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2010年11月14日 (日)

「コドモアサヒの時代」展を観る

 

 

  懐かしさを感じてしまうが、実は初めて見ているのであった。

 

…というのが(何ともぎこちない言いまわしではあるが)、武蔵野美術大学図書館で開催中の「コドモアサヒの時代」と題された展示を、私なりに要約したフレーズと言えるだろうか?

 

 
 

    (「コドモアサヒの時代」展図録)

 展示会場には、「図録」の表紙にあるような、「子供」のための「絵雑誌」が並ぶ。『コドモアサヒ』は大正12年に大阪朝日新聞社により創刊された、文字通り子供向けの「絵雑誌」である。

 

 

 創刊号である大正12年の12月号から昭和16年12月号(通巻236号)までの236冊中、佐久間保明教授所蔵の42冊と上笙一郎氏所蔵の1冊(創刊号)を加えた全43冊を会場で観ることが出来る。もちろん、展示品に直接触れることは出来ないが、会場内の「タッチパネル式画像閲覧システム」の大型画面を通して、全ページを観ることが出来るようになっているのである(で、それを大いに楽しんだわけだ)。

 

 (展示誌の刊行年代に注目すればわかるように)関東大震災直後から対米英戦争開戦直前までの子供向け「絵雑誌」を、一種の既視感と共に、会場内では読み味わうことになるわけだ。

 そこにある「既視感」は、当時と現在の(大人の側の)子供観に、それほど大きな違いがないことから生まれるものだろう。子供のために提供される絵と文章のあるべき姿のイメージの連続性、ということであろうか? 自分自身の子供時代に読んだ絵本、そして自分の子供の周囲にあった絵本には、依然として会場に並ぶ『コドモアサヒ』と遠くない世界が展開され続けていたように思われる。

 

…と言いつつも、会場で感じられた「懐かしさ」の正体には、古き時代のレトロイメージも含まれているだろう。つまり、そこに並べられているのは、飛行船が主役であった時代の姿なのである(昭和5年1月号に見開きで登場するのはツェッペリンの雄姿である)。自分自身の幼かった日々の記憶と、古き日本の日々のイメージが重なり合い、懐かしさは相乗効果をもって立ち現れる。

 

 

 さて、ここからの焦点は、「古き時代の日本」=「戦前の日本」だ。要するに、私たちが会場で目にするのは、現在の用語で言えば、「戦前」という語で一括りにされる時代の「絵雑誌」ということになる。

 つまり、戦争へ向かう時代であり、敗戦へと向かう時代の「絵雑誌」でもある。

 しかし、言うまでもないことであるはずだが、その時代を「戦前」と呼ぶのは21世紀の私たちの視点、戦後という時代の視点によるものであって、当時の人々が戦争を(そして敗戦を)スケジュール表に書き入れて生きていたというわけではない。子供たちも、その両親たちも、戦争での死を予期して日々を暮らしていたわけではないのである。

 

 あくまでも誌面に展開されているのは、希望ある未来なのであり、現在を楽しみ夢と共に生きる子供たちの姿なのである(その背後には子供を見守る両親がいる)。

 

 

 創刊号が震災直後のものであることは既に記したが、実際に創刊号掲載の「くわんのんさま の はと」(文:小寺菊子 絵:岡本歸一)は、震災に遭った浅草の観音様のハトを主人公としたエピソードである。しかし同時に創刊号に載せられている「ワタシタチノイへ」(伊藤たかし)にあるのは、テーブルに椅子、カーテンのある室内(それが「私たちの家」なのだ)で遊ぶ洋装の三人の女の子の姿なのである。そこには、憧れの洋風な「ハイカラ生活」が展開されているわけだ。図録を見渡せば、大正13年4月号には蓄音機がある生活が登場し、同年の7月号のまさに「チクオンキ」と題されたページ(文:岡島トキ子 絵:下村泰一)に描かれているのは、ピアノのある洋室内で、兄さんお姉さんと一緒にダンスに興じる女の子(もちろん全員洋装!)の姿である。基調として見出せるのは、洋風の希望ある未来生活像であろう(震災当時の写真を見れば、それが、多くの日本人が和装で暮らしていた時代の話であることがわかる―もちろん、和服姿の子供が誌面に登場しないわけではない)。

 獅子舞や三河万歳が、そして羽根突きや凧揚げが当たり前の正月風景として取上げられ、同時にクリスマスのサンタクロースが都会の景色の中に登場し始める時代であることが、誌面から伝わってくる(和服姿が「七五三」の晴れ着ではなく普段着であり、その一方で洋装の普段着化が進行しつつある時代の姿がそこにある)。

