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2010年7月

2010年7月12日 (月)

続々々々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 

東印度独立措置ニ関スル件
   第一 方針
大東亜戦争完遂ニ資スル為帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス之ガ為直チニ独立準備ヲ促進強化スルモノトス
   第二 要領
一 独立セシムル地域ハ旧蘭領東印度トス
二 全地域ニ亘リ独立準備ヲ推進シ主要地域ノ準備完了次第全地域ニ亘リ新国家独立ヲ宣言セシム但シ準備完了セザル地域ノ施政ニ関シテハ準備進捗ノ状況ニ応ジ逐次之ヲ新国家ノ管轄ニ移行セシムル如ク措置ス
 之ガ為速カニ「ジャワ」ニ独立準備委員会ヲ組織シテ独立実施ニ必要ナル諸般ノ事項ヲ準備セシム
三 独立ノ予定時期ハ成ル可ク速カニ之ヲ概定シ新国家ノ領域タルベキ地域ト共ニ独立準備委員会ヨリ之ヲ発表ス
四 新独立国ノ国体、政体、国名、国民ノ範囲等ニ関シテハ民意ニ依リ之ヲ定ム
五 独立ニ関スル施策ヲ通ジ住民ノ民族意識昂揚ニ努メ且戦争遂行ニ寄与セシムルヲ主眼トシ作戦、戦備上ノ支障ハ之ヲ防止スル如ク措置ス
六 本施策ノ実行ハ一切之ヲ現地軍ニ一任ス
 

…という形で(明治百年史叢書 『敗戦の記録』 原書房 1967、による。原文は旧漢字であるが、ここではPCで変換された新字体で表記するにとどめた)、大日本帝國も、最終的には蘭印(インドネシア)の「可及的速カ」な「独立ヲ容認」することになる。

 「最高戦争指導会議決定第二十七号」でのことだ。その日付は、昭和20年7月17日である。敗北による大東亜戦争の終息、つまり大日本帝國のポツダム宣言受諾決定まで、わずか四週間の時点での話であった。まさに敗北に至る最終段階での「決定」である(検討開始の時期を考えれば数箇月前の時日となるにせよ、既に絶対国防圏を突破されて久しい、帝國の敗北が現実化しつつある時点であったことに変わりはない)。

 

 

 昭和16年11月20日、開戦に先立ち、第七十回大本営政府連絡会議で決定されたのが「南方占領地行政実施要領」であった(『杉山メモ』)。

 

南方占領地行政実施要領
   第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

 

 来たるべき戦争を前にして、ここに描かれているのは、大日本帝國が獲得するであろう占領地の位置付けである。

 前半で表明されている、

  占領地ニ対シテハ…軍政ヲ実施シ…重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス

…とは、つまり「重要国防資源ノ急速獲得」という占領目的である。この、「大本営政府連絡会議」という国策決定の最高レベルの会議で明らかにされた大日本帝國の国策決定者達のホンネからは、「重要国防資源ノ急速獲得」という大東亜戦争の戦争目的の現実さえ透かし見ることが出来るだろう。

 そして後半の、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

…とは、(巷間、語られることのある)「植民地解放」などという戦争目的が、大日本帝國の最高指導層のホンネの議論で語られる性質のものではなかったことを示している。

 結局、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の議論をすることなく、つまり国策レベルで「南方占領地行政」の確たる方針を共有することのないままに、帝國は昭和16年12月8日の対米英開戦の日を迎えてしまうのである。

 

 

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議になって、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論が行われたが、そこで表明された大日本帝國の最高指導層のホンネを復習しておこう。前回は全文をご紹介したので、今回は各人の発言からの抜書きで、「植民地解放」への関心を見せることなく、「重要国防資源ノ急速獲得」への関心を率直に示した、国務と統帥の最高指導者達の姿を確認することとしたい。

 
 大蔵大臣 「ジャバ」本土ノミヲ独立セシメタル理由如何

 山本局長 軍事上ノ必要アリ「スマトラ」ハ取ラネバナラズ「ボルネオ」モ然リトシテ切リ詰メテ来ルト結局「ジャバ」本土ノミ残ルコトトナリタル次第ニシテ大シタ理由ナシ

 大蔵大臣 独立サセテ置イテ種々制限ヲ加ヘル位ナラ始メヨリ独立セシメザル方遥カニ有利ナリ
  「ジャバ」ノ如キハ「ズーッ」ト永ク軍政ヲ行フヲ要スベシ

 企画院総裁 軍政ハ「ズーッ」ト永ク施行セザルベカラズ、過早ニ蘭印ニ独立ヲ約シタリナドシテ増長我儘サセテハナラヌ(大蔵大臣強ク同意)
  独立セシムト言フモ実質的独立ニハ非ズシテ相当ノ干渉ヲ受クル独立ナラズヤ、何レニセヨ今ヲ独立ト決定スルハ過早ナリ

