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2010年2月

2010年2月20日 (土)

都市伝説 : 日本共産党ハ日本ガ好キナ人達ノオ手本デアル…?

 

 新種の都市伝説なのだろうか?

 

 

 最近よく眼にする話なのだけれど、

 ↓ ↓ ↓

右翼と言えば黒塗りのワゴン車に、日の丸を掲げ、大音量で軍歌を流し、拡声器で汚い言葉を吐き続ける。
これで一般の善良な人達が、「日の丸」に良いイメージを抱けるでしょうか?
彼等は、日本人が国旗である「日の丸」を嫌いになる様にし、その向こうにある、「日本の国」そのものを嫌いにさせる事が目的なのです。
なぜそんな事をするのでしょうか?
実は彼等は、一般の日本人ではないのです。
在日韓国、朝鮮人、又その帰化人、同和出身者なのです。
イギリスのBBC放送の、番組取材でも明らかになっています。
彼等の資金源はパチンコ(朝鮮玉入れ)マネー、サラ金(朝鮮高利貸し)マネーです。
テレビCMをご覧になれば解りますが、テレビ局は在日韓国、朝鮮人から多額の広告費を得ており、右翼が外国人である事実を報道出来ないのです。
現在、日本は日本を嫌い、憎み、妬み、呪っている人達から、武器を伴わない侵略を受けています。
私は、日本が好きな人達の手に日本を取り戻す為に、日本が嫌いな人達、日本を貶める人達に対して、レジスタンスを宣言します。

 ↑ ↑ ↑

…っていうの。

 

 

 この論理構成が、私には興味深いのである。

 

 『ウィキペディア』に、「ニセ「左翼」暴力集団」という項目があるのだが、そこには、

 ↓ ↓ ↓

ニセ「左翼」暴力集団(ニセさよくぼうりょくしゅうだん) 主に新左翼党派(あるいは毛沢東主義党派)を指す、主として日本共産党の中だけで通用する独特の用語。かつて、日本共産党およびコミンテルン系譜の各国の共産党が使用した「トロツキスト」あるいは「トロツキスト暴力集団」とほぼ同義と考えてよい。警察用語では、「極左暴力集団」に相当する。
日本共産党の定義として、「ニセ『左翼』暴力集団とは、「革命」とか「共産主義」など『左翼』的な装いを凝らして、実際の役割は、国民の要求実現のたたかいと政治革新の運動を、暴力によって混乱させ妨害することにある。国民の期待と支持が日本共産党に集まることを恐れる支配勢力が、日本共産党と紛らわしい主張を掲げて暴力行為をおこなう集団を反共宣伝のために利用してきた」(2006年6月14日付『しんぶん赤旗』から要約)とし、「ニセ『左翼』暴力集団」を警察すなわち権力に泳がされている存在(「ニセ『左翼』泳がせ論」)としている。
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E9%9B%86%E5%9B%A3

 ↑ ↑ ↑

…と書いてあるのだ。

 

 もっとも、同記事には、

 ↓ ↓ ↓

この記事の内容の信頼性について検証が求められています確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。必要な議論をノートで行ってください。

 ↑ ↑ ↑

…という注文がつけられてもいるので、その記事の信憑性の程度は私にはわからない。

 

 

 

 しかし、

 これで一般の善良な人達が、「日の丸」に良いイメージを抱けるでしょうか? 
 彼等は、日本人が国旗である「日の丸」を嫌いになる様にし、
 その向こうにある、「日本の国」そのものを嫌いにさせる事が目的なのです。
 なぜそんな事をするのでしょうか?
 実は彼等は、一般の日本人ではないのです。
 在日韓国、朝鮮人、又その帰化人、同和出身者なのです。

…というお話と、

 「革命」とか「共産主義」など『左翼』的な装いを凝らして、
 実際の役割は、国民の要求実現のたたかいと政治革新の運動を、
 暴力によって混乱させ妨害することにある。
 国民の期待と支持が日本共産党に集まることを恐れる支配勢力が、
 日本共産党と紛らわしい主張を掲げて暴力行為をおこなう集団を
 反共宣伝のために利用してきた。
 「ニセ『左翼』暴力集団」=警察すなわち権力に泳がされている存在。

…というお話は、その論理構造がそっくりのように思える。

つまり、

1) 自分達こそは、正義を体現する集団である。

2) 世の中には、正義の実現を快く思わず、自分達の活動の妨害を企てる勢力が存在する。

3) 自分達の活動の妨害手段の一つが、自分達の仲間に成りすまし、世間的な評判を下げることである。

…という論理構成の採用において、どちらの主張も同型のものに見えるのだ。

 