 

 「戦前」の「絵雑誌」という括りから期待してしまう(?)かも知れない、「戦争へ向かう時代」イメージは、昭和7年頃までの各号には見当たらない印象である。

 残念なことに、会場には昭和7年10月号から昭和11年8月号までの展示がないのでその間の推移がつかめないのだが、昭和11年9月号には「防空演習」(安田小彌太)が掲載され、誌面での軍事色が一気に強められている。

 昭和6年の満洲事変(満州国建国が翌昭和7年である)から昭和12年の盧溝橋事件(それが支那事変となり、最終的に日米戦争へと展開してしまう)へと続く時代の流れのどの時点で『コドモアサヒ』の世界に軍事色が侵入したのかは、私には興味深い問題である(大正年間のものに比べて、昭和期のものには、教育的あるいは学習教材的な、お勉強モードの記事が増えている印象もある―財布を握っている親へのアピールだろうか?)。

 

 支那事変三年目となる昭和14年4月号に掲載の「ヨロコンダオバアサン」(文:濱田廣介 絵:深澤省三)は、戦禍の中の中国大陸が舞台である。難民とならざるを得なかった中国人の少年とその祖母を主人公として、戦場となりつつあった村からの避難の途上で、何よりの財産であるヤギを失った二人の絶望感が描かれている。しかし、祖母に(そして少年に)希望をもたらしたのは、地平線の彼方から現れた日本軍の姿だったのである。そこで話は結ばれるのだが、実際の皇軍は、既に南京攻略戦の過程で、徴発という名の略奪行為を繰り返す軍隊に堕していた(対米英戦としての「大東亜戦争」に至り、それはアジア全域で繰り広げられるに至る―たとえば、http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3010.html を参照のこと)。しかし、『コドモアサヒ』の読者にとっては、あくまでも皇軍は、戦下の住民に安心をもたらす正義の軍隊なのであった。その時、既に彼らの兄や父は前線の兵士として、現地調達主義の皇軍の実態に直面させられていたわけである。

 

 

 昭和16年1月号になると、「日本の陸軍(七) クヮンペイシキ」(高井貞二)、「センカン ノ ナカ」(安井小彌太)はそれぞれ陸海軍の雄姿を描いたものだし、「オモシロクラブ」(ヨコヰ・フクジラウ)にも「ヘイタイサン」への慰問文が登場する。「海南島ダヨリ1 コドモノ巻」(黑崎義介)には南進ムードの高まりの反映を見ざるを得ないだろう。確かに、子供の世界までにも軍事色が進出した時代なのであった。その果てに、真珠湾攻撃に始まる対米英戦争が位置しているわけである。戦争に連なる時代としての「戦前」イメージは、ここに至って、誌面にも確実なものとして展開されているのであった。

 

 当年九歳の小学生であった小林信彦(1932年生まれ)は、

 

 一九四一年(昭和十六年)の春、小学校は突然、〈国民学校〉と改称された。小学三年生になるはずのぼくは〈国民学校三年生〉になった。
 同じ日(四月一日)に、〈生活必需物資統制令〉が公布された。米、木炭、酒が次々と配給制になってゆく。
 配給制とは、具体的にいえば、かりにお金があったとしても、モノが買えないのである。一般成人の米は一日・二合三勺(三三〇グラム)と決められ、米穀通帳がなければ入手できない。外で食べようとすれば、外食券が必要だった。

 こう書くと、いかにも暗い日々のようだが、子供にとってはそれほどでもない。
 ぼくの家は生菓子屋で、父親のいうには〈当時としては中の上の生活〉とのことだった。生菓子屋は、砂糖や小麦粉が特別に入ってくるし、そのころはまだ番頭、職人、小僧、女中が何人かいたから、配給米で足りるはずもなく、闇米を買う。久松警察と仲がよかったから、問題はおこらない。
 ただ、マッチや食用油までが配給切符制になるのは、淋しいというか、心もとない気がした。生まれてから〈自由〉という言葉を知らないぼくだが、それでも、音階の〈ドレミファソラシド〉が〈イロハニホヘト〉に改訂されるなど、なんだか滑稽な気さえした。たぶん米英的という理由からだろう。
 夜になると、家族は麻雀を始め、ぼくも加わった。映画・演劇にこれといって見るべきものがなかったからだろうか。家庭に入っている唯一の娯楽のラジオは戦時色に塗りつぶされ、〈忠君愛国〉を呼びかけていた。
〈自由〉を知らなくとも、〈米英的エンタテインメント〉の中で育ったぼくは、本能的に〈米英的なもの〉を探し求めていた。そのアンテナにひっかかったのが、〈マキノ正博〉と〈古川ロッパ〉である。
     (小林信彦 『一少年の観た〈聖戦〉』 ちくま文庫 1987)

