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2011年3月24日 (木)

わたしはここにいる 広瀬美紀写真展

 

 新宿のニコンサロンで開催されていた、広瀬美紀写真展「わたしはここにいる requiem 東京大空襲」を観に出かけたのは春分の日、写真展の最終日でもあった。

 

 

 3月11日の東北関東大震災、そして原発事故の渦中の外出である。東京電力による「計画停電」が実施される日々であり、利用したJR中央線も暖房は切られていた(アナウンスがあってはじめて気付いたことではあるが)。春分の日というのに、寒い雨模様の一日。

 

 

 

 会場内に並んでいるのはモノクロプリント(木製フレームに収められた、多分、四つ切サイズのプリント)。そして被写体の多くは、公園やグラウンド。都内の何の変哲もない公園だったりグラウンドだったりの光景。それも現在の光景だ。

 キャプションを読むことで、どのような公園、どのようなグラウンドを写真家が目の前にしていたのかがわかる。

 たとえば、DMにも用いられていた写真は、「仮埋葬地#41 埋葬体数504」というタイトル。滑り台などの遊具のある公園には504体の東京大空襲犠牲者の遺体が「仮埋葬」されていたのだ。

 現在の、21世紀の、ありふれた都内の公園やグラウンドの光景と、昭和20年3月10日の情景が重なる瞬間だ。10万人の死者が出た「大空襲」の情景。

 死者は埋葬されねばならない。死者の多くは「身元不明」である。家族が全滅、ご近所一帯が全滅という「大空襲」の様相が、「身元不明」の死者の背景である。死者が誰であるかを確認出来る人間も死者の一員なのである。

 「身元不明」であっても死者は埋葬されねばならない。

 

 

 

 以前に書いた文章、「東京大空襲」とは関係なく書いた文章を、ここに再録しておこう。

 

 

  ホロコーストの歴史に立ち向かう時、あの絶滅収容所の効率的な殺害システムが、その当初、抱えていた欠陥を知ることになるだろう。
  当初ドイツ人たちは、確かに効率的な殺害には成功したが、死体処理システムの設計を怠っていたために、大いに不愉快な状況に直面させられることとなった。もちろん、効率的な大量殺害自体が大いに不愉快な事態なのであるが、それは絶滅収容所の運用に関与していたドイツ人達からすれば無意味でセンチメンタルな感情であったに過ぎない(彼らからすれば、ということだが)。
  彼らが直面させられたのは、処理されないままに積み上げられた大量の死体が生み出す現実なのであった。
  耐え難い悪臭を放ちながら腐乱していく死体(の山)。
  もちろん、有能で勤勉なドイツ人達は腐乱死体の山を座視し続けることはなく、焼却処理のシステムを組み上げることにより、その問題に対処していくことになる。
 
  ナチズムに忠誠を誓ったドイツ人達にとって、効率的に殺害されたユダヤ人の死体の処理は、糞いまいましい問題であったに違いない。
 
  話を戻すが、神が聖なるイメージを負わされる存在であるのと同様に(とまでは言い切れないような気もするが)、生きている人間にも聖性を感じさせられる瞬間がある。特に死体との対比において、生きている人間は、穢れとしてイメージされる死体に対し、聖性を帯びた存在として立ち現れることになる。
  しかし同時に、死体とは、生きた世俗を離れた存在なのである。穢れだからこそ触れてはならぬ存在であると同時に、毀損してはならぬ聖性を帯びた存在としても立ち現れるのである。
 
  絶滅収容所の運営に当たっていたナチズムに忠実なドイツ人にとっては、そもそも死体にされるべきユダヤ人は、下等人種であり、軽蔑され排除されるべき既に汚れた存在なのであった。
  しかし、死体となったユダヤ人達は、優越なるドイツ人の死体と同様に腐敗し、その処理を迫る存在となって彼らの前に山を築いたのである。腐乱することにおいて、人種の相違など吹き飛んでしまっているのだ。積み上げられた死体の腐敗する臭気の中に、人種主義の愚劣さが露呈する瞬間であった。死体となった汚れたユダヤ人が、聖なる悪臭を放ち、人種主義者を覆い尽すのだ。

