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2011年1月

2011年1月31日 (月)

卒展攻略(MAUDS2010) 杉田GENPAKUって誰だ?

 

 ムサビの卒展(武蔵野美術大学 平成22年度卒業・修了制作展 Musashino Art University Degree Show 2010)のお話(一週間前の話だ)。

 四日間の全日程を通いつめたのだったが、観ていない展示は数多い(ダミニスト・モードで、出かけるのが午後になってからだったりしたし)。

 

 

 で、卒展堪能ルートをオーザッパに振り返ると、

 一日目は2号館の絵画彫刻、つまりファインアート系。

 二日目は、8号館で建築と工芸工業デザイン。

 三日目は、10号館の視覚伝達デザインと12号館の映像。

 四日目は、12号館の地下と9号館の地下。そして9号館の上階の芸文(芸術文化学科)エリア。

…という感じ(7号館の視デの展示のいくつかは観たが)であった。

 
 
 2号館のファイン系については、説明するのがメンドーなのでパス。

 工デや、映像の作品についても書きたいことは山のようにあるのだが、やはり、

 

   目で見たモノを言語化して表現することのメンドクサさよ!

 

…という問題はついて回る(お気に入り作品はデジカメ撮影してあるわけだが、ここにアップするのもメンドーだと思ってしまうのがダミニスト・クオリティーである)。

 で、「現代史のトラウマ」的視点からという、まったくもって極私的な関心から書き残しておきたいと思ったもののみを並べておくことにする。

 
 

 

 8号館の建築科エリアで最初に入った部屋で最初に出会ったのが、持田夏海さんの論文「正義の建築」だった。

 これが実にスバラシイ。明治に入っての近代化を、刑務所及び裁判所建築という視点から描こうとしたものだ。

 要するに、近代化=西欧化であり、明治初期の日本でも、司法に関しての近代的・西欧的法制度整備という課題だけではなく、インフラとしての近代的・西欧的な刑務所及び裁判所建築も必要とされわけだ。建築とは近代化の具体物なのである。

 それが一冊の論文ファイルと三冊の研究ファイルとしてまとめられていた。研究ファイルには、先行する西欧での刑務所・裁判所建築の事例と共に、明治以来の日本での建築事例が収録されており、見ているだけで興味は尽きない。建築という具体物からも、近代日本におけるドイツ法学の優位が理解出来るのだ。日本の裁判所建築もまた、たとえば米国流の裁判所建築ではなくドイツの裁判所建築のスタイルを踏襲しているというのであった。

 ジャズピアニストの山下洋輔氏の祖父(だったか、その兄弟だったか?)が、日本の近代刑務所建築設計に携わっていたことは知られているが、その事例が豊富に掲載されていたりするのである(ウチの親戚筋には、戦前に、その山下氏設計の千葉刑務所の刑務所長を務めていた人物がいたりするので、どこか他人事ではない世界だったりもする)。

 研究ファイルを読んで興奮しているだけで時間は過ぎてしまい(つまり、このままでは他の展示が観られなくなる←とにかく、これが最初の部屋の最初の展示物なのだ)、論文はパネル上の要約以上には読めなかったのが、実に心残りであった。

 

 建築学科は、その学科としての制約上、現物としての卒制は少なく、設計図と模型という組み合わせが主流となっているわけだが、その最初の部屋の展示で面白かったのが、「Arc Wisdom」と題された、(多分)遠藤洋佑さんの作品だった。

 中央部(前後方向の)で二つ割にされた、でかい空母の模型なのだ。パネル上には、

時代と共に使用されず、罪が蓄積された空母を建築的手法を用い知を集積させる大きな箱を形成し国々を繋ぐことで兵器のない世界を創造する。

…という言葉で始まる、作品コンセプトの説明等が添えられている。

 模型の甲板には飛行機もある(博物館展示として)が、内部には(まさに博物館らしく)恐竜骨格の展示などがあったりして、そもそもが移動式巨大空間(移動式巨大建築)である「空母」の換骨奪胎の試みとしての、建築家の卵にふさわしいオーブロシキ的ビジョンが気持ちよかった。

 

 建築科では他に、青木聖也さんの「中空」が面白かった。これは映像作品とも言えるが、階段状に形成されたスクリーン(額縁状の白いフレームが手前から段階的にセットされた奥が平面となっており、それぞれがスクリーンとして機能する←書くとややこしくなるが)に映写されることによって、首都高(?)を走る車内の前方に展開する光景に、フラットなスクリーンとは異なる躍動感が与えられることになる。視覚に対する、いわば建築的仕掛けが発揮する効果の面白さ、と、リクツを言っておこう。

 