 

…と当時を回想しているが、小林信彦少年の(身近に〈米英的なもの〉があったりする)経験は、『コドモアサヒ』を購読者として支えた階層の経験と重なるものと見てよいと思われる。国民学校三年生にとって(両親たちにとっても)、支那での「事変」は続いていたものの、「戦争」はまだその時点では、どこか他人事だったようにさえ見える。

 

 しかし、その年の12月、「帝國陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」との言葉と共に、「事変」は「戦争」そのものへと進展する。

 再び小林信彦少年に登場してもらうと、

 

 年が明けて、一九四二年(昭和十七年)の正月は、めでたいことずくめだった。
 なにしろ、開戦と同時に、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊の大半を〈やっつけて〉しまった。十二月中に、バンコックを占領し、イギリスの〈浮沈戦艦〉プリンス・オブ・ウェールズを撃沈し、米軍のいたグアム島、英領の香港を占領した。
 一九四二年の正月、とくに一月二日にマニラを占領したのは特にめでたい。
 一月三日か四日かは忘れたが、父親につれられて親子三人で銀座を歩いた。〈祝皇軍マニラ占領〉の大きな貼紙がショウウィンドウに貼ってあった。――その日、新橋に近い千疋屋で、ヒラメのムニエルを食べたのが忘れられない。横文字言葉が禁じられているのに〈ムニエル〉はいいのかな、と考えたのである。

 奇妙な話をするようだが、ぼくにとって、〈大東亜戦争〉とは、ぼくが猛獣狩りをするためのチャンスであり、プロセスであった。日本軍によるマレー半島、シンガポール、ボルネオ、スマトラ、ジャワの占領は永久につづくものと信じていた。〈占領がつづく〉というよりも、それらの土地はすべて〈日本〉の二文字になるはずであった。
 ボルネオ、スマトラ、ジャワにすむ動物のちがい、種類を、当時はすべて記憶していた。問題はビルマ、そしてインド全土の占領がいつになるかであった。

 

…という具合で、開戦当初の正月は「めでたいことずくめ」に過ぎ、戦争は「猛獣狩り」の夢の現実化するチャンスに感じられていたのであった。しかし、(国民が知ることはなかったが)6月にはミッドウェー海戦で帝國海軍は大打撃を受け、12月にはガダルカナル島からの撤退が現実の問題となる。戦争が「めでたいこと」であった短い時期は過ぎ、戦局の悪化のみが大日本帝國の現実となっていくのである。

 その昭和17年に、『コドモアサヒ』は『週刊小国民』と改題され、月刊誌としての歴史を閉じることになる。「コドモ」が「ハイカラな夢」を楽しむ時代は終わり、「小国民」として戦争を闘う国家の一員となる「総力戦」の時代、誰にとっても戦争が他人事ではない時代がやってきたのである。

 

 その「戦争」の最前線に狩り出されたのが、まさに『コドモアサヒ』創刊号の読者たち、あの(現在からはノスタルジックな)ハイカライメージに覆われた大正期の『コドモアサヒ』誌面の読者たちの世代だったわけだ。

 ハイカラで明るいはずの彼らの未来の多くは、ガダルカナルやインパールやフィリピンのジャングルの奥での餓死で終わってしまった。あるいは、木村久夫上等兵のように、皇軍の一員であったがために、刑場で人生の終焉を迎えていたかも知れない(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-33ad.html 参照)。

 幸運に戦場を生き延びても、復員した日本は既に焦土と化していたのであった。『コドモアサヒ』創刊の年に震災で焼けた東京は再び空襲で焼き尽くされ、『コドモアサヒ』を創刊した大阪朝日新聞社の大阪までもが戦災で焼き尽くされていたのである。それが創刊号読者世代にとって、かつての誌面で夢見た明るい(はずの)未来の現実の姿なのであった。

 

 

 

 

…というのは、言うまでもなく近現代史サイドの視点からの話であって、小川未明、野口雨情、北原白秋、武井武雄、横山隆一…といった執筆陣による「絵雑誌」の世界を味わうのが本道であろう。歴史の中の日本の戦争にこだわるようなヤボなことは忘れて、懐かしさの源泉としてのコドモの夢の世界を、それを提供しようとした作家や絵描きやその背後の編集者の姿を、展示された43冊の『コドモアサヒ』の中に見出したい(…と言いつつ、近現代史的には、執筆者の中に見出される、北川千代子、遠山陽子、サカヰヤスコ…といった女性たちの存在にも注目しておくべきかも知れない――などと、考えずにはいられないのは、あくまでもヤボな私である)。

 「絵雑誌」という媒体の性質として、常に視覚的イメージに伴われてページが展開するので、文字媒体以上に様々な読み取りが可能になっているわけでもある。読むよりもまず見る展示、そして、見ることが読むことになる展示、ということであろうか?

