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2010年6月

2010年6月30日 (水)

続々々・蘭印にやって来た桃太郎

 

 我が愛読書である、靖国神社の遊就館の図録(ここでは平成20年版を使用)を読むと、

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…などと書いてあるのに出会う。

 アジア解放戦争としての大東亜戦争という物語が語られようとしているわけである。

 

 先日来の話で言えば、アニメ『桃太郎 海の神兵』で描かれた、蘭印に降下した海軍空挺部隊長の桃太郎の活躍には、アジア諸民族の植民地状態からの解放に貢献する皇軍のイメージが込められている、というわけだ。

 

 

 しかし、先日来のもう一つのストーリーである、蘭印(インドネシア)の人々自身の目には進駐して来た皇軍の姿がどのように見えていたのか?という話からは、桃太郎の自己イメージとは異なる物語の存在を思い知らされことになるのであった。

 

 蘭印(インドネシア)の民族主義者の一人、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)を読めば、

  私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった。白い肌をした民族による植民地主義支配は終わったが、インドネシア民族は、黄色い肌の民族である日本人によって支配され続けていた。独立を求め闘おうとする者は、オランダ時代と同じ圧迫を受けていた。

あるいは、

  しかし、このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。

…という表現にぶつかるのである。

 ここには、はっきりと「インドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配」と書かれているのである。インドネシアの民族主義者にとって、日本軍による占領(つまり桃太郎による占領)は、オランダの植民地から日本の植民地への変更を意味するものでしかなかったということになる。「私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった」とは、つまり、そういうことだ。

 

 

 もちろん、遊就館の図録にあるように、

  日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え…

…たことは事実である。しかし、昨日に指摘したように、日露戦争後の日本の国策の基本は、

 一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
 二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト
  即チ是ナリ
  利権ノ拡張ハ兵力ノ発達ニ伴ヒ世界ノ各方面ニ向ヒ商業的即チ平和的ニ増進セシムルヨリ外道ナシト雖モ植民地ノ獲得ニ至テハ平和的手段ノ外必ス兵力ノ之ニ伴隋スルモノナカル可ラス

…というものであった。まさに、日露戦争後の日本の陸軍中枢は、「年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト」という国策上の課題を実現すべく、「陸海軍ノ総兵力ヲ策定」するための作業に心血を注いでいたのである。

 日露戦争後の帝國の国是は、植民地解放ではなく、植民地獲得だったということだ。

 もちろん、それは、大日本帝國が特異な存在であったことを意味するのではなく、西欧先進諸国の流儀を見事に学び、列強と肩を並べつつあったことを意味するのである。大日本帝國の国益増進は、「植民地ヲ獲得スルコト」と不可分の関係にあると考えられていたのが、日露戦争後の現実であった。「植民地ヲ獲得スル」能力を持つことに、列強の一員たる資格が見出されていた時代の話である。

 そして、当時の日本人は、「植民地ヲ獲得スルコト」に成功し植民地保有国の一員となった祖国、列強の一員となった祖国に誇りを抱くことが出来たのである(その「誇り」は、往々にして、依然として列強の植民地下にあったアジアの人々に対する優越感となって表明されてしまうものではあったが)。

 

 

 さて、再び、遊就館の図録に戻ろう。そこには、

  第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。

…とも書いてあった。

 「日本が提唱して否決された人種平等の理想」とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議における「国際連盟規約委員会」の場で、日本全権であった牧野伸顕が提唱した、

  人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す

…という規約条文案のこと(提案された文言は、たったこれだけの短いものである)を指していると思われる。が、帝國日本の示したこの美しい理想は、第一次世界大戦後の列強に受け入れられることはなかった。

 

 しかし、その美しい挫折の一方で、第一次世界大戦中の日本には、中華民国政府に対し、あの「二十一ヶ条」要求を突きつけた歴史もある。

 
 

第1号 山東問題の処分に関する条約案
 日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、ここに左の条款を締結せり。
1. 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
2. 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。 
3. 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
4. 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
 日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
1. 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
2. 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
3. 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
4. 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
5. 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
6. 南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
7. 南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
8. 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
9. 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第3号 漢冶萍公司に関する取極案
 日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
1. 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
2. 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第4号 中国の領土保全の為の約定案
 日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。

第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
1. 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
2. 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
3. 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
4. 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
5. 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
6. 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
7. 支那における本邦人の布教権を認むること。

 
 

 国際政治の場で「人種平等」の理想を唱えることと、中国大陸における植民地的権益拡大の試み(それが二十一ヶ条-特に第5号-の実質である)が、我らが日本により、同じ1910年代に遂行されていた現実を見ておくことも、帝國の末裔たる私たちには必要なことだと思われる。

 

 

 

 

 今回、桃太郎=海兵隊説(?)から始まって、桃太郎による蘭印(インドネシア)の占領統治の話となり、当のインドネシア独立に貢献した民族主義者の自伝の記述という他者の視線と、「帝國國防方針」を策定した陸軍参謀本部自身の視線を交えることにより、「大東亜戦争=植民地解放戦争」論の自己欺瞞的側面を明らかにするという結果となってしまった。

 重要な点は、そこで援用したのが、決して「第二次世界大戦戦勝国側、連合国側の主張」ではないというところにある(と思っている)。

 一方は、植民地宗主国としての「第二次世界大戦戦勝国側、連合国」からの独立を果たしたインドネシアの民族主義者の自伝の記述なのであり、もう一方は、大日本帝國の国策遂行の当事者の認識を示した内部文書の記述なのである。いわゆる「東京裁判史観」とは関係のないところで、「大東亜戦争=植民地解放戦争」論の問題点が明らかにされてしまったわけだ。

 
 
 

 植民地保有国としての過去は、自慢すべき話ではないかもしれないが、「なかったこと」にして大東亜戦争=植民地解放戦争などという都合の良い話をでっち上げる必要もないんじゃないか、と私は思う。

 現在を生きる我々にとって、過去の大日本帝國の植民地保有を特別に恥じなければならない理由はない。植民地保有は、現代人としての我々自身の行為ではないからだ。つまり、我々が直接責任を負うべき問題ではないのである。世界史的展望の下で、過去の祖国の歴史を対象化し、距離をもって冷静に考察すればよいだけの話なのだ。

 しかし、歴史の捏造の試みは恥ずかしい。これは現在の我々の現実の恥、我々自身が責任を負うべき恥なのである。

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/03 23:03 → http://www.freeml.com/bl/316274/139497/

 

 

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2010年6月29日 (火)

続々・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)に、

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…というお話があるのをご紹介した。

 いわば、桃太郎の側から見た、大日本帝國の歴史であり、大東亜戦争の意義ということになる。

 

 

 それに対し、桃太郎の占領下に置かれた蘭印(インドネシア)の民族主義者の経験を伝えるものとして、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の内容を紹介した。オランダという「鬼」を退治した桃太郎だったが、しかし、その桃太郎の統治下、つまり日本軍政の下で、インドネシアの人々が経験したのは、

 

  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。

 

…という現実なのであった。さらにスマントリは、

 

