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2010年6月29日 (火)

続々・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)に、

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…というお話があるのをご紹介した。

 いわば、桃太郎の側から見た、大日本帝國の歴史であり、大東亜戦争の意義ということになる。

 

 

 それに対し、桃太郎の占領下に置かれた蘭印(インドネシア)の民族主義者の経験を伝えるものとして、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の内容を紹介した。オランダという「鬼」を退治した桃太郎だったが、しかし、その桃太郎の統治下、つまり日本軍政の下で、インドネシアの人々が経験したのは、

 

  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。

 

…という現実なのであった。さらにスマントリは、

 

  私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった。白い肌をした民族による植民地主義支配は終わったが、インドネシア民族は、黄色い肌の民族である日本人によって支配され続けていた。独立を求め闘おうとする者は、オランダ時代と同じ圧迫を受けていた。私たちは、祖国インドネシアから、あらゆる形の植民地主義支配を葬り去りたいと願っていた。私たちは新しい危険の中で、闘争を前進させてゆかなければならなかった。

 

…とも書いている。

 しかし、もちろん、大東亜戦争が戦後におけるインドネシアの独立の契機となったことをスマントリは認めている。蘭印における桃太郎の存在は、決して無意味なものではなかった。

 遊就館の図録にある「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」という解説に対応するスマントリの言葉は次のようなものである。

 

  インドネシアにおける日本軍の占領行政は、強圧的で残酷なものであった。まだ幼い子供たちも、炎天下を隊列を組んで長距離行進させられた。行進中の子供たちには、健康上の配慮が払われず、多くの子供が過労で病気になり、死んでいった。
  しかし、このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。
  日本軍によって、インドネシア民族は、はじめて、力強い、規律ある生活を学んだ。日本軍がインドネシアを占領していた時代には、この私たちの祖国においては、盗みがほとんどなかった。民衆生活は非常に貧しかったけれど、盗みをしなかった。盗みに対して加えられる日本軍の処罰のおそれの方が、人間的な欲望より強かったからである。そして、夜おそくまで、市中どこを歩いても安全であった。

 

 独立を達成したインドネシアで、スカルノやハッタと共に政権を担った民族主義者のスマントリは、日本の占領行政を、

  このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。

…という言葉を用いて、その意義を評価しているのである。遊就館の図録にある通りで、インドネシアにおいても、「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく」、オランダの植民地からの独立達成の実現に、確かに結びついていたわけだ。ただし、「日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配」が、「私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた」ことによって。

 

 

 

 さて、再び、遊就館の図録の言葉に戻ろう。そこには、

  日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。

…と書いてあったわけだが、これを読んで、以前の「現代史のトラウマ」で、

  しかし「富国強兵政策」は植民地化に対する防衛にとどまらず、日露戦争後には、日本自身が植民地保有国となることで、防衛的なものから攻撃的なものへと変化していく。
  当時の国際情勢の中で西欧列強に植民地化されることは、日本にとって何よりの脅威だったわけだが、植民地化への防衛策としての「富国強兵」から、自らが他国を植民地化することが自己目的化される過程は、分けて考えられるべき側面があるように思われる。自らが植民地保有国になることは、いわば、防衛的姿勢から攻撃的姿勢への転換を意味するわけである。
 (「続々・聖戦の論理(植民地宗主国への道)」 
http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb02.html

…と書いたことを思い出した。

 

 

 

 日露戦争後の「帝國」となった日本は、山県有朋を中心として、「帝國國防方針」、「用兵綱領」といった、その後の国策の中心となる文書をまとめる。

 その過程での、軍の内部文書からは、当時の陸軍中央のホンネを窺うことが出来る。

 「明治三十九年度日本帝國陸軍作戦計画策定ノ件」には、

  日本帝國ノ守勢作戦計画ヲ改正シテ帝國作戦ノ本領ヲ攻勢ト為セリ

あるいは、

  明治三十九年度ニ於ケル帝國陸軍ノ作戦計画ハ攻勢ヲ取ルヲ本領トナス

…といった文言がある。

 そのような「攻勢」局面での作戦計画策定の基盤となる「国策」の方向性についての陸軍内部の認識を探る上で、明治39年12月26日作成の、松石安治参謀本部第二部長による「国防大方針ニ関スル意見」の言葉が示唆的である。そこには、

一、軍備ハ国是ト一致シ戦略ハ政略ニ伴ハサル可カラス
 故ニ先ツ開国進取ノ国是ヲ実行スルニ必要ナル陸海軍ノ総兵力ヲ策定スル必要アリ
 之カ為メニ開国進取ノ国是ヲ遂行スルニ如何ナル要目アルカヲ詮索スルニ
 一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
 二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト
  即チ是ナリ
  利権ノ拡張ハ兵力ノ発達ニ伴ヒ世界ノ各方面ニ向ヒ商業的即チ平和的ニ増進セシムルヨリ外道ナシト雖モ植民地ノ獲得ニ至テハ平和的手段ノ外必ス兵力ノ之ニ伴隋スルモノナカル可ラス
  (後略)

…という言葉で、陸軍中枢の率直な国策認識が記されているのである。参謀本部第二部長により、国策の最重要課題と考えられていたのは、

  一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
  二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト

…なのであって、「開国進取ノ国是」の実行・遂行を考えるに際し、「植民地権力打倒」という目標はどこにも掲げられてはいない。
 (以上の文言は、明治百年史叢書『満洲問題と国防方針』原書房 1967、による。ただし原文の旧字体は、PCにより変換された新字体のままとした)

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 22:56 → http://www.freeml.com/bl/316274/139414/

 

 

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