 書記官長 何モ左程遠慮スルノ要ナシ、敵国領有シアリシモノナルヲ以テ其ノ儘之ヲ取ツテモ一向差支無シ

 軍令部次長 南方占領地域ハ全部帝国領土トスルコト可能ナラバ申分無キモ…

 総理 然ラバ「ジャバ」モ皆我ガ手ニ収メザルベカラズ

 

…と、実にミモフタモナイと言うしかないホンネが続くのであった(『杉山メモ 下』)。
 

 

 ここでは、対米英開戦を一年以上遡る、昭和15年9月19日の御前会議での議論も見ておこう(『杉山メモ』)。

 

陸軍大臣 
 石油ニ関シテハ陸軍ニ於テモ海軍同様之ヲ重要視シアリ此ノ問題ヲ推シ進メレハ結局蘭印ノ問題トナルヘシ本件ニ関シテハ組閣早々大本営政府連絡会議ニ於テ時局処理要綱ヲ定メ支那事変ヲ速ニ解決スルト共ニ好機ヲ捕捉シテ南方問題ヲ解決スヘク蘭印ニ関シテハ暫ク外交的措置ニ依リ其重要資源ノ確保ニ努メ又場合ニヨリテハ武力ヲ行使スル事アルヘキ旨略々決定シアリ決シテ無方針ニ進行シアル次第ニアラス固ヨリ蘭印資源ノ獲得ハ平和的手段ニヨルヲ望ムモ又状況ニヨリ武力行使ヲモ定メ政府ノ方針ハ決定シアリ

枢府議長
 外相ノ方針ヲ聴キ又陸相ヨリ対南方ノ方針既ニ決定シタル旨ヲ承知シ結構ト存ス蘭印ハ目下石油資源ヲ獲得スル唯一ノ所ナリ

 

…という言葉を、日独伊の「三国同盟」を主題としたその日の「御前会議控へ 次長記述」文書中に見出すことが出来る(「三国同盟」もまた「南方問題ヲ解決」する方策の一つ、という認識なのであった)。

 ここにある、

  蘭印ニ関シテハ暫ク外交的措置ニ依リ其重要資源ノ確保ニ努メ又場合ニヨリテハ武力ヲ行使スル事アルヘキ旨略々決定シアリ

  対南方ノ方針既ニ決定シタル旨ヲ承知シ結構ト存ス蘭印ハ目下石油資源ヲ獲得スル唯一ノ所ナリ

…との認識こそが、国策としての大東亜戦争の基底を支えていたことを、事実として、深く味わっておくべきだろう(米国による対日石油全面禁輸措置は翌年昭和16年8月になっての話なのであって、ここに示された「対南方ノ方針」は石油禁輸の結果のものではないことに留意しておきたい)。

 

 

 

 

 こうして、大東亜戦争をめぐる大日本帝國の最高指導層のホンネの言葉を時系列で振り返ることで、昭和20年7月17日に至っての、「最高戦争指導会議決定第二十七号」における「帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス」という「方針」の現実的意味合いも見えてくるだろう。

 

 昭和20年7月17日という時点では、既に制海権を奪われていた大日本帝國に、蘭印の「重要資源」の存在は意味を失っていたのである。つまり、当初の蘭印(インドネシア)領有の意味は失われていたのである。

 蘭印独立容認で、大日本帝國が失うものが何もなくなった時点(つまり、既に蘭印から大日本帝國が獲得出来るものが何もなくなっていた時点)。それが昭和20年7月17日であったと考えなければならない。

 蘭印(インドネシア)民族の「独立」、蘭印の植民地状態からの「解放」は、大東亜戦争における大日本帝國の緒戦の勝利によってもたらされることはなく、大東亜戦争における大日本帝國の敗北必至の状況こそがもたらしたものなのであった。

 

 

 

〔追記 : 2010年7月17日〕

 大日本帝國の首脳による、公式の場での「蘭印(インドネシア)独立」への言及は、昭和19年9月7日、第85帝國議会における小磯國昭首相の施政方針演説に始まるようである。