  私たちは、まだ植民地支配のおりの中にあった。白い肌をした民族による植民地主義支配は終わったが、インドネシア民族は、黄色い肌の民族である日本人によって支配され続けていた。独立を求め闘おうとする者は、オランダ時代と同じ圧迫を受けていた。私たちは、祖国インドネシアから、あらゆる形の植民地主義支配を葬り去りたいと願っていた。私たちは新しい危険の中で、闘争を前進させてゆかなければならなかった。

 

…とも書いている。

 しかし、もちろん、大東亜戦争が戦後におけるインドネシアの独立の契機となったことをスマントリは認めている。蘭印における桃太郎の存在は、決して無意味なものではなかった。

 遊就館の図録にある「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」という解説に対応するスマントリの言葉は次のようなものである。

 

  インドネシアにおける日本軍の占領行政は、強圧的で残酷なものであった。まだ幼い子供たちも、炎天下を隊列を組んで長距離行進させられた。行進中の子供たちには、健康上の配慮が払われず、多くの子供が過労で病気になり、死んでいった。
  しかし、このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。
  日本軍によって、インドネシア民族は、はじめて、力強い、規律ある生活を学んだ。日本軍がインドネシアを占領していた時代には、この私たちの祖国においては、盗みがほとんどなかった。民衆生活は非常に貧しかったけれど、盗みをしなかった。盗みに対して加えられる日本軍の処罰のおそれの方が、人間的な欲望より強かったからである。そして、夜おそくまで、市中どこを歩いても安全であった。

 

 独立を達成したインドネシアで、スカルノやハッタと共に政権を担った民族主義者のスマントリは、日本の占領行政を、

  このインドネシア民族に数多くの悲劇をひき起こした日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配は、私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた。

…という言葉を用いて、その意義を評価しているのである。遊就館の図録にある通りで、インドネシアにおいても、「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく」、オランダの植民地からの独立達成の実現に、確かに結びついていたわけだ。ただし、「日本軍の残酷で強圧的で厳しい植民地支配」が、「私たちの民族に積極的な感情をも植えつけた」ことによって。

 

 

 

 さて、再び、遊就館の図録の言葉に戻ろう。そこには、

  日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。

…と書いてあったわけだが、これを読んで、以前の「現代史のトラウマ」で、

  しかし「富国強兵政策」は植民地化に対する防衛にとどまらず、日露戦争後には、日本自身が植民地保有国となることで、防衛的なものから攻撃的なものへと変化していく。
  当時の国際情勢の中で西欧列強に植民地化されることは、日本にとって何よりの脅威だったわけだが、植民地化への防衛策としての「富国強兵」から、自らが他国を植民地化することが自己目的化される過程は、分けて考えられるべき側面があるように思われる。自らが植民地保有国になることは、いわば、防衛的姿勢から攻撃的姿勢への転換を意味するわけである。
 (「続々・聖戦の論理(植民地宗主国への道)」 
http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb02.html

…と書いたことを思い出した。

 

 

 

 日露戦争後の「帝國」となった日本は、山県有朋を中心として、「帝國國防方針」、「用兵綱領」といった、その後の国策の中心となる文書をまとめる。

 その過程での、軍の内部文書からは、当時の陸軍中央のホンネを窺うことが出来る。

 「明治三十九年度日本帝國陸軍作戦計画策定ノ件」には、

  日本帝國ノ守勢作戦計画ヲ改正シテ帝國作戦ノ本領ヲ攻勢ト為セリ

あるいは、

  明治三十九年度ニ於ケル帝國陸軍ノ作戦計画ハ攻勢ヲ取ルヲ本領トナス

…といった文言がある。

 そのような「攻勢」局面での作戦計画策定の基盤となる「国策」の方向性についての陸軍内部の認識を探る上で、明治39年12月26日作成の、松石安治参謀本部第二部長による「国防大方針ニ関スル意見」の言葉が示唆的である。そこには、

一、軍備ハ国是ト一致シ戦略ハ政略ニ伴ハサル可カラス
 故ニ先ツ開国進取ノ国是ヲ実行スルニ必要ナル陸海軍ノ総兵力ヲ策定スル必要アリ
 之カ為メニ開国進取ノ国是ヲ遂行スルニ如何ナル要目アルカヲ詮索スルニ
 一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
 二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト
  即チ是ナリ
  利権ノ拡張ハ兵力ノ発達ニ伴ヒ世界ノ各方面ニ向ヒ商業的即チ平和的ニ増進セシムルヨリ外道ナシト雖モ植民地ノ獲得ニ至テハ平和的手段ノ外必ス兵力ノ之ニ伴隋スルモノナカル可ラス
  (後略)

…という言葉で、陸軍中枢の率直な国策認識が記されているのである。参謀本部第二部長により、国策の最重要課題と考えられていたのは、

  一、国利民福ヲ増進スル為メ勉テ海外ニ向テ我利権ヲ拡張スルコト
  二、年々増加シツツアル過剰ノ人口ヲ移殖スヘキ植民地ヲ獲得スルコト

…なのであって、「開国進取ノ国是」の実行・遂行を考えるに際し、「植民地権力打倒」という目標はどこにも掲げられてはいない。
 (以上の文言は、明治百年史叢書『満洲問題と国防方針』原書房 1967、による。ただし原文の旧字体は、PCにより変換された新字体のままとした)

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 22:56 → http://www.freeml.com/bl/316274/139414/

 

 

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2010年6月28日 (月)

続・蘭印にやって来た桃太郎

 

 前回は、

  桃太郎の意気込みとは別に、オランダという鬼の下で植民地とされていたインドネシアの人々に、桃太郎がどのように見えたのか?

…という視点から、独立達成後のインドネシアで政府閣僚となった、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の、第五章「日本軍政の時代」の一部を紹介した。

 

 

 今夜は、桃太郎からは同じ光景がどのように見えていたのか?あるいは、どのように見えていたと考えられている(考えられようとしている)のか?について、靖国神社の遊就館の図録(平成20年版)を読むことから始めたい。

 図録には、

  戦後アジアの独立
 終戦と同時に、かつての宗主国が自らの領土と信じる植民地に復帰した。しかし、独立の意欲に目覚めた人々は、かつての従順な下僕ではなかった。マレーや仏印、蘭印で、激烈な独立戦争が勃発した。第一次世界大戦後に、日本が提唱して否決された「人種平等」の理想は、開戦劈頭に日本に破れて権威を失った宗主国が、武力で阻止できるものではなかった。東南アジアの民族は次々と独立し、やがて独立運動はアフリカなどに波及した。

  第二次世界大戦後の各国独立
 日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。
 アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が破れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。

…などと書いてあり、ページ上には、インド、フィリピン、ミャンマー(ビルマ)、ベトナムの独立後の指導者の写真と共に、インドネシアのスカルノ、ハッタの姿も紹介されている。

 また、「ナラリア勲章」の写真には、

  インドネシアの最高勲章。インドネシア対蘭独立(昭和二十四年)のために帰国せず現地に残り、オランダとの独立戦争に参加した日本軍軍人六名の功績に対し授与された。

…という説明が添えられている。

 遊就館の図録にあるのは、植民地の解放の契機となった大日本帝國の姿と言えようか。そしてインドネシアの独立に貢献した日本軍軍人の存在が誇らかに記されているというわけだ。

 

 

 

 さて、再び、スカルノやハッタと共に、独立達成後のインドネシア政府の閣僚となったイワ・クスマ・スマントリの自伝に話を戻そう。

 スマントリの味わった日本軍による占領とはどのような経験であったのか?

