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2010年3月

2010年3月 4日 (木)

第二次大戦後の世界と徴兵制の本義

 

 

     自民、徴兵制検討を示唆 5月めど、改憲案修正へ

 

という見出しには、いささか驚かされた。共同通信が伝えるところによれば、

 

 自民党憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔前政調会長)は4日の会合で、徴兵制導入の検討を示唆するなど保守色を強く打ち出した論点を公表した。これを基に議論を進め、05年に策定した改憲草案に修正を加えて、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行される5月までの成案取りまとめを目指す。
 参院選を視野に、離反した保守層を呼び戻す狙いとみられる。ただ05年草案も徴兵制には踏み込んでおらず、「右派」色を強めたと受け取られる可能性もある。今後党内外で論議を呼ぶのは必至だ。
 論点では「国民の義務」の項目で、ドイツなどで憲法に国民の兵役義務が定められていると指摘した上で「民主主義国家における兵役義務の意味や軍隊と国民との関係について、さらに詰めた検討を行う必要がある」と記述。直接的な表現は避けたものの徴兵制復活の検討をうかがわせる主張を盛り込んだ。
 (2010/03/04 19:10   【共同通信】 → http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030401000592.html

 

…ということなのだが、「徴兵制復活」は、軍事的には無意味な選択であると、私には思われるのである。つまり、政治的な思惑を抜きに、純軍事的観点から考える限り、無意味な政策であるというのが私の評価だ。

 

 

 

 実は、たまたま、今後の日本が当事者となる国家間戦争の可能性というテーマで議論をしていたところなのである。

 

 日本が当事者となる戦争の可能性としては、

 1、 日本が他国を攻撃する戦争

 2、 日本が他国に攻撃される戦争

 3、 日本が他国間の戦争に関与する戦争

の3パターンが考えられる。

 このうち、「1」は現行憲法上不可能なので想定外とするならば、「2」あるいは「3」のどちらかが、想定可能な日本が当事者となる戦争ということになるだろう。

 その際の戦争の形態としては、

 ① 通常兵器による戦争

 ② 核兵器による戦争

のどちらかとなる。

 通常兵器による戦争という想定としては、

 日本が通常兵器により攻撃され、軍事的侵攻の対象となる

 攻撃国軍の最終的目標は地上軍による占領である

という2点の組み合わせとして、通常は考えられていると思われるが、さて、そのような可能性は存在するのだろうか?

 
 私は「ない」と思う。

 

 外交上の案件の解決のためだけに、そのようなタイプの戦争に訴えることはコストがかかり過ぎる。ゲリラ戦への対処も含めた占領後の統治のコストは膨大であり、それに見合う利益は決して獲得出来ないというのが第2次世界大戦以降、イラク戦争に至るまでの現代史上の教訓であり、それを超えることは出来ないのであって、外交の延長としての、つまり合理的判断に基づく日本に対する直接の軍事侵攻は、あり得ないと考えられる。非合理的判断に基づく、つまり外交的利益を度外視した戦争の可能性については後述する。

 

 

 長期的な経済的利益から考えても、戦争以外の手段の選択の方が合理的であろう。
戦争をしても軍需産業以外が儲からないというだけではなく、現在では、経済的に各国は相互依存状態にあり、軍事的対立は、資源(人的資源をも含む)の獲得の上でも、製品の輸出先の確保の上でもマイナスにしか働かない。自国の経済的利益の確保と、戦争という選択は相反するものとなってしまうのである。

 

 
 また、先進諸国共通の少子化局面は、膨大な戦死者を伴う軍事的侵攻作戦への国民的合意の獲得を、困難なものにしていることは確かである。

 イラク戦争からの各国の撤退の判断の際の、それぞれの国の戦死者数は、最大のアメリカでさえ数千人規模なのである。過去の戦争との対比は大きい。第二次世界大戦における米軍の戦死者数は50万人台であり、ベトナム戦争では5万人規模、そしてイラクでは5000人以下である。イラク戦争では、過去の戦争に比して桁違いに少ない戦死者が、戦争継続からのアメリカ国民の支持を失わせてしまったのだ。