  帝国ハ東『インド』民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス

 ただし、「声明」には「将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコト」とあるように、「将来」がいつの時点であるのかが明確化されることはなく、具体的な内容の何もない曖昧なものであった。これでは帝國の方針が、100年後の独立容認であっても、声明が偽りとはならないのである。
 いずれにしても、東條首相の退陣と小磯首相の登場の背景には絶対国防圏喪失という事態があり、蘭印保有からの利益が失われつつある時点、帝國領土としての蘭印占領支配の継続が困難となりつつある時点での、首相声明であることは明らかであろう。
(参照→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%A3%B0%E6%98%8E

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/11 21:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/142450/

 

 

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2010年7月11日 (日)

続々々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論がされたのは、やっと、開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議になってのことであった。

 

 対米英戦争となった大東亜戦争の緒戦の勝利で、大日本帝国はかつての米英蘭各国の植民地であった地域を占領することになる。その占領諸地域に対し、どのような処遇をもって大日本帝國は臨もうとしてたのか?

 その問題に答えるために、『杉山メモ』に残された、大日本帝國の国策決定者達の議論を読み続けてきたわけである。大本営と政府のトップクラスによる会議で語られた、彼らのホンネの言葉に注目することで、大日本帝國にとっての大東亜戦争の現実的意義が明らかになりつつあるわけだ。

 

 

 前回は、当日の「議事」記録から、

 

 一、原案ニ就キ山本東亜局長ヨリ説明(別冊ヲ除ク)アリ
 二、本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会ノ空気ニ就キ鈴木企画院総裁及武藤軍務局長ヨリ左ノ如キ紹介アリ
  (A)一般的空気ト認ムベキモノ
  (B)個人的意見ト認ムベキモノ

 

…の各項目の内容を全文引用してみた(『杉山メモ 下』による)。

 

 「註 以上極秘扱トスルコト」とあるだけあって、「本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会」における「(A)一般的空気ト認ムベキモノ」として、たとえば、

  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス

  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ

…などという、「植民地解放」とは逆方向を目指すかのような見解が表明されていたのであった。少なくとも、「植民地解放」という戦争目的の存在には疑問符を付けざるを得ない内容であろう。

 

 

 で、今回は前回の続き(つまり「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論の続き)を読むことにする。

 