 もう一つ、百野太陽さんの「おもかげ(仮)」がお気に入り。

 ある構造物を「机」と呼んでしまうと、その構造物が果たしうる機能が「机」に限定されてしまうという、言語上の性質・問題があるわけだが、彼はその問題を可視化することに成功しているように思われた。

 彼が作ったのは、二畳くらいの底面積を持つ、多面体を組み合わせた白色の構築物(腰かけられる高さの平面を含む)であった。つまり、用途不明の(←ここが重要)白い平面(水平面もあれば斜めの面もあり垂直面もあり)で構成された物体である(高いところでも、大人の胸よりは低い)。

 それを、大学の構内や街中、公園内、川の流れの中、波打ち際…といった場所に設置する(決められた数箇所を異なる時間帯に撮影したりしている)。そして周囲に引き起こされる状況を撮影する。

 上に登るヤツもいれば、座る人間もいるし、カバンを置いたり、カメラの三脚代わりに使用したり、滑り台にして遊んだり、不審物として観察されたり…と、様々なことが起きるわけだ(白ネコが日向ぼっこスペースにもしていた)。

 撮影に際して、等距離・同角度からという点が徹底されているので、画面上の物体の姿は一定である(時間や場所により影の出方が異なる以外は)。周囲だけが変化していくのだ。

 物体自体に意味があるのではなく、関与する人間が物体に意味づけをしていく(その都度、ベンチだったり、三脚だったり…あからさまな不審物だったり、と)。

 言語と人間と世界の関係性の本質的一面が、見事に可視化されているのであった。

 
 

 書き出したら長くなってしまったので、建築学科の最後にもう一つ。

 

 1号館の吹き抜け部に建築されていた「小平マンション」。村上慧さんの作品だ。

 鉄パイプを組んだ足場の上に、木材で組み上げられた小屋がある。小屋には鉄パイプの階段が設置されている。無塗装=木材むき出しの小屋だ。一見チープでシロートっぽい印象を与えるが、(実際には)ユニットで組み上がっていたりして、十分に考えられ設計されたものなのだ。

 その無造作感(オシャレじゃない感)が気に入っていたのだが、それを見た我がパートナーの評は「団結小屋」であった。言われてみれば、確かに、「そのもの」の雰囲気を醸し出してもいる。

 設計者の狙いはどこにあった(そこにあった?)のかは、気になるところであったりする。

 
 
 

 
 9号館の「芸文」エリアで、とても印象に残ったものを一つだけ挙げておく。

 

 チョ・ウンジさんの「宙ぶらリズム 中学生のためのメディアリテラシー」がそれだ。

 文庫本サイズの「作品表現」(芸文内の分類によれば)である。

 

 テーブルの上に、その「文庫本」数冊が置かれていて、来訪者が読めるようになっている。

 実は、卒展展示時間終了間際にたどり着いたもので、「文庫本」自体をきちんと読むことは出来なかった。テーブルの周囲にセッティングされていた、目次や本文からの抜粋を読んだだけである。

 
 

 しかし、その抜粋の文章が、実によく考え抜かれて書かれたものだったので、ここに再録せずにはいられない。

 

 まず、全体の構成について見ると、

 

 目次

 はじめに

 第一章  われらが生きるこの歴史とは
   僕が催涙弾を浴びた日
   書き記された歴史|正しい歴史はありえるの?
   蓋をされた記憶の主人たち―歴史のアウトサイダー
     a 在日のひとびと
     b 沖縄戦争―「生きること」、「死ぬこと」を決めたのはなぜ?
     c ユダヤ人は誰?

 コラムⅠ 僕は誰?―在日三世インタビュー

 第二章  「他者・自己/当事者・第三者」について考える
   ある「立場」 ・・在日三世との出会い
   集団記憶と個人記憶
   違う立場同士の記憶の共有 ・・連帯意識はどこからうまれるの
   記憶・感情の共有はできるの?
   イメージすること

 コラムⅡ 社会はどのように歴史を記憶するか?
   社会の記憶装置 ・・記念館のつくり方
   記念の物語 ・・歴史を象徴化すること

 第三章  歴史とメディア
   メディアとは?
   メディアは歪曲を生み出す
     a 意識の宙吊り
     b 中立・公正って何?
     c 釣られた!?
     d ニュースも間違えるの?
   メディア・リテラシー
     a リテラシー
     b マスメディア・パーソナルメディア

 小テスト

 あとがき ・・他者の痛みに連帯するために

 

…という内容の「文庫本」であったらしい。

 つまり、中学生をターゲットとした、歴史に対するリテラシーをめぐる(文庫本スタイルの)「作品表現」ということになる。

 