 

 

…という文章を書いた自分を思い出しながら、モノクロプリントの公園やグラウンドの静かな光景に向き合っていた。かつての私は、その翌日、この文章を、

 

 

  幸いなことだと思うが、私には、人間の死体の臭い、死臭の中で暮らした経験もない。

  ……

  幸いにも、これまで、周囲が戦場となることもなく、大地震・大災害に見舞われるという経験もない。処理されない死体と共に暮らさねばならぬ状況とは無縁に過ごすことが出来ている。
 
  昨日は、ナチスの絶滅収容所における死体処理システム構築を話題として取り上げた。
  大きな穴を掘り、トラックの車台を組み合わせた上に死体を積み上げ、順次焼却することで、絶滅収容所の運営者は問題を解決したわけだが、焼却処理の対象は既に腐敗が進んだ死体なのである。悪臭の中での作業となったことは確かだ。
 
  そこで思い出したのは、1945年夏のベルリンの情景である。ベルリンフィル関係者の日記中のエピソードとして読んだ記憶があるが、5月のナチスドイツ降伏に至る市街戦の死者の埋め直し作業の情景が、臭気と共に描かれていたのである。
  作業には、かつてのナチ党員が狩り出され、炎天下のベルリンで、簡易埋葬されていた市街戦の死者の死体を掘り出し、埋め直すのである。読み進めながら、その腐乱死体の臭気を強調する、夏のベルリンという条件を思ったものだ。
 
  大日本帝國の降伏は、まさに真夏の出来事であった。
  そこにも臭気との闘いがあったはずである。
  文書記録にも、画像・映像にも、臭気は記録されない。しかし、大量の死者の存在は、嗅覚上の出来事としても経験されていたはずなのである。

 

 

…と続けたものだ。

 「仮埋葬」であったということは、いつか遺体は掘り返され正式に葬られることになる。写真のキャプションには、遺体の掘り起こし時の証言の添えられたものがあった。「臭い」の話、そして作業に狩り出された「囚人」の話。ベルリンの夏の情景と重なるだろう(註:1)。

 文章は三日目に続く。

 

 

  人の死は、腐敗へのスタートであり、そこから先は生ゴミの腐敗過程と同様の変化が、かつて生きていた身体を襲うのである。
 
  現代日本では、通常、人はそれぞれに死を迎えるのであり、死体と化した身体は、それぞれに相応の取り扱いを受けることになる。病院で迎える死であれば、自身の身体が腐乱状態に至る以前に適切に処理されることは、ほぼ確実であろう。
  個別の死には、個別の対応が可能なのである。
 
  一昨日以来の話題に戻れば、絶滅収容所での効率的な大量殺害は、事前に効率的な死体処理システムを構築しなかったことにより、適切に処理されない死体の山として結実したわけである。腐敗を続ける死体の山、なのである。
  そこにあるのは個別の死ではなく、効率的な大量殺害であった。
  しかしやがて、絶滅収容所の運営スタッフは、効率的な焼却システムを導入することにより、効率的な大量殺害に対し、効率的な死体焼却で対応することになる。そこには、個別の死は存在せず、個別の葬送も存在しない。
  人は統計上の数字として殺され、死体は統計上の数字として処理されるのである。
 
  腐敗する生ゴミ状態の死体が発するのは、その存在を主張するのは、臭気という形式のメッセージであろう。
  死体の存在が目には見えなくとも、肉塊の腐敗過程は、不快な臭気としてその存在(死んだ肉体の存在)を主張するのである。見ないふりは出来ないのだ。
  目を閉ざしても、臭気が、容赦なく襲うのである。
 
  絶滅収容所の設立に関与した優秀なナチス党員達は、不愉快な臭気に覆われるという事態として死体処理システムの事前設計を怠ったことの不用意さを味わった後は、すべてを一連の処理過程として構築することで対処することが出来た。
  なぜならば、効率的な大量殺害と、効率的な大量の死体処理は、計画的に運営すべき日常業務として、彼らの課題となっていたからである。
 