 

 時系列的展開を考えれば、日本共産党の主張の方が先行するものと思える。

 つまり、

 右翼と言えば黒塗りのワゴン車に、日の丸を掲げ、
 大音量で軍歌を流し、拡声器で汚い言葉を吐き続ける。
 これで一般の善良な人達が、「日の丸」に良いイメージを抱けるでしょうか?
 彼等は、日本人が国旗である「日の丸」を嫌いになる様にし、
 その向こうにある、「日本の国」そのものを嫌いにさせる事が目的なのです。
 なぜそんな事をするのでしょうか?
 実は彼等は、一般の日本人ではないのです。

…というお話よりは、

 国民の期待と支持が日本共産党に集まることを恐れる支配勢力が、
 日本共産党と紛らわしい主張を掲げて暴力行為をおこなう集団を
 反共宣伝のために利用してきた。
 「革命」とか「共産主義」など『左翼』的な装いを凝らして、
 実際の役割は、国民の要求実現のたたかいと政治革新の運動を、
 暴力によって混乱させ妨害することにある。

…というお話の方が古いと考えられる。

 日本共産党は戦前からの伝統ある集団であるが、

 現在、日本は日本を嫌い、憎み、妬み、呪っている人達から、
 武器を伴わない侵略を受けています。
 私は、日本が好きな人達の手に日本を取り戻す為に、
 日本が嫌いな人達、日本を貶める人達に対して、レジスタンスを宣言します。

…と主張する集団の歴史は、まだ浅いと思われるからだ(調べれば証明可能だと思われるが、メンドクサイからしない)。

 

 

…なんていう私の文章にも、もちろん、

 

 

…という文句がつけられることになるだろうが、私は気にしない。論文を書いているわけじゃぁないからね。

 

 

 そもそもの話、日本共産党の主張自体が、

 

 

…なわけだし、「日本が好きな人達の手に日本を取り戻す為に、日本が嫌いな人達、日本を貶める人達に対して、レジスタンスを宣言」した人達の主張も同様に、

 

 

…となることは免れないからだ。

 

 どちらの話も「都市伝説」と評価してしまう所以である。

 

 

 

 しかし、「日本が好きな人達の手に日本を取り戻す為に、日本が嫌いな人達、日本を貶める人達に対して、レジスタンスを宣言」した人達は、その論理を日本共産党から学んだのだろうか? それとも独自に開発したのだろうか?

 両者間の影響関係の有無、ここが興味深いところである。

 

 自らの正義を主張すると、人間はやがて、

2) 世の中には、正義の実現を快く思わず、自分達の活動の妨害を企てる勢力が存在する。

3) 自分達の活動の妨害手段の一つが、自分達の仲間に成りすまし、世間的な評判を下げることである。

…という論理の虜となっていくものなのだろうか?

 

 実に興味が尽きない問題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/02/20 17:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/130678/

 

 

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2010年2月18日 (木)

南京事件否定論への視点 2 便衣兵の姿

 

 

 南京事件に関して世間が考えるような虐殺はなかったはずですよ。

…という話を前にして、秦郁彦 『南京事件 増補版』(中公新書 2007)にある、南京攻略戦における日本側の総司令官であった松井石根大将のエピソードを示すことにより、少なくとも南京事件に関する虐殺否定論は成立しないことを説明したのであった。松井石根が東京裁判の過程で残した発言内容の解釈からは、松井自身が、東京裁判の訴因第四五にある、

 南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

つまり、中華民国の一般人及び非武装軍隊に対する不法殺害としての南京事件の存在を否定していないと考えざるを得ないからだ。
(松井閣下の人格の高潔さを信じるならば、東京裁判の場での松井が訴因第四五を否定しなかった以上、我々は訴因にある「南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害」を歴史的事実として考える以外にないのであり、もしそれが事実でないならば、訴因第四五を東京裁判において否定しなかった松井は、勝者に迎合する恥知らずな武人であったということになってしまうのである―追記:2011年1月28日)

 その説明により、

 自分のスタンスは納得できるかどうか

であると言っていた相手からは、南京における虐殺の有無に関しては、虐殺否定論が否定されるべきであるという主張への同意がもたらされたのである(ここまでが前回の話)。
  

 

 

 当人も、ネット利用により、偕行社自身による調査報告の内容にもアクセスし、

 不確定要素はあるが不法処理の疑いのあるもの3千~6千、ただし20万~30万の俗に言う大虐殺を認めたものではない

…という結論を読んだ上で、「3千から6千ならありうる話」という感想を漏らしていた。

 虐殺の存在は認めてもなお、虐殺の規模は争点になり得るという認識なのだろう。始められるのは、犠牲者3千~6千なら「大」虐殺ではない、という主張であろうか?