 78ページからの抜粋があったが、そこには、
 

 …
 そのような限界を超えて連帯したいというのが、僕がこの本を書いた動機の根底にある。

 そのためには何が必要だろうか。
 一言でいうと「イメージ」が必要だ。
 しかしながら、想像には限界があるということを僕たちは知っている。だとすれば、こんな事実さえも念頭に置いたイメージ行為を行うのだ。それは人間の限界を押しひろげて「イメージの不可能性」をイメージすることである。

 例えば沖縄の住民やアウシュヴィッツの例で言うと、その人たちの絶望感といった気持への共感不可能性をイメージすることであって、それはあえて「他者」という存在を思い描くことだ。
 自分の経験やそれによる思考範囲の外部をイメージすることは、お互いに相容れない思考や文化的・歴史的経験を持つ人同士が、解釈の限界を超えて相手の感情に連帯できる可能性へのカギを握っているのではないだろうか?
 

…と、書かれていた。

 ここには、私の言いたいこと(これまで言おうとして来たこと)が、見事に言語化されているではないか! 「現代史のトラウマ」シリーズの基底には、まさにこの思いが(認識と欲求が)、確かに、ある。

 

 別のページからの抜粋には、

  他者の痛みを知ることはできない。

  しかし、痛みほど連帯を誘うものはない。

…という言葉があった。

 ここには、私が付け加えるべき言葉はない。

 

 チョ・ウンジさんが卒業制作として「文庫本」の形に結晶させた思考の純度は高い。全文を読む時間が残されていなかったのが、実に残念であった。

 

 
 
 

 

 以下、卒展最終日、つまり四日目のエピソード。

 

 その日は家族全員参加で、午前中から出かけたのであった。バスで駅まで出て、駅からバスというのが通常ルートなのだが、駅に着いたら美大前行のバスは出たばかりで30分待ち(ショック!←せっかく早く家を出たというのにぃ)。タクシー・ルートを採用(こんなことなら最初から、つまり家からタクシーにしとけばよかった!)。

 

 到着後は、早速、あの白崎夏子センセイのブースを目指す。娘は、本日が初回(この父娘は、センセイが二年の時の芸祭展示に感動して以来のファンなのである)。

 期待を全く裏切らず、素晴らしくバカバカしいという言葉に尽きる作品群であった。実に見事に4年間我が道を行き、(あくまでもリーマン・ショックのせいで)就職が決まらない春を迎えてしまうようだが、誰もが認める(しかないだろう)才能には追従者はいない(誰にもマネ出来ないというわけだ―ヨイコノミナサンハマネヲシテハイケマセン…という問題でもあるが、やっぱ、常人・凡人・一般人にマネはムリだろう)。

 このまま世界を生き抜いて欲しい、と心から思うのであった。

 私が莫大な財産を相続してしまうような境遇にあったら、喜んでパトロンとなり、私専用のマンガ制作に励んでもらうところだが、残念ながら、そのような(つまり莫大な財産相続の)兆候はない。

 いや、ホント、残念な話だ。
(いっそのこと彼女には、一生をムサビで過ごして欲しい…と思わぬでもない私でもある←正門守衛室で飼われている姿を想像してしまう→将来はナツコの銅像が建つぞ)

 娘の母は展示されていた全作品を読破したらしいが、結局こちらは「戦国時代」と「江戸時代」篇を逃してしまった。

 展示のタイトルが「翔んでけ日本(ジャパン)」でサブタイトルが「日本史をテーマとした漫画作品」と、所属学科(とは、視覚伝達デザイン学科であるが、作品の荒っぽい造本ぶりには、4年間の学科生活の成果を感じさせるところはなく、彼女の偉大な作品を手にした者は白崎夏子センセイの才能と実力のほどを思い知るのである)の分厚いパンフには記されていたりするが、そのページには当人の、

日本人ほど自分の国の歴史に疎い連中がいましょうや?!あなたね、杉田GENPAKUが飛鳥時代の人だなんて公言したら恥かきますわよ。だからみんなで勉強しよう!!嘘か真か翔んでけJAPAN。夢か現か幻か。

…というお言葉も(そしてステキなポートレイト写真も)添えられている。

 

 自分の国の歴史に疎いネトウヨ君が、『万葉集』の「海ゆかば」は「応仁の乱」を歌ったものだ、とか、日韓併合は国連で承認されていた…などと得意気に語るのを実際に見聞した経験(「応仁の乱」が奈良時代の出来事ぉ??日韓併合時に「国連」があったぁぁぁ??)もあったりするので、白崎センセイのお言葉にも妙に説得力があったりするが、センセイの漫画にある「歴史」のお話も教科書には(まったく)載っていなかったりするというのも事実だ。

 しかし、「教科書に載っていない」というのはむしろそれが「歴史の真実」だということにネトウヨ君方面ではなっていたりするので、話はややこしいことになる(かも知れない)。

