

 昭和20年1月27日の空襲で小石川の自宅を焼かれた後は、群馬県奥野村の疎開先で過ごしており、昭和22年当時もまだ奥野村に滞在中であった。あの陸軍冬期戦研究所のあった村である。

 陸軍研究所時代の所長であった清水七郎(元)大佐も、まだ研究所内に住んでおり、彼の人脈に連なる陸軍関係の研究者も(かつての冬期戦研究所に)集っていたらしい。

 電力供給に不安のある時代である。研究所関係者の間で、発電装置の発明が、当時の時流に乗るものとして歓迎されるとの確信が持たれていたとしても不思議はない。

 物理系の研究者はもちろんであるが、冬期戦研究所時代からの生物学系の研究者も、その一翼を担おうとしていた(らしい)。

 

 その構想を、斎藤智久は「窮鼠発電」と呼んで、その『日録』に書き残している。

 要するに、ハツカネズミ(現在ならハムスターか?)の回すネズミ車(陸軍関係者らしく「鼠力車=そりきしゃ」という名称であった)を発電の動力としようというプランであったらしい。

 斎藤智久自身は、その研究には懐疑的であったようである(註:1)。当時にありながら食糧調達ルートを確保していた清水七郎のコネを利用し、そのおこぼれに預かろうという魂胆(食糧難の時代でもあった)ではないかと、その生物学研究者を評している(ただし、両者の仲は大変に良かったことを、他の記述から知ることも出来る)。

 

 

 もっとも文革期の中国でも、自転車を利用した人力発電の画期的な試みを喧伝した村(揚文 『発電英雄』 中友出版 1971)もあったようで(註:2)、人間の考えることにそれほどの違いはないのかも知れない。

 

 

 

 既に現在の中国でも、「電化の暮らし」の恩恵からの脱却は困難になっているに違いない。原子力発電に比べれば、人力発電こそは究極のエコということになるだろうけれど、実現へのハードルは高いのである。まずはネズミ発電の実現から本気で取り組むべきであろうか?

 

 

 

【註:1】
 …「鼠力車」とは如何にも大層な名称なれども、所詮は鼠一匹の力なり。大山は鳴動すれども豆電球の明りすら危ふし。
 百匹の鼠を集ればとは言ふが電気コンロで餅焼くことすら適はざるべし。百万匹の鼠ならば如何と問はれれば百万匹の鼠の糞を思へと答ふべし。
          (『智久日録』 219頁)

【註:2】
 人民の力を結集することが重要なのです。毛沢東思想を堅持した革命的な人民による発電は、言うまでもないことですが資本主義や修正主義の発電所に打ち勝つのです。人民の力強い意志と革命的な努力が人民の上に明かりを点し、偉大な革命は光の輝きの中にますます前進するのです。
 私たちの村では発電公社を設立し、そこではすべての村人が発電の戦士となり、革命のための電力を勝ち取ろうとしているのです。資本主義者達や修正主義者達が反動的で反革命的な水力発電所や火力発電所に頼るところを、偉大な毛主席の指導の下で、私たち革命的自民は自らの力を発揮し、自力更生に務め、革命的に実践し、自らの発電所を打ち立てることができるのです。私たちは「人海発電所」と呼ぶことを提案しました。現在は、党中央の指導を待っているところです。
          『発電英雄』 128頁 (発電小組代表談)

 

 

 

 

【ホントの註】 本年のエイプリル・フール用のネタでございます(オリジナルの「freeml」の記事は4月1日に掲載)。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/04/01 18:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/161396/

 

 

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