 

  ジャワの占領が強化されるにつれて、日本軍は、これまでのような甘い態度を示さなくなった。全面的に姿勢を変えはじめた。ねんごろな態度が、強圧的になった。とくに一般民衆に対する態度の変化は顕著であった。しかし、知識人に対する日本軍の態度は、相変わらず柔軟なものであった。望むと望まざるにかかわらず、インドネシア人指導者の協力が日本軍に必要だったからであった。
  日本軍は、結社・団体を組織することを禁止した。政治団体、労働組合、宗教団体、さらには社会団体まで禁止した。

 

…つまり、時と共に、「ねんごろな態度が、強圧的になった」というのである。

 しかし、一方で、大日本帝國は緒戦の勝利から、戦局の不利な展開に直面し始める。スマントリによれば、

 

  …日本軍は、ミッドウェーとイリアン東方の二つの海戦における敗退を、オーストラリア作戦計画の失敗のしるしと認めねばならなかった。そのときから、日本軍は、いつでも勝利が彼とともにあるのではないに気づきはじめた。満州や中国における戦争でも、勝利をえることはできなくなっていった。日本にとって、もっとも悲劇的な敗戦の色が感じられるようになった。日本軍は、植民地の潜在力を引き出すことが必要であると考えるようになった。植民地からの支援をうるために、日本軍は、植民地人民の同情をえる努力を始めねばならなかった。東京の日本政府は、インドネシア統治には直接には関知していないようであり、そのインドネシアにおける日本軍は内部分裂をおこしていたように見うけられた。すなわち、政策や世界観をめぐって、陸軍の軍政監部と海軍民政府の間に分裂がみうけられた。ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた。

 

…という変化を、大日本帝国の占領に生じさせた。戦局の悪化は、占領軍(つまり日本軍)に対し、時と共に「強圧的にな」るよう仕向けると同時に、「植民地からの支援をうるために」、「植民地人民の同情をえる努力」を必要とさせるようにも働いたのである。

 別の箇所でスマントリは、

 

  インドネシアは、日本軍により、三つの地域に分轄された。第一は、ジャワ・マドゥラ地区であり、第二は、スマトラ地区、第三は、スラウェシ・カリマンタンなどの東インドネシア地区であった。第一の地区は、日本陸軍第十六軍に、第二の地区は第二十五軍に統治され、それぞれ軍政監部が置かれていた。第三の地区は日本海軍に統治され、海軍民政府が置かれていた。この海軍は、ジャカルタに、日本陸軍との連絡のため、前田精大佐を長とする海軍武官府を置いていた。

 

…と書いているが、当初から大日本帝國によるインドネシアの占領は一枚岩のものではなかった。「ジャカルタの海軍武官府の人々は軍政監部の指導者に比べ、より高い見識を示していた」とあるように、占領に際してのそれぞれの地域の当事者による姿勢の差異を、スマントリの記述からは読み取っておきたい。スマントリの叙述は、決して、日本非難に終始するわけではないのである(海軍軍人前田精に対し、スマントリは一貫して高い評価を表明している)。

 しかし…

 

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。中央参議院は、軍政監部の諮問に答申する任務をもつものであった。これらは、日本軍が真の意図をおおいかくすためのものであった。
  インドネシア人民は、ときとともに、いよいよ窮乏感をいだくようになった。日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。人民の間には、新生活運動 Gerakan Hidup Baru という運動が実施され、非常に苦しんでいた。日本軍は、インドネシア人民に、普段食べつけない新しい食べ物を考え出すように提案してきた。牛肉その他の食肉は、クミアイという名の協同組合の手を通し、日本軍の手に集められた。サクラと呼ばれる日本民間人は、歯ブラシや歯みがき粉などを国内で製造するように要請してきた。
  日本軍政下のインドネシア人民は、貧困に呻吟していた。栄養失調の人民は、浮腫に悩まされ、つぎはぎだらけの衣服をまとうことになった。
  日本軍は、各地に警防団(ケイボウダン)という名の武装警察を組織した。人民の安全を保障するという名目で創設されたが、実際には、その警防団は、インドネシア人民が自由に食糧、特に米を移動するのを監視する機構であった。警防団の活動は、人民の安全を守るためではなく、人民の物資を強奪するためのものであった。一つか二つしかない椰子の実すら奪われた。
  人民の苦窮は、人民の間に怨恨の念を植えつけ、日本軍の野蛮な行為に対する蜂起を生み出していった。蜂起は、いつも、人民の為政者に対する怨恨と不満の感情という基礎の上に発生するのである。
  ジャワ島のみならずインドネシア各地で日本軍政に対する農民蜂起がおき、農民の間には少なからぬ犠牲者が出た。
  人民が生活の苦しさに喘いでいる中で、日本軍は、インドネシアの知識人の抱きこみの努力をつよめていた。私たちは、人民の生活と、日本軍政に協力している指導者の生活の間には、極めて顕著な格差があることを見てとることができた。

 

…というのもまた日本による占領の現実なのであった。

 つまり、

  連合軍の圧力が強まるにつれ、日本軍にとってインドネシア人民の協力が、ますます必要となった。ジャワには、中央参議院が設けられた。

…という一方で、

  日本軍は、ひそかにジャワ米を彼らの艦船に積み込み、持ち去っていた。インドネシアの都市住民は、一人一日二百グラムの米で暮らしていた。

…という事態が進行していったのである。

 桃太郎の戦争がインドネシアの人々を巻き込んでいく過程での、形式的ではあれ政治(占領行政)への参加の経験は、戦後のインドネシアの独立への準備運動として確実に機能したであろう。また、日本軍政により設立された郷土防衛義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)での軍事訓練の経験は、オランダを相手にした独立戦争に際し、大きな意味を持つものとなったことも否定出来ない。

 しかし一方で、大日本帝國の占領が過酷なものとして経験されたこともまた事実と言わざるを得ないのである。郷土防衛義勇軍に対する軍事訓練の成果が最初に発揮されたのは、1945年2月14日の「ブリタル反乱」、つまり過酷な日本軍政に対するインドネシアの人々の反抗の際なのであった(「PETA」による最初の軍事力行使は、日本による軍事支配の現実に向けられたものだったということである)。

 

 

 

 

 遊就館の図録からは、つまり桃太郎の視点からは、後者の現実(相手の経験)がスッポリ抜け落ちているのだ。そのことに気付いておくことも、歴史理解の上で必要に思える。

 他者の経験、他者の視線のあり方への想像力を欠いた歴史理解は、自己礼賛の道具で終わってしまいかねないのである。

 

 

 

 

 

〔付記〕 桃太郎については、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html)をお読みいただきたい。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/02 00:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/139357/

 

 

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2010年6月27日 (日)

蘭印にやって来た桃太郎

 

  なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

…という『桃太郎 海の神兵』にまつわる話(前回、前々回参照)と、

  神州丸はGL,龍城丸,MT,土佐丸という多彩な防諜名を持っているので,その事績を調べようとするとしばしば混乱してしまいます.対米英開戦開始の直後,インドネシア(蘭印)攻略を目指すジャワ島上陸作戦の最中に味方の魚雷を受け,作戦を指揮する第十六軍司令官今村均中將を海中に放り出して転覆した龍城丸がこの神州丸のことだと理解するまで私自身だいぶ回り道をしてしまいました.それほどに重要な機密として秘匿された船でした.

