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2010年12月 5日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 15(「輔弼」と「助言と承認」)

 

  『御前会議の末席を汚してご聖断を拝し余りの辱さに感涙滂沱たるものがありました、現人神に存ずればこそで臣下の顧慮の及ぶところではありませぬ、本当に生神様であらせられるといふことを畏れ多いことながら観念でなく現実に拝して身も慄ふ感激に打たれました』ある閣僚は涙を溜めて謹話した、大方針決した刹那の尊きその光景を拝察するとき、われわれは皇國に生を享けた感激に泣かざるを得ない。そしてこの感激は今日只今からのわれわれの行動を律するものであらねばならぬ、親政厳として一切の夾雑物を排しわが心魂に〇るる思ひである、この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路であり、そしてまた敗戰欧洲にみるが如き恥辱と混沌からわが國家民族を護る唯一の途である
     (『朝日新聞』 昭和二十年八月十五日  〇は判読不能文字)

 

 

 この、昭和20年8月15日の『朝日新聞』記事には、大日本帝國憲法下の天皇の姿が、凝縮的に表現されていると言えるだろう。

 ポツダム宣言受諾決定の御前会議に出席していた「ある閣僚」の発したという、

  御前会議の末席を汚してご聖断を拝し余りの辱さに感涙滂沱たるものがありました、
  現人神に存ずればこそで臣下の顧慮の及ぶところではありませぬ、
  本当に生神様であらせられるといふことを畏れ多いことながら観念でなく現実に拝して身も慄ふ感激に打たれました

…との言葉にある、「現人神」として「臣下」に対し「ご聖断」を下す天皇の姿であり、

  この親政に一切の私欲を棄てて随順し奉ることが皇國再生の活路

…と主張する朝日新聞記者の言葉の中に見える、「皇國再生の活路」としての「親政」(への「随順」)の文字である。

 

 

 つまり、大日本帝國憲法の条文から抜書きすれば、

 

 第一章 天皇
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第六條
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第十條
天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ條項ニ依ル
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十三條
天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
 第四章 國務大臣及樞密顧問
第五十五條
國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六條
樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス
 (大日本帝國憲法)

 

…といった文言で規定された、憲法上の天皇の地位・権能が現実に機能する姿を、この『朝日新聞』記事から読み取ることが出来るわけである。ここでは、「統治権ヲ総攬シ」、「陸海軍ヲ統帥ス」る地位にある天皇が、「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命」じる主体として、「戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結」する権能の下に、「和ヲ講」ずべきことを、御前会議出席の臣下を前に、その「執行ヲ(ご聖断として)命」じているのだ(「大方針決」する主体としての天皇である)。

 

 清水澄博士の『逐条帝國憲法講義』(昭和7年)には、

  憲法トハ統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル大則ヲ謂フ其ノ成文法タルト不文法タルトハ問フ所ニ非ス立憲政体ヲ定ムル国家ノ根本法ハ即チ憲法タルナリ
  統治権ハ意思ノ力ニシテ国家ノ意思ハ何人カノ自然ノ意思ニ出テサルヘカラス其ノ自然ノ意思ハ即チ統治権ナリ我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…とあったことを思い出そう。あくまでも、

  我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ天皇ノ自然意思ニ出ツ

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス

  国家ノ意思ト天皇ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ天皇カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…ということなのである。

 

 大日本帝國憲法の、

  天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

…との文言にある天皇の姿と、日本国憲法の、

 

第一章 天皇
第一條
天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
第二條
皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。
第三條
天皇の國事に關するすべての行爲には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四條
1.天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。
2.天皇は、法律の定めるところにより、その國事に關する行爲を委任することができる。
第六條
1.天皇は、國會の指名に基いて、内閣總理大臣を任命する。
2.天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七條
天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ。
 (日本国憲法)

 