 そして、少子化局面であることについては、中国も北朝鮮も、そしてロシアも同様なのである。

 中国とロシアについて考えれば、現在のような経済成長過程での、つまり家族の将来に期待が持てる世界での、一人息子(それは、夫婦にとって、ただ一人の子供である可能性も大きい)の死は決して国民から歓迎されないだろう。現在の中国は、かつての平等に貧しい共産主義者の中国ではないのである。

 北朝鮮についても、少子化過程での、若年層の戦線への投入は、そのまま国家の滅亡を意味するだけだ。

 そのような意味からも、日本を当事者としての在来型の戦争の可能性はない。

 

 
 また、核攻撃は奇襲では意味を成さないものなのである。

 核戦力の行使をブラフ(ハッタリ的な脅し)とすることによって、相手国の譲歩を引き出すことに核保有の意味があるのであって、核兵器は攻撃の手段ではなく、外交の(ただし時代遅れの)手段であるに過ぎないのである。

 核攻撃の実行は、実際には、何の外交的利益をもたらさないということに留意すべきであろう。

 そのように考えれば、日本を当事者とした核戦争の可能性もない。

 

 

 
 中国も、ロシアも、経済的合理主義に覆われてしまっている現状では、在来型の対外戦争を選択することは、まずないだろうし、核戦争の選択の可能性はそれ以上にないだろう。

 

 北朝鮮のみが合理的判断選択の可能性から外れているが、重要なことは、北朝鮮をかつての大日本帝國のような暴発に追い込むのではなく、長期的には確実なゴールである政権崩壊へと、着実に導く柔軟な戦略を採用することの方であろう。

 米国による強硬な経済制裁政策が、大日本帝國を、対米戦争開戦という非合理的選択へと追い詰めてしまった歴史は、教訓として深く味わっておくべきである。北朝鮮は、理解不能な他者ではなく、大日本帝國の再現として理解可能な自らの過去の姿に過ぎない。

 日本が核武装するなどは、国家として何の利益もない問題外の選択である。

 そもそも、外交能力のない国家が、核戦力を保有することに意味はないのである。

 

 

 

 現実主義に徹して、現代世界での軍事力の問題、戦争の問題について、

 日本が当事者となる戦争の可能性

という観点から論じてみた結論は、そのようなものとなってしまったのである。

 

 

 

 そのことを確認した上で、あらためて、巷間で、日本に対する攻撃国として想定されている、北朝鮮、中国、ロシアによる、日本を対象とした対外戦争実施の可能性について、詳論しておきたい。

 合理的判断から遠い国家としては、まず北朝鮮が想定されるわけだが、

 日本に対する上陸占領

を目的とした軍事行動の達成能力は、北朝鮮には存在しない。

 占領を目的とした上陸作戦の実行の前提として、まず制空権の獲得と、制海権の確保が必要とされるわけであるが、そのような空軍力、海軍力は、北朝鮮には存在しないのである。

 である以上、そのような北朝鮮による対日軍事行動の可能性は、皆無と考えるべきではないだろうか? たとえ金正日氏がそれを望んでも、朝鮮人民軍の空軍力と海軍力では出来ないことなのである。

 

 次に、上陸作戦を伴わない軍事行動として、

 日本に対する海上封鎖

の可能性も考えてみよう。

 「海上封鎖」という軍事行動も、制空権、制海権の確保なしに達成出来ない以上、その可能性は、絵に描いた餅以上のものではない。

 たとえ北朝鮮が実行に踏み切ったとしても、空軍力を対日海上封鎖に割くことによって彼らが直面せざるを得ないのは、陸上で国境を接して対峙する、第一の敵である米韓合同軍への対処能力の低下なのだ。これは、いくらなんでも、北朝鮮の選択としては非合理的に過ぎるのではないだろうか?