三、山本東亜局長ノ原案説明ニ関シ未ダ「別冊」統治機構問題ノ説明ニ入ラザル内ニ左ノ如キ議論沸騰ス
   註 外務省ガ説明用トシテ準備セル帰属別地図ニ帝国領土ハ赤、独立予定地ハ黄ヲ以テ色別ヲ施シアリ、「ジャバ」ノミノ独立ガ強ク関心ヲ惹キタルモノノ如シ
 山本局長 本案ハ冒頭記述セラレアル如ク情勢ノ推移ニ依リ変更スルコトアルベク最後的決定ハ作戦ノ結果又ハ其ノ推移ヲ見ザレバ不可能ナリ、従テ本案ハ腹案トシテ置キ度 但シ国防上絶対必要ナル地域ハ之ヲ固ク把握スルノ要アルコト勿論ナリ
 大蔵大臣 此等ノ決定ハ単ニ軍事上ノミナラズ政治上及経済上ヨリモ十分検討ヲ加フベキモノナリ(鈴木企画院総裁強ク之ヲ同意ス)
  「ジャバ」本土ノミヲ独立セシメタル理由如何
 山本局長 軍事上ノ必要アリ「スマトラ」ハ取ラネバナラズ「ボルネオ」モ然リトシテ切リ詰メテ来ルト結局「ジャバ」本土ノミ残ルコトトナリタル次第ニシテ大シタ理由ナシ
 大蔵大臣 独立サセテ置イテ種々制限ヲ加ヘル位ナラ始メヨリ独立セシメザル方遥カニ有利ナリ、全部ヲ帝国ノ領土トシ必要ニ応ジテ高度ノ自治ヲ与フレバ可ナルニ非ズヤ
 書記官長 何モ左程遠慮スルノ要ナシ、敵国領有シアリシモノナルヲ以テ其ノ儘之ヲ取ツテモ一向差支無シ、和蘭ノ如キ無籍国ニ非ズ
 大蔵大臣 独立ハ時間的ニモ之ヲ明瞭ニスルノ要アリ、比島ノ如キハ間モ無ク独立セシメテ可ナルヤモ知レザルモ「ジャバ」ノ如キハ「ズーッ」ト永ク軍政ヲ行フヲ要スベシ、従テ主権ハ先ヅ日本ニ取リ適当ノ時機ニ独立ヲ与フレバ可ナリ
  独立サセルト言フモ実際ハ独立出来ザルヤモ知レズ
 企画院総裁 軍政ハ「ズーッ」ト永ク施行セザルベカラズ、過早ニ蘭印ニ独立ヲ約シタリナドシテ増長我儘サセテハナラヌ(大蔵大臣強ク同意)
  独立セシムト言フモ実質的独立ニハ非ズシテ相当ノ干渉ヲ受クル独立ナラズヤ、何レニセヨ今ヲ独立ト決定スルハ過早ナリ
 山本局長 高度ノ自治ヨリ独立ニ進ムト言フコトモ考慮シ得ベキモ何レ独立セシムルモノナラバ今ノ内ニ決定シテ置クヲ可トス
 以上ニテ大体ノ空気ハ「ジャバ」ノミ何故独立セシムルヤ、実質的ニ掌握シテ独立セシメテハ却テ文句ガ起ルベシトノ意見強ク会議ヲ支配ス
 総理 統帥関係事項ナルモ海軍ハ根拠地設定ノ為何レ位ノ地域ヲ確実ニ把握スルヲ必要ト認メラレアリヤ
 軍令部次長 先ヅ以テ日本海ヲ中心トシ其ノ周辺ハ国防ノ中心タラザルベカラズ
  次テ小笠原諸島ヨリ南洋委任統治領ヲ経テ「ビスマルク」諸島ニ亘ル線及昭南港並ニ「スラバヤ」ヲ中心トスル海域ヲ確保スルヲ要シ「ニューギニア」東部「サラモア」附近ヲ確保スレバ豪州ヲ制圧シ得ベシ
  対英国防ノ為ニハ「ジャバ」「スマトラ」ヲ以テ第一線トシ之ニ「アンダマン」ヲ加ヘテ確保スルヲ要スルモ「ジャバ」「スマトラ」西南岸ニハ良好ナル基地ナシ、結局昭南港「スラバヤ」及「サラモア」ヲ確保スルノ外ナシ
  対英作戦ノ為ニハ南支那海ト「ジャバ」海トヲ確保スレバ先ヅ大丈夫ナリ
  東方ニ対シテハ小笠原諸島ト「ニューギニア」間ニ若干ノ心配アリ
  此等ノ見地ヨリ南方占領地域ハ全部帝国領土トスルコト可能ナラバ申分無キモ局地ニヨリテハ政治的民族的各種ノ事情アリ、其此ニ研究ヲ要スル問題アリ
 総理 然ラバ「ジャバ」モ皆我ガ手ニ収メザルベカラズ何故「ジャバ」ノミヲ残シタルヤ
 武藤局長 ドウモ全部取ラネバナラヌト思フモ何ト無ク蘭印ハ独立セシメザルベカラズ、然ルニ「スマトラ」ハ取ラネバナラヌ、「ボルネオ」ハ取ラネバナラヌト漸次逐ヒ詰メテ行ケバ結局「ジャバ」ノミ残ラザルヲ得ズ、斯ル経緯ニテ「ジャバ」ノミ独立セシムルコトトナレル次第ナリ
 斯クテ依然「ジャバ」ノ独立ハ今ヨリ決定シテカカルノ要ナシトノ空気トナリ最後ニハ海軍大臣ヨリ「ジャバ」ヲ独立セシメテ如何ナル利益アリヤヲ研究セルモノナリヤ』トノ詰問的意見モアリ
 「其処迄行カンデモヨカロウ」トノ仲裁モアリ
四、結局本件ハ更ニ研究ヲ要ストシテ未決ノ儘別冊ノ検討ニモ入ラズ散会トナル

 

…というのが全文であるが、ここでは特に蘭印の取り扱いが議論の焦点となっている観がある。

 

 蘭印(インドネシア)の民族独立実現への積極的主張は、まったく、存在しないのであった。

 むしろ、蘭印(インドネシア)における民族独立否定への積極的主張が、第九十五回大本営政府連絡会議の議論を主導していたのである。

 

 

 

