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2010年8月17日 (火)

続々々々々・「事変」と「中立」

 

 1937年(昭和十二年)7月7日、いわゆる盧溝橋事件を機に、日本軍と中国国民党軍は軍事的衝突の継続状態に入った。

 しかし、どちらも宣戦布告をすることはなく、大日本帝國政府はと言えば、「戦争」ではなく「事変」と呼んで対処することを選んだ。それが「支那事変」である。

 

 

 「事変」に対し、米国は「中立法」の発動を選択しなかった。その間の事情を、大山卯次郎氏は、パンフレット「米國中立法の意義及其適用に就いて」の中で、

 

  尤も大統領の意向を代弁するのではないかと思はれる米国上院外交委員長ピットマン氏は北支事変不拡大当時の七月二十九日「戦争状態の存在を決定することは困難な問題である、余り性急に行動しては現在米国政府が続けつつある平和の努力を水泡に帰せしむる恐れがあるのみならず、大統領が中立法を布告して間もなく戦争が止まる様なことがあつては、大統領が面目を失することになる」と云ひ、事変拡大後の八月十四日に至り「支那の新事態は明らかに戦争と認められる、しかし日支両国のいずれもが未だ宣戦の布告を為さざる以上、大統領がその存在を宣明する必要もあるまい」との意味の談話を発表して居るのであつて、人をして政府は中立法の施行を好まないのではないかと思はしめて居る。

 

…と、述べていた(前回までの話)。

 

  支那の新事態は明らかに戦争と認められる、しかし日支両国のいずれもが未だ宣戦の布告を為さざる以上、大統領がその存在を宣明する必要もあるまい。

…との上院外交委員長の言葉は、確かに理屈に合っているものではあるのだろう。

 しかし、もちろん、大山博士の指摘する、

  此処に我等の大に注意を要することは、米国が今回の日支事件に関しこの法律を持て余して居ると云ふことである。その理由は米国がこの法律を制定した時には、米国の眼中に欧州のみあつて、東洋のことは余り考えて居なかつたのである。

  それ故英国が中立法に対して英国に都合が良い様な修正を要求した時に米国は英国に利益を与える積りで之に同意し「現金購入・自船積取」の規定を設けた次第であるが、今度日支事件が起つたので考へて見ると、英国に有利なこの規定は同じ海軍国であり又海運国である日本にも有利であり、それが甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らかになつたので、此法律をこの事件に適用することは考へものだといふ意見が、米国の有力者の間に於て盛に唱へられてゐる。

…との事情も、その判断の背景として考えなければならない。

 1937年5月に「現金購入・自船積取(キャッシュ・アンド・キャリー)」条項を追加修正したばかりの「中立法」の発動の結果は、海運国である日本を一方的に利するばかりで、「甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らかにな」ってしまったわけである。そこで、一方的に「支那に不利益である」法の発動を(あえて)すべき理由はないと米国政府が判断した、ということになるのだろう。

 蒋介石の国民政府が日本に対する「宣戦布告」の選択をしなかった背景にも、同じ問題を見出すことが出来る。日支両国間の「戦争状態」を宣言してしまえば、米国からの物資に大きく依存していた中国政府自身に、海運国日本の比ではない不利益な状況がもたらされてしまうわけである。「事変」であるという日本政府の主張は、そのような形で、中国の国益にも合致していたのである。

 結局、米国による「中立法」の発動を見ないままに、大陸での「事変」は拡大していくばかりであった。前回に示したように、「事変拡大」つまり大日本帝國による対支軍事力行使の継続を支えていたのもまた、「中立法」の不発動により継続されていた米国からの石油供給だったのである。「中立法」の不発動は、日本政府の利益にも合致するものであった(それが、日本による対支軍事行動が日本政府により「事変」と呼ばれるそもそもの理由であったことを思い出そう)。

 

 同年末には、大日本帝國の軍隊は国民政府の首都南京攻略を果たすが、しかし、南京陥落後も(帝國の期待していた)国民政府の屈服という事態は訪れなかった。国民政府の抗戦意欲が衰えることはなかったし、むしろ国民政府の求心力は強化されたようにさえ(現在の視点からは)見える。

 

 

 

 翌1938年(昭和十三年)1月16日、首都陥落を誇るべき軍事的達成と考えた近衛文麿首相は、あの有名な声明を発表してしまう。

 