 

〔追記〕

 以下に、展示を再見して気付いたことを記しておこう。

 本文で紹介した「ヨロコンダオバアサン」の掲載された号には、別のページに、
 
   シナノコドモ

     さくらぎ・しゆん
     川上 四郎 ゑ

   センチニ イツテル パパサンガ
  オシヤシン オクツテ クダサツタ
  パパト イツシヨニ ニコニコト
  シナノコドモガ ウツツテタ

  パパノ テガミノ モンクニハ
  『ツンコピン ハ ニクイケド
  シナノコドモハ カハイイゾ
  キヤラメル モラツテ オホゲンキ』

  シナノコドモハ ニツポンノ
  ヘイタイサント オトモダチ
  スグニ オボエル ニツポンゴ
  コンニチハ オハヤウ 一二三

  シナノコドモハ ボクタチノ 
  ナカヨシコヨシノ オトモダチ
  ウミノムカフノ クニダケド
  ナカヨク シヨウ テヲツナゴ

     ツンコピン ト イフ ノハ シナ ノ
     ヘイタイ ノ コト デス。
 
…という内容の記事があった。ここには、中国大陸での戦闘に従事する皇軍兵士としての、読者の父が登場しているわけだ。右ページに「パパサン」の手紙を囲む子供たち(女の子三名、男の子一名)の姿、左ページには「シナノコドモ」と一緒に写る「パパサン」の写真の挿絵が添えられている。
 読者の父が「パパサン」と呼ばれていることは興味深い。『コドモアサヒ』の読者として、子供が父を「パパ」と呼ぶような生活様式の階層が想定されていたことを意味するし、1939年の時点ではまだ、「パパ」という語が英米的だとして誌面から排斥される(戦前という時代のステロタイプなイメージから連想される)ような空気に至ってなかったらしいこともわかる。
 しかし、「ツンコピン ハ ニクイ」と書く父の戦場での任務が、「シナノコドモ」から彼らの父を奪うことで果たされていたことまでは、読者の想像力は及ばなかっただろう。
 
 次に挙げるのは、昭和16年(1941年)11月号の記事である。
 
  幼稚園メグリ(六)
   ボクラノ エウチヱン

  ボクラノ オトウサン ハ
  ヘイタイデス。オクニ
  ノ タメニ イサマシク
  センシ ナサレタノデス。
  ボクラモ オトウサンニ
  マケナイ ツヨイ ヨイコ
  ニ ナルノデス。マイニチ
  ゲンキニ エウチヱンニ
  キテ ヰマス。

   イサヲ幼稚園
       所在-大阪市住吉区北畠一丁目
       園長-庄野貞一
 
 同年に連載されていた、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズの一つであるが、ついに「パパサン」ならぬ「オトウサン」は、(まだ対米英開戦前であるから中国大陸での話だが)「オクニノタメニイサマシクセンシ」してしまうのだ。この「幼稚園メグリ」は、実際の幼稚園の取材に基づくシリーズなので、取材先でのエピソードを伝えたものだろう。
 いずれにしても、読者の「オトウサン」は、「ツンコピン」相手の(つまり「シナノコドモ」たちの父相手の)戦闘で「センシ」したのであった。

 そして、読者の(そして「パパサン」あるいは「オトウサン」の)「オクニ」は、「ツンコピン」相手の戦闘に勝てぬ泥沼から抜け出せぬままに、同年12月8日には米英相手の戦争まで始めてしまうのであった。こうして、『コドモアサヒ』の時代は終焉を迎えたのである。
                    (2010年11月28日記)

 

 

「コドモアサヒの時代」
開催日程:2010年11月08日(月)~2010年12月18日(土)
休館日 日曜日・祝日、開館時間10:00-18:00(土曜日は17:00まで)
開催場所:武蔵野美術大学 図書館展示室
主催: 武蔵野美術大学 美術館・図書館
(参照→ http://www.musabi.ac.jp/topics/exhibition/20101026_bijutu_01.html

 

 

 

 

 
(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/14 19:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/151665/

 

 

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