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2010年11月

2010年11月14日 (日)

「コドモアサヒの時代」展を観る

 

 

  懐かしさを感じてしまうが、実は初めて見ているのであった。

 

…というのが(何ともぎこちない言いまわしではあるが)、武蔵野美術大学図書館で開催中の「コドモアサヒの時代」と題された展示を、私なりに要約したフレーズと言えるだろうか?

 

 
 

    (「コドモアサヒの時代」展図録)

 展示会場には、「図録」の表紙にあるような、「子供」のための「絵雑誌」が並ぶ。『コドモアサヒ』は大正12年に大阪朝日新聞社により創刊された、文字通り子供向けの「絵雑誌」である。

 

 

 創刊号である大正12年の12月号から昭和16年12月号(通巻236号)までの236冊中、佐久間保明教授所蔵の42冊と上笙一郎氏所蔵の1冊(創刊号)を加えた全43冊を会場で観ることが出来る。もちろん、展示品に直接触れることは出来ないが、会場内の「タッチパネル式画像閲覧システム」の大型画面を通して、全ページを観ることが出来るようになっているのである(で、それを大いに楽しんだわけだ)。

 

 (展示誌の刊行年代に注目すればわかるように)関東大震災直後から対米英戦争開戦直前までの子供向け「絵雑誌」を、一種の既視感と共に、会場内では読み味わうことになるわけだ。

 そこにある「既視感」は、当時と現在の(大人の側の)子供観に、それほど大きな違いがないことから生まれるものだろう。子供のために提供される絵と文章のあるべき姿のイメージの連続性、ということであろうか? 自分自身の子供時代に読んだ絵本、そして自分の子供の周囲にあった絵本には、依然として会場に並ぶ『コドモアサヒ』と遠くない世界が展開され続けていたように思われる。

 

…と言いつつも、会場で感じられた「懐かしさ」の正体には、古き時代のレトロイメージも含まれているだろう。つまり、そこに並べられているのは、飛行船が主役であった時代の姿なのである(昭和5年1月号に見開きで登場するのはツェッペリンの雄姿である)。自分自身の幼かった日々の記憶と、古き日本の日々のイメージが重なり合い、懐かしさは相乗効果をもって立ち現れる。

 

 

 さて、ここからの焦点は、「古き時代の日本」=「戦前の日本」だ。要するに、私たちが会場で目にするのは、現在の用語で言えば、「戦前」という語で一括りにされる時代の「絵雑誌」ということになる。

 つまり、戦争へ向かう時代であり、敗戦へと向かう時代の「絵雑誌」でもある。

 しかし、言うまでもないことであるはずだが、その時代を「戦前」と呼ぶのは21世紀の私たちの視点、戦後という時代の視点によるものであって、当時の人々が戦争を(そして敗戦を)スケジュール表に書き入れて生きていたというわけではない。子供たちも、その両親たちも、戦争での死を予期して日々を暮らしていたわけではないのである。

 

 あくまでも誌面に展開されているのは、希望ある未来なのであり、現在を楽しみ夢と共に生きる子供たちの姿なのである(その背後には子供を見守る両親がいる)。

 

 

 創刊号が震災直後のものであることは既に記したが、実際に創刊号掲載の「くわんのんさま の はと」(文:小寺菊子 絵:岡本歸一)は、震災に遭った浅草の観音様のハトを主人公としたエピソードである。しかし同時に創刊号に載せられている「ワタシタチノイへ」(伊藤たかし)にあるのは、テーブルに椅子、カーテンのある室内(それが「私たちの家」なのだ)で遊ぶ洋装の三人の女の子の姿なのである。そこには、憧れの洋風な「ハイカラ生活」が展開されているわけだ。図録を見渡せば、大正13年4月号には蓄音機がある生活が登場し、同年の7月号のまさに「チクオンキ」と題されたページ(文:岡島トキ子 絵:下村泰一)に描かれているのは、ピアノのある洋室内で、兄さんお姉さんと一緒にダンスに興じる女の子(もちろん全員洋装!)の姿である。基調として見出せるのは、洋風の希望ある未来生活像であろう(震災当時の写真を見れば、それが、多くの日本人が和装で暮らしていた時代の話であることがわかる―もちろん、和服姿の子供が誌面に登場しないわけではない)。