 

     「國民政府ヲ相手ニセズ」  政府聲明
昭和十三年(1938年)一月十六日
帝國政府ハ南京攻略後尚ホ支那國民政府ノ反省ニ最後ノ機會ヲ與フルタメ今日ニ及ヘリ。然ルニ國民政府ハ帝國ノ眞意ヲ解セス漫リニ抗戦ヲ策シ、内人民塗炭ノ苦ミヲ察セス、外東亜全局ノ和平ヲ顧ミル所ナシ。仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス。元ヨリ帝國カ支那ノ領土及主權竝ニ在支列國ノ權益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫モカハル所ナシ。今ヤ東亜和平ニ對スル帝國ノ責任愈々重シ。政府ハ國民カ此ノ重大ナル任務遂行ノタメ一層ノ發奮ヲ冀望シテ止マス。

 

 

…と言うだけでは足らず、2日後にはダメ押しまでしてしまう。

 

 

     (参考)  補足説明
          昭和十三年(一九三八年)一月十八日
爾後國民政府ヲ對手トセスト云フノハ同政府ノ否認ヨリモ強イモノテアル。元來國際法上ヨリ云ヘハ國民政府ヲ否認スルタメニハ新政權ヲ承認スレハソノ目的ヲ達スルノデアルカ、中華民國臨時政府ハ未タ正式承認ノ時期ニ達シテヰナイカラ、今回ハ國際法上ノ新例ヲ開イテ國民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノテアル。又宣戰布告ト云フコトカ流布サレテヰルカ、帝國ハ無辜ノ支那民衆ヲ敵視スルモノテハナイ。又國民政府ヲ對手トセスヌ建前カラ宣戰布告モアリ得ヌワケテアル。

 

 

 大日本帝國は、こうして外交の場での交渉の相手を否認(実際には「否認ヨリモ強イモノ」とまで主張している)することで、外交的解決の機会を自ら棄ててしまったのであった。つまり、外交交渉による事変の終息の機会と手段は失われ、大陸における果てしない軍事力行使が続けられることになる。交渉での決着の道を否定してしまった以上、軍事的に解決する以外になくなってしまったのである。「事変の完遂」とは、国民政府の屈服による事態の終息の到来への希望を意味している。しかし、大日本帝國の国力では、中国大陸での全面的な軍事的制圧など望み得るものではなかった。米国からの石油供給なしには、軍事的勝利どころか、戦闘行為の継続さえ不可能なのであった。

 

 

 

 拡大する事変に対し、では、米国はどのように振舞っていたのか?

 

 10月6日、日本駐在米国大使から提出された、「中國に於ける米國權益確保に関する米大使申入」(十月六日附在京米國大使來翰第一〇七六号)では、

 

 

 …統制及課税竝ニ貿易禁止ヲ為ス最高権力カ直接ニセヨ間接ニセヨ一外國ノ官憲ニ依リテ右外國ノ利益伸張ノ為メニ行使セラルル限リ支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放ノ存シ得ルヘキコトハ殆ント贅言ヲ要サルヘク候、支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放ノ基礎要件ハ支那ニ於ケル経済活動ニ関シ直接ニセヨ間接ニセヨ一外國乃至其國民ノミヲ利益スルカ如キ特恵乃至独占的権利ノ存在セサルヘキ事ナル事ハ自明ノ理ナルへク候…

 …本使ノ申述ヘタル右諸事態ハ支那ニ於ケル日本ノ政策ノ明瞭ナル傾向ヲ示シ且日本軍占領下ノ地域ニ於テ日本官憲カ日本ノ利益ノ為ニ特恵及優越権ヲ確立スヘク努力シ居リ其必然的結果トシテ門戸開放主義ノ実際的適用ヲ破壊シ且米國市民ヨリ機会均等ヲ剥奪スルモノナルコトヲ明瞭ニ物語ルモノニ有之候

 

 

…との、米国政府の立場の説明と日本政府への要求が示されていた。ここで問題とされているのは、

  門戸開放主義ノ実際的適用ヲ破壊シ且米國市民ヨリ機会均等ヲ剥奪スルモノナルコトヲ明瞭ニ物語ル…

…大日本帝國の大陸における振る舞いであった。利己的で一方的な大日本帝國の帝国主義的振る舞いが、門戸開放機会均等主義により保障されているはずの米国の帝国主義的利益獲得を阻害しているという指摘なのである。

