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2011年1月 8日 (土)

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)

 

 そもそも、この「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズは、

 

 

 明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)は、二千年余の日本の歴史から見ると、それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない。明治憲法における天皇の規定の仕方やその歴史的性格を脱却することが、天皇の概念に大きさと広さと豊かさを与えるものと思う。

…と、1963年3月13日の憲法調査会の席で発言したのは、若き日の中曾根康弘であった。
 ケネス・オルフ 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 (岩波現代文庫 2009) には、そんなエピソードが紹介されている。

 

 

…という話から始まっていたのだった(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-07cb.html)。

 ここで、中曾根康弘により、「明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)」として取上げられているのは、言うまでもなく「天皇親政」の構図であろう。つまり親政的天皇像に対し、「それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない」と、中曾根は主張しているのである。

 
 

 昭和十二年、文部省により刊行されたのが『國體の本義』であった。

 

 我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、萬世一系の天皇の大御心であり、従つて知ると知らざるとに拘らず、現實に存在し規律する命法である。それは獨り将來に向かつての規範たるのみならず、肇國以來の一大事實である。憲法第一條に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二條は皇位繼承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四條前半は元首・統治權等、明治維新以来採擇せらせられた新しき概念を以て、第一條を更に昭述し給うたものである。天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ説の如きは、西洋國家學説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根據はない。天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを明示せられたものである。外國に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。
 帝國憲法の政體法の一切は、この御親政の原則の擴充紹述に外ならぬ。例へば臣民權利義務の規定の如きも、西洋諸國に於ける自由權の制度が、主權者に對して人民の天賦の權利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の惠撫滋養の御精神と、國民に隔てなき翼賛の機會を均しせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議會の鼎立の如きも、外國に於ける三權分立の如くに、統治者の權力を掣肘せんがために、その統治者より司法權と立法權とを奪ひ、行政權のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が國に於ては、分立は統治權の分立ではなくして、親政補翼機關の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を彌々確實ならしめんとするものである。議會の如きも、所謂民主國に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機關である。我が帝國議會は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、國民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
     『國體の本義』 (文部省 昭和十二年)
          「第二 國體の顕現」
               「六、政治、経済、軍事」

 

 ここに紹介した『國體(国体)の本義』の描く天皇像こそが、中曾根の言う「ある時代における特殊の天皇の概念」の典型的な事例であろう(それも、文部省刊行物に描かれた「公的」な認識なのである)。そこには、

 

 尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

 

…と、書かれていたわけだ。

 ここで注目すべき点のひとつは、

  その政體法の根本原則は、

    中世以降の如き御委任の政治ではなく、
    一に天皇の御親政である

  これは肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、

    中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた

…という形で、「政體法の根本原則としての「天皇親政」が、「中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつた」との認識が示されていることである。つまり、「天皇親政」は「政體法の根本原則」でありながらも、歴史的には実現されることのない時代が長く続いていたという事実認識が、ここには(図らずも?)示されているのである。

 

 現在では中曾根康弘の主張は、むしろ常識的なものとなっているだろうし、「天皇不親政」こそが日本の歴史の伝統(その「根本原則」)であったとの認識もまた、常識に近いものとして流通しているように思われる。

 「天皇親政」を「国体」の「本義」と考え、「本義」の「明徴」を求めようとするような原理主義的視点からは、事実としての「天皇不親政」の長い歴史は、「本義」とされる状態(政體法の根本原則)からの逸脱として指弾され、だからこそ「維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うた」ことが重要視されることになるのである。

 

 両者共に、「天皇不親政」の時代の長く続いたことは事実として認識しながらも、国体明徴論的文脈からは、「天皇不親政」はあくまでも「政體法の根本原則」からの逸脱として評価され、「維新に於て復古せられ」た「天皇親政」こそが我が「国体」の本然の姿なのであり、そこでは「天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇國以來の大義に随つて、この國をしろしめし給ふ」存在とされるのである。

 この「天皇親政」の歴史としての国史(つまり皇国史である)の叙述が、公的なものとして流通していたのが、敗戦までのこの国の現実なのであった。

 

 現実に長く続いた「天皇不親政」の事実が歴史認識の基盤として一般化されるようになるのは、敗戦後の昭和21年、津田左右吉が発表した論文「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』第4号)以後の話となるのである。中曾根康弘の認識も、その延長線上のものであって、そこにある戦前(戦中)期の公的歴史認識との断絶の大きさには十分に留意しなければならない。

 「大権」の否定された「日本国憲法」上の天皇の位置付けが、戦前以来の保守政治家にはいかに受け入れ難いものであったのかについては、既に「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズの2~6で詳述した通りである。その意味で、中曾根康弘は、「戦後」の保守政治家なのである。

 
 
 

 ここであらためて、明治維新の原点に立ち返って考えてみよう。「天皇親政」とは、(『国体の本義』に記されているように)維新のスローガンであった「王政復古」の現実化を意味することに気付かなければならない。同時に「立憲政体」の確立が明治新政権による「維新」の方向として示されていたわけである。

 
御誓文
一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
     五ヶ條ノ御誓文(明治元年三月十四日 法令全書第百五十六)
 