 獅子舞や三河万歳が、そして羽根突きや凧揚げが当たり前の正月風景として取上げられ、同時にクリスマスのサンタクロースが都会の景色の中に登場し始める時代であることが、誌面から伝わってくる(和服姿が「七五三」の晴れ着ではなく普段着であり、その一方で洋装の普段着化が進行しつつある時代の姿がそこにある)。

 

 「戦前」の「絵雑誌」という括りから期待してしまう(?)かも知れない、「戦争へ向かう時代」イメージは、昭和7年頃までの各号には見当たらない印象である。

 残念なことに、会場には昭和7年10月号から昭和11年8月号までの展示がないのでその間の推移がつかめないのだが、昭和11年9月号には「防空演習」(安田小彌太)が掲載され、誌面での軍事色が一気に強められている。

 昭和6年の満洲事変(満州国建国が翌昭和7年である)から昭和12年の盧溝橋事件(それが支那事変となり、最終的に日米戦争へと展開してしまう)へと続く時代の流れのどの時点で『コドモアサヒ』の世界に軍事色が侵入したのかは、私には興味深い問題である(大正年間のものに比べて、昭和期のものには、教育的あるいは学習教材的な、お勉強モードの記事が増えている印象もある―財布を握っている親へのアピールだろうか?)。

 

 支那事変三年目となる昭和14年4月号に掲載の「ヨロコンダオバアサン」(文:濱田廣介 絵:深澤省三)は、戦禍の中の中国大陸が舞台である。難民とならざるを得なかった中国人の少年とその祖母を主人公として、戦場となりつつあった村からの避難の途上で、何よりの財産であるヤギを失った二人の絶望感が描かれている。しかし、祖母に(そして少年に)希望をもたらしたのは、地平線の彼方から現れた日本軍の姿だったのである。そこで話は結ばれるのだが、実際の皇軍は、既に南京攻略戦の過程で、徴発という名の略奪行為を繰り返す軍隊に堕していた(対米英戦としての「大東亜戦争」に至り、それはアジア全域で繰り広げられるに至る―たとえば、http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3010.html を参照のこと)。しかし、『コドモアサヒ』の読者にとっては、あくまでも皇軍は、戦下の住民に安心をもたらす正義の軍隊なのであった。その時、既に彼らの兄や父は前線の兵士として、現地調達主義の皇軍の実態に直面させられていたわけである。

 

 

 昭和16年1月号になると、「日本の陸軍(七) クヮンペイシキ」(高井貞二)、「センカン ノ ナカ」(安井小彌太)はそれぞれ陸海軍の雄姿を描いたものだし、「オモシロクラブ」(ヨコヰ・フクジラウ)にも「ヘイタイサン」への慰問文が登場する。「海南島ダヨリ1 コドモノ巻」(黑崎義介)には南進ムードの高まりの反映を見ざるを得ないだろう。確かに、子供の世界までにも軍事色が進出した時代なのであった。その果てに、真珠湾攻撃に始まる対米英戦争が位置しているわけである。戦争に連なる時代としての「戦前」イメージは、ここに至って、誌面にも確実なものとして展開されているのであった。

 

 当年九歳の小学生であった小林信彦(1932年生まれ)は、

 

 一九四一年(昭和十六年)の春、小学校は突然、〈国民学校〉と改称された。小学三年生になるはずのぼくは〈国民学校三年生〉になった。
 同じ日(四月一日)に、〈生活必需物資統制令〉が公布された。米、木炭、酒が次々と配給制になってゆく。
 配給制とは、具体的にいえば、かりにお金があったとしても、モノが買えないのである。一般成人の米は一日・二合三勺(三三〇グラム)と決められ、米穀通帳がなければ入手できない。外で食べようとすれば、外食券が必要だった。