 そして、昭和18年5月31日御前会議決定の「大東亜政略指導大綱」に至り、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…との文言と共に、蘭印は「帝国領土ト決定」され、つまり国家意思として、大日本帝國のインドネシア民族独立への否定的姿勢は明確化されたのであった(『杉山メモ 下』)。それは、民族独立を希求して来た蘭印(インドネシア)の民族主義者の視点からすれば、植民地状態の継続を意味する事態なのである。実際、そのインドネシアの民族主義者であるイワ・クスマ・スマントリは、自伝の中で、

  オランダは去ったが、日本が支配していた。虎の口からは逃げたが、鰐の口の中にはいっていた。これがインドネシア民族の置かれていた状況である。

…と、彼らにとっての日本軍による占領の意味を語っていたのであった。

 

 占領地としての蘭印に関する限り、御前会議決定(つまり国策決定の最高段階)の中に、大東亜戦争の戦争目的としての「植民地解放」への関心・配慮を発見することは出来ない、ということなのだ。

 国策文書の中に発見することは出来ないし、蘭印(インドネシア)の地においても、(当然のことながら)「植民地解放」という現実を発見することは出来ないのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/10 21:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/142394/

 

 

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2010年7月10日 (土)

続々・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 

 対米英戦争としての大東亜戦争開戦に際し、占領地の処遇に関して、大日本帝國がどのような展望の下に戦争に臨もうとしていたのか?
 特に、蘭印(インドネシア)の民族独立に、大日本帝國はどのような形で貢献しようとしていたのか?

 

 その二つの問いに対し、大本営政府連絡会議及び御前会議の決定という、大日本帝國の国策策定の最高レベルでの決定事項を参照することで、答えを見出そうとして来たわけだ。

 

 

 

 開戦前の大本営政府連絡会議での、来たる戦争において帝國が獲得するであろう占領地に関する議論としては、昭和16年11月20日第七十回大本営政府連絡会議開催時に決定された、「南方占領地行政実施要領」中の、

 

  第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス
   第二 要領
八 原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

 

…という条項に注目しておくべきであろう(文言は『杉山メモ』)。

 ここに示された、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

  原住土民ニ対シテハ…其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

…という文言からは、米英蘭の植民地下にあったアジア民族の独立支援への積極的姿勢の存在を見出すことは出来ない。見出すことが出来るのは、単なる消極的姿勢ではなく、むしろ「其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」という民族独立抑制への積極的姿勢なのである。

 前回にも指摘したように、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス」としながらも、開戦前の連絡会議のその後の議論では「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の決定がされることはなかった。つまり、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の確たる展望を欠いたままに、大日本帝國は対米英戦に突入してしまったのである。

 

 

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議に至り、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」についての議論がされる。

 しかし、記録に残された議論の内容は、たとえば、

 