 いずれにしても、北朝鮮の軍事力では全面的な対日海上封鎖は不可能であり、そのような不完全な軍事作戦の継続の結果もたらされるのは、成果のないままの軍事力の消耗であり、継戦能力の枯渇なのである。燃料不足から通常の訓練もままならない朝鮮人民空軍の現実を考えれば、海上封鎖の発動は、自らの首を自らで絞めることになるだけの話なのだ。

 たとえ海上封鎖の実行があったとしても、北朝鮮一国では全面的封鎖が不可能である以上、日本への打撃は小さなものにとどまり、むしろ政権崩壊時期を早める結果しか生み出されないというのが現実なのである。

 

 核攻撃の可能性については、既に論じたように、核戦力の行使をブラフ(ハッタリ的な脅し)とすることによって、相手国の外交的譲歩を引き出すことに核保有の意味があるのであって、核兵器は攻撃の手段ではなく外交の手段であるに過ぎないのであり、核攻撃の実行は、何の外交的利益をもたらさないものなのである。つまり、北朝鮮が、外交的成果を期待しない破れかぶれ状態に陥らない限り、核攻撃実行の可能性はないと考えるべきなのである。

 しかも、「破れかぶれ状態」に対しては、日本の核戦力保有は何の抑止力にもならないのだ。北朝鮮による核攻撃という無差別大量殺人の実行に対し、日本の報復的な核使用という無差別大量殺人の実行で応えても、犠牲となった数十万の日本人の生命は戻ることはないのである。目指さなくてはならないのは核攻撃そのものの回避(それが外交の役割だ)なのであり、日本の核戦力保有は、北朝鮮に対する抑止力としては全く機能しない現実を直視しておく必要を感じる。

 

 
 次に、中国、ロシアによる、日本を対戦国とした対外戦争実施の可能性について考えてみよう。

 

 重要なのは、両国が国際連合加盟国である以上、たとえば国連憲章にある、

 国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、 共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し…

等の文言が拘束的に機能するために、「外交交渉の延長(政治の延長)としての戦争」という選択自体が困難となっている現実があるということだ。そもそも国際連合自体が、第一次世界大戦後に成立した、国家間戦争の回避を目的とした国際組織としての国際連盟の発展形態なのであることを忘れるべきではない。

 その、あまりに悲惨であった第一次世界大戦の経験は、国家間戦争回避への努力として、いわゆる「不戦条約」をも成立させているのである。同条約の条文を掲げれば、

 戰爭抛棄ニ關スル條約

 第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス

 第二條
締約國ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

ということになるが、条約は依然として有効なのであり、その不戦条約の精神が国際連合の理念を支え、現在でも国際関係に拘束力を持って機能していることは、否定出来ないのである。

 

 湾岸戦争やイラク戦争においては、米国でさえ、その原則下に行動しているのである。イラク戦争に際しても、米国単独の開戦ではなく、国際連合の承認の下での戦争となるように努力を続けた米国国務長官の姿を思い出す必要がある。国連の承認の確保の失敗の結果、有志連合という形式での開戦の強行に至ることにはなったが、米国が(でさえ)、まず国連の承認獲得を目指した背景にある、第二次世界大戦後の国際関係の現実の様相を、理解しておくべきなのである。

 

 つまり、中国、あるいはロシアが単独では、つまり国際社会の同意なしには、対日上陸作戦の実行も、対日海上封鎖の実行もなし得ない、というのが「戦後世界」における軍事行動の現実であることを理解しておくべきなのだ。国家間戦争の抑止に関しては、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を経験した世界は、それなりの成果を上げてはいるのである。軍事力の発動という事態が、依然として存在することも確かだが、その形態は変化してもいるのであり、かつてのような国家間戦争は姿を消しつつもあるのだ。

 

 そして、国際社会が、その中国あるいはロシアによる軍事行動に同意したのであれば、既に日本の国家政策が国際社会から否認されていることを意味するのであり、つまり、そこに至ってしまっては日本に打つ手はないのである。国際社会の承認には、米国の承認も含まれることは言うまでもない。ここにあるのは、かつての二十世紀的な国家間戦争ではなく、国際社会とその敵対者との戦争なのである。

 
 そのように考えれば、日本が国際社会の中で一定の評価を獲得し、一定の地位を維持し続ける限り、中国あるいはロシアによる、日本に対する敵対的軍事行動の可能性はないということになるのである。

 

 

 

 

 

…という結論となってしまった。普段から漠然と考えていたことをまとめてみたら、自分が思っていた以上の、はっきりとした結論であることに、いささか驚いているくらいだ。

 

 

 