 こう書くと、いかにも暗い日々のようだが、子供にとってはそれほどでもない。
 ぼくの家は生菓子屋で、父親のいうには〈当時としては中の上の生活〉とのことだった。生菓子屋は、砂糖や小麦粉が特別に入ってくるし、そのころはまだ番頭、職人、小僧、女中が何人かいたから、配給米で足りるはずもなく、闇米を買う。久松警察と仲がよかったから、問題はおこらない。
 ただ、マッチや食用油までが配給切符制になるのは、淋しいというか、心もとない気がした。生まれてから〈自由〉という言葉を知らないぼくだが、それでも、音階の〈ドレミファソラシド〉が〈イロハニホヘト〉に改訂されるなど、なんだか滑稽な気さえした。たぶん米英的という理由からだろう。
 夜になると、家族は麻雀を始め、ぼくも加わった。映画・演劇にこれといって見るべきものがなかったからだろうか。家庭に入っている唯一の娯楽のラジオは戦時色に塗りつぶされ、〈忠君愛国〉を呼びかけていた。
〈自由〉を知らなくとも、〈米英的エンタテインメント〉の中で育ったぼくは、本能的に〈米英的なもの〉を探し求めていた。そのアンテナにひっかかったのが、〈マキノ正博〉と〈古川ロッパ〉である。
     (小林信彦 『一少年の観た〈聖戦〉』 ちくま文庫 1987)

 

…と当時を回想しているが、小林信彦少年の(身近に〈米英的なもの〉があったりする)経験は、『コドモアサヒ』を購読者として支えた階層の経験と重なるものと見てよいと思われる。国民学校三年生にとって(両親たちにとっても)、支那での「事変」は続いていたものの、「戦争」はまだその時点では、どこか他人事だったようにさえ見える。

 

 しかし、その年の12月、「帝國陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」との言葉と共に、「事変」は「戦争」そのものへと進展する。

 再び小林信彦少年に登場してもらうと、

 

 年が明けて、一九四二年(昭和十七年)の正月は、めでたいことずくめだった。
 なにしろ、開戦と同時に、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊の大半を〈やっつけて〉しまった。十二月中に、バンコックを占領し、イギリスの〈浮沈戦艦〉プリンス・オブ・ウェールズを撃沈し、米軍のいたグアム島、英領の香港を占領した。
 一九四二年の正月、とくに一月二日にマニラを占領したのは特にめでたい。
 一月三日か四日かは忘れたが、父親につれられて親子三人で銀座を歩いた。〈祝皇軍マニラ占領〉の大きな貼紙がショウウィンドウに貼ってあった。――その日、新橋に近い千疋屋で、ヒラメのムニエルを食べたのが忘れられない。横文字言葉が禁じられているのに〈ムニエル〉はいいのかな、と考えたのである。

 奇妙な話をするようだが、ぼくにとって、〈大東亜戦争〉とは、ぼくが猛獣狩りをするためのチャンスであり、プロセスであった。日本軍によるマレー半島、シンガポール、ボルネオ、スマトラ、ジャワの占領は永久につづくものと信じていた。〈占領がつづく〉というよりも、それらの土地はすべて〈日本〉の二文字になるはずであった。
 ボルネオ、スマトラ、ジャワにすむ動物のちがい、種類を、当時はすべて記憶していた。問題はビルマ、そしてインド全土の占領がいつになるかであった。

 

…という具合で、開戦当初の正月は「めでたいことずくめ」に過ぎ、戦争は「猛獣狩り」の夢の現実化するチャンスに感じられていたのであった。しかし、(国民が知ることはなかったが)6月にはミッドウェー海戦で帝國海軍は大打撃を受け、12月にはガダルカナル島からの撤退が現実の問題となる。戦争が「めでたいこと」であった短い時期は過ぎ、戦局の悪化のみが大日本帝國の現実となっていくのである。

 その昭和17年に、『コドモアサヒ』は『週刊小国民』と改題され、月刊誌としての歴史を閉じることになる。「コドモ」が「ハイカラな夢」を楽しむ時代は終わり、「小国民」として戦争を闘う国家の一員となる「総力戦」の時代、誰にとっても戦争が他人事ではない時代がやってきたのである。

 