  戦場において、そして地震等の大規模災害現場において、人が直面させられるのは、計画的処理が成立しない状況である。死者数は予測出来ず、死者の所在確認も容易ではない。事前に組み上げられるからこそ「計画」なのであって、出来ることは現状への対応、事後対応だけなのである。
  その中で人は死に、その肉体は腐敗し始める。

 

 

…その翌日の文章は、

 

  正確に言えば、昭和二十年の夏には、既に沖縄の戦闘は終了し、大都市に対する米軍の空襲も一巡し、「外地」は別として、処理能力を超えた大量の死者が本土の人々を悩ませる段階は過ぎていた。

  しかし、より正確に言えば、昭和二十年の夏の空の下、広島と長崎の人々は、原子爆弾投下後の惨状の中に日々を送っていたのである。

 

…と続き、昭和20年夏の広島の情景の詳細が、当時の記録から引用されていた(あまりに長くなるので、本文には「再録」しないが「註:2」として加えておいた)。

 かつて東京大空襲の犠牲者の仮埋葬地であった場所の写真を目の前にして、そんなことを考え書いていたかつての自分がよみがえる。

 そして、昨夜のニュースでは、東北関東大震災の犠牲者の仮埋葬が始まったことが伝えられていた。

 

 

 「臭い」の話に戻れば、「東京大空襲」は焼夷弾の大量集中投下による大火災に特徴付けられる歴史的経験でもある。焼き尽くされた東京。つまり、そこには焼跡の臭いもある。

 個人的経験だが、自宅の数百メートル先で放火事件があり、二棟ほどが全焼した。焼け落ち炭化した宅地の前を通る度に、しばらくの間、焼跡特有の臭いを嗅いだものだ。大空襲で焼けたのは二棟ではなく、街そのものであった。焼け焦げた臭いが世界を覆っていたのだ。

 21世紀の、かつての仮埋葬地の写真である。言うまでもないが、写真には臭いはない。しかし、私の内部では、かつて嗅いだ焼跡の臭いがよみがえる。

 

 

 

 ここでは、普段あまり意識しない形での、写真の持つ力が体験されていたのだ。

 写真の画像そのものの後ろに、観る者の想像力に伴われた様々な経験が嗅覚にまで及ぶ喚起力と共に拡がるのである。

 

 繰り返すと、会場に並べられたモノクロ写真は、ありふれた・何の変哲もない都内の公園やグラウンドを撮影したものである。技巧を凝らすというわけでもなく、真っ直ぐに撮られた写真だ。

 タイトル、キャプションを読むことで、21世紀のありふれた・何の変哲もない公園やグラウンドが、1945年3月10日の夜とその後の仮埋葬作業、そして遺体の掘り出し作業の情景を背負ったものであることが理解される。ありふれた・何の変哲もない光景の背後に、思いもよらない世界の経験・意味が隠されていたことに気付くわけである。

 画像として写されているわけではないが、そのモノクロプリントの背後にある人間の経験、つまり土地の歴史が、観る者の前に立ち上がるのだ。画像自体が語っているわけではないが、モノクロプリントを前にした者の内部で、歴史が語りだすのだ。

 かつて目にした、平野正樹によるサラエボの美的な弾痕や東チモールの美しい焼跡の画像。米田知子の撮影したノルマンディーの海岸やサイパンの小道の静かな光景。そんなものを思い出したりもする。その画像の撮影地のかつての情景、土地としての歴史(つまり人間の経験)が、キャプションを介して観る側のものとなり、目の前の画像がまったく異なる様相を持って迫ってくることになる。

 

 同時に、東京の何の変哲もない街角が、様々な歴史的経験を背後に持っている事実にも気付かされるだろう。今歩いている道路脇には、焼け焦げた死体の山があったのかも知れないのだ。

 写真を見た経験が、写真展会場の外に拡がる東京の現実世界の見え方まで変化させることになる。

 