 
 
 

…まぁ、とにかく他にも観るべき作品は余りに多く、しかし時間には限りがある。

 

 てなわけで、ヘトヘトになりながらも、美大生の実力の氷山の一角を垣間見た四日間、なのであった(美大の卒展をネタにして画像ナシってのも、あまりにも…な話ではあるが、書いている当人があまりにも…な人物だということなのでございました・合掌)。

 
 
 
 

 

  

(オリジナルは、投降日時 : 2011/01/30 21:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/157135/

 

 

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2011年1月28日 (金)

支那、露西亜、そして日本の正月 (反日的初詣の一日)

 

 初詣、ということで出かけたのであった。

 

 

 受験生となる娘(現在高二)のため、というわけではまったくないが、まずは湯島の聖堂である。

 孔子の聖地(?)だ(高校時代にクラスメートとの初詣以来の訪問)。

 伊東忠太が手がけた建築と聞いた覚えがあったが、境内(?)の立て札の類には、そのような話は書かれてはいなかった。帰宅後にチェックしたところでは、やはり、震災後のコンクリート造りでの再建には関係していたようだ。

 

 そもそも、なんで湯島なのか?と言えば、娘が冬休みの課題で『カラマーゾフの兄弟』の読破に挑んでいるのだった。それならロシア正教だし、ロシア正教ならニコライ堂だ。そしてニコライ堂なら御茶ノ水だし、御茶ノ水なら湯島の聖堂もある…という連想ゲームのような選択なのであった。計画段階では湯島天神も含まれていたのだが、時間その他(この「その他」とは、「天神様よりゴハン!」と空腹を訴える、わが家族の日和見主義的要求である)の関係でカット。

 で、とにかくそんなわけで、湯島の聖堂で孔子様とのご対面なのであった。

 まぁ、ネトウヨさん的には、大嫌いな(であろう)支那の「聖人」詣でをしてしまったわけだ。

 もっとも、境内(?)には絵馬のコーナーもあったりして、(案外と)既に十分に日本化された世界なのではあった。

 

 空腹の家族とイタリアンレストランで食事をしてから(ここで「伊太利亜」も追加)、ニコライ堂へと向かう。

 門をくぐるのは、実は、生まれて始めてである(東京生まれの東京育ちではあるのだが)。

 拝観料(?)に300円を徴収されたが、パンフレットとローソクを渡された(ローソクは後で献灯)。受付にいたご婦人(白人)がすごいのだ。ロシア語(?)で喋っていたかと思ったら一瞬にして英語を喋り、次の瞬間には日本語で応対…という転換の速さに感嘆。

 案内の男性によるイコンの説明を(途中から)聞きながら、ステンドグラスを通しての外光の美しさなどを堪能する。日が暮れてからの光の状態と、イコンの画像の関係(暗い中に、ローソクの光だけで浮かび上がる)などを考えたりした。

 正教のカレンダーだの、各種パンフレットを参考のために購入。柴山正雄 『俘虜慰安日誌 日露戦争時の国内ロシア人捕虜と神父との交流』 (オフィス・アンドゥ 2010)は「現代史のトラウマ」ネタに選んだのだが、受付のご婦人に(なぜか)感心された。

…てな具合で、支那の聖人のお次も、ネトウヨさんのお嫌いな(であろう)露西亜の精神世界に浸ってしまったのである。

 

 で、お次は新宿へと向かったのであった。

 JRの各駅停車に乗ると、信濃町(ネトウヨさんの大嫌いな、あの「創価」の党本部がある)と代々木(ネトウヨさんの大嫌いな、かの日本共産党本部の最寄り駅)に、それぞれ停車するのがおかしい。もっとも、千駄ヶ谷で降りて坂を下りれば、かの(ネトウヨさんの聖地)靖國神社である。家族的には、時間があれば靖國神社にも立ち寄り、遊就館見学と行きたかったが、本日は新宿優先。

 

 新宿下車なら、もちろん(?)花園神社に決まっている。破魔矢の袋には「新宿総鎮守」と書いてあるくらいだから、新宿に縁のある生活をしていた人間なら、決してなおざりにしてはいけない聖地であるに違いない。

 到着後は、まずは参拝客の列の最後に並ぶわけだ(本殿の賽銭箱に着いた時には、到着から30分以上経っていた)。この行列姿には、ネトウヨさんご推薦の「日本人の美風」的世界を見出しておくべきなのであろう(行列をしない支那人の話題がお好みらしいから)。

 

 最後の目的地は西口の「ヨドバシカメラ」だったのだが、すっかり冷え切ってしまったので、「中村屋」で一服することにした。カレーは食べなかったが、この「中村屋」の創業者こそはネトウヨさんご推薦のインド独立の闘志の支援者なのであった(これで印度も追加)。