 その「戦争」の最前線に狩り出されたのが、まさに『コドモアサヒ』創刊号の読者たち、あの(現在からはノスタルジックな)ハイカライメージに覆われた大正期の『コドモアサヒ』誌面の読者たちの世代だったわけだ。

 ハイカラで明るいはずの彼らの未来の多くは、ガダルカナルやインパールやフィリピンのジャングルの奥での餓死で終わってしまった。あるいは、木村久夫上等兵のように、皇軍の一員であったがために、刑場で人生の終焉を迎えていたかも知れない(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-33ad.html 参照)。

 幸運に戦場を生き延びても、復員した日本は既に焦土と化していたのであった。『コドモアサヒ』創刊の年に震災で焼けた東京は再び空襲で焼き尽くされ、『コドモアサヒ』を創刊した大阪朝日新聞社の大阪までもが戦災で焼き尽くされていたのである。それが創刊号読者世代にとって、かつての誌面で夢見た明るい(はずの)未来の現実の姿なのであった。

 

 

 

 

…というのは、言うまでもなく近現代史サイドの視点からの話であって、小川未明、野口雨情、北原白秋、武井武雄、横山隆一…といった執筆陣による「絵雑誌」の世界を味わうのが本道であろう。歴史の中の日本の戦争にこだわるようなヤボなことは忘れて、懐かしさの源泉としてのコドモの夢の世界を、それを提供しようとした作家や絵描きやその背後の編集者の姿を、展示された43冊の『コドモアサヒ』の中に見出したい(…と言いつつ、近現代史的には、執筆者の中に見出される、北川千代子、遠山陽子、サカヰヤスコ…といった女性たちの存在にも注目しておくべきかも知れない――などと、考えずにはいられないのは、あくまでもヤボな私である)。

 「絵雑誌」という媒体の性質として、常に視覚的イメージに伴われてページが展開するので、文字媒体以上に様々な読み取りが可能になっているわけでもある。読むよりもまず見る展示、そして、見ることが読むことになる展示、ということであろうか?

 

〔追記〕

 以下に、展示を再見して気付いたことを記しておこう。

 本文で紹介した「ヨロコンダオバアサン」の掲載された号には、別のページに、
 
   シナノコドモ

     さくらぎ・しゆん
     川上 四郎 ゑ

   センチニ イツテル パパサンガ
  オシヤシン オクツテ クダサツタ
  パパト イツシヨニ ニコニコト
  シナノコドモガ ウツツテタ

  パパノ テガミノ モンクニハ
  『ツンコピン ハ ニクイケド
  シナノコドモハ カハイイゾ
  キヤラメル モラツテ オホゲンキ』

  シナノコドモハ ニツポンノ
  ヘイタイサント オトモダチ
  スグニ オボエル ニツポンゴ
  コンニチハ オハヤウ 一二三

  シナノコドモハ ボクタチノ 
  ナカヨシコヨシノ オトモダチ
  ウミノムカフノ クニダケド
  ナカヨク シヨウ テヲツナゴ

     ツンコピン ト イフ ノハ シナ ノ
     ヘイタイ ノ コト デス。
 
…という内容の記事があった。ここには、中国大陸での戦闘に従事する皇軍兵士としての、読者の父が登場しているわけだ。右ページに「パパサン」の手紙を囲む子供たち(女の子三名、男の子一名)の姿、左ページには「シナノコドモ」と一緒に写る「パパサン」の写真の挿絵が添えられている。
 読者の父が「パパサン」と呼ばれていることは興味深い。『コドモアサヒ』の読者として、子供が父を「パパ」と呼ぶような生活様式の階層が想定されていたことを意味するし、1939年の時点ではまだ、「パパ」という語が英米的だとして誌面から排斥される(戦前という時代のステロタイプなイメージから連想される)ような空気に至ってなかったらしいこともわかる。
 しかし、「ツンコピン ハ ニクイ」と書く父の戦場での任務が、「シナノコドモ」から彼らの父を奪うことで果たされていたことまでは、読者の想像力は及ばなかっただろう。
 