 外交交渉での日米間の問題の焦点は、実は、そこにあった。

 

 ここには、海運国である日本を一方的に利するばかりで「甚だしく支那に不利益であると云ふことが明らか」となった「中立法」を、米国が発動しないことへの積極的な理由を見出すことも出来るだろう。大陸において米国の権益追求の機会を阻む大日本帝國の軍事的政策の展開に対し、大陸における大日本帝國の権益追求に有利となるだけの「中立法」の発動を米国が選択しないことには、米国自身の国益追求上からも十分な理由があったことになる。

 日支間の軍事的衝突が「実質国家間の戦争行為」であるにもかかわらず、それを大日本帝國が「事変」と呼び、国民政府も「宣戦布告」を回避し、米国も「中立法」を発動しなかった背景には、各国それぞれの国益追求上のそれぞれに合理的理由があったのである。

 

 

 

 米大使グルーに対する有田八郎外務大臣からの回答は、

 

 

 帝國政府ハ支那ニ於ケル貴國権益ハ之ヲ充分ニ尊重スルノ意図ヲ以テ出来得ル限リノ努力ヲ為シ来レルモノナル処目下東亜ニ於テハ有史以来會テ見サル大規模ノ軍事行動行ハレツツアルヲ以テ貴國権益尊重ノ意図ヲ実行スル上ニ時トシテ支障ヲ生スルコトアルハ貴國政府ニ於テモ御諒承相成ルヘキコトト存候目下帝國ハ東亜ニ於テ真の国際正義ニ基ク新秩序ノ建設ニ全力ヲ挙ケテ邁進シツツアル次第ナルカ之カ達成ハ帝國ノ存立ニ欠クヘカラサルモノタルノミナラス東亜永遠ノ安定ノ礎石タルヘキモノニ有之候今ヤ東亜ノ天地ニ於テ新ナル情勢ノ展開シツツアル秋ニ当リ事変前ノ事態ニ適用アリタル観念乃至原則ヲ以テ其ノ儘現在及今後ノ事態ヲ律セントスルコトハ何等当面ノ問題ノ解決ヲ齎ス所以ニ非サルノミナラス又東亜恒久平和ノ確立ニ資スルモノニ非サルコトヲ信スル次第ニ有之候

 

 

…というものであった。外務大臣は、

  帝國政府ハ支那ニ於ケル貴國権益ハ之ヲ充分ニ尊重スルノ意図ヲ以テ出来得ル限リノ努力ヲ為シ来レルモノナル処…

…と言うのではあったが、しかし、

  帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ…

…ていた帝國(近衛声明)が、その成立させられるべき「新興支那政權」に実際に求めていたのは、

 

第四條、 日華経済提携ハ互恵平等ノ原則ニ立チ密ニ経済合作ノ実績ヲ挙ケテ日本ノ優先権ヲ認メ特ニ華北資源ノ開発利用ニ関シテハ日本ニ特別ノ便利ヲ供与ス
     (日華協議記録・昭和十三年十一月二十日)

 

そして、
 

     

二、第四條ノ優先権トハ列國ト同一条件ノ場合ニ日本ニ優先権ヲ供与スルノ意トス
     (日華協議記録諒解事項・昭和十三年十一月二十日)

 

…という、「日本ノ優先権」であり「特別ノ便利」なのであった。現実に、「日本ノ優先権」を前提として中国大陸での振る舞いを続けていた以上、「支那ニ於ケル機会均等乃至門戸開放」を求める米国政府との利害の対立は解消され得ない。ここにあるのは、大陸における「権益」のあり方をめぐる日米の対立である。中国への軍事的恫喝により「権益」の強化を目指す日本と、各国の「権益」の確保は「機会均等乃至門戸開放」原則の下で、非軍事的に自由に行われるべきであると考える米国の対立なのである。

 詰まるところ、大陸における「日本ノ優先権」、「特別ノ便利」としての植民地的権益の維持・拡大の利己的な追及の「完遂」への努力こそが、「事変の拡大」の内実なのであった。そこには、大日本帝國による植民地的権益の維持・拡大の試みに対する対抗勢力であり続けて来たのが蒋介石の国民政府であるという構図が成立してしまうことになる。蒋介石の「屈服」を目指し、戦線を拡大すればするほど、後退を続ける蒋介石への支持基盤は(国内的にも国際的にも)強化されることになるのであった。拡大された戦線の維持だけで、大日本帝國の国力は消耗していくことになる。