 で、西口にまわって、娘のためにデジカメの購入(昨日、ネットで製品チェック済み)。ちなみに購入したソニー製のサイバーショット(レンズがツァイスで、1400万画素超で11,000円はお買い得品だと思う←自分用にも一台…とか考えてしまう)だが、ネトウヨさんのお嫌いな「メイドインチャイナ」であった。

 

 

 既に日は完全に暮れていた(日も没して、まさに世界は「反日」…なんちゃって)。

 
 
 


〔ココログ版「現代史のトラウマ」掲載に際しての蛇足〕

 新宿では、もうひとつ新大久保方面で、焼肉で晩飯といけば「朝鮮」も追加出来たのに…
  (新年早々何を考えているんだか…)

 旧聞に属すると言うべきであろう正月二日のお話を、今日(1月28日)になって、ここ(ココログ)にも採録しておくことにした。
 オリジナルの「freeml」版のコメント欄では、ニコライ堂の創設者である聖ニコライが、本格的な来日前にドストエフスキーと会っていたことが話題となっている。
 ニコライ堂で購入したパンフレットにも、

 …ロシアに帰国していた(1880年の話)聖ニコライは、日本に牧会・宣教そして奉神礼の拠点となる大聖堂を建設するという大望を抱き、献金協力者を募るために、各地の教会、主教、有力者のもとを訪ね歩きました。そのときプーシキン記念祭に出席するためモスクワに来ていた、文豪ドストエフスキーに会っています。
 (以下、日記の内容紹介アリ)

…との言及があったことを付け加えておこう(2011年月28日記)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投降日時 : 2011/01/02 23:16 → http://www.freeml.com/bl/316274/155168/

 

 

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2011年1月 8日 (土)

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)

 

 そもそも、この「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズは、

 

 

 明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)は、二千年余の日本の歴史から見ると、それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない。明治憲法における天皇の規定の仕方やその歴史的性格を脱却することが、天皇の概念に大きさと広さと豊かさを与えるものと思う。

…と、1963年3月13日の憲法調査会の席で発言したのは、若き日の中曾根康弘であった。
 ケネス・オルフ 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 (岩波現代文庫 2009) には、そんなエピソードが紹介されている。

 

 

…という話から始まっていたのだった(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-07cb.html)。

 ここで、中曾根康弘により、「明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)」として取上げられているのは、言うまでもなく「天皇親政」の構図であろう。つまり親政的天皇像に対し、「それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない」と、中曾根は主張しているのである。

 
 

 昭和十二年、文部省により刊行されたのが『國體の本義』であった。

 

 我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、萬世一系の天皇の大御心であり、従つて知ると知らざるとに拘らず、現實に存在し規律する命法である。それは獨り将來に向かつての規範たるのみならず、肇國以來の一大事實である。憲法第一條に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二條は皇位繼承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四條前半は元首・統治權等、明治維新以来採擇せらせられた新しき概念を以て、第一條を更に昭述し給うたものである。天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ説の如きは、西洋國家學説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根據はない。天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを明示せられたものである。外國に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。
 帝國憲法の政體法の一切は、この御親政の原則の擴充紹述に外ならぬ。例へば臣民權利義務の規定の如きも、西洋諸國に於ける自由權の制度が、主權者に對して人民の天賦の權利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の惠撫滋養の御精神と、國民に隔てなき翼賛の機會を均しせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議會の鼎立の如きも、外國に於ける三權分立の如くに、統治者の權力を掣肘せんがために、その統治者より司法權と立法權とを奪ひ、行政權のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が國に於ては、分立は統治權の分立ではなくして、親政補翼機關の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を彌々確實ならしめんとするものである。議會の如きも、所謂民主國に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機關である。我が帝國議會は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、國民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
     『國體の本義』 (文部省 昭和十二年)
          「第二 國體の顕現」
               「六、政治、経済、軍事」

 

 ここに紹介した『國體(国体)の本義』の描く天皇像こそが、中曾根の言う「ある時代における特殊の天皇の概念」の典型的な事例であろう(それも、文部省刊行物に描かれた「公的」な認識なのである)。そこには、

 

 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

 

…と、書かれていたわけだ。

 ここで注目すべき点のひとつは、

  その政體法の根本原則は、

    中世以降の如き御委任の政治ではなく、
    一に天皇の御親政である

  これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、

    中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた

…という形で、「政體法の根本原則としての「天皇親政」が、「中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた」との認識が示されていることである。つまり、「天皇親政」は「政體法の根本原則」でありながらも、歴史的には実現されることのない時代が長く続いていたという事実認識が、ここには(図らずも?)示されているのである。