   議題
一、研究問題第七「占領地域ノ帰属及統治機構」(未完)
   議事
一、原案ニ就キ山本東亜局長ヨリ説明(別冊ヲ除ク)アリ
  其ノ際左ノ如キ補足的説明アリ
 (イ)各地域人口説明中「ジャバ」、「スマトラ」等ニハ相当ノ支那人アル点注意ヲ惹ケリ
 (ロ)「ジャバ」ノ人口密度ハ世界中ニテモ有数ノ部ニ属シ此ノ狭小ナル地域ニ人口四千万ヲ擁ス、而モ種族ノ数十数種ニ達ス
   (蘭印ニハ土候ノ数二八〇ヲ超ユ)
 (ハ)其ノ他ノ地域ニハ相当ノ未開ノ種族アリ、「ミンダナオ」島ノ「モロ」族、「サラワク」ノ「ダイヤル」族等ノ外「スマトラ」ニモ未開ノ種族アリ、「チモール」ニハ最モ未開ノ土族アリ
 (ニ)比島ノ統治ニ関スル米人ノ地位ハ高キモ実際政治機関ニ入レル米人ノ数ハ極メテ少数ニシテ百七、八十名ニ過ギザリシモノノ如シ
二、本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会ノ空気ニ就キ鈴木企画院総裁及武藤軍務局長ヨリ左ノ如キ紹介アリ
 (A)一般的空気ト認ムベキモノ
  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス
  (2)占領地処理ハ躊躇又ハ遠慮ヲ要セズ、明快率直徹底的ニ断行スベシ
  (3)政治的、民族的、経済的ニ複雑ナル地方ニ対シ直接繁累ニ携ハルハ不利ナリ、成ルベク従来ノ機構ヲ活用スルヲ可トス
  (4)右ニ反シ人口稀薄ニシテ未開ノ処女地ハ帝国ニ於テ強力ニ把握スベシ
    但シ戦争遂行中ノ現情ニ於テハ統治ノ容易ニシテ而モ開発ニ手数ヲ要セザル地域ヲ把握スルヲ要ス
  (5)占領地域ニ関シテハ豪州又ハ「ニュージーランド」ヲ包含セヨトカ西ハ「インダス」河迄、東ハ「パナマ」迄占領セヨトカノ説アリ
  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ
  (7)蘭印ハ従来一組織内ニ在リシヲ以テ今後モ一組織トシテ取扱フヲ可トス、然ラザレバ帝国ノ手ニ依リ凡テノ組織ヲ改編スルノ必要ヲ生ズベク満洲等ノ経験ニ依ルモ此レハ一考ヲ要ス
  (8)統帥事項ニ触ルルコトトナルモ飛ビ石ニ利用セラルル諸島嶼ハ必ズ我ガ手ニ収ムルヲ要ス
 (B)個人的意見ト認ムベキモノ
  (1)占領地ノ帰属其ノ他ノ決定ニハ先ズ以テ八紘一宇ノ理念ヲ基礎トシ細部ニ入ルノ要アリ、方針ヲ忘レテ直接具体的問題ニ入ルハ不可ナリ
  (2)占領地処理ハ戦争遂行ニ有利ナラシムルヲ以テ第一義トスベシ、四、五十年ノ将来必ズ大戦争ヲ惹起スベシ
  (3)占領地域ニ対シテハ軍事ト外交トノミヲ十分把握シ其ノ他ハ細部ニ干渉スベカラズ
  (4)大東亜建設ハ日満支ヲ中心トシテ実施スベシ南方ノ如キ遠距離ノ地域ニ重点ヲ持テ行クハ不可ナリ、南方ノミニ夢中ニナルベカラズ、帝国ト南方トノ距離ハ英米間ノ距離ヨリモ大ナリ(某海軍将官)
  (5)徒ラニ領土ヲ拡張スルノミガ能ニアラズ、占領地域ノ各民族ガ喜ンデ働ク様ニ指導スルノ要アリ、然ラザレバ将来戦ニ於テ却テ指導下民族ノ反噬ヲ受クルニ至ルベシ
  (6)マゴマゴスルト独逸人支那人等ニ良イ所ヲ全部取ラルル虞アリ、今ヨリ之ヲ警戒シテ所要ノ方策ヲ講ズルノ要アリ
  (7)占領地域ヲ余ニ細分スルハ統治ノ複雑ナラシムルヲ以テ少数の区画ニ区分スルヲ要ス
  註 以上極秘扱トスルコト

 

…のようなものであった(明治百年史叢書 『杉山メモ 下』 原書房 1967、による。まだ記録は続くが、後半部分の引用紹介は次回とする)。

 これが、本題としての山本局長による「原案」説明に至る前の「補足的説明」と、企画院総裁と軍務局長による「大東亜建設審議委員会」の議論内容の紹介部分の全文なのである。

 

 「大東亜建設審議委員会ノ空気」にも、(新たに帝國の占領地となった)かつての米英蘭の植民地下にあったアジア民族の独立支援への積極的姿勢の存在を見出すことは出来ない。そこでも、

  (1)占領地の帰属其ノ他ノ決定ハ国防上ノ要求ニ最モ重キヲ置キテ決定スルヲ要ス

  (6)今回掌握下ニ入リタル各民族ハ大体ニ於テ独立ノ経験無キヲ以テ独立セシムル必要ハ絶対的ナラズ

…といった見解が、「一般的空気ト認ムベキモノ」として語られているのである。

 全体を読んでも、国策上の統一された意思の存在を見出すことすら難しいのが「本問題ニ関スル大東亜建設審議委員会」での議論の実態であったような印象しか残らない(国策レベルでの公式委員会の議論というよりは、赤提灯が似合いそうな内容にさえ感じられる)。

 

 

 

 大東亜戦争における緒戦の勝利と、蘭印(インドネシア)の民族独立とのつながりは、大変に頼りなく心細いものなのであった(見出すには拡大鏡が必要…いや必要なのは特殊な色眼鏡であろうか?)。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/08 22:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/142265/

 

 

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2010年7月 9日 (金)

続・桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 「大東亜政略指導大綱(昭和18年5月31日御前会議決定)」には、

 

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

 