 次に挙げるのは、昭和16年(1941年)11月号の記事である。
 
  幼稚園メグリ(六)
   ボクラノ エウチヱン

  ボクラノ オトウサン ハ
  ヘイタイデス。オクニ
  ノ タメニ イサマシク
  センシ ナサレタノデス。
  ボクラモ オトウサンニ
  マケナイ ツヨイ ヨイコ
  ニ ナルノデス。マイニチ
  ゲンキニ エウチヱンニ
  キテ ヰマス。

   イサヲ幼稚園
       所在-大阪市住吉区北畠一丁目
       園長-庄野貞一
 
 同年に連載されていた、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズの一つであるが、ついに「パパサン」ならぬ「オトウサン」は、(まだ対米英開戦前であるから中国大陸での話だが)「オクニノタメニイサマシクセンシ」してしまうのだ。この「幼稚園メグリ」は、実際の幼稚園の取材に基づくシリーズなので、取材先でのエピソードを伝えたものだろう。
 いずれにしても、読者の「オトウサン」は、「ツンコピン」相手の(つまり「シナノコドモ」たちの父相手の)戦闘で「センシ」したのであった。

 そして、読者の(そして「パパサン」あるいは「オトウサン」の)「オクニ」は、「ツンコピン」相手の戦闘に勝てぬ泥沼から抜け出せぬままに、同年12月8日には米英相手の戦争まで始めてしまうのであった。こうして、『コドモアサヒ』の時代は終焉を迎えたのである。
                    (2010年11月28日記)

 

 

「コドモアサヒの時代」
開催日程:2010年11月08日(月)~2010年12月18日(土)
休館日 日曜日・祝日、開館時間10:00-18:00(土曜日は17:00まで)
開催場所:武蔵野美術大学 図書館展示室
主催: 武蔵野美術大学 美術館・図書館
(参照→ http://www.musabi.ac.jp/topics/exhibition/20101026_bijutu_01.html

 

 

 

 

 
(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/14 19:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/151665/

 

 

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2010年11月 8日 (月)

続・笑止、笑殺、黙殺 (原爆投下とソ連対日参戦)

 

 ポツダム宣言をめぐる、昭和20年7月28日の、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである

…という鈴木貫太郎首相の談話(報道されたのは29日あるいは30日の各新聞紙面)にある「黙殺」という語が、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…という7月28日の第一報紙面での評価に続くものとして、言論統制下の新聞紙上に登場したことは、前回に記した通りである。

 
 

 『ウィキペディア』での「ポツダム宣言」の項では、その間の経緯を、

 

7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表し、翌28日には読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

 

…と説明している。ここには、

  この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、

  またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された

…とあるわけだが、

  笑止、笑殺、帝國政府問題とせず

…という国内報道の流れからすれば、「ignore it entirely(全面的に無視)」あるいは「Reject(拒否)」という訳語を「誤訳」として批難することも難しいだろう。

 

 いずれにしても、鈴木首相によるポツダム宣言の「黙殺」は、原爆投下を目指していたトルーマン大統領にはまさに「天佑神助」となったのである。ここでは、『ウィキペディア』の「広島市への原子爆弾投下」の項を読もう。そこには、

 

米国政府の声明 8月7日
6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。

16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。
ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

 

…という、トルーマン大統領の声明の内容が紹介されている。

 トルーマンは、大日本帝國政府によるポツダム宣言の「黙殺(つまり Reject である)」という取り扱いに対し、 

  ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。

  日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。

  もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。

…と応じたのであった。

 ポツダム宣言黙殺は、原爆投下の正当化に、大いに役立ったのである。

 

 

 

 ポツダム宣言の「黙殺」は、対日参戦を目指していたスターリンにも何よりのプレゼントとなった。ソ連政府による対日宣戦布告は、

 