 

 現在では中曾根康弘の主張は、むしろ常識的なものとなっているだろうし、「天皇不親政」こそが日本の歴史の伝統(その「根本原則」)であったとの認識もまた、常識に近いものとして流通しているように思われる。

 「天皇親政」を「国体」の「本義」と考え、「本義」の「明徴」を求めようとするような原理主義的視点からは、事実としての「天皇不親政」の長い歴史は、「本義」とされる状態(政體法の根本原則)からの逸脱として指弾され、だからこそ「維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うた」ことが重要視されることになるのである。

 

 両者共に、「天皇不親政」の時代の長く続いたことは事実として認識しながらも、国体明徴論的文脈からは、「天皇不親政」はあくまでも「政體法の根本原則」からの逸脱として評価され、「維新に於て復古せられ」た「天皇親政」こそが我が「国体」の本然の姿なのであり、そこでは「天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふ」存在とされるのである。

 この「天皇親政」の歴史としての国史(つまり皇国史である)の叙述が、公的なものとして流通していたのが、敗戦までのこの国の現実なのであった。

 

 現実に長く続いた「天皇不親政」の事実が歴史認識の基盤として一般化されるようになるのは、敗戦後の昭和21年、津田左右吉が発表した論文「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』第4号)以後の話となるのである。中曾根康弘の認識も、その延長線上のものであって、そこにある戦前(戦中)期の公的歴史認識との断絶の大きさには十分に留意しなければならない。

 「大権」の否定された「日本国憲法」上の天皇の位置付けが、戦前以来の保守政治家にはいかに受け入れ難いものであったのかについては、既に「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズの2~6で詳述した通りである。その意味で、中曾根康弘は、「戦後」の保守政治家なのである。

 
 
 

 ここであらためて、明治維新の原点に立ち返って考えてみよう。「天皇親政」とは、(『国体の本義』に記されているように)維新のスローガンであった「王政復古」の現実化を意味することに気付かなければならない。同時に「立憲政体」の確立が明治新政権による「維新」の方向として示されていたわけである。

 
御誓文
一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
     五ヶ條ノ御誓文(明治元年三月十四日 法令全書第百五十六)
 

朕、即位ノ初首トシテ群臣ヲ会シ、五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ、国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ求ム。幸ニ祖宗ノ霊ト群臣ノ力トニ頼リ、以テ今日ノ小康ヲ得タリ。顧ニ中興日浅ク、内治ノ事当ニ振作更張スヘキ者少シトセス。朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。汝衆庶或ハ旧ニ泥ミ故ニ慣ルルコト莫ク、又或ハ進ムニ軽ク為スニ急ナルコト莫ク、其レ能朕カ旨ヲ体シテ翼賛スル所アレ。
     立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)

 

 ここにある、

  一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
          (五箇条の御誓文)

  朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。
          (立憲政体の詔書)

…という言葉に注目しておきたい。

 

 明治維新のスローガンであった「王政復古」が、明治政府の正統性を保証する理念としての「天皇親政」の淵源となったように、新政府の掲げた「五箇条の御誓文」は、その後の「立憲政体」構築の基礎となるものだ。

 どちらも政府・政権の正統性の基盤として欠かすことの出来ぬものとなり、明治以来の政府を拘束するものとなったわけである。

 徳川幕府(政権)存続の正統性を否定し、維新政府(及び継承政権)の正統性を主張するためには、「立憲政体」でありかつ「天皇親政」でもある形式を追求せねばならなかった、ということになる(『国体の本義』には、その両者―憲法と御親政―の関係について、「肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」と記されている)。

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」を追求すれば、議会の権能の強化を重視せざるを得ず、それが「天皇機関説」を生み、「政党内閣」時代を築いたわけだ。

 しかし、それに対し、「天皇親政」の原理主義的主張は、「統帥権干犯」をする政党内閣への批判(これは天皇の軍事的な「大権」の強調にも結びつく)と同時に「天皇機関説」の否定へと結実し、昭和10年代の「国体明徴声明」・「国体の本義」を経て戦前(戦中)期の「御親政」体制を生み出すことになった。

 

 

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」に関しては、議会の開設と憲法の制定という形で、つまり具体的な政治制度として現実化されていくことになる。

 それに対し「天皇親政」の問題は、具体的な政治制度として確立されていくというよりは、あくまでも政権の正統性を背後から支える理念の形で、明治から昭和の政府に継承されていったように見える。