…という「陸軍独創の強襲揚陸艦」にまつわる話(前回参照)の共通点は、蘭印(インドネシア)であった。
(前々回→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html
(前回→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-c1ca.html

 どちらも、大東亜戦争緒戦段階における、蘭印攻略戦でのエピソードということになる。

 

 蘭印獲得こそが、対米英戦となった昭和16年12月8日以降の大日本帝國の戦争の焦点だったわけである。

 もちろん、真珠湾攻撃には、米太平洋艦隊の無力化という軍事的目的があり、大東亜戦争の重要な作戦であったことは確かだ。しかし、それは太平洋・東南アジア方面における米英の軍事力の弱体化が、蘭印獲得の永続性の保障を意味するからこその軍事作戦行動なのである。

 

 収拾不能となった盧溝橋以来の中国大陸における軍事力行使が、仏印進駐にまで拡大し、米国による石油禁輸という経済制裁発動をもたらしてしまった結果、大日本帝國は石油供給の枯渇の現実化という事態に直面してしまう。そこにあらためて浮上したのが、蘭印の石油の存在であり、軍事力による獲得の実行策としての開戦なのである。

 そこに、いわゆる南進局面となった対米英戦としての大東亜戦争の起源がある。

 資源確保における対米依存からの脱却、米国に依存しない石油資源の確保こそが、大東亜戦争の目的なのである。実際、開戦に先立つ大本営での議論は、南進の形式(対英蘭戦争に限定するのかどうか、それが可能かどうか、つまり対米戦争回避の可能性)と対米戦争となった場合の勝算、そして南進による資源獲得問題(南方資源確保が戦争の目的であると同時に、占領地からの資源供給が対米英戦の戦線維持の前提となる)に集中しているのだ。植民地からのアジアの解放についての議論には、大本営の参謀達には、その段階では関心が持たれていなかったように見える。

 
 

 もちろん、大東亜戦争における大日本帝國の敗戦が、戦後のアジアにおける植民地独立の契機となったことは確かである。その意味では、大東亜戦争は、アジアの植民地状態からの脱却の重要な要因であった。

 インドネシアの独立に際して、旧日本軍軍人兵士の果たした役割が評価されているのも事実である。しかし、大日本帝國の蘭印への関心は、石油資源の確保に始まるものであったのもまた、事実と言わねばならない。

 

 ここでは、植民地からの「解放」をもたらした大日本帝國の占領統治が、インドネシアの民族主義者の目に、どのように映じていたかを見ておこう。

 
 

  私たちは、蘭印政庁がどんなに残忍なインドネシア統治をしていたかを、いつでも、即座に描き出すことができる。人民は、オランダ人に対し激しい憎悪の念をもやしていた。従って、日本軍がインドネシアに上陸すると、私たちの間には、オランダからの解放感が生まれていた。民族運動の一部指導者は、日本軍を、将来のインドネシアに対する良い兆候であるとみなした。日本軍は、巧みな宣伝活動を行った。一部の知識人は、日本軍の語る計画を真実であると信じた。次々に標語が打ち出されてきた。そして、インドネシア人の胸を燃えたたせた。「アジア民族のためのアジア」「大東亜共栄圏」「アジアの指導者日本」が、その主なスローガンであった。日本軍がインドネシアに上陸したばかりのころ、インドネシア人民は、インドネシアに独立を与えるという日本軍の約束を大きな希望をもって迎えたものであった。
  だが、そうした状況は長く続かなかった。インドネシア人民、とりわけ知識人は、日本軍のジャワ上陸の意味が何であるかに、次第に気づくようになった。日本軍に続いて、文官、サクラ・グループ(民間人)が、インドネシアにやってきた。彼らは、インドネシアの天然資源を乱掘した。
  日本軍が、インドネシア人を登用し、官吏や兵士にする教育をしたのは、オランダ人が去ったあと、そのオランダ人の仕事の空白を埋めることができなかったからであった。日本軍に協力したインドネシア人指導者は、強制されたものもあったが、自発的に協力したものも少なくなかった。強制であれ、何であれ、私たちは、日本軍に協力しなければならなかった。一時に、全面的に日本軍との協力を拒否するのは、賢明な道ではなかった。知識人が占領軍に協力したのは、彼らがインドネシア民族の利益を無視したり、また、忘れたりしたからではなかった。そののちにおいても、あらゆる危険をのりこえて民族闘争が続けられていった。

 
 

 独立達成後のインドネシアで政府閣僚となった、イワ・クスマ・スマントリの『インドネシア民族主義の源流 -イワ・クスマ・スマントリ自伝-』(早稲田大学出版部 1975)の、第五章「日本軍政の時代」には、このように書かれている。

 
 

 桃太郎の意気込みとは別に、オランダという鬼の下で植民地とされていたインドネシアの人々に、桃太郎がどのように見えたのか?

 インドネシアの人々の目に映じた桃太郎の姿、それをここから読み取っておきたい。

 
 
 
 
 
 

 

〔付記〕 アニメ『桃太郎 海の神兵』(1944)の詳細については、前々回の記事、「海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)」の後半をお読みいただきたい。
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e5e1.html


 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/05/31 23:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/139273/

 

 

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2010年6月26日 (土)

海兵隊、陸戦隊、陸軍船舶兵、そして桃太郎の九六式陸攻とディズニーのB-36

 

 『桃太郎 海の神兵』(1944)では、海兵隊ならぬ海軍陸戦隊所属の空挺部隊指揮官としての桃太郎の姿を目撃したわけだ(前回の話)。

 

 

 そこでご紹介した通り、『ウィキペディア』の「九六式陸上攻撃機」の項には、

なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

 …と書いてある。つまり、蘭印(インドネシア)攻略作戦での海軍空挺部隊の活躍が、アニメのベースとなっているというわけだ。

 

 「敵地に降下して強襲、制圧」するのが空挺部隊(落下傘部隊)の役割である。海軍に所属する部隊であるが、陸上戦闘を任務とし、しかも航空機から落下傘降下して、敵地を強襲・制圧するわけだ。実際に、大東亜戦争の緒戦での勝利を、彼らの活躍が飾っているのである。最前線を突破するというよりは、敵の後方、あるいは敵の渦中に乗り込んでの戦闘を任務としていることになる。

 米国の海兵隊の任務の中心が敵前上陸の先頭を務めることであるのと同様の、危険な兵種である。日本海軍の陸戦隊は、敵前上陸のような戦闘行動を主任務としているとは言い難いが、その中の空挺部隊に関しては、米海兵隊の敵前上陸に劣らぬ危険度の高い作戦行動に従事していたと言うことが出来る。

 

 

 

 大日本帝國の戦争の場合は、敵前上陸も陸軍が担っていた。そのために陸軍も船舶を保有し、陸軍船舶兵という兵種も存在した(ただし、「兵種」としての独立は蘭印攻略戦後のことで、それまでは「船舶工兵」あるいは「上陸工兵」として取り扱われていたらしい)。

 ダイハツ(大発)と呼ばれる上陸用舟艇の存在は知っていたが、最近、その母艦に当たる艦艇の存在を教えられた。

 「神州丸」の話が、実に興味深いのでご紹介する。
 → http://homepage2.nifty.com/i-museum/19450103sinsyu/sinsyuu.htm

 

 

 このサイトによれば、

 陸軍独創の強襲揚陸艦
 陸軍歩兵部隊が海から敵地の海岸に上陸するには,輸送船の甲板に積んだ上陸用舟艇(大発・小発など)をクレーンで海上に降ろし(泛水)歩兵は縄梯子を伝って舟艇に乗り移るという危険で効率の悪い作業が必要でした.その欠点を補う目的で陸軍が独創的なアイデアを盛り込んで極秘に設計したのが運送母艦GL(GodLand)すなわち神州丸だったのです.

