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2010年4月 5日 (月)

第90回帝國議会 : 野坂参三 vs 吉田茂

 

 

 私ハ斯クノ如キコトヲ認ムルコトガ有害デアルト思フノデアリマス(拍手)近年ノ戦争ハ多ク国家防衛権ノ名ニ於テ行ハレタルコトハ顕著ナル事実デアリマス、故ニ正当防衛権ヲ認ムルコトガ偶々戦争ヲ誘発スル所以デアルト思フノデアリマス

 

 

 1946年6月29日、帝國議会衆議院議事速記録にある、総理大臣吉田茂の言葉である(古関彰一 『新憲法の誕生』 中公文庫 1995 による)。この第90回帝國議会では、米軍占領下の敗戦後日本における憲法改正という課題、すなわち大日本帝國憲法から日本国憲法への転換が議論されていた。

 政府が提示した新憲法草案が審議されていた中での、吉田茂首相の発言だ。

 もちろん、ここでの議論の対象は第9条の戦争放棄の規定の是非である。

 

 この吉田の言葉を引き出したのは、共産党の野坂参三であった。

 野坂は、戦争には侵略戦争と防衛的な戦争があり、「コノ憲法草案ニ戦争一般放棄ト云フ形デナシニ、我々ハ之ヲ侵略戦争ノ放棄、斯ウスルノガモツト的確デハナイカ」と主張していたのである。

 吉田の言う「斯クノ如キコト」とは、共産党の野坂の表明した、侵略戦争と防衛的な戦争を区別すべきではないか(そして防衛的な戦争の権利を放棄すべきではない)、との主張なのである。

 

 

 これは、かなり有名なやり取りであろうが、たまたま読んでいた後藤致人著『内奏-天皇と政治の近現代』(中公新書 2010)に、審議の議決結果が紹介されていたので、あらためて思い出したわけである。

 同書によれば、吉田内閣の提示した新憲法草案(現在の日本国憲法である)に対する記名投票による採決では、

 投票総数 429票

       賛成(白票) 421票

       反対(青票) 8票

という結果が示されたのだという。ここで興味深いのは、反対者8人の顔ぶれであろう。

 共産党  柄沢とし子 志賀義雄 高倉輝 徳田球一 中西伊之助 野坂参三

 無所属クラブ  細迫兼光

 新政会  穂積七郎

 現行の日本国憲法について、制定議会の審議時点では、反対者8人中の6人は共産党員であったわけだ。議会に議席を持っていた共産党の全議員が、現行の日本国憲法の草案に対し、反対を表明していたということなのである。

 

 しかも、当時の共産党は、戦争には侵略戦争と自衛戦争の別があり、

  憲法草案ニ戦争一般放棄ト云フ形デナシニ、我々ハ之ヲ侵略戦争ノ放棄、斯ウスルノガモツト的確

という主張を展開していたのである。賛成421票に対する反対票全8票中の6票を、その共産党議員が投じていたことが、『内奏』を読むことで、あらためて(私には)明らかになったわけだ。

 

 

 後藤の著書は、憲法の制定過程を扱ったものではないし、憲法9条に関して論じたものでもない。上奏、内奏、奏上などの言葉をもって語られる、天皇と政治家・軍人の直接の接触を伴う政治過程について、用語の整理を通して論じようとしたものということが出来るだろう。個人的には、ケネス・オルフが、『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』(岩波現代文庫 2009)の第3章「いまも続く内奏 戦後政治と昭和天皇」で示した観点の延長としての興味から購入した本である。

 

 読書の面白さは、著者の興味、著者の論点とは別に、著書内に提示された事実との出会いにもあるということを、あらためて実感させられたところだ。

 

 現行憲法制定過程における、特に憲法第9条をめぐる吉田茂と野坂参三の有名なやり取りが、新憲法案への賛成票421に対する共産党の反対票6という数字の裏づけを伴って、より鮮烈に浮かび上がって見えてくるのである。

 そこにあるのは、現行憲法草案に対する、戦後日本議会の圧倒的多数の支持であり、その中での少数派としての共産党の反・現行憲法(草案)の姿勢なのである。

 ここで思い出しておかなければならないのは、憲法9条の是非は、憲法制定議会での大きな争点ではなかったという点でもあろう。当初は、象徴としての天皇の地位が、大日本帝國憲法的な「天皇大権」のあり方とあまりに隔たっていることの方が、多数派たる保守政治家(吉田茂もそこに含まれる)には耐え難いことであり、憲法草案への批判の焦点であったのだ。

 

 

 いずれにしても、憲法9条の「押し付け」という問題は、大きな論点などではなかったのである。

 しかも、憲法制定の翌1947年に、マッカーサーは、吉田茂に対し、

     親愛なる総理
 昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。もし、日本人がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念がもたれてはならないと考えている。
 憲法に関する審査の権利はもちろん本来自由に与えられているものであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合国のとった立場をお知らせするものである。
 新年への心からの祈りを込めて。
                         敬具
                ダグラス・マッカーサー

とのメッセージを送っているのだ(1947年1月3日付 吉田茂宛のマッカーサー書簡  古関彰一 『新憲法の誕生』 中公文庫 1995 による)。

 マッカーサーは、 

 もし、日本人がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。

と提言し、吉田茂はそれを無視した。つまり、「その時点で憲法改正を必要と考え」ることはしなかったのである。

 現行憲法制定に関して、議会では、投票総数429票 賛成(白票)421票 反対(青票)8票 という圧倒的多数で現行憲法(草案)が支持されていたこと。保守政治家吉田茂とその支持者は、「その時点で憲法改正を必要と考え」なかったこと。そして、共産党が現行憲法(草案)に反対していたこと。その際に、憲法9条の条文を批判していたこと。

 

 

 
 そんなことを、『内奏』の著者後藤致人の問題意識とは関係なく考えたり出来るところに、読書の持つ楽しみの一つを見出す、というわけだ。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/04/04 20:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/134705/

 

 

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