…と記されていた。つまりここには、「大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化」するという「方針」の下に、蘭印(インドネシア)として総称される「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」を、「御前会議」(国策決定における最高ランクの会議である)の場において「帝国領土ト決定シ」たことが、一片の誤解の余地もない形で記されていたわけだ(『杉山メモ 下』)。

 大日本帝國の「大東亜戦争完遂」に際し、占領地インドネシアの民族独立構想は(国策レベルには)存在しなかった…というのが前回に明らかとなってしまった話である。

 

 

 

 ところで、以前の記事上で、

 

 収拾不能となった盧溝橋以来の中国大陸における軍事力行使が、仏印進駐にまで拡大し、米国による石油禁輸という経済制裁発動をもたらしてしまった結果、大日本帝國は石油供給の枯渇の現実化という事態に直面してしまう。そこにあらためて浮上したのが、蘭印の石油の存在であり、軍事力による獲得の実行策としての開戦なのである。
 そこに、いわゆる南進局面となった対米英戦としての大東亜戦争の起源がある。
 資源確保における対米依存からの脱却、米国に依存しない石油資源の確保こそが、大東亜戦争の目的なのである。実際、開戦に先立つ大本営での議論は、南進の形式(対英蘭戦争に限定するのかどうか、それが可能かどうか、つまり対米戦争回避の可能性)と対米戦争となった場合の勝算、そして南進による資源獲得問題(南方資源確保が戦争の目的であると同時に、占領地からの資源供給が対米英戦の戦線維持の前提となる)に集中しているのだ。植民地からのアジアの解放についての議論には、大本営の参謀達には、その段階では関心が持たれていなかったように見える。

 

…と書いた。

 

 「植民地からのアジアの解放についての議論」において問題の焦点となるのは、対米英開戦後の占領地の処遇であろう。

 本題として「占領地の処遇」についての議論が行われた「開戦に先立つ」国策レベルでの会議としては、第七十回大本営政府連絡会議(昭和16年11月20日)以外には見当たらないように思われる。

 午前9時から午前10時半まで開かれた会議では、「南方占領地行政実施要領」が決定された。

 

 さて、「南方占領地行政実施要領」には、対米英開戦後の占領地の処遇について、どのような決定が記されているのだろうか?

 「要領」は、「第一 方針」と「第二 要領」の二部構成で書かれている。その「第一 方針」の内容を読むことにしよう。そこには、

 

南方占領地行政実施要領
   第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス
占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

 

…と書かれている(文言は、明治百年史叢書 『杉山メモ』 原書房 1967、による)。

 残念ながら、「南方占領地行政実施」の「方針」には、「植民地からのアジアの解放についての議論」に相当する内容は存在しない。

 

 

  占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス

…とはつまり、大日本帝國にとっての占領地の「差シ当リ」の意義が、「重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保」の場であったということを示している。

 残念なことに、より具体的に書かれている「第二 要領」の各項目でもそのことに変わりはない。たとえば、

二 作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス
 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス

七 国防資源取得ト占領軍現地自活ノ為民生ニ及ホサルルヲ得サル重圧ハ之ヲ忍ハシメ宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セサル程度ニ止ムルモノトス

…というのがその内容なのであった。その上に、

八 (米、英、蘭国人、枢軸国人、華僑に関する文言は略)
 原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス

…とまで書いてある。「原住土民ニ対シテハ…独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クル」ことこそが国策遂行上の課題なのであった。

 再び「方針」の文言に戻れば、

  占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス

…とあるものの、開戦に先立って、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテ」の何らかの決定がなされることは、ついになかったというのが現実である。

 開戦翌年の昭和17年3月14日の第九十五回大本営政府連絡会議に至り、やっと「占領諸地域ノ帰属及統治機構」について議論されるが、「結局本件ハ更ニ研究ヲ要ストシテ未決ノ儘別冊(外務省作成の「原案」である)ノ検討ニモ入ラズ散会トナル」のであった。

 つまり、開戦の翌年、昭和17年3月半ばになっても、「占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル」大日本帝國の国策レベルでの「方針」と呼ばれるべきものは存在しなかったのである。

 

 

 

 

 そして、大日本帝國の占領地である蘭印(インドネシア)の「最終的帰属」が、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…として最高国策レベルで明確に「決定」されたのは、開戦の翌々年の5月の終わりになっての「御前会議」での話なのであった。

 結局のところ、対米英(蘭)開戦後も、大東亜戦争の目的として、蘭印(インドネシア)の独立(つまり植民地状態からの解放)が、国策レベルで検討されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/07 22:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/142192/

 

 