 これが、日本を取り巻く現実だと私は考える。

 その中での、「徴兵制復活」などは、タワゴトにしか聞こえないのである。

 記事には、

 「国民の義務」の項目で、ドイツなどで憲法に国民の兵役義務が定められていると指摘…

などと書かれてもいるが、海洋中の島国であるという日本の地政学的特質を考えれば、大陸国家であるドイツの兵役義務と同列に論じること自体がナンセンスな話だ。

 

 

 上陸占領という軍事行動が過去の遺物である事実からは、日本の防衛という自衛隊の軍事的意義とされているものを達成する上で現在でも重要なのは(自衛隊の保有が必要だと判断するならば)、航空自衛隊と海上自衛隊戦力の充実なのであって、陸上自衛隊保有の意義は相対的に縮小していると考えるべきであろう。戦場に対峙する陸軍同士の決戦で戦争の帰趨が決せられるなどというのは今となっては遠い過去の話なのであり、制空権の掌握が決定的時点となった現在では、少なくとも国内戦力としての陸上自衛隊保有の軍事的意義は低下していると思われる(国連のPKO参加に際しては話は異なるが)。

 航空自衛隊と海上自衛隊には、一時的な勤務者である徴兵による戦力維持ではなく、恒常的な勤務者であるプロフェッショナルの確保による戦力維持こそが望まれることを考えれば、「徴兵制復活」のタワゴトぶりは、ますます強調されることになるのではないだろうか?

 

 

 

 軍事的に無意味と断ずる所以である。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/03/04 20:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/131846/

 

 

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2010年3月 2日 (火)

ジュリエットDVD 無敵の英雄(その知られざる過去)

 

 

   一人を殺せば…

 

…と、舞台中央に立つオッペンハイマー中将は、アイヒマンの言葉の引用を始めたのであった。

 

   一人を殺せば犯罪者だが…

 

 そして中将は叫ぶ。

 

   ワタシのケータイはエーユーだ!!

 

 爆笑する私。

 

 

 劇団無敵、第二回公演『ジュリエットDVD』のワンシーンであった。

 

 オッペンハイマー中将を演じているのは、劇団主宰者であり、作・演出でもある金城孝祐その人。

 ドイツ軍の制服の肩には大日本帝國陸軍の階級章という組み合わせ。しかし、下半身はフンドシに黒タイツ姿である。

 イ・カ・レ・タ・姿、だ。

 そのイカレタ将軍の口から、

   一人を殺せば犯罪者だが、私の携帯は英雄だ!!

というイカレタ言葉が吐き出される。完全にイカレタ将軍であることが宣言されたわけだ。

 

 本題から外れるが、

   一人を殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄だ!

というセリフで思い出すのは、チャップリンの『独裁者』の中の演説である(私の場合)。ついでに調べてみると、そのセリフ自体は、ベイルビー・ポーテューズという英国国教会牧師で奴隷廃止論者の「人を一人殺せば人殺し(殺人犯)であるが、数千人殺せば英雄である」に遡ることになるらしい。

 で、実際のルドルフ・アイヒマンの言葉は、

   百人の死は悲劇だが百万人の死は統計だ

なのだそうだが、ネット上でのおざなりなチェックなので、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1419096629
今のところは、例の[[要出典]]状態ではある(しかも、チャップリンの作品は『殺人狂時代』の方であるらしい)。

 

 

 『ジュリエットDVD』の舞台に話を戻そう。

 

 本筋は、失業中(らしい)DV男と、そのパートナーのやり取りから始まる。

 新しい仕事を探すことより、前職での失敗のトラウマに精神が引きずり込まれてしまう男。しかし、そもそもオレは失敗したのか?オレは何を失敗したのか?…というような精神の動きであろうか。

 男の心は過去へと向かい、「前を向こうよ」という女の声に耳を傾けることはない。むしろ暴力(DV)へと向かってしまう。

 そんなシチュエーションであった。

 

 舞台はフラッシュバックし、男の仕事場のシーンになる。

 男は小金井市長(!)だったのだ。治安悪化の一途を辿る前原地域への対策に追われる市長の姿。

 やがて、彼を叱責する上司が登場する。上司はホワイトハウスに属しているらしい。その上司が連れてくるのが、件のオッペンハイマー中将なのであった。

 