 ただし、その点に関し、秦は『南京事件 増補版』中で、

 不法殺害の規模に関しては、加登川論文は三千ないし六千とする畝本推計と一万三千とする板倉推計の両論を併記していたが、単行本はすべて不法殺害とは言えぬがとの条件つきで、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅もしくは処断」した兵士を約一万六千、民間人の死者を一万五七六〇人と推定した。

と書いている。3千~6千という数字は、月刊「偕行」誌上論文掲載時の最低限の推定数値なのであって、その後に偕行社が刊行した『南京戦史』の数字はそれを一桁上回るものであった事実を、誤解のないように付け加えておく。
 

 

 

 

 同時に、話は、

 しかし一般人に化けている便衣兵(ゲリラ)には南京攻略部隊は困ったのではないか。死人に口なしで便衣兵かどうかは死んだ本人しかわからない。四六時中これにやられたら分別もなくなる。己が生き残るために無差別殺戮をやるしかない。恣意的な虐殺というよりも生き残るために無差別殺戮を犯したとは言えないか。これも筋道が立つ推論では?

…という趣旨の言葉に伴われての、虐殺正当化論の定番としての便衣兵の登場へと進展していった。

 

 

 その類の論法では、通常、ハーグ陸戦条約(1899)の条約付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の条文にある、

第一款 交戰者
第一章 交戰者ノ資格
第一條 戰争ノ法規及權利義務ハ、單ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラス、左ノ條件ヲ具備スル民兵及義勇兵團ニモ亦之ヲ適用ス。
(1)部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
(2)遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
(3)公然兵器ヲ携帯スルコト
(4)其ノ動作ニ付戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト
民兵又ハ義勇兵團ヲ以テ軍ノ全部又ハ一部ヲ組織スル國ニ在テハ、之ヲ軍ノ名称中ニ包含ス。
第二條 占領セラレサル地方ノ人民ニシテ、敵ノ接近スルニ當リ、第一條ニ依リテ編成ヲ爲スノ遑ナク、侵入軍隊ニ抗敵スル爲自ラ兵器ヲ操ル者カ公然兵器ヲ携帯シ、且戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルトキハ、之ヲ交戰者ト認ム。
第三條 交戰當事者ノ兵力ハ、戰闘員及非戰闘員ヲ以テ之ヲ編成スルコトヲ得。敵ニ捕ハレタル場合ニ於テハ、二者均シク俘虜ノ取扱ヲ受クルノ權利ヲ有ス。

等の文言を根拠に、軍の制服を脱いだ状態の中国の兵士が便衣兵(ゲリラ)であるという主張がされ、俘虜(捕虜)としての保護対象ではないのだからという理由での殺害=虐殺の正当化の主張がされるようである(「便衣兵」の問題と、日本軍による俘虜(捕虜)殺害の事実の関係については、「 南京事件否定論への視点 3 松井石根の涙(俘虜の取り扱い) 」であらためて取り上げているので参照いただきたい)。

 しかし、たとえ便衣兵(ゲリラ)が相手であれ、裁判抜きの処刑=虐殺が正当化され得ないのは言うまでもないことである。たとえば、

 国際法違反者について、当時の国際法学者の立作太郎は「凡そ戦時重犯罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。」と述べているように、捕虜ならば、後述する、師団以上に設置された「軍法会議」の裁判、捕虜でないならば、軍以上に設置された「軍律会議」の審判に基づき処断すべきものである。
 (原剛 「いわゆる「南京事件」の不法殺害―その規模と要因―」 軍事史学会編 『日中戦争再論』 錦正社 2008)

…というのが、当時でも国際法上の原則であった(註:1)。
 (ただし、同書は未読であり、ネット上の資料による引用→ http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen8.html

 便衣兵論による南京事件正当化論に関しては、裁判抜きの「処刑」の合法性の有無が問題点として指摘されるわけだが、

「北支那方面軍軍律」
   第一条 本軍律は日本軍作戦地域内又は兵站地域内に在る帝国臣民以外の人民に適用す
   第二条 左に掲くる行為を為したる者は軍罰に処す
     一 日本軍に対する反逆行為
     二 間諜其の他日本軍の安全を害し又は敵に軍事上の利益を与ふる行為
「北支那方面軍軍罰令」
   第一条 本令は北支那方面軍軍律を犯したる者に之を適用す
   第二条 軍罰を分かちて死、監禁、追放、過料、没取とす
   第三条 死は銃殺とす
「北支那方面軍軍律会議審判規則」
   第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
   第七条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
     兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし
     但し緊急を要する場合は此の限に在らす
   第八条 軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ
     北博昭 『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』(中公新書 1994 )