 そこにあるのは主権者としての天皇、統治権の主体としての天皇、大権の保持者としての天皇像こそが、我が国体の精華であり歴史的伝統であるという意識である。

 その際、具体的政治制度の問題として、「天皇親政」を具現した統治システムを構築することよりは、立憲政体のシステムにより具現化されるであろう「理念」として位置付けられていたように思える。あるいは、制度化された「立憲政体のシステム」は、「天皇親政」の「理念」により運営されるものとして期待されていた、という構図(『国体の本義』には、まさにその構図が示されている)。

 つまり、例えるならば、「民主主義」の理念が「議院内閣制」という制度としても米国式の「大統領制」の形式の上にも成立し得るものなのであって、「理念」と具体的制度は一対一の関係として考えられる必要がないのと同様の話なのである。

そこに、

  「立憲君主」としての天皇による「御親政」

…という図式が成立してしまう理由がある。
(ここにある「立憲君主」は「君臨し統治する」存在である)

 

 

 議会の権能の優位を強調し、政党内閣時代を背後から支えた「天皇機関説」が描き出すのは、「君臨すれども統治せず」的な天皇像である。つまり、政治的決定に関与することのない「立憲君主」としての天皇像である。
 
 それに対し、「大権」の保持者としての「御親政」的天皇像の前提となるのは、政治的決定に関与する「君臨し統治する立憲君主」としての天皇の姿である。
 
 その「御親政」的天皇像、つまり政治的決定に関与する天皇像が、国体明徴論者の手によって公的なものとされてしまったのが、昭和10年代の日本だったのである。実際に、国体解釈・理解の規範として文部省により公刊された『国体の本義』では、「その政體法の根本原則は…一に天皇の御親政…でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」との表現で、「天皇の御親政」が「憲法に…明示」されているものであるとまで主張されているのだ。
 
 その結果、「あの戦争」の時代の政治的(軍事的)決定が天皇の意思と不可分のものとして表象されてしまうことになる。つまり、開戦も敗戦も天皇の意思と不可分の出来事であったという認識が導かれてしまうのである(「天皇の御親政」が「憲法に明示」されていると主張されていたことの論理的結果として)。
 
 帝國憲法上は、あくまでも天皇が無答責の存在(つまり憲法上の天皇の責任は否定されている―神聖ニシテ侵スヘカラス)であるにしても、政治的(軍事的)決定に天皇が関与するという「天皇親政」の理念が支配していた以上、開戦及び敗戦の責任と天皇が分かち難いものとして考えられてしまうのもまた当然の成り行きであろう。

 国体明徴論者による天皇親政原理主義がもたらしたのは、開戦と敗戦の責任(いわゆる天皇の戦争責任問題である)と不可分なものとしての天皇像であったというのは、実に皮肉な歴史的帰結ではある。

 「天皇機関説」に依拠し続ける限り、「天皇の戦争責任」問題は生じなかったようにさえ思われる。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/01/08 14:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/155573/)

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2011年1月 2日 (日)

白兎の末裔(『古事記』と満洲事変、そして真珠湾)

 

 元日には年賀状が届く仕組みになっているが、常識的には、「御目出度い」イメージが賀状デザインの基本だと思われる。

 その意味では、毎年(しかも益々)、「御目出度くない」イメージの賀状を送りつけるような行為は、常識人のすることではないのかも知れない。まぁ、自分が常識人だと主張する気はないから、本人の内部では特別に問題となることもない。

 で、今年の賀状だが、下のようなデザインで仕上がった(のは昨日、大晦日の話である)。

 卯年=兎の年ということなので、兎の姿をどう入れるかが問題だった。まぁ、毎年、干支を気にしたデザインにしているわけでもないが、干支をネタに出来ればそれに越したことはない。

…というわけで、11月くらいには、巌谷小波の『日本昔噺』にある「かちかち山」と「兎と鰐」には目をつけておいた。が、それをどう料理するかについては、何の目算もないままに年の暮れを迎えてしまったのであった。

 2011年ということでもあるので、1931年が満洲事変、1941年が真珠湾攻撃、1951年が講和条約発効(日本の独立回復であると同時に米国の従属国家としての再出発の記念すべき年)…そして1991年は湾岸戦争だったし、2001年は「9.11」だった(これこそが日本人及び人類のミモフタモナイ歴史の実相だ!)。

…という歴史のそれぞれ何十年目かの節目であることも、ずっと頭の中からは離れなかった。

 そんなわけで、ネット上にある、満洲事変関連や真珠湾攻撃関連の写真画像をチェックしたりしてもいたのである。

 どっちも、もうひとつイメージとして煮詰まらないままに、12月30日になってしまった。その夜、寝床の中で、ふと、巌谷小波の『日本昔噺』にあったあの兎の姿と、満洲事変や真珠湾攻撃の際とその後の大日本帝國の姿が重なって見えるような気がしたのであった。

          

(あの兎の姿)