…との各条文に規定された天皇の姿の違いは大きい。

 清水澄博士の言葉を流用すれば、日本国憲法においては、

  我カ国ニ於テハ国家ノ意思ハ「国民」ノ自然意思ニ出ツ

  国家ノ意思ト「国民」ノ意思トハ一ニシテ二ニ非ス

  国家ノ意思ト「国民」ノ意思トハ相同化シテ一体ヲ為シ国家ノ統治権ノ主体ナリト謂フハ即チ「国民」カ統治権ノ主体ナリト謂フニ同シ

…ということになるのであって、そこに「国民主権」であることの意味が見出されなければならない。

 

 

 大日本帝國憲法の下では、

  天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス

  國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

…と規定されており、つまり、総理大臣以下の国務大臣は天皇に「任免」され、「統治権ノ主体」として「統治權ヲ總攬」する天皇の統治行為を「輔弼」するのであって、そこに「国民ノ意思」は介在しないのである。あくまでも「国家ノ意思」としての「天皇ノ意思」を(「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」天皇の権能を)、「輔弼(サポート)」するのが国務大臣に期待された役割なのである。ここでは、裁可=承認の主体は天皇なのだ。

 首相は「大命降下」という形式で天皇に直接指名され、その首相が各国務大臣を選任するわけだが、構図としては、各国務大臣の地位も天皇の「大命」の下にあることになる(つまり「天皇ノ意思=国家ノ意思」であることが、ここにも貫徹されている)。

 

 それに対し、日本国憲法下では、

日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。
 (日本国憲法前文)

…とあるように、日本国民は、

  正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、

  主權が國民に存することを宣言し、

  國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。

…との構図(つまり「統治権ノ主体」としての「国民」なのである)の下にあり、天皇は、

  天皇の國事に關するすべての行爲には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

  天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。

…という以上の存在ではない。それが「象徴」としての天皇の地位・権能なのであり、政治的決定に天皇が関与することはないのである。

 

 「國政に關する權能を有」していたのが、帝國憲法下の天皇だったのであり、その「國政に關する權能」を「輔弼」するのが、帝國憲法下の國務大臣の任務であったわけだ。國務大臣を任免するのも天皇であり、「法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」るのも天皇であった。つまり政治的決定の主体(統治権ノ主体)としての天皇の「輔弼」が、帝國憲法下での臣下としての閣僚・國務大臣(=「内閣」の構成員)の役割だったのである。

 
 それとは異なり、「憲法の定める國事に關する行爲のみを行」う天皇に、つまり政治的決定には関与せず「国事行為」のみを行う天皇に「助言と承認」を与える「内閣」は、あくまでも、

  國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する

…という、日本国憲法の構図の下にある存在なのである。

 要するに天皇による「國事に關する行爲」は、「國民の嚴肅な信託」に基づき成立する内閣の「助言と承認」の下にのみ行われるものなのであって、つまり(統治権ノ主体としての)国民の「承認」を抜きにはなし得ないものなのである(「承認」をする主体は国民なのだ)。「統治権ノ主体」としての天皇が「裁可」する世界と、「統治権ノ主体」としての国民が「承認」する世界の違いを理解しておく必要がある。

 大日本帝國憲法下の、國務大臣による天皇への「臣下」としての「輔弼」と、日本国憲法における天皇の「國事行爲」への「内閣の助言と承認」は、まったく異なるものなのだ。

 そこにあるのは、天皇(=主権者)への「臣下」による「輔弼」と、主権者としての国民(内閣を経由するものではあるが)からの天皇(=象徴)への「助言と承認」の違いなのである。

 「統治権ノ主体」としての天皇が、つまり「君臨し統治する天皇」が、「臣下」としての國務大臣に求めるのが、天皇の統治行為への「輔弼」なのであるのに対し、「統治権ノ主体」としての日本国民が、「象徴」としての天皇、つまり「象徴であり統治しない天皇」に「国事行為」の遂行を託す際に必要とされるのが、内閣(=国民の代表者)による「助言と承認」なのである。それが憲法上の構図なのだということを理解しなければならない。

 
 