…といった当時の日本軍内の法的規定からすれば、裁判抜きの処刑が合法とされていたわけではない。「緊急を要する場合は此の限に在らす」との但し書きは、

 第一条
 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す

…の条文には適用されないのであって、あくまでも、

 第七条
 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
 兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし

…と規定された手続きの省略が認められているに過ぎないのである。
 つまり、裁判抜きの処刑は、軍律会議審判規則上、そもそも認められていないのである。

 しかも、「軍律会議審判規則」の定めるところでは、

 第八条
 軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ

…との要件に拘束される以上、現地戦闘部隊による「処刑」は「軍律会議審判規則」の規定に違反した行為と言わざるを得ず、つまり二重の意味で便衣兵処刑の合法性は否定されてしまうのである。
 合法性を担保するためには、最低限、事後承認の手続きが必要となるはずだが、そのような話は聞かない。国際法上の問題を云々する以前に、「軍律会議規則」の規定違反という問題があることになる。
(「便衣兵論による南京事件正当化論…」以下は、2012年10月8日に追記)

 

 

 

 そのことを確認した上で、しかし、私が問題だと思うのは、そもそも、「事変」であって(正規軍同士の)「戦争」ではないというのが、南京攻略戦時の大日本帝國政府の立場だったという歴史的事実についてである。

 つまり、正規軍同士による国家間の「戦争」であることを前提とした、国際法規としての交戦規則の拘束性の有無はひとつの論点となり得るように思える。「事変」と称することにより、国際法の拘束を回避するのが(つまり「不戦条約」違反と指弾されることの回避)、そもそもの大日本帝國政府の姿勢であったのである。国際法による拘束外の戦闘行為であると主張していた以上、その戦闘相手がハーグ陸戦条約の交戦者規定を遵守すべきであったとの(手前勝手な、と言われても仕方がない)要求の妥当性もまた問われてしまうように思えるのである。

 
 
 いずれにしても、他国の国境内に軍隊を進撃させ敵対的行為を継続したのは、大日本帝國の側なのであり、退却を続ける中華民国の国軍に対し、攻撃を継続し、追撃の果てに、その首都南京攻略までしたのは大日本帝國の側なのである。それも、「戦争」ではないにもかかわらず、である。

 この過程は、それを「戦争」と呼ぼうが「事変」と呼ぼうが、他国に対する侵略行為に他ならないであろう。

 宣戦布告なしに、日本の国境線内に軍隊を進撃させ、首都攻撃をすることが「侵略」でないと主張され、それが正当なのだとすれば、自衛隊の存在価値は失われてしまうではないか。
 
 そもそも、自国が侵略される事態に際し、自国防衛のためにゲリラ戦を展開することは、20世紀においては、むしろ被侵略側にとって当然の対応となっているのではないだろうか。
 
 
 
 外交の延長としての戦争という思想の要にあるのは、双方が「当面の敵」に過ぎず、決戦で決着がつけば終わり、…という古典的な戦争のイメージである。

 国民国家の存在しない、帝国同士の戦争における国境線の変更は、何よりも支配階層の問題であって、被支配階層にとっては、支配者の変更であるに過ぎない。しかし、それぞれの民族的ナショナリズムに支えられた、国民国家同士による近代の戦争においては、国境線を越えた攻撃は、「当面の敵」の行為ではなく、侵略者としての「絶対的敵」の行為として認識されることになってしまうのである。

 特に第一次世界大戦以降の、工業技術の発展に支えられた近代兵器の登場は、そこに総力戦状況を出現させ、「絶対的敵の殲滅」という戦争イメージをも発生さてしまった。

 その両者が相俟っているのが、南京攻略戦時に、大日本帝國が直面させられることになった状況であることを深く認識すべきである。

 国軍敗北後のレジスタンスは、あるいはゲリラ戦の展開は、第2次世界大戦における被侵略側に広く見られる現象となっていることを見落としてはならない。国軍の敗北、正規軍の敗北は、戦争の終わりではなく、本格的なゲリラ戦の開始の時点となるのだ。