 

 

 会場内にいらした広瀬美紀さんとは短い会話を交わすことが出来たのだが、ここでは次のエピソードを書き残しておきたい。

 

 陽のあたらない土の上にある縦長のレンガ造り鉄扉付きの焼却炉(?)が、画面中央に写されている。そんな一枚についての話。

 これまでに書いたように、ナチスの絶滅収容所の死体処理の情景を重ね合わせながら会場内の写真を観ていた私の前に、収容所施設に組み込まれた死体焼却炉を連想させる画像が出現したのである。そんな絶滅収容所施設の話をした上で、写されていたのが実際に焼却炉なのかどうかを広瀬さんに伺ってみたわけだ。

 写されていたのは、確かに焼却炉であった。そこはお寺の境内で、大空襲後の仮埋葬地として提供された場所だったのである。

 戦後、仮埋葬された遺体を掘り出した後に、ご住職が焼却炉を据え置くことで他の形での土地利用を防止し、いわば仮埋葬地としての土地の保存を意図したものであったらしい。焼却炉は使用するためのものではなく、仮埋葬の歴史を保存するためのものであったということらしいのであった。

 

 

 

 

 会場を後にした私は、停電におびえる震災後の東京(註:3)に、照明により無駄に明るかったかつての世界とは異なる暗い街並みの中に歩みを進めながら、目の前の新宿の光景と絶滅収容所施設と原発施設と大空襲後の東京と被災地の惨状とが重なる歴史的瞬間を味わうことを迫られていた。都内のありふれた公園やグラウンドのモノクロ写真を観てしまったことによって(註:4)。

 

 

 

【註:1】
 会田雄次の『アーロン収容所』の中でも有名な「イラワジ河の鉄道隊」をめぐるエピソードも、仮埋葬された「棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事」に従事させられた、英軍の管理下にある日本兵の身の上に起きた話であった。

  二十一年の初秋ごろだったか、雨季あけの心地よい季節であるのに、私たちの隊は特に憂鬱だった。じつに嫌な仕事が廻ってきたのである。兵隊たちの言葉でいえば隠亡(おんぼ)作業、つまり英軍墓地の整理である。
  終戦前後からそのころまで続々戦傷戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。それが不規則で乱雑だったので、整頓することになったのであろう。
  私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事である。…
  …
  ほとんどの死体は腐乱最中である。…

 会田雄次 『アーロン収容所』を読む 1 (イラワジ河の鉄道隊)
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-1b2e.html

 私たちの意識に上ることは少ないが、戦争とは死者を「仮墓地に応急的に埋葬」するしかない状況を生み出すものであり、戦後とは「棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事」から始まるものなのである。

【註:2】
 本文からは外した「昭和20年夏の広島の情景の詳細」を、「註」の形でここに「再録」しておきたい。

 今回の東北関東大震災の報道に接して、何より強烈なイメージとして迫ってきたのは、あの空前の大津波に襲われ、地上から拭い去られた街並みの姿であった。
 被爆後の、なぎ倒され焼き尽くされた広島の空からの光景と、大津波に襲われ洗い流されたような東北の街並みの空撮画像が、私の中では重なって感じられたのである。コンクリートの頑丈な建物を残して、他のすべてが消えた地上の姿を俯瞰する映像には、ただただ圧倒されていた。

 同時に、その地上に残されていたのは、原爆の被爆者であり、やがて原発の被曝者となる(かも知れぬ)人々なのである。

 このダブルイメージを、あらためて自分の中に確認したがゆえの「再録」行為である。

 

   その日
  いちめん蓮の葉が馬蹄形に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
  足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の片付に出ていた女学校の下級生だが、顔から全身にかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、包帯などのために汚穢な変貌をしてもの乞いの老婆の姿のよう。

   五日目
  手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
  足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔で蠢き、傷にたかる蠅を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面のような表情が見おくっている。

   八日目
  がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空き地に積み上げた死屍からの煙があがる。

  柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
  無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
  K婦人も死んだ。
  -収容者なし、死亡者誰々-
  門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
  むしりとられた蓮の花辺が、敷石の上に白く散っている。
 