…ということであったらしい。

 

 しかし、今回、この神州丸を取上げたのは、むしろ、

 多くの船名をもつ機密船
 神州丸はGL,龍城丸,MT,土佐丸という多彩な防諜名を持っているので,その事績を調べようとするとしばしば混乱してしまいます.対米英開戦開始の直後,インドネシア(蘭印)攻略を目指すジャワ島上陸作戦の最中に味方の魚雷を受け,作戦を指揮する第十六軍司令官今村均中將を海中に放り出して転覆した龍城丸がこの神州丸のことだと理解するまで私自身だいぶ回り道をしてしまいました.それほどに重要な機密として秘匿された船でした.

…というエピソードの方に心を惹かれたからでもある。

 

 

 「日本海軍空挺部隊長」としての桃太郎の活躍したのと同じ蘭印(インドネシア)攻略作戦で、日本陸軍の上陸作戦実施中に味方の日本海軍の魚雷により沈められた艦が、この神州丸なのだ。この春の韓国哨戒艦沈没にまつわる「疑惑」の一つとして話題になったものに、同士撃ち説(演習中の魚雷の誤発射による)があるが、それを思い出させる話ではないか!

 
 
 
 
 
 ところで、前回の最後で、同時期のアメリカではカラーの娯楽アニメ作品が制作上映されていた云々という話をした。

 

 その例として、ダフィー・ダックがナチス相手に活躍するワーナー製のアニメをご紹介しておくことにしよう(→ http://www.youtube.com/watch?v=FWehnyAR6-k)。

 『桃太郎 海の神兵』は確かに(様々な意味においての)力作・大作だがモノクロ作品であるのに対し、ダフィー・ダックの方はお笑い目当ての娯楽アニメであるにもかかわらずカラー作品だったのである。もっとも、当時の米国では、モノクロアニメも量産されていたことも確かである。ここでは、有名な『Tokio Jokio』を取上げておこう(実は以前にも紹介したことがあるのだが…  Banned Cartoons--Japs- Tokio Jokio - 1943 - B&W → http://www.youtube.com/watch?v=KvA1zphaeTQ)。『Tokio Jokio』は、ご覧になればわかる通り、当時の日本製の(大日本帝國の)ニュースフィルムの体裁をとっている。

 
 今回、数ある戦中アニメの中から『Tokio Jokio』を取り上げたのは、そのニュースフィルム仕立てであるところに着目したからだ。

 つまり、毎週の映画館での新作映画(ドラマ)の上映の際には、ニュースフィルムも必ず上映されていたのが、当時の映画上映のスタイルだったということを、あらためて意識にのせて欲しいのである(テレビのない時代の話だ)。そして、もうひとつ、ニュースフィルムに加えて、ワーナーやディズニーの娯楽短編アニメの上映も欠かせないものであったということなのだ。

 あのダフィー・ダックは、そういった週代わり上映用の量産アニメの一本だったと思われる。つまり、乾坤一擲の国策プロパガンダなどではない、(多少のプロパガンダ臭があるとは言え)お笑い娯楽作品としてのアニメが、フル・カラーであったというお話なわけだ。

 
 
 で、フルカラー・アニメの事例をもう一本。『Victory Through Air Power』(→ http://www.youtube.com/watch?v=C7dkC4iJf54)をご覧いただきたい。これは、ディズニーの「自主制作」のプロパガンダアニメなのだ。空軍力の充実、特に戦略爆撃機(重爆撃機)の生産・保有・活用こそが、戦争での勝利を約束するのだという(セバスキーの)主張の紹介啓蒙のために、ディズニーは、カラー長編アニメを「自主制作」していたのである。

 内容については、実は以前に取上げているので、そちらをお読みいただきたい(「無差別爆撃の論理 3」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-dcda.html ただし、文中で紹介した「予告編」の動画は削除されてしまって「YouTube」では、今は見ることは出来ない←ただし「ニコ動」で見ることは出来るようである)。

 
 さて、問題の『Victory Through Air Power』のラスト・シーンに出てくるのは、ディズニーが(セバスキーが)理想とした「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」をアニメ化した姿である。アラスカから発進する六発重爆撃機が日本に対する都市無差別爆撃を敢行し、日本は焼き尽くされ、破壊し尽くされるわけだ(それがディズニーにとってのハッピーエンドである)。

 現実には、当時の米国にも、「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」を製造する力はなかった。B-29が東京をターゲットとするためには、サイパン陥落を待たねばならなかったのである。

 
 

 で、現実に米国が、「アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機」を保有するのは戦後のことであった。

 次の動画をご覧いただきたい。

Convair B-36 Peacemaker Biggest Bomber 1946 Universal Newsreel   (2:00)
 → http://www.youtube.com/watch?v=YgStI1S_rEM

 これがまさに当時のニーュスフィルムなわけだが(後半のアイゼンハワーの姿!)、このフィルムの前半に登場するのがコンベアの六発重爆撃機B-36である。1946年8月8日の初飛行の映像がユニヴァーサルのニュースリールとなったわけだ。

 第二次世界大戦の終了後、米国は念願の(?)空中給油により無着陸長距離飛行を可能にした大型爆撃機を手に入れたのである。冷戦の時代のスタートを飾ったのが、このB-36「ピース・メイカー」なのであった。

 
 B-36を主人公(?)にしたような映画さえ製作された。日本では『戦略空軍命令』というタイトルで公開された『Strategic Air Command』の映像を紹介しよう。

Now that's a BOMBER!   (5:32)
 → http://www.youtube.com/watch?v=3wvEzhyY9F4

 ここに登場するのは、レシプロの六発に加えて、ジェットエンジン四発を追加装備したモデルである(ジェットエンジン始動に伴い震える機体の様子が、見事に撮影されている)。

 

 もう一つ、アラスカの基地のB-36の映像だ。

B-36 Peacemaker   (8:37)
 → http://www.youtube.com/watch?v=AIKVBPVmeHo&feature=related

 まさに、かつてのディズニーの(セバスキーの)描いた夢(アラスカから発進する六発重爆撃機!)の現実化した姿である。

 

 

 

 

 ところで、このB-36だが、「YouTube」の映像だと、もう一つその巨大さが伝わらない。

 で、B-29と並んで写っている有名な画像を用意してみた。どうだろう、この大きさ!! B-36の左に並ぶ「小さな」爆撃機がB-29なのだ。

 B-29は、B-36の登場により、空軍内では「中型爆撃機」として分類されるようになったんだそうな…

 