 かつてカール・シュミットが『パルチザンの論理』で描いたように、戦場に対峙する正規軍同士の決戦で、外交上の問題の雌雄が決せられる古典的戦争の時代は過ぎ去ってしまったのである。
     (カール・シュミット 『パルチザンの論理』 ちくま学芸文庫 1995)

 
 
 南京城内外における便衣兵の存在を云々し、それに拘泥し続けることは、結果として20世紀という時代に対する世界史的視野の欠如を自ら宣言し、同時に、そもそもの大日本帝國による他国国境線内における攻撃的軍事行動(侵略)の不当性の隠蔽の意図を自ら宣言してしまうことになるという意味で、誠実さを欠いた不見識な議論であるとしか、私には思えないのである(誠実に自らの不見識を宣言しようと意図したわけではあるまい)。
 
 いずれにしても、「事変」である以上、「戦争」ではないと主張してしまった以上、国際法上の戦争状態ではないと自ら主張してしまった以上、国際法上の戦時における交戦規則からの相手側の逸脱を、自らの虐殺行為の正当化の理由としてしまうことの論理的・倫理的妥当性が、私には疑問なのである。自らが戦時国際法の拘束の回避を企てながら、相手には戦時国際法の遵守を求め、相手の戦時国際法からの逸脱を理由にしての、自らの明らかに戦時国際法違反である虐殺行為を不問に付そうとする試みの妥当性が、である。
 
 
 
 

 繰り返すならば、祖国が外国の軍隊に占領されるという事態に陥った際に、レジスタンス、パルチザン、ゲリラ、便衣兵…という形式で占領軍に対する抵抗を組織することは、非占領国国民の「祖国愛」の発露として、日本軍の占領下の中国大陸でも、ドイツ軍の占領下のフランスでもソ連でも行われたことなのである。戦後世界においても、アメリカ軍に対抗するためにベトナムで、ソ連軍に対抗するためにはアフガニスタンで遂行され、そして現にアメリカによる支配下の21世紀のイラクでも見られる現象ではないか。

 ここでは、ポツダム宣言受諾前夜(八月十四日の深夜)、東京医専のクラスメートと共に占領後のゲリラ戦の展開について疎開先の飯田で熱く語っていた、若き日の山田風太郎の姿を思い起こしておくべきかも知れない。ゲリラ(便衣兵)となっての占領への抵抗は、日本人にも決して無縁な話というわけではないのである。
     (山田風太郎 『戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002)

 

 軍事的侵略と占領という事態が、被侵略者・被占領者の側にもたらすものがゲリラという形式の、「祖国愛」に動機付けられた抵抗者の存在なのである。

 それは、あくまでも、外国軍による軍事的侵略と占領の結果なのであって、その逆ではない。
 
 
 

 もう一度、先に示した、

 しかし一般人に化けている便衣兵(ゲリラ)には南京攻略部隊は困ったのではないか。死人に口なしで便衣兵かどうかは死んだ本人しかわからない。四六時中これにやられたら分別もなくなる。己が生き残るために無差別殺戮をやるしかない。恣意的な虐殺というよりも生き残るために無差別殺戮を犯したとは言えないか。これも筋道が立つ推論では?

…という虐殺正当化の論理を思い出そう。

 ここにある、

 己が生き残るために無差別殺戮をやるしかない。恣意的な虐殺というよりも生き残るために無差別殺戮を犯したとは言えないか。

という論法は、まるで日本軍の側が、便衣兵の存在により「無差別殺戮をやるしかない」状態に追い込まれた被害者であるかのように受け取れてしまうが、とんでもない話ではないだろうか。
 
 先に指摘したように、首都南京攻略に至る中国大陸の日本軍は、あくまでも侵略者・占領者なのであって、侵略者・占領者としての日本軍の存在抜きに、誰も「便衣兵」になりはしないのである。論理を転倒させてはいけない。

 便衣兵の存在は、「祖国愛」に基づく侵略・占領の被害者による抵抗の形式なのであって、便衣兵に対する虐殺は単に加害の上塗りであるだけの話に過ぎないのである。

 

 

 

 

 

…と、以上、世界史の中の20世紀という視点から、国民国家とナショナリズムに支えられた国軍崩壊後の抵抗者としての便衣兵(ゲリラ)という位置付けの可能性を考えることで、南京虐殺正当化の論法としての便衣兵論の妥当性を検討してみた。
 

 

 

 しかし、私自身は、南京で虐殺された人々の多くは、実は、便衣兵(ゲリラ)でさえなかったのではないかと考えている。

 軍服を脱ぎ捨てるという行為と、便衣兵(ゲリラ)となることはイコールではないと思われるからだ(註:2)。

 

 戦闘の敗北が決定的となった時点で、戦意を喪失した兵士が軍服を脱ぎ捨てるという形式で、戦闘からの離脱を果たそうとした。単に、そのようなことではなかったのだろうか?