 峠三吉の「倉庫の記録」にある描写である(ただし直接の引用ではなく、『原爆を見た建物』 西田書店 2006 による)。
 
 これが、昭和二十年の夏、広島の人々の前に展開した世界の情景であった。
 
 『原爆を見た建物』(山下和也 井出三千男 叶真幹 の共著書である)は、被爆後も残された建築物をめぐる調査記録であるが、ここで同書中にある被爆後の広島の情景を少し引用しておこう。
 
   広島逓信病院
  当日に収容された重傷者は250人に達した。しかし激しい下痢・吐血などが出始め、被爆後3日でほとんどの重傷者は死亡した。それが放射線によるものだと分かったのは、顕微鏡の到着で白血球の減少を知り、解剖によって症状を確認する3週間後のことであった。
  全壊全焼した爆心地からおよそ2キロメートル以内で残った医療施設は、この逓信病院と日赤だけであり、救護と医療面で果たした役割は大きい。自らも負傷しながら、救護に当たった蜂谷道彦医師が綴った「ヒロシマ日記」は、世界中で翻訳され、大きな反響を浴びた。

   陸軍船舶練習部 (現・マツダ宇品工場)
  原爆によりガラスが割れるなどしたものの、被害は比較的軽微であった。構内の負傷者の手当てや整理復旧を急いでいた午前9時過ぎには、負傷した市民が避難し、重傷者は運ばれ、翌7日の朝には3千から4千人の患者で埋め尽くされた。
  9日にはこの建物内に臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)が設置され、延べ6千人が収容されたが、その中には外傷を負っていない死亡者も多数みられた。
  この間、8日には理化学研究所の仁科芳雄博士らが到着し、ここで無傷遺体の解剖が行われ、これら死体には放射線の影響が認められ、投下されたのは原子爆弾であることが確認されたのである。

   広島陸軍被服支廠
  原爆によって、3キロメートル近く離れているこの建物も、鉄扉が湾曲するほどの被害を受けたが、火災は発生せず、直後から臨時救護所となり、多くの被爆者は医薬品も少なく、食糧もなく、汚穢にまみれ、死臭を発しながらここで息を引き取った。その凄惨な地獄の様子を詩人・峠三吉は詩「倉庫の記録」に生々しく描写している。
 
…これが峠三吉の見た光景であり、広島市民の前に展開した世界の情景であった。
 
 既に私たちには、この世界を視覚的光景としてのみではなく、様々な臭いに包まれた情景として理解する準備が出来ているはずだ。
 
 
…と、かつての私は書いたのだが、新宿の写真展会場で、空襲で焦土と化した東京の空撮映像までをイメージしながら、あの夏の広島と現在只今の被災地に思いを馳せていたのである。

【註:3】
 大岡昇平は、『俘虜記』に収められた「八月十日」と題された文章(昭和20年8月10日、つまり原爆投下直後にして「終戦」直前の、大岡が囚われていたフィリピンの捕虜収容所でのエピソードである)に、
 
 十万以上の人命が一挙に失われ、なお恐らく同数が、徐々に死なねばならぬ惨禍は空前である。しかしよく考えてみれば、程度の差こそあれ、最初に大砲の殺戮力を見た中世人も同様に感じたであろう。さらに遡れば最初矢によって貫かれ、あるいは鉄刀によって切り裂かれた隣人を見た原始人も、同じに感じはしなかったであろうか。すべて新しい惨状は第三者に衝撃を与えずにはおかないが、しかし死ぬ当人にしてみれば五十歩百歩ではあるまいか。
 レマルクは砲弾によって頭を飛ばされ、首から血を噴きながら三歩歩いた人間を物珍し気に描き、メイラーもまた首なし死体を克明に写しているが、こういう戦場の光景を凄惨と感じるのは観者の眼の感傷である。戦争の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
 しかもその人間は多く戦時或いは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しくいえば、すべて身から出た錆なのである。
 広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。
          (新潮文庫 308~309頁)
 