 

 (http://commons.wikimedia.org/wiki/File:B-29_and_B-36.jpg

 

 

 

 検索で見つけた別の画像も面白い。上から第一次大戦時、1920年代の複葉爆撃機(機種は不勉強なので不明)だが、3段目が1930年代のB-10爆撃機、その下が第2次世界大戦時にヨーロッパで活躍したB-17、そしてB-29、B-36という順になる。

 

 

 (http://blogarticles.blogspot.com/2005/08/b-36-peacemaker.html

 

 

 

 B-36の巨大さのダメ押し的画像ではないだろうか? (併せて、この画像上での九六式陸上攻撃機のサイズも想像して欲しい) 繰り返すが、これがディズニーの(セバスキーの)描いた夢の現実化した姿なのである。

 

 話を戻して、『桃太郎 海の神兵』中の、日本海軍空挺部隊を載せて飛ぶ九六式陸上輸送機の飛行シーン、厚い雨雲の中、機体の継ぎ目から雨水が浸入するエピソードも思い出しておこう。任務の困難さと、それを克服する皇軍精神の強調ということなのであろうか? しかし、既に与圧キャビンを備えていたB-29では、そのようなエピソード(雨漏り)は起こり得ないのであった(カラーの娯楽アニメも、与圧キャビンの装備も、大日本帝國には手の届かぬものだったわけだ)。

 昭和二十年の四月、そのB-29の都市無差別爆撃により焦土と化した日本で、『桃太郎 海の神兵』の上映が開始されたわけである。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/26 00:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/141308/

 

 

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海兵隊と桃太郎(桃太郎 海の神兵)

 

 そもそもは、ウェストサイズの増加というプライベートな問題から始まったのであった。

 

 ウェストサイズ増加という、現実に進行中の事態を前に、宝船の要員的なスタイル(大黒さんとか、恵比寿さんとか、布袋さんとか…)への変化として考えることで、つまり「肥満」あるいは「デブ」と考えるのではなく、「貫禄」の増大として考えることで、脂肪の付着はプラスの価値として評価可能になる、ような気がしたわけだ。いわゆるポジティブ・シンキングってヤツであろうか?

 

…という自己欺瞞のための試みが出発点であった。いや、自己欺瞞ではなく、価値の転倒の試みであった、と言ってしまおう。

 

 

 

 アメリカン・ヒーロー的逆三角形型マッチョ・ボディを理想化するのではなく、宝船要員的紡錘体型タルミ・ボディを理想化することで、肥満のマイナスイメージは払拭される、はずだ。

 

…なぁんて、要するに、出発点は酒飲みのタワゴトに近い場所にあった。

 

 

 その上で、あらためてジャパニーズ・アニメ・ヒーローの体型を考えた時に、アメリカン・ヒーロー的、スーパーマン的マッチョ体型は、日本では、あまり人気のないことに気付いた。

 アメリカン・ヒーロー的体型とは、まさに米海兵隊員の姿でもある。

 

…というようなことを考え始めたわけである。

 

 

 鉄人28号の相撲取り体型は別格としても、鉄腕アトム的ポッチャリ体型に、ジャパニーズ・ヒーローの原点を見出せるような気にさえなって来たのであった。あるいは、ガンダムでもエヴァンゲリオンでも、ロボットはマッチョ・ボディだが、パイロットは海兵隊員系の逆三角形キャラクターではない。

 

…で、つまるところ、ジャパニーズ・ヒーローの原点は(ポッチャリ系の)桃太郎なんじゃないか、なんて方向へと、タワゴトは展開していったわけだ。

 

 

 桃太郎も、絵本などで見る限り、海兵隊員系のマッチョボディの持ち主には見えない。やはり、人間の理想形(この場合は強い男の理想的イメージ)が、日米では根本的に異なるのだろう。

 ところで、海兵隊員は、敵地に上陸し暴れまわるのが役どころだが、その意味では、桃太郎はジャパニーズ海兵隊員キャラではある。鬼が島に上陸し、暴れまわり、略奪に励むのが、桃太郎の姿であった。

 

 

 

 鬼が島の鬼が一体何をしたのかは、正直なところ、よく知らなかったりする。桃太郎登場以前の桃太郎側は、何か具体的に、鬼の被害に遭っていたのだろうか? まさか、ありもしない大量破壊兵器に因縁をつけられて…なんてことはないんだろうが、事実(絵本ではどうなっていたか、ってことだが)がどうだったのかはよくわからない。猿だの雉だの犬だのは、桃太郎に買収されて侵略のお手伝いをする有志連合の多国籍軍を連想させるが、まぁ、邪推であることを祈る。

 いずれにしても、敵地に上陸して強襲、制圧して略奪…という桃太郎こそは海兵隊の鏡に思えてくるのであった。

 一方で、桃太郎に随伴する雉こそは現代戦の航空攻撃を予言する存在ではないか、という卓説(?)まで登場する。そして、実際、当の米海兵隊は、独自の航空戦力を保有しているのである。

 

 要するに、絵本の桃太郎の話こそは、現代の米海兵隊の姿を予言するものなのであった。

 

…というところまで話は暴走していった(もちろん、あくまでも、酒飲みのタワゴト程度の話で、厳密な検証など求めてはいけない)。

 

 

 

 

 

 が、しかし、事態は思わぬ展開をするのだ。

 昭和十九(1944)年十二月制作、翌二十年の四月公開のアニメ、『桃太郎 海の神兵』の存在が、私たちの前に浮上するのであった。

 

桃太郎 海の神兵 1/9   (8:48)
 → http://www.youtube.com/watch?v=suRt7Dtdsmg
桃太郎 海の神兵 2/9   (8:15)
 → http://www.youtube.com/watch?v=1htQi-_VWRM&NR=1
桃太郎 海の神兵 3/9   (7:34)
 → http://www.youtube.com/watch?v=sKgXcAOenc4&feature=related
桃太郎 海の神兵 4/9   (7:30)
 → http://www.youtube.com/watch?v=A_IUs7GWIIU&NR=1
桃太郎 海の神兵 5/9   (6:23)
 → http://www.youtube.com/watch?v=nzzctRDcfXE&NR=1
桃太郎 海の神兵 6/9   (8:34)
 → http://www.youtube.com/watch?v=WbI2sokajZ0&NR=1
桃太郎 海の神兵 7/9   (7:39)
 → http://www.youtube.com/watch?v=t6N1oz_jD5w&NR=1
桃太郎 海の神兵 8/9   (8:50)
 → http://www.youtube.com/watch?v=6pZV_coeBSc&NR=1
桃太郎 海の神兵 9/9   (9:56)
 → http://www.youtube.com/watch?v=xAeK-UAuyUQ&NR=1

 

 敗戦(ポツダム宣言受諾)まで数ヶ月の時点、帝都東京も焦土に化した中での公開だったということになる。

 動画には「桃太郎 海の神兵  momotaro's divine sea warriors 」というキャプションが付けられているが、この「海の神兵」では、桃太郎は海軍陸戦隊所属の落下傘降下部隊(空挺部隊)の指揮官として活躍するのだ。