 で、まず、あらためて『古事記』を読んだ。言うまでもなく、『古事記』の本文は漢字表記のみである。問題のくだりは、

故此大國主神之兄弟八十神坐然皆國者避於大國主神所以避者其八十神各有(下)欲婚稻羽之八上比賣之心共行稻羽時於大穴牟遲神負〇爲從者率往於是到氣多之前時裸菟伏也爾八十神謂其菟云汝將爲者浴此海鹽當風吹而伏高山尾上故其菟從八十神之教而伏爾其鹽隨乾其身皮悉風見吹拆故痛苦泣伏者最後之來大穴牟遲神見其菟言何由汝泣伏菟答言僕在淤岐嶋雖欲度此地無度因故欺海和迩(此二字以音 下效此)言吾與汝竸欲計族之多少故汝者隨其族在悉率來自此嶋至于氣多前皆列伏度爾吾蹈其上走乍讀度於是知與吾族孰多如此言者見欺而列伏之時吾蹈其上讀度來今將下地時吾云汝者我見欺言竟即伏最端和迩捕我悉剥我衣服因此泣患者先行八十神之命以誨告浴海鹽當風伏故爲如教者我身悉傷於是大穴牟遲神教告其菟今急往此水門以水洗汝身即取其水門之蒲黄敷散而輾轉其上者汝身如本膚必差故爲如教其身如本也此稻羽之素菟者也於今者謂菟神也故其菟白大穴牟遲神此八十神者必不得八上比賣雖負〇汝命獲之

…と書いてある(上記引用の文言表記はネット上からいただいた物だが、旧字体の変換が十分ではない)。

 そこから特に、「兎と亀」の挿絵のシーンに相当する部分として、

  見欺而列伏之時吾蹈其上讀度來今將下地時吾云汝者我見欺言竟
  即伏最端和迩捕我悉剥我衣服因此泣患者
(訓みは、 欺かえて列(な)み伏せりし時、吾その上を蹈みて、讀み度り來て、今地に下りむとせし時、吾云ひしく、『汝は我に欺かえつ。』と言ひ竟(を)はる即ち、最端(いやはし)に伏せりし鰐、我を捕へて悉に我が衣服を剥ぎき。これによりて泣き患(うれ)ひしかば… …となる←岩波文庫『古事記』による)

…を選び、同時に満洲事変と真珠湾攻撃への言及として、

  1931年の満洲事変から80年。
  1941年の真珠湾攻撃から70年。

  策士と自惚れ、調子に乗った挙句に、
  大変に痛い目に遭ったウサギのお話を思い出してみたりする
  2011年のお正月…

…という言葉をひねり出した。

 その両者を組み合わせて、画面上のバランスを考えた上で、デザイン終了となったのは大晦日の夕方であった(実物は実名住所入りだが、こちらはネットバージョンで、画面のバランスも少し異なる)。

 こんな賀状を受け取って、果して嬉しいものなのかどうかはわからないが…

 

 

 

 ところで、巌谷小波の「兎と鰐」の方の当該箇所の文章が味わい深いので、最後に添えておきたい。

 

 …と、小言を云ひながら、ピョイピョイ飛んで行きましたが、其中(そのうち)に因幡の国まで来ますと、速くも陸(おか)へ飛び上がりながら、『やァいやァい鰐の大馬鹿やい、誑(だま)かされるのも知(しら)ないで、とうとう此処まで渡しやがつた。遠方御苦労御宿へよろしく。』と、憎まれ口を利いて逃げやうとしますから、さては一杯喰はされたかと、鰐は大きに怒りまして、『こん畜生、生意気な事を云やがんな。如何(どう)するか覚えて居ろ。』と、直ぐに追つかけて取つつかまへ、『御免だ御免だ。』という奴を、『御免も糞もあるものか。』と、寄てたかつて丸裸にし、身体中の毛をすつかり抜いて、砂の上に投(ほう)り出し、『態(ざま)ァ見ろやいやい。』と、大声あげて囃しながら、鰐は又海の中へ、鯨波(かちどき)あげて引揚げてしまひました。
  可哀さうなのは兎です。元は自分が悪いとは云ひながら、身体中の毛をすつかり剥かれて、砂の上に投り出され、如何することも出来ませんから、オイオイと云つて泣いて居りました。

 

…と書いてあるのだが、この兎と鰐のやり取り(その台詞回し)の魅力的なこと。「遠方御苦労御宿へよろしく」なんて表現は今やまったく耳にすることも出来ないが、巌谷小波の時代(連載出版は日清戦争の前後である)にはポピュラーなものであったに違いない。

 当時の人々の息遣いまで伝わってくるような文章に出会うと、つい嬉しくなってしまうのだ。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/01/01 20:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/155070/

 

 

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