 再びフラッシュバックが繰り返され、法学部学生時代の市長と現在は上司となった男(二人はクラスメートだった)の居酒屋での会話シーンとなる。二人が前原出身であることが明かされ、居酒屋のマスターである、やはり前原出身のシゲさんも会話に絡んで来る。

 そんな主要登場人物が、それぞれに自分の現在を説明するために、それぞれの過去にフラッシュバックしていくのだ。

 シゲさんの少年時代であり、新兵時代のオッペンハイマーの姿(最初からイカレタ男ではなかった)。フラッシュバックにより、それぞれの現在が、過去に遡及することにより理解されようとしていく、ということになるだろうか。

 

 

 ここで思い出したのが、以前に書いた、

 日々の様々な行為や経験の内で、言語化され認識の対象となるのはその一部に過ぎないのであり、ましてや記憶されるまでに至る行為や経験は更にその一部に過ぎない。
 「更にその一部」となっていくのは、時系列の中で、自らの現在を説明するに有意だと思われる過去の経験、現状を説明し得るものとして因果的に把握される出来事の連鎖であろう。それが自らの来歴を形成し、自らにとっての事実となり、自らの歴史として記憶され、自身と他者に向けて説明されることになる自分という存在を構成するのである。つまり、過去は現在によって構成される。
 (http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-6b40.html

…という、経験と記憶の問題、個人を形成する歴史の問題であった。あるいは歴史を形成するファクターとしての記憶の問題であり、記憶を選択する個人の問題である。

 

 言葉で説明しようとするとシチメンドクサイ話が、演劇の舞台として、見事に可視化されていたのである。

 まぁ、複数の登場人物の過去と現在が複雑に絡まりあうわけだから、舞台の進行を理解するのも、多分にシチメンドクサイ体験となるわけでもあるが。

 

 

 しかし、自分の過去と再会し、トラウマとの和解を果たすことで、後ろを向き続けることから前を向くことへの方向転換も果たされ得るわけでもある。

…と要約してしまっては、舞台のカオスとエネルギーを伝えることが出来ない。

 

 焦土と化す前原のシーンを見ながら、現実に小金井市前原町にお住まいになっているらしい作者の金城氏が、このシナリオを書きながら炎上する前原町の姿をイメージしていたことは確かに違いない。ブッソーな男だ。個人的には、もうすぐやって来る3月10日が東京大空襲から65年となることを思い、65年という年月、体験者の中で燃え続けた東京の街のイメージを考えたりもしていた。

 また、街を守るためにテロリストとなったシゲさんの、男性器型の被り物を頭に載せた姿の後ろには、ムサビ(武蔵野美術大学)の芸祭名物(?)の男神輿のイメージがダブるのであった。心に対する肉体の勝利というモチーフと、校内外を駆け巡る男神輿(男神輿→ http://www.youtube.com/watch?v=ffeRABEO6CI&feature=related)。

 しかし、それもまた、遡及的にイメージをイメージに重ねる作業であり、その作業により、現に目前で展開されている舞台を理解することが試みられてしまうのである。作者がムサビ出身であるということが、ムサビの芸祭を知る者に、シゲさんの被り物と男神輿を一連のイメージとして了解させてしまうのだ。

 

 詰まるところ、現在は過去によって説明されるのだが、その過去は現在によって構成されているのである。

 

 

 

 

 

…なんてことを考えながら舞台を楽しんでいたわけだが、頭の一方で、私もメンバーである、戦争体験の継承を目的としたMLに最近乱入したネトウヨ(?)氏のことを思ってもいた。

 彼らの主張を要約すると、事実としての過去を見つめることによってではなく、美しい過去を捏造することに拠らずしては、自らの現在を愛することが出来ないという現実が彼らのものであることが理解出来るのだ。

 過去、そして歴史は、こうして事実からの逸脱を始めるのである。あるいは、創り上げられた美しい過去は、既に彼らの事実と成りおおせているのかも知れないのである。

 

 日曜日の夜、劇場から帰宅すると、PC画面上には、そんな現実が展開されていたのであった。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/03/02 21:12 → http://www.freeml.com/bl/316274/131667/

 

 

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