政府ノ訓令ニヨリソ連政府ノ日本政府ニ對スル左ノ宣言ヲ傳達スヘシ
ヒットラー獨逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引續キ戰争ヲ繼續シツツアル唯一ノ大國トナレリ、日本兵力ノ無條件降伏ニ關スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆國、英國及ヒ支那三國ノ要求ハ日本ニヨリ拒否セラレタリ、コレカタメ極東戰争ニ關シ日本政府ヨリソ連邦ニ對シナサレタル調停方ノ提案ハ總テノ根據ヲ喪失スルモノナリ
日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合國ハ戰争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ數ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢獻スルタメソ連政府ニ對シ日本侵略者トノ戰争ニ参加スルヤウ申出テタリ
總テノ同盟ノ義務ニ忠實ナルソ連政府ハ連合國ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合國宣言ニ加入セリ
斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ
右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戰争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス

東郷外務大臣・マリク大使會談録(八月十日午前十一時十五分-十二時四十分)
     (外務省編纂 『日本外交年表竝主要文書』 原書房 1966)

 

…というものであった。ポツダム宣言の「黙殺」は、ソ連政府により、

  日本兵力ノ無條件降伏ニ關スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆國、英國及ヒ支那三國ノ要求ハ日本ニヨリ拒否セラレタリ

…と解釈され、それまでの日本政府からのソ連政府による和平仲介の希望(調停方ノ提案)は、

  コレカタメ極東戰争ニ關シ日本政府ヨリソ連邦ニ對シナサレタル調停方ノ提案ハ總テノ根據ヲ喪失スルモノナリ

…として処理され、ソ連の対日参戦が、

  斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ

…として正当化されたのである。つまり、ポツダム宣言黙殺は、「日ソ中立条約」を一方的に破棄しての対日参戦の口実としても、大いに役立ったのであった。

 

 

 

 戦後間もない日に、ある日本人は、次のような言葉を残した。

 

  御聖断遂に降る

 今から思へばソ聯の参戦といふことがなかったならば、原子爆弾のみでは或ひはこのやうに急速な終戦はやって来なかったかも知れない。この意味では、ソ聯の参戦はその宣戦布告にも云ってゐるやうに、確かに「平和の招来を早からしめた。」ソ聯から宣戦されることによって政治的な唯一の活路をもまた閉ざされた日本は、戦力の点ではこれよりずっと以前に完全に参ってゐたのである。いまはもはや無条件降伏以外に潰滅から免れる方法は残されてゐなかったのである。軍部、殊に陸軍の一部に行はれてゐたやうな無謀極まる自滅戦術――皇国を焦土と化して一億玉砕のゲリラ抗戦を継続するといふ狂気沙汰に興せざる限り政府當路としてここでなすべきことは既に決まっていたのである。

     (大屋久壽 『終戦の前夜』 時事通信社 昭和20年12月15日刊)

 

 

 それは、政治が軍事に従属させられた果ての結末であった。「戦力の点ではこれよりずっと以前に完全に参ってゐた」にもかかわらず、原爆被害とソ連参戦を抜きに、政治的に戦争終結が導かれることはなかったのである。軍人は「完全に参ってゐた」事実を事実として認めようとはしなかったし、政治家にも軍人を説得する力はなかった。そして国民は、既に国家が軍事的に「完全に参ってゐた」にもかかわらず、原爆の「地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨」の威力と、ソ連軍の「平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸國民ヲ解放セシメ且ツ獨逸カ無條件降伏拒否後體驗セル如キ危險ト破壊ヨリ日本國民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法」のもたらす苦難の犠牲となっていったのである。

 ポツダム宣言受け入れによる戦争終結を促したのは、結局のところ、原爆とソ連軍だったのであり、ポツダム宣言受け入れによる戦争終結を最終的に決定したのは、政治家の理性でも軍人の潔さでもなく、国体存続を望む天皇の意思であった。

 

 

 いずれにせよ、ポツダム宣言の「黙殺」は、トルーマンとスターリンに原爆投下と対日参戦のチャンスを与え、その正当化の論理さえ提供したのである。大東亜戦争の軍事的敗北は、ダメ押し的な外交的敗北と共に訪れていたのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/08 22:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/151240/

 

 

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2010年11月 7日 (日)

笑止、笑殺、黙殺 (原爆投下とソ連対日参戦)

 

 昭和20年8月7日の高見順の日記には、原爆投下をめぐって、

「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」
 と私は言った。

     高見順 『敗戦日記〈新装版〉』 (文春文庫 1991)