 

 「ハーグ陸戦条約」とは、基本的にヨーロッパにおける国家間戦争の経験の上に打ち立てられた交戦規則なのであり、南京における虐殺事件の評価の焦点となっているのは、その中での俘虜(捕虜)の取り扱いの問題なのである(註:3)。そこで考えなければならないのは、条約は基本的に、ヨーロッパにおける近代国家間=国民国家間の戦争の経験により生み出された戦争のルールなのであって、東アジアの近代化後発国の軍隊を支える規範にまではなり得ていなかったというのが、当時の現実に思えるという点ではないだろうか?

 大日本帝國の軍隊が、戦争における俘虜(捕虜)の発生の問題に関し、「国際法」的常識を踏まえた上で戦争に臨んではいなかったことは、ここで詳論するまでもないことであろう。俘虜(捕虜)の位置付けに関しては、特に大東亜戦争期の日本の軍隊が、近代欧米諸国の求める水準をクリアしていなかったことは確かに思える。

 一方で、中国の国軍においても、その事情に変わりないように思えるのである。戦闘終了後には、敗北した側の軍人・兵士は捕虜としての取り扱いを受けるというルールが、中国国軍内に徹底されていなかったのではないか、という疑いである。

 

 一ノ瀬俊也 『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』(文春新書 2007)は、日清戦争を題材としたものであるが、書中には、『日清戦争 歩兵第二連隊歴史』(1896)からの引用として、明治二十七年十一月六日条にある、

 敵は三面より攻囲せられ、数多の銃砲旗を委棄して、先を争い、西南門より旅順口方向へ落ち延びけり、その敗走の情、混乱の有様、実に名状すべからず、あるいは銃を抛ちつつ走るあり、軍衣を脱して逃るるあり、あるいは民家に潜むあり、土民に混ずるあり。この不規律なる彼らの挙動こそ、一見その敗軍の原因と知られけり。

…という金州城攻略時の模様が紹介されており、同様の状況は、二週間後の旅順攻略戦時にも繰り返されている。

  あるいは銃を抛ちつつ走るあり
  軍衣を脱して逃るるあり
  あるいは民家に潜むあり
  土民に混ずるあり

…という、この日清戦争時の清国軍における軍兵の行動様式は、南京攻略戦時に日本軍が遭遇した中国国軍の軍兵の行動様式と同型のものに思える。

 戦闘の敗北後は軍が組織的に降伏し捕虜としての取り扱いを受けるという、ヨーロッパ近代が生み出したルールが、そのルールへの理解・周知が、そこには存在しないように見えるのである。

 

 南京攻略戦時の日本軍においても、発生する捕虜の取り扱いに関して、国際的ルールへの周知徹底を欠いていたことは確かに思えるが、中国側においても(別の形式で)国際的ルールへの理解不足があったように、私には思えるのである。当時の中国国軍が、後発近代国家における、形成途上の近代的軍隊であったことには留意しておくべきであろう。

 その両者、後発近代国家の軍隊同士の遭遇が悲劇的事態を生み出してしまった。

 現在、私の南京事件、南京における虐殺事件に対する理解は、そのような構図の下にある。ただし、今のところ、実証的裏付けはまったく存在しないが…

 そして、もちろん、この構図の下でさえ、虐殺の正当化が出来ないことは言うまでもないことである。

 

 

(註:1)
 北博昭 『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』(中公新書 1994)には、北支那方面軍の「軍律」の事例が掲載されている(原文はカタカナ表記だが北の著書では「ひらがな」表記にしてある)。

「北支那方面軍軍律」
   第一条 本軍律は日本軍作戦地域内又は兵站地域内に在る帝国臣民以外の人民に適用す
   第二条 左に掲くる行為を為したる者は軍罰に処す
     一 日本軍に対する反逆行為
     二 間諜其の他日本軍の安全を害し又は敵に軍事上の利益を与ふる行為
   第三条 前条の行為の教唆、幇助又は陰謀予備未遂も亦之を罰す
     但し情状に依り罰を減軽又は免除することを得
   第四条 前二条の行為を為し未だ発覚せさる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す