朕、即位ノ初首トシテ群臣ヲ会シ、五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ、国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ求ム。幸ニ祖宗ノ霊ト群臣ノ力トニ頼リ、以テ今日ノ小康ヲ得タリ。顧ニ中興日浅ク、内治ノ事当ニ振作更張スヘキ者少シトセス。朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。汝衆庶或ハ旧ニ泥ミ故ニ慣ルルコト莫ク、又或ハ進ムニ軽ク為スニ急ナルコト莫ク、其レ能朕カ旨ヲ体シテ翼賛スル所アレ。
     立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)

 

 ここにある、

  一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
          (五箇条の御誓文)

  朕、今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。
          (立憲政体の詔書)

…という言葉に注目しておきたい。

 

 明治維新のスローガンであった「王政復古」が、明治政府の正統性を保証する理念としての「天皇親政」の淵源となったように、新政府の掲げた「五箇条の御誓文」は、その後の「立憲政体」構築の基礎となるものだ。

 どちらも政府・政権の正統性の基盤として欠かすことの出来ぬものとなり、明治以来の政府を拘束するものとなったわけである。

 徳川幕府(政権)存続の正統性を否定し、維新政府(及び継承政権)の正統性を主張するためには、「立憲政体」でありかつ「天皇親政」でもある形式を追求せねばならなかった、ということになる(『国体の本義』には、その両者―憲法と御親政―の関係について、「肇國以來萬世一系の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」と記されている)。

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」を追求すれば、議会の権能の強化を重視せざるを得ず、それが「天皇機関説」を生み、「政党内閣」時代を築いたわけだ。

 しかし、それに対し、「天皇親政」の原理主義的主張は、「統帥権干犯」をする政党内閣への批判(これは天皇の軍事的な「大権」の強調にも結びつく)と同時に「天皇機関説」の否定へと結実し、昭和10年代の「国体明徴声明」・「国体の本義」を経て戦前(戦中)期の「御親政」体制を生み出すことになった。

 

 

 「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決ス」るものとしての「立憲政体」に関しては、議会の開設と憲法の制定という形で、つまり具体的な政治制度として現実化されていくことになる。

 それに対し「天皇親政」の問題は、具体的な政治制度として確立されていくというよりは、あくまでも政権の正統性を背後から支える理念の形で、明治から昭和の政府に継承されていったように見える。

 そこにあるのは主権者としての天皇、統治権の主体としての天皇、大権の保持者としての天皇像こそが、我が国体の精華であり歴史的伝統であるという意識である。

 その際、具体的政治制度の問題として、「天皇親政」を具現した統治システムを構築することよりは、立憲政体のシステムにより具現化されるであろう「理念」として位置付けられていたように思える。あるいは、制度化された「立憲政体のシステム」は、「天皇親政」の「理念」により運営されるものとして期待されていた、という構図(『国体の本義』には、まさにその構図が示されている)。

 つまり、例えるならば、「民主主義」の理念が「議院内閣制」という制度としても米国式の「大統領制」の形式の上にも成立し得るものなのであって、「理念」と具体的制度は一対一の関係として考えられる必要がないのと同様の話なのである。

そこに、

  「立憲君主」としての天皇による「御親政」

…という図式が成立してしまう理由がある。
(ここにある「立憲君主」は「君臨し統治する」存在である)

 

 

 議会の権能の優位を強調し、政党内閣時代を背後から支えた「天皇機関説」が描き出すのは、「君臨すれども統治せず」的な天皇像である。つまり、政治的決定に関与することのない「立憲君主」としての天皇像である。
 
 それに対し、「大権」の保持者としての「御親政」的天皇像の前提となるのは、政治的決定に関与する「君臨し統治する立憲君主」としての天皇の姿である。
 
 その「御親政」的天皇像、つまり政治的決定に関与する天皇像が、国体明徴論者の手によって公的なものとされてしまったのが、昭和10年代の日本だったのである。実際に、国体解釈・理解の規範として文部省により公刊された『国体の本義』では、「その政體法の根本原則は…一に天皇の御親政…でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」との表現で、「天皇の御親政」が「憲法に…明示」されているものであるとまで主張されているのだ。
 
 その結果、「あの戦争」の時代の政治的(軍事的)決定が天皇の意思と不可分のものとして表象されてしまうことになる。つまり、開戦も敗戦も天皇の意思と不可分の出来事であったという認識が導かれてしまうのである(「天皇の御親政」が「憲法に明示」されていると主張されていたことの論理的結果として)。
 
 帝國憲法上は、あくまでも天皇が無答責の存在(つまり憲法上の天皇の責任は否定されている―神聖ニシテ侵スヘカラス)であるにしても、政治的(軍事的)決定に天皇が関与するという「天皇親政」の理念が支配していた以上、開戦及び敗戦の責任と天皇が分かち難いものとして考えられてしまうのもまた当然の成り行きであろう。

 国体明徴論者による天皇親政原理主義がもたらしたのは、開戦と敗戦の責任(いわゆる天皇の戦争責任問題である)と不可分なものとしての天皇像であったというのは、実に皮肉な歴史的帰結ではある。

 「天皇機関説」に依拠し続ける限り、「天皇の戦争責任」問題は生じなかったようにさえ思われる。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/01/08 14:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/155573/)

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