…と、書かれている。

 ポツダム宣言「黙殺」をめぐっては、既に「現代史のトラウマ」で取上げているのだが(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-5633.html)、今回はあらためて詳細を追ってみたい。

 

 

 

 まず、国内的な第一報の新聞記事を読もう。『讀賣報知』の昭和20年7月28日の記事には、

 

 

 笑止、對日降伏條件
  トルーマン、チャーチル、蒋連名
     ポツダムより放送す

【チューリヒ特電廿五日發】トルーマン、チャーチルおよび蒋介石は廿五日ポツダムより連名で日本に課すべき最後的條件なるものを放送した、右條件要旨次の如し
 以下の各條項は吾々の課すべき降伏の條件なり、吾々はこの條件を固守するものにして他に選択の余地なし、吾々は今や猶余するところなし
一、世界制服を企つるに至れるものの権威と勢力は永久に芟徐されるべきこと、軍國主義を放逐すること
一、日本領土中聨合國により指定せらるる地点は吾々の目的達成のため占領せらるること
一、カイロ宣言の條項は実施せられるべく日本の主権は本州、北海道、九州、四國およびわれわれの決定すべき小島嶼に限定せらるること 
一、日本兵力は完全に武装解除せらるること
一、戰争犯罪人は厳重に裁判せらるること、日本政府は日本國民に民主主義的傾向を復活すること、日本政府は言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと
一、日本に留保を許さるべき産業は日本の経済を維持し且つ物による賠償を支拂得しむる如きものに限られ、戰争のための再軍備を可能ならしむるが如き産業は許さざること、この目的のため原料の輸入は許可せらるること、世界貿易関係に対する日本の参加はいづれ許さるべきこと
一、聨合國の占領兵力は以上の目的が達成され且つ日本國民の自由に表明されたる意志に基づく平和的傾向を有する責任政府の樹立を見たる場合は撤退せらるること
一、日本政府は即刻全日本兵力の無條件降伏に署名し且つ適切なる保証をなすこと、然らざるにおいては直ちに徹底的破壊を齎らさるべきこと

 國内、對日両天秤
  老獪な謀略
   敵宣言の意圖するもの

トルーマン、チャーチルおよび蒋介石の三名は別項特電の通り廿五日のポツダム放送において對日降伏條件なるものを公表したが、右の各條項は何れもカイロ宣言の延長擴大に外ならず、欧洲戰の終末大東亜戰争の最終段階突入の世界情勢を背景として次の如き意圖を織り込んだ多分に謀略的要素を有するものであることはいふまでもない
一、ドイツに對し無條件降伏一点張りでドイツをして最後まで抵抗せしめそれによつて必要以上の損害を受けたことに米國内に非難があるため今回は方針を改めて対日勧告をなし自國民の諒解を求めんとしたこと
一、國内に平和要望の聲が次第に高いため彼らからみて相当緩和した條件を出して、もし日本がこれを肯んぜず戦争を継續せんとするならばあくまで戰はざるを得ずと自國民を納得せしめ戰意の昂揚に資せんとしたこと
一、硫黄島、沖縄における米側の犠牲が多大であつたに鑑み日本がこれを受諾せざる場合は戰争を継續するより他なし、従つて更に大なる犠牲を忍ばねばならぬことを明らかにし自國民の覺悟を促したこと
一、自らの武力の壓倒的に大なることを誇示し日本の敗戰気分を醸成し併せて日本の軍民離間を狙つたこと

 戰争完遂に邁進
   帝國政府問題とせず

敵米英並びに重慶は不逞にも世界に向かつて日本抹殺の對日共同宣言を發表、我に向かつて謀略的屈服案を宣明したが、帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺、断乎自存自衛のための大東亜戰争完遂に擧國邁進、以て敵の企圖を粉砕する方針である

 敵對日共同宣言内容報告
     定例閣議

廿七日の定例閣議は午後一時から首相官邸に鈴木首相以下各閣僚出席の下に開かれ東郷外相より目下ポツダムに於いて進行中の三頭會談に付随してトルーマン、チャーチル、蒋介石の三者連名により發せられた對日共同宣言の内容につき詳細なる報告あり同五時散會した
 