 「北支那方面軍軍罰令」
   第一条 本令は北支那方面軍軍律を犯したる者に之を適用す
   第二条 軍罰を分かちて死、監禁、追放、過料、没取とす
   第三条 死は銃殺とす
   第四条 監禁は一月以上とし囚禁場に拘置し定役に服せしむ
   第五条 追放は一年以上の期間一定地域外に放逐す
   第六条 過料は一円以上千円以下とす
     過料を完納すること能はさるときは監禁の期間を定め之を言渡すべし
   第七条 没取は他の軍罰に之を併科す
     犯行を組成し犯行の用に供し又は犯行より生したる物は之を没取す

 「北支那方面軍軍律会議審判規則」
   第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
   第二条 軍律会議は方面軍司令部、各軍司令部及兵站監部に之を設く
   第三条 軍律会議は方面軍司令官、軍司令官、兵站監を以て其の長官とす
   第四条 軍律会議は審判官三名を以て之を構成す
   第五条 審判官は将校二名及陸軍法務官一名を以て充て長官之を命す
   第六条 軍律会議は審判官、検察官及録事列席して之を開く
   第七条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
     兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし
     但し緊急を要する場合は此の限に在らす
   第八条 軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ
   第九条 支那国人以外の外国人を審判に付せんとするときは方面軍司令官の認可を受くへし
   第十条 本規則に定めなき事項は陸軍軍法会議法中特設軍事法廷に関する規定に依る

 北博昭によれば、それぞれに、

 昭和十二年十月五日、北支那方面軍司令官寺内寿一大将は実体上の軍律と軍事法廷の根拠となる手続き上の軍律を定めた。いずれの軍律の制定権も、軍の最高指揮官の専権事項である。ふたつの軍律は最高指揮官の命令つまり軍中の命令という意味での軍令であって、正しくは法規ではない。実体上の軍律は「北支那方面軍軍律」と「北支那方面軍軍罰令」、手続き上の軍律は「北支那方面軍軍律会議審判規則」となっている。
 実体上の軍律のうち、「北支那方面軍軍律」は犯行要件の部、「北支那方面軍軍罰令」は軍罰の部の規定である。

…という位置付けとなる(書中に中支那方面軍制定の軍律は例示されていないが、言及はされており、北支那方面軍のものと大きく異なるものではなさそうである)。
 南京での(「便衣兵」であったとすることで正当化可能だとされる)「投降せる支那兵」の殺害に関して特に対象となるのは、

「北支那方面軍軍律」
   第二条 左に掲くる行為を為したる者は軍罰に処す
     一 日本軍に対する反逆行為
「北支那方面軍軍罰令」
   第二条 軍罰を分かちて死、監禁、追放、過料、没取とす
   第三条 死は銃殺とす
「北支那方面軍軍律会議審判規則」
   第七条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
     兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし
     但し緊急を要する場合は此の限に在らす

…の各条項であろう。
               (2011年2月12日記)

(註:2)
 田中正明の『松井石根大将の陣中日誌』には、松井自身による、

敗走せる支那兵がその武器を棄て所謂「便衣兵」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からざりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然一般良民に累を及ぼすもの尠からざりしを認む。

…との、「支那事変日誌抜粋」中の記述の引用があるらしい(ネット上の情報によるもので当該書は未読)。
 ここにあるのは微妙な表現だ。既に「武器を棄て」てしまった「敗走せる支那兵」に対しての、「便衣兵」という語の使用は妥当だろうか? そこにいるのは、「便衣」の非武装の人間なのである。「便衣兵」という表現が妥当であるためには、便衣姿であると同時に武器の携帯が条件づけられるのではないだろうか?
 現実に南京にいたのは、非武装の便衣の「敗走せる支那兵」であって、非武装である以上その時点で「便衣兵」としてゲリラ戦を遂行出来るような存在ではないし、その直前までゲリラ戦に従事していたような存在でもない(「直前」までは軍服を着用し、武器を携行し日本軍に対峙していた「正規兵」なのだから)。
 いずれにしても、「事変」という条件の下での国際法としての交戦法規の遵守要求という問題は、どちらの側にも、正当性の確保を難しいものにしているように思われる。戦時国際法適用の回避策としての「事変」であったことには、留意しておく必要があるだろう。
 便衣兵が戦時国際法の違反なのであるとして、ゲリラ行為の違法性を根拠にいわゆる便衣兵殺害を正当化しようにも、相手のほとんどはゲリラ行為とは無縁の「敗走せる(非武装の)支那兵」であり、しかも、そもそもが「事変」とは戦時国際法の適用除外状態の表現であった以上、二重の意味で的を外した主張となってしまうように思われる。
                    (2011年2月11日記)