 

 一方、その戦線の拡大を支えていたのは、実は、米国である。輸出による外貨獲得先として米国に依存し、輸入による資源確保においても米国に依存していたのが「帝國」の実態であった。「事変完遂」を目指す「帝國」の国力は、輸出入の両面で、大きく米国に依存していたのである。

 事変の拡大の過程とは、その「帝國」が、わざわざ米国との利害対立状態を拡大させる過程でもあった、というわけである。

 

 日米間の利害対立状態の継続の結果、1939年(昭和十四年)には、大日本帝國は、ついに米国から「日米通商条約廃棄」を通告される事態に立至る。

 しかし、それは米国による「最後通牒」となることはなく、日米間の外交交渉の課題は、「日米新通商条約締結」へと移行されることになった。その場での米国の要求は、依然として、

 

 

米国政府ハ「通商上ノ権利及機会の均等原則」ヲ通商条約ノ基礎条件ト為スモノニシテ従テ右原則確立カ新通商条約締結ノ先決要件ニテ又夫レニハ単ニ相手国ノ政策及措置カ問題トナルノミナラス相手国ノ勢力ノ下ニ存スル第三国ニ於ケル米国人ノ取扱ニ関スル点モ問題視セラルルモノナル処目下日本軍ノ占領治下ニ於テハ種々ノ通商居住移動等ニ関スル制限存在シ米国ノ商業上ノ権益ニ対スル均等待遇ヲ不可能ナラシメ居ルヲ以テ右ハ新条約締結ニ対スル障碍ナルモノナルコトヲ指摘セルモノナリ
     (日米新通商条約締結に関する第四次東京会談 昭和十四年十二月二十二日午後五時半ヨリ約一時間大臣官邸ニ於テ)

 

 

…というものであり、米国に対する「帝國」の「通商上ノ権利及機会の均等原則」の保障が求められ続けているのであったが、「帝國」によりその「障碍」が取り除かれるという展開に至ることもなかった。

 

 ドイツの侵攻によりヨーロッパでの戦争が開始された渦中での日独伊の三国の同盟関係の強化(軍事同盟化)は、(大日本帝國の期待としては)米国に対する牽制として機能し帝國の立場を強固にするものであるはずであったが、実際には米国(ドイツに攻撃されている英国の友好国だ!)の反発を買い、対立関係を強化することにしか役立たなかった。

 同時に国策の課題として浮上した、米国に依存しない資源供給確保を目的とした「南方進出(南進)」とは、結局のところ、軍事力を伴う南方への大日本帝國の勢力拡大そのものとして以外に実現し得ず、米国との対立関係を敵対的なものへと確定させるものでしかなかった。

 大日本帝國は、国策として、米国との関係悪化策を採用し続けることで一貫していたのである。

 

 

 

 「事変」の拡大(と消耗)の果てに、大日本帝國が対米英開戦に至るのは、盧溝橋事件から四年後、近衛声明から三年後、日米通商条約廃棄から二年後、日独伊三国同盟が成立し北部仏印進駐という名の南進開始の翌年のことになる。

 

 「中立法」に具体化されていた米国の孤立主義は、真珠湾以後、この地球上から姿を消すことになった。

 

 

 

 

 

 

…というわけで、「事変と中立」とのタイトルで、

 

  事変と言っても実質国家間の戦争行為だった事は明らかで、中立を守らず蒋を支援し続けた列強の行為も問題です。
 

…との主張の妥当性を、当時の国際法の実際、米国の国内法である「中立法」の文言の検討、その間の大日本帝國の政治的軍事的選択、日米間の外交交渉の内実といった観点から検証することを試みて来た。結果として六回に亘るシリーズとなってしまったが、いずれの観点からも、上記紹介の主張がお話にならないものであることが明らかになったように思われる。

 

 「実質国家間の戦争行為」を「事変」と呼ぶことによって、そこに国際法上の「戦争状態」は存在せず(それが大日本帝國の立場である)、である以上、戦時国際法上の「中立」は問題とはなり得ない。