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2010年7月 8日 (木)

桃太郎の蘭印(インドネシア民族独立の幻)

 

 昭和18年5月31日の御前会議で決定されたのが、「大東亜政略指導大綱」であった。

 大東亜戦争における大日本帝國占領地域の処遇に関する、国策最高レベルでの決定事項である。

 

 その内容は、

 

大東亜政略指導大綱
    第一 方針  
一、帝国ハ大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化シ以テ戦争指導ノ主導性ヲ堅持シ世界情勢ノ変転ニ対処ス 政略態勢ノ整備強化ハ遅クモ本年十一月頃迄ニ達成スルヲ目途トス  
二、政略態勢ノ整備ハ帝国ニ対スル諸国家民族ノ戦争協力強化ヲ主眼トシ特ニ支那問題ノ解決ニ資ス  
    第二 要領  
一、対満華方策
  帝国ヲ中心トスル日満華相互間ノ結合ヲ更ニ強化ス
  之ガ為
  (イ)対満方策
   既定方針ニ拠ル
  (ロ)対華方策
  「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」ノ徹底具現ヲ図ル為右ニ即応スル如ク別紙ニ定ムル所ニ拠リ日華基本条約ヲ改訂シ日華同盟ヲ締結ス之ガ為速ニ諸準備ヲ整フ
  右ニ関連シ機ヲ見テ国民政府ヲシテ対重慶政治工作ヲ実施セシムル如ク指導ス
  前項実行ノ時機ハ大本営政府協議ノ上之ヲ決定ス
二、対泰方策
  既定方針ニ基キ相互協力ノ強化ヲ強化ス特ニ「マライ」ニ於ケル失地回復、経済協力強化ハ速ニ実行ス
  「シャン」地方ノ一部ハ泰国領ニ編入スルモノトシ之ガ実施ニ関シテハ「ビルマ」トノ関係ヲ考慮シテ決定ス
三、対仏印方策 既定方針ヲ強化ス  
四、対緬方策 昭和十八年三月十日大本営政府連絡会議決定緬甸独立指導要綱ニ基キ施策ス  
五、対比方策 成ルヘク速ニ独立セシム  
独立ノ時期ハ概ネ本年十月頃ト予定シ極力諸準備ヲ促進ス  
六、其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム  
  (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム  
  (ハ) ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム  
  (二) 前期各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス  
七、大東亜会議  
以上各方策ノ具現ニ伴ヒ本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス

 

…というもの(これで全文)であった(明治百年史叢書 『杉山メモ 下』 原書房 1967)。

 

 

 

 ここでは蘭印(インドネシア)の取り扱いに注目しておこう。
 

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…というのが、開戦後三年目(開戦の翌々年)における大日本帝國の国策の現実なのであった。「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」を併せれば、即ち蘭印である。

 つまり、蘭印に対しては「帝国領土」とすることが、昭和18年5月31日の御前会議の決定事項には含まれていたのである。「大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化」するためには、蘭印を「帝国領土」としておくことが必要と判断されたのであった。

 

 

 

 

 これまでも繰り返しご紹介した通り、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)には、

 

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

 

…などという解説文が、インド、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)、ベトナムの独立後の指導者の写真と共に掲載されている。そこには(当然のことながら)インドネシアのスカルノ、ハッタの姿もある。そしてインドネシアの「ナラリア勲章」の写真には、

  インドネシアの最高勲章。インドネシア対蘭独立(昭和二十四年)のために帰国せず現地に残り、オランダとの独立戦争に参加した日本軍軍人六名の功績に対し授与された。

…という説明が添えられていたりもする。

 記されているのは、植民地の解放の契機となった大日本帝國の姿であり、インドネシアの独立に貢献した日本軍軍人の存在である。

 

 インドネシアの独立と大日本帝國の戦争が同時に語られることにより、そして大日本帝國敗戦後にインドネシアの独立に協力した元帝国軍人の存在が強調されることにより、大東亜戦争がインドネシア独立をもたらしたもの(もたらすためのもの)であったかのように、事情を知らない者には読み取られてしまうだろう。

 

 確かに、

  アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。

…という記述に偽りはないが、重要な事実が省略されてもいるのだ。

 

 蘭印(インドネシア)の人々にとり、

  大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後

…に「現実」であったのは、

  (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

…という大日本帝國の国策なのであって、その時点で「民族の独立」が彼らの「現実」となることはなかったのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/07/06 23:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/142105/

 

 

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