(註:3)
 「便衣兵」(とされた「敗走せる支那兵」)を国際法上の捕虜(俘虜)として取扱うことなく殺害したことの正当化の根拠として、便衣兵=戦時国際法違反(ゲリラ行為の違法性)論が語られるわけだが、ここで興味深いのは、軍服を脱ぎ捨てた敗走せる支那兵(=便衣兵と主張されているわけだが)ではなく、軍服姿の支那兵(=正規兵そのもの)が投降した(あるいは捕らえれた)際の、日本軍による処遇であろう。
 北博昭(前掲書)によれば、日本陸軍は投降した(軍服姿の)支那軍将兵に対し、「捕虜(俘虜)」として処遇することは(原則的には)していない。北によれば、

 陸・海軍から提出された国際赤十字社のドワットヴィユ代表への報告のなかでは、十二年九月末ごろまでに捕らえた中国軍将兵に対して俘虜が使われている(信夫淳平『戦時国際法講義』第二巻)。
               (63頁)

…のは、例外的な事例で、北はその前段で、

 シナ事変のときの陸軍法務局長大山文雄法務官は、昭和二十一年六月二十九日、東京裁判での国際検事局のパーキンソン判事に対してつぎのように回答した。

  支那事変中、日本軍の捕らえた中国軍隊所属者に対する取扱は、俘虜として拘束することなく、中日平和に協力せしむる方針の下に、中国に派遣された日本軍の最高司令官以下各級指揮官の責任に於て処理されて居ったと思う。軍人以外の住民を拘留した場合があったとしたならば、之に対する取扱も亦同様であったと信ずる。

 この回答を裏づけるかのように、海軍法務局も、「陸軍省法務局にては、(略)現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない」と断じている(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月編纂)。

…と、書いている。また、後段では、

  満洲事変以後、太平洋戦争の終わるまでの間に、捕らえた中国人(満蒙人を含む)の投降兵や土匪共匪の数は、幾十万とも知れない夥しい数に上ったが、「事変」という立場から俘虜として取扱わず云々。

…という太平洋戦争終結時の台湾憲兵隊司令官日上砂勝七少将の証言(上砂『憲兵二十一年』)が紹介され、さらに、

 捕らえられた中国軍将兵のその後については、事変時の陸軍法務局長大山法務官は、「俘虜として拘束することなく、中日和平に協力せしむる方針の下」に処置された、とさきのパーキンソン検事あての回答で述べている。具体的にはおおむねつぎの三ケースに分けられよう。

  一、捕らえた部隊のために必要な労役、または現地での労役に使用する。不要になり、反日抗日のおそれもないとみなされた者は釈放する。
  二、十二年十二月に北京に置かれた中華民国臨時政府、十三年三月に上海につくられた中華民国維新政府(のち南京に移転)、これらを合体して一五年三月に樹立された国民政府へ引き渡す。いずれも、いわゆる傀儡政権である。
  三、不逞分子と認められた場合、現場でただちに処刑する。太平洋戦争に敗れたときの東部憲兵隊司令官だった大谷敬二郎憲兵大佐がのちに回想する、満州事変で関東軍が採り始めたという裁判なしの「厳重処分」である(大谷『憲兵 自伝的回想』)。
               (68頁)

…と、支那事変時の陸軍における「捕らえられた中国軍将兵(敗走せる支那兵)」への対処の実態を整理している。「南京事件」では、三ケースのうち、

 三、不逞分子と認められた場合、現場でただちに処刑する…満州事変で関東軍が採り始めたという裁判なしの「厳重処分」

…の正当性が問題となるわけである。論点としては、

1)「裁判なしの厳重処分」という手法自体の正当性の問題

2)武器を棄て便衣姿となった「敗走せる支那兵」を、便衣兵=ゲリラ=不逞分子とみなし「処刑」することの正当性の問題

…という二つの「正当性の問題」になるであろう。後者では、処刑対象とされた「敗走せる支那兵」が実際に「便衣兵」と呼ぶに値する存在であったのかどうかの評価の妥当性が問題となる。そこでは、前者との関連で、「裁判なし」であったこと、つまり便衣兵であることの判定作業抜きの「処刑」であったことが、あらてめて問題として浮上することになる。

 北の論述を再確認すれば、「事変」であることは、(原則的に)「捕らえられた中国軍将兵」を戦時国際法上の「俘虜」として取扱うことをしなかった陸軍の対応にも反