 「実質国家間の戦争行為」に対し当事者が「事変」と呼んでいる以上、米国大統領が国内法としての「中立法」を発動させる必要(そして義務)もない。むしろ「中立法」の不発動は、論理的には、「実質国家間の戦争行為」を「事変」として処理する日本政府の意思を尊重したものとなっているのである。

 米国による日本のみを対象とした「石油禁輸措置」は、それが「戦争」であればこそ「中立義務違反」の指摘も可能になるが、「事変」であるという前提(たとえそれが、「実質国家間の戦争行為」であろうとも)の下では、国際法上の「中立義務」自体が発生せず、「石油禁輸措置」は単に日米二国間の通商上の問題にとどまってしまうのである。

…というのが、「支那事変」をめぐる、国際法上の「中立義務違反」の問題と、米国内法としての「中立法」発動の問題を検討した結果得られた、大日本帝國政府、中国国民政府、米国政府それぞれの国益追求の構図と言うことが出来るであろう。

 

 ご興味を感じられたら、各回の詳細をお読みになることで、問題の在処を正確に理解していただきたい。

 

 

〔追記〕

 俯瞰的視点から、つまり他人事として支那事変というものを眺めれば、

大日本帝國と中華民国国民政府(国民党と共産党の連合体である)との軍事的衝突
   その過程における中国内部での蒋介石への権力の収斂(とその影での中国共産党との対立)

資本主義的搾取の対象としての中国大陸における、権益確保をめぐる大日本帝國と英米の対立
   その際、大日本帝國は英国の既得権の侵害者であると共に、米国の権益獲得への障碍であった

…というファクターの同時進行過程であった、と言うことも出来るであろう。

 つまり…

大日本帝國による大陸での軍事力行使の継続の結果、米英と中国共産党は蒋介石の同伴者となり、対外的にも対内的にも(つまり対日戦継続と国内政治での主導権獲得の両面で)蒋介石は利益を得ることになった。

大日本帝國の軍事力による大陸での権益確保・拡大の試みは、門戸開放・機会均等原則に基づく米国の権益拡大策の妨げとなり、米国を敵とすることに役立った。

…のだということになる。そして…

事変は、対米英戦争へと連続し、最終的には大日本帝國は敗者として大陸から排除された。

勝者であったはずの蒋介石は、新たな敵(実際には旧来の敵であったが)としての中国共産党との闘争に敗北し、大陸から排除された。

英国は、第二次世界大戦による消耗からの恢復が出来ず、国際政治における地位を後退させることになった。

米国は、軍事的勝者として国際政治の主導権を握ると同時に、それまでの孤立主義的政策を放棄することとなり、以後の世界における戦争の主役となっていくことになる。そして米国も、ベトナムとイラクでは「負けた戦争」の体験者となった。

日本は「負けた戦争」の結果、米国の占領による戦後を経験したが、主権回復以後も米国に対する従属的立場を堅持することで経済発展を果たし、国際社会での一定の地位を非軍事的方法により確保することに成功した。

…というそれぞれの歴史的展開を経験することになったわけだ。

 それを「日本は負けて勝ったのだ」などと言うのは、300万の犠牲者のことを顧みない恥ずかしい負け惜しみである。
 戦後の対米従属の下で、非軍事的に戦前以上の経済発展が成し遂げられた事実がある以上、そもそも300万人の死が必要であったのかどうか? 非軍事的に達成可能であったことを、威圧的軍事力行使に頼り、結果として300万人の同朋の死(国外にはさらに2000万人の戦争犠牲者がいる)があるのだとすれば、その国策決定は批判され反省されねばならない。米国との協調の下に、非軍事的に大陸政策を進めていれば、敗戦による占領を免れ、明治以来獲得した植民地を失うこともなく、東京が焼け野原となることもなく、ヒロシマ・ナガサキの悲劇もなく、靖国に200万を超える新たな英霊を加えることもなかったのである(…というのは、もちろん事後的な、つまり結果から語られる仮定に過ぎず、私たちが直視しなければならないのは、事変の目的であったはずの大陸における権益の維持も、大東亜戦争の戦争目的とされた帝國の自存も自衛も果たされなかったという歴史的事実であり、その背後にある膨大な国内外の犠牲者の存在である)。
               (2011年2月10日記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/08/06 22:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/144369/

 

 

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