 『桃太郎 海の神兵』は、海から「敵地に上陸して強襲、制圧」するのではなくて、空から「敵地に降下して強襲、制圧」する海軍陸戦隊の活躍を描いた、大日本帝國の戦中アニメなのであった。

 

 

 『ウィキペディア』の「九六式陸上攻撃機」の項に、

 
なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

 
…という記述があるが、この「1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させた」作戦が、このアニメの下敷きとなっているわけである(アニメ冒頭でも、そのことが説明されている)。

 「大東亜戦争」の緒戦段階での日本軍の「赫々たる戦果」の記憶を基に、そこに桃太郎伝承を合体させ作成されたストーリーというわけだ。

 しかし、アニメ公開時には、「赫々たる戦果」は既に「記憶」の中にしか存在せず、映画館のある都市ではB29による空襲が日常化していたのであった。

 
 

 

 アニメの冒頭(1/9~2/9)では、凱旋した雉や猿の故郷での牧歌的なシーンが延々と続くが、「桃太郎 海の神兵 3/9」でやっと、南方に設営された飛行場への、件の「九六式陸上輸送機」と零式戦闘機の着陸シーンが登場する。九六式の特徴的な双尾翼には、「桃」の部隊マーク(これもノーズアートの一種だ)が描かれているところが面白い。
 「4/9」に至って、海軍落下傘降下部隊指揮官としての桃太郎が姿を見せる。米海兵隊員型マッチョボディというよりは、ポッチャリ系のイメージである(表情はキリッとしているが)。
 「5/9」では、現地の動物たちへの日本語教育シーンがある。日本軍による占領の一側面のアニメ的表現と言えるだろうか。「6/9」では出撃準備が進む中での慰問袋到着シーンが、冒頭の故郷の牧歌的シーンと重ねられる。また、ここでは九九式艦上爆撃機が登場し、偵察任務を帯びて離陸する姿を見せる(後に搭乗員の一人は戦死する)。
 「7/9」でいよいよ出撃、と思わせるが、ここでは、ゴア王国が白人に植民地化される過程と伝説上の解放者の存在が語られ、その解放者のイメージは(言うまでもないだろうが)桃太郎に重ね合わせられる。
 「8/9」でいよいよホントに出撃。悪天候の中を飛び続ける九六式が、雲中で機体に浸水(雨漏り)するシーンがあるが、これが検閲で問題とはならなかったことは興味深い。
 「9/9」でついに降下し、着剣戦闘が始まる。投下された野砲、重機関銃そして手榴弾を用いての攻撃。相手は英軍のようだ。指揮官桃太郎対パーシバル風の鬼の司令官の降伏交渉シーンがあったりする。

…と、そんな展開の、大作(ただしモノクロ)アニメである。

 

 

 

 まぁ、同時期のアメリカでは、カラーの娯楽アニメ作品が制作上映されていたわけで、そこに日米間の厳然たる国力の差が現れているわけだが、日本でもアニメは戦争と無縁ではなく、しかも桃太郎が海軍陸戦隊(海兵隊に相当する日本海軍の組織である)空挺部隊長として戦争とは無縁ではなかったというエピソードが、こうして残されていたわけである。

 
 

 

 

 

【桃太郎 海の神兵】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E6%B5%B7%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%85%B5

【海軍陸戦隊】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A

【日本海軍空挺部隊】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%A9%BA%E6%8C%BA%E9%83%A8%E9%9A%8A

【九六式陸上攻撃機】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F

【蘭印作戦】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%8D%B0%E4%BD%9C%E6%88%A6

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/24 22:45 → http://www.freeml.com/bl/316274/141226/

 

 

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2010年6月20日 (日)

「植民地化=Colonization」と「併合=Annexation」

 

 「対満政策私論(昭和二年十一月二十九日)」(在奉天日本総領事館)という文書が、みすず書房の『現代史資料 7 満洲事変』に収録されている。

 

 文中に、

     第二、移民問題より見たる満洲
一、現在日本の人口問題
 対満植民の要を述ぶるに先ち帝国現在の人口問題を一覧せんに大正十四年十月国勢調査に依る我国人口数は内地五千九百七十万、植民地即ち朝鮮千九百万、台湾四百万、樺太二十万、計八千三百五十万なる処其将来の発展率に付ては専門的攻究を要すべきも過去の増加率に依る推定方法に依るに左の如し(一調査に依る)

…という記述があるのが興味を惹いた。

 
 
 

  植民地即ち朝鮮千九百万、台湾四百万、樺太二十万、計八千三百五十万なる処…

…というフレーズを読んで(「植民地即ち朝鮮」というフレーズの話である)、不信感を抱く方は多くはないと思われるが、世の中には怪説も出回っているのである。

 
 

【本当に半島を植民地化したのか?】

韓国の教育による歴史改竄手法の一つに「不適切な用語の適用」がある。
1910年の日韓併合を(当時は朝鮮併合)「植民地化」と表記する。
英語表記をすれば、植民地化=Colonizationであり、併合=Annexationである。
この二つの歴史用語の意味する統治概念や対応する史実は全く異なる。
・「併合」
自国化が目的。
獲得地域に本土と同じ生活環境を整備し、住民を本土国民と同じ権利義務を持つ人として扱う。
その統治の基本方針は同化。
・「植民地化」
経済的収奪が目的
その為の開発だけが行なわれ、植民地住人は労働力として位置づけられる。
その統治の基本方針は本国の収益の最大化。
日本による数々の朝鮮半島併合後に行った近代化事業を見れば、日韓併合の実態は、将に自国化(Annexation)である。
実態と違う「植民地化」表記は日本的な誠実さや穏健性を隠蔽、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配したかの様な負のイメージを目的としている。

 

 

…なぁんて話がマコトシヤカに語られているのである。

 読んでしまった以上、そしてそのインチキを理解してしまった以上、「現代史のトラウマ」サイドとしては見過ごすわけにもいかない。

 
 
 

 そんなヨタ話を読んで最初に考えたことをまず記しておく。

 

 まず何よりも、大日本帝國における国家官吏養成システムとしての当時の各帝国大学において、「植民政策学(”colonial studies” だ!)」の講座が開設されていたという歴史的事実の意味するところをよく味わっておくべきだということ。

 帝国大学における「植民政策学」講座の開設は、大日本帝國にとっての植民地経営という課題に対する官学側の対応として理解しておく必要がある。「植民政策学」の研究対象となったのは、先行帝国主義諸国の植民地経営の技術・実態であったと同時に、台湾、朝鮮、満洲等の調査研究であったという事実をどのように考えるのか?