…と書いていた。
 
  こういう戦場の光景を凄惨と感じるのは観者の眼の感傷である。
  戦争の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
 
…という一文それだけを取上げるのと、それに続く、
 
  しかもその人間は多く戦時或いは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しくいえば、すべて身から出た錆なのである。
  広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。
 
…という文章と一体のものとして読むのでは、若干、意味に違いが生まれる。

 前者のみであれば、大規模自然災害の死者も含まれ得る。大地震や大津波の死者、つまり今回の東北関東大震災の死者も含まれ得るだろう。そこに生まれるのは、
 
  地震であれ津波であれ大規模自然災害の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
 
…という認識である。起こり得る地震規模や津波の規模を想定した防災計画を策定し、防災訓練を重ねて来た人々の死の悲惨は、それが圧死であろうが焼死であろうが溺死であろうが、確かに「人間が不本意ながら死なねばならぬという一事に尽き」る。しかし、そのような自然災害の死者の悲惨を後者の文意と一体化させることは出来ない。

 後者に連なるのは「大震災」そのものによる死ではなく、原発事故による死(の可能性)である。

 今になって放射能汚染におびえる都会人こそは、
 
  しかもその人間は多く原子力発電所が供給する電力とその存在から、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しくいえば、すべて身から出た錆なのである。
 
…と言われるしかない存在なのだ。福島県民にもまた、原発の存在に利益を見出していたからこそ、その存在を容認していた側面があることは否定出来ないが、それ以上に快適な都会生活維持の被害者である側面も否定出来ない。

 都会の浄水施設に降る放射能におびえる都会人の姿は、まさに「身から出た錆」なのである。

【註:4】
 戦争であれ、災害であれ、20世紀以前には、絵画のみが視覚的な記録手段であった。それは画家という専門職の仕事であった。
 20世紀になると、戦争や災害の視覚的記録の作成は、写真や映画に担われることになる。
 初期には撮影機材は大型であり重いものであった。操作にも熟練を要し、記録作成は、専門職としてのカメラマンの仕事だったわけである。
 やがて機材は小型化され、様々な操作も自動化されはしたが、20世紀の戦争や災害の視覚的記録の多くは、依然として専門職としての写真家に担われ続けた。
 
 21世紀になって、その様相は一変した。携帯電話の登場に続き、撮影機能が追加される。
 結果として、専門職ではない一般市民が、戦争や災害の現場から瞬時に画像を、それも世界に向けて発信することが可能になってしまったのである。専門職の独占が失われると共に、かつてはフィルムの現像からメディアへの印刷あるいは映画館での公開という、撮影時から公開時までの時間差が存在したが、今はすべてが瞬時に行なわれ、現場とモニター画面の前に時間差は存在しない。
 今回の大震災の津波についても、その圧倒的な力を示す映像の多くが一般市民により撮影された事実がある。20世紀における視覚的記録のあり方からは、短い期間で大きな変貌を遂げているのだ。
 
 
 ここで、広瀬美紀の撮影した何の変哲もない都内の公園やグラウンドの画像と共に、本文中で取上げた平野正樹や米田知子の写真の意味がクローズアップされるのかも知れない。
 そこでは戦争や災害の現場そのものではなく、かつて戦争にかかわった土地が、彼らの「作品」として撮影され、私たちの前に提供されているのである。そこでは、その土地に対する写真家の視線のあり方が視覚的に記録され、作品としての写真を前にした者に共有されることになるわけだ。
 写真家であることの意味、写真家の仕事の意味もまた変容していることを示しているように思われる。

 

 

 

〔付記〕
 東京大空襲の経験そのものを取扱った記事として、

 「生き残るということの意味」
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-c9f0.html

…がある。併せ読んでいただけると、より立体的に「かつて起きたこと」が理解出来るものと思う。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/03/23 20:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/160777/
 投稿日時 : 2011/03/24 18:13 → http://www.freeml.com/bl/316274/160852/
 

 

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