 

…と書かれている。ここでは、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…といった文言に注目しておきたい。

 第二報となる7月30日の紙面は、

 

 

 冷静に、軍を信頼し
  待て敵撃滅の好機
    空襲激烈下 生産力は十分
 首相・必勝の穏忍を説く

敵の空襲は愈々激化し機動部隊並に潜艦の本土艦砲射撃また頻々と傳へられ本土決戰の機運愈々濃化しつつある折柄敵米、英、重慶は笑止にもトルーマン、チャーチル、蒋介石三者の名を以て我に降伏を強いる對日共同宣言を廿七日ポツダムより世界に向かつて放送、今次大戰の短期終結を急ぐ自らの焦躁を暴露した、かかる内外の緊迫せる情勢下、鈴木首相は廿八日午後首相官邸において内閣記者團と會見、左の如き一問一答をなしたが、首相は特に
一、敵の空襲並に艦砲射撃に対して軍が本格的遨撃作戦を行つてゐないのは軍獨自の作戰的見地から出てゐるのであつて、國民はあく迄も冷静に軍を信頼し只管敵撃滅の好機を待つべきこと
一、敵の三國共同宣言はカイロ会談の焼き直しで何等価値を認めず政府としてはあく迄必勝の信念の下に大東亜戰争完遂に邁進する決意であること
一、敵の熾烈な空襲にも拘らず我が生産力は地下工場の進捗により決して悲観すべき状態ではなく現在月数千機の航空機生産が可能であること
を言明、國民に必勝の信念に基く穏忍と勤勞意欲の昂揚を要請、満々たる必勝の信念を吐露したことは注目される
(以下「一問一答」の詳細記事が続くが、ポツダム宣言関連事項のみ引用)
問 廿七日の三國共同宣言に〇〇首相の所信如何
答 私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである
(〇〇は判読不能文字〉

 

 

…というものであり、ここに、あの有名な「黙殺」の語が登場するわけである。つまり、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである、我々は戰争完遂に飽く迄も邁進するのみである

…ということなのだ。

 

 ここでの「黙殺」という語のニュアンスが、第一報記事の、

  笑止、對日降伏條件

  帝國政府問題とせず

  帝國政府としてはかかる敵の謀略については全く問題外として笑殺

…との態度の延長として考えられてしまうのは当然のことであろう。

 
 

 参考までに、当時の辞典上での「黙殺」という語の取り扱いを見ておこう。
 

 【黙殺】
 他人の言動に対して是非をいはず、為るがままにしておくこと。
 見のがすこと。見て見ぬふりをすること。
     (平凡社『大辞典』昭和11年初版)

 現在の語感に比べて、若干、穏やかな印象である。これが最近のものだと、

 【黙殺】
 〔「黙」は無の意、「殺」は強めの言葉〕
 〔他人の発言・行動などを〕無視して全く問題にしないこと。
     (三省堂『新明解国語辞典第二版』)

…と、より強いニュアンスに変化している。この変化の背景には、ポツダム宣言「黙殺」の歴史が埋め込まれているのかも知れない。

 ポツダム宣言に対する、

  笑止、笑殺、帝國政府問題とせず

…との日本政府による評価が、国家による言論統制下の新聞紙上で報じられ、その上で、

  私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考へてゐる、政府としては何等重大な価値あるとは考へない、ただ黙殺するだけである

…との首相談話が、ダメ押し的に掲載されたわけである。そこに演じられたのは、まさに、

 〔他人の発言・行動などを〕無視して全く問題にしないこと

…としての「黙殺」という行為であった。

 

 

 その「黙殺」が大日本帝國にもたらしたのが、原爆投下とソ連参戦だった。

 いや、より正確には、原爆投下と対日参戦の正当化の理由までを米ソそれぞれに提供してしまったのが、大日本帝國の首相によるポツダム宣言「黙殺」談話なのであった。
                     (その詳細は次回)

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/11/07 21:37 → http://www.freeml.com/bl/316274/151161/

 

 

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