 帝国大学という、大日本帝國の国策と不可分の教育研究システムにおいて、台湾、朝鮮、満洲等が「植民政策学」の研究対象であったことは、端的に言えば、それらの地域を、大日本帝國自身が、自らの植民地として「イメージ」していたことの証として理解しておくことが妥当に思える(それ以外に考えようがあるだろうか?)。

 

 引用・紹介した文章にある、

実態と違う「植民地化」表記は日本的な誠実さや穏健性を隠蔽、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配したかの様な負のイメージを目的としている。

…という主張は、朝鮮半島をも「植民政策学(colonial studies)」の研究対象としていた、大日本帝國の負の現実(イメージではなく)を隠蔽する機能を果たすものであり、「誠実さ」からは遠いものと言わざるを得ない。

 

 日本の朝鮮半島支配が、「自国化(Annexation)」という用語をもって語られるべきという主張は、領有・統治方式の比較分析という観点からは意味あることかも知れないが、しかしその前に、大日本帝國が朝鮮半島に注いだ視線が、あくまでも、「植民政策学(colonial studies)」によるものであったという事実の意味を把握しておくべきであろう。

 「植民政策学(colonial studies)」の観点からは、「併合=Annexation」は、「植民地化=Colonization」の一形態として理解されるものであった、というだけのお話に思える。わかりやすく言えば、大阪人が日本国民に含まれるように、「併合」は「植民地化」に含まれる概念なのである。つまり、

  この二つの歴史用語の意味する統治概念や対応する史実は全く異なる。

…ということにはならないのだ。つまり、

  大日本帝國が「併合」という型式で韓国(朝鮮)を「植民地化」した

…と「史実」を記述するのが、「この二つの歴史用語の意味」の正しい理解の仕方なのである。

 
 ちなみに、『ウィキペディア』の「植民政策学」の項には、

 植民地統治を行う立場から、その下での諸政策を研究する学問

…と、きっぱり・あっさりと書いてあったりするのであった。もっとも、 ”colonial studies” を直訳すれば「植民地研究」になってしまうというミモフタモナイお話ではあるわけで、その ”colonial studies” の講座の中で、朝鮮や台湾が研究対象となっていたという、実に何ともミモフタモナイ話であったわけだ。
(その後、ふと思いついて『政治学辞典』の「植民政策」の項目に目を通してみたのだが、その結果は……この記事末尾の「追記」でお楽しみ下さい)

 
 
 
 

…なんてことを考えながら、ヨタ話でありながらも、そのマコトシヤカさの演出ぶりに感心させられてもいたのであった。

 
 
 
 

 まぁ、「植民政策学」の存在という視点(あるいは論点)には、ヨタ話へのストレートパンチとは言い難いところがあることも確かだ(註1)。

 

 しかし、今度は、在奉天日本総領事館員(つまり大日本帝國政府外務省に所属する公人である)が自ら、

  植民地即ち朝鮮千九百万、台湾四百万、樺太二十万、計八千三百五十万なる処…

…と、当たり前のこととして書いている文書に行き当たったというわけだ。

 

 「対満政策私論」の「私論」という文言にこだわり、

  「植民地即ち朝鮮…」という認識も、その館員の個人的なものに過ぎないのでは?

…なんていう反論をするおバカさんの出現も想像がつくが、それでは読解力の貧困を自ら語ることになるだけの話だ。

 「対満政策私論」中の問題の文章は、

  対満植民の要を述ぶるに先ち帝国現在の人口問題を一覧せんに…

…という言葉で始められている。つまり、この「私論」は、本論として「対満植民の要を述ぶる」ことが目指されるという構成の下に書かれているということだ。文書の筆者の「私論」としての主張部分は、つまり私的な認識として読まなければならないのは、その「対満植民の要を述」べた本論部分なのであって、「帝国現在の人口問題を一覧せんに」という言葉と共に示されている認識は「本論」展開の前提に過ぎず、当時の外交官としての共通認識が表現されているものとして理解すべきなのである。

 

 この場合、「植民地即ち朝鮮…」という認識を、単なる大日本帝國の公務員としての常識を示した(洩らした?)ものとして理解・解釈することが、基本中の基本とでも言うべき文章読解上の技術なのである。つまり、文脈の中で個々の表現は理解されなければならない、ということだ。

 
 
 
 
 

 つまるところ、

韓国の教育による歴史改竄手法の一つに「不適切な用語の適用」がある。
1910年の日韓併合を(当時は朝鮮併合)「植民地化」と表記する。

…という主張(ヨタ話)の前に、在奉天日本総領事館員の手による、

  内地五千九百七十万、植民地即ち朝鮮千九百万、台湾四百万、樺太二十万、計八千三百五十万…

…という記述、「韓国の教育」の影響下にありようのない記述が立ち塞がるというわけだ。

 

 

 いずれにしても、

実態と違う「植民地化」表記は日本的な誠実さや穏健性を隠蔽、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配したかの様な負のイメージを目的としている。

…という主張が、当時の大日本帝國当局者自身の認識の「実態」を反映していないことは明らかだろう。「植民地即ち朝鮮…」という、大日本帝國の国策遂行者にとっての常識的認識のあり方の「隠蔽」を「目的」とした主張と考えておくことが妥当に思える。

 しかし、「日本的な誠実さ」とはどのようなものなのだろうか?

 大日本帝國によるかつての植民地支配を事実として認めることこそ、「誠実さ」の発露だと思われるのだが、「日本的な誠実さ」とは、そのような態度とは別のものなのだろうか?

 

 

 

 

[追記]

 せっかくの記事なので、思いついた勢いで『政治学辞典』に目を通してみた。その結果は…

 

【植民政策】 〔英〕 colonial policy 〔独〕 Kolonial-politik 〔仏〕 politique coloniale 

 植民地経営のための政策全般をいう。大別して三つの基本的な型に分類することができる。

  1) 資本の原始蓄積に対応するもので、植民地の生産力培養を顧慮しない略奪、搾取経営方式(スペイン対インカ植民地)。

  2) イギリス型あるいはダイアキー型。
     a 本国からの植民者(プランター)で構成されるばあいで、本国同様の政治的権利と政治的組織をみとめる。これはアメリカ、オーストラリアでみられたもので原住民を土地から追放しそこに’白人’の処女地、新大陸として’白人’の新しい資本主義社会を建設するもの(イギリスの自治植民地)。
     b 植民地の社会組織、慣習を基礎としてその上に直接ないし間接に統治するもの(イギリスの対インド、オランダの対インドネシア植民政策がその適例)。

  3) フランスないし日本型あるいは同化政策型。日本の台湾、朝鮮における’皇民化運動’に典型的にみられ、強大な軍事力を背景とする急激な干渉を意味し、当然政治的反抗を惹起する。

 (以下の記述は省略)

     『政治学辞典』 平凡社 昭和29年初版(昭和42年初版第16刷による)

 

…というものであった。これが、

・「併合」
自国化が目的。
獲得地域に本土と同じ生活環境を整備し、住民を本土国民と同じ権利義務を持つ人として扱う。
その統治の基本方針は同化。

…というお話(「統治の基本方針は同化」と書いてあるわけだ)の内実である。

 これは、40年以上前のロングセラーの『政治学辞典』の定義なのであり、つまり古典的定義と言うことが出来るだろう。要するに、「併合」が「植民地化」の一形態であるというのは、政治学の世界では常識に属する認識と考えておかなくてはならないのである。

                         (2010年8月10日)

【註1】
 その後、古書店で、宮澤俊義の『憲法講義案』(昭和十一年)を入手。当時の東京帝國大学における憲法学の講義中で、「台湾・朝鮮および樺太」が「外地(植民地)」として取扱われている事実を、文言として確認することが出来た。
 詳細については、「昭和十一年 宮澤俊義 『憲法講義案』 (植民地としての朝鮮)」をお読みいただきたい。
  (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-9119.html

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/20 00:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/140786/

 

 

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