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2010年6月28日 (月)

続・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、

  桃太郎の意気込みとは別に、オランダという鬼の下で植民地とされていたインドネシアの人々に、桃太郎がどのように見えたのか?

…という視点から、独立達成後のインドネシアで政府閣僚となった、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の、第五章「日本軍政の時代」の一部を紹介した。

 

 

 今夜は、桃太郎からは同じ光景がどのように見えていたのか?あるいは、どのように見えていたと考えられている(考えられようとしている)のか?について、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)を読むことから始めたい。

 図録には、

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…などと書いてあり、ページ上には、インド、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)、ベトナムの独立後の指導者の写真と共に、インドネシアのスカルノ、ハッタの姿も紹介されている。

 また、「ナラリア勲章」の写真には、

  インドネシアの最高勲章。インドネシア対蘭独立(昭和二十四年)のために帰国せず現地に残り、オランダとの独立戦争に参加した日本軍軍人六名の功績に対し授与された。

…という説明が添えられている。

 遊就館の図録にあるのは、植民地の解放の契機となった大日本帝國の姿と言えようか。そしてインドネシアの独立に貢献した日本軍軍人の存在が誇らかに記されているというわけだ。

 

 

 

 さて、再び、スカルノやハッタと共に、独立達成後のインドネシア政府の閣僚となったイワ・クスマ・スマントリの自伝に話を戻そう。

 スマントリの味わった日本軍による占領とはどのような経験であったのか?

 

  ジャワの占領が強化されるにつれて、日本軍は、これまでのような甘い態度を示さなくなった。全面的に姿勢を変えはじめた。ねんごろな態度が、強圧的になった。とくに一般民衆に対する態度の変化は顕著であった。しかし、知識人に対する日本軍の態度は、相変わらず柔軟なものであった。望むと望まざるにかかわらず、インドネシア人指導者の協力が日本軍に必要だったからであった。
  日本軍は、結社・団体を組織することを禁止した。政治団体、労働組合、宗教団体、さらには社会団体まで禁止した。

 

…つまり、時と共に、「ねんごろな態度が、強圧的になった」というのである。

 しかし、一方で、大日本帝國は緒戦の勝利から、戦局の不利な展開に直面し始める。スマントリによれば、

 

  …日本軍は、ミッドウェーとイリアン東方の二つの海戦における敗退を、オーストラリア作戦計画の失敗のしるしと認めねばならなかった。そのときから、日本軍は、いつでも勝利が彼とともにあるのではないに気づきはじめた。満州や中国における戦争でも、勝利をえることはできなくなっていった。日本にとって、もっとも悲劇的な敗戦の色が感じられるようになった。日本軍は、植民地の潜在力を引き出すことが必要であると考えるようになった。植民地からの支援をうるために、日本軍は、植民地人民の同情をえる努力を始めねばならなかった。東京の日本政府は、インドネシア統治には直接には関知していないようであり、そのインドネシアにおける日本軍は内部分裂をおこしていたように見うけられた。すなわち、政策や世界観をめぐって、陸軍の軍政監部と海軍民政府の間に分裂がみうけられた。ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた。

 

…という変化を、大日本帝国の占領に生じさせた。戦局の悪化は、占領軍(つまり日本軍)に対し、時と共に「強圧的にな」るよう仕向けると同時に、「植民地からの支援をうるために」、「植民地人民の同情をえる努力」を必要とさせるようにも働いたのである。

 別の箇所でスマントリは、

 

  インドネシアは、日本軍により、三つの地域に分轄された。第一は、ジャワ・マドゥラ地区であり、第二は、スマトラ地区、第三は、スラウェシ・カリマンタンなどの東インドネシア地区であった。第一の地区は、日本陸軍第十六軍に、第二の地区は第二十五軍に統治され、それぞれ軍政監部が置かれていた。第三の地区は日本海軍に統治され、海軍民政府が置かれていた。この海軍は、ジャカルタに、日本陸軍との連絡のため、前田精大佐を長とする海軍武官府を置いていた。

 

…と書いているが、当初から大日本帝國によるインドネシアの占領は一枚岩のものではなかった。「ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた」とあるように、占領に際してのそれぞれの地域の当事者による姿勢の差異を、スマントリの記述からは読み取っておきたい。スマントリの叙述は、決して、日本非難に終始するわけではないのである(海軍軍人前田精に対し、スマントリは一貫して高い評価を表明している)。

 しかし…

 

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。中央参議院は、軍政監部の諮問に答申する任務をもつものであった。これらは、日本軍が真の意図をおおいかくすためのものであった。
  インドネシア人民は、ときとともに、いよいよ窮乏感をいだくようになった。日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。人民の間には、新生活運動 Gerakan Hidup Baru という運動が実施され、非常に苦しんでいた。日本軍は、インドネシア人民に、普段食べつけない新しい食べ物を考え出すように提案してきた。牛肉その他の食肉は、クミアイという名の協同組合の手を通し、日本軍の手に集められた。サクラと呼ばれる日本民間人は、歯ブラシや歯みがき粉などを国内で製造するように要請してきた。
  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。
  人民が生活の苦しさに喘いでいる中で、日本軍は、インドネシアの知識人の抱きこみの努力をつよめていた。私たちは、人民の生活と、日本軍政に協力している指導者の生活の間には、極めて顕著な格差があることを見てとることができた。

 

…というのもまた日本による占領の現実なのであった。

 つまり、

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。

…という一方で、

  日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。

…という事態が進行していったのである。

 桃太郎の戦争がインドネシアの人々を巻き込んでいく過程での、形式的ではあれ政治(占領行政)への参加の経験は、戦後のインドネシアの独立への準備運動として確実に機能したであろう。また、日本軍政により設立された郷土防衛義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)での軍事訓練の経験は、オランダを相手にした独立戦争に際し、大きな意味を持つものとなったことも否定出来ない。

 しかし一方で、大日本帝國の占領が過酷なものとして経験されたこともまた事実と言わざるを得ないのである。郷土防衛義勇軍に対する軍事訓練の成果が最初に発揮されたのは、1945年2月14日の「ブリタル反乱」、つまり過酷な日本軍政に対するインドネシアの人々の反抗の際なのであった(「PETA」による最初の軍事力行使は、日本による軍事支配の現実に向けられたものだったということである)。

 

 

 

 

 遊就館の図録からは、つまり桃太郎の視点からは、後者の現実(相手の経験)がスッポリ抜け落ちているのだ。そのことに気付いておくことも、歴史理解の上で必要に思える。

 他者の経験、他者の視線のあり方への想像力を欠いた歴史理解は、自己礼賛の道具で終わってしまいかねないのである。

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 00:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/139357/

 

 

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