〔追記〕

 河童氏から、コメントとトラックバックまでいただいてしまっていた。

 河童氏のコメント及びトラックバックの内容を瞥見したところでは、河童氏が大日本帝國憲法と日本国憲法の相違点をまったく理解していないことは確かに思われる。
 本来ならコメント欄で応対すべきなのであろうが、問題の詳細をご理解いただくには、コメント欄のやり取りで意を尽すことは難しそうに感じられる。いずれにせよ、シリーズの続きで書く予定の話題でもあるので、その時をお待ちいただきたい。

 が、せっかくなので、ここでは、「裁可」の語の意味が、帝國憲法と現憲法では全く異なる性格のものである点だけを指摘しておくことにする。
 以下に紹介するのは、伊藤博文の『憲法義解』にある、「裁可」の語への言及である。

裁可ノ權既ニ至尊ニ属スルトキハ其ノ裁可セサルノ權ハ之ニ従フコトハ言ハスシテ知ルヘキナリ……故ニ議會ノ協賛ヲ経ト雖裁可ナケレハ法律ヲ成サス

 要するに、大日本帝國憲法上では、天皇には「不裁可」の権(裁可セサルノ權)もあるということなのだ。
(「憲法義解」の文言は、蓑田胸喜 『學術維新原理日本』 原理日本社 昭和八年 からの孫引きであることを申し添えておく)

 コメントにトラックバックまでいただいたことについては、河童氏に感謝申し上げたい。
                    (2010年12月6日記)

 

 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/12/04 23:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/153145/

 

 

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コメント

結局
「任免は天皇であり天皇による親政である」
といいたいのだろうが形としてはそうでも
内閣が作成し裁可する形にはかわりがない。
そういう論点のすり替えはいけないと思うよ?
現行憲法でも国事行為として裁可する。
しかしそこに権限はない。
純粋に見た場合、今も昔も内閣(それも選挙、政党で選ばれた内閣が輔弼し責任を負っていることに代わりはない

投稿: 河童 | 2010年12月 5日 (日) 13時20分

書き忘れていたが
天皇も旧憲法に縛られ彼の命令であっても
内閣に輔弼と議会の承認がなければ
その命令は無効になる。
そういう建前なんだが
そういうのはご存知か?

その根拠は旧憲法の第10条
第十條
天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ

及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ條項ニ依ル

これは天皇がこの憲法に縛られ法によらなければ

天皇の命令も無効となるということ

投稿: 河童 | 2010年12月 5日 (日) 17時12分

どうしたんだい…。ナニを怒ってるんだか、さっぱり分からんよ。「ネトウヨ氏」をそんなに嫌わなくっても、良きライバルを得た…と思えば、それで良し。いいじゃあないか。ピリピリ神経を逆立てる必要はないだろ。「敵」を愛せ!と「イエス」も云ってる。違うかい…。

投稿: たぬき男いたち男 | 2010年12月 7日 (火) 20時48分

ついでに云って置こう。「ウマシカ」は好戦的だ。が、それじゃあ誰も味方がいなくなる。確かに「ダーク氏」は援護に回るだろうが、それをアテにしていてはいけない。案外「ネトウヨ氏」は「アンタ」を好いているかもネ!!どうだい、考え直した方が良かろう。この際、一言「寝言」を云わせてもらったよ。

投稿: たぬき男いたち男 | 2010年12月 7日 (火) 21時00分

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uma-sica.cocolog-nifty.com/ うましか 桜里 氏のブログ 日本国の象徴と、國體の本義 15 に天皇と内閣そして旧憲法と現行憲法の 差異がつづられている。 かれは何かというとこれを持ち出し批判材料に使う。 しかし自分は思う。 旧憲法と現行憲法において天皇の国事行為について 輔弼と助言の差はなんであろうかと。 自分は旧憲法においても現行憲法でも天皇のあり方という点において変わってないように見える。 よく読まないとわからないが うましか氏はそこのところを巧妙にすり替えているのだ。... [続きを読む]

受信: 2010年12月 5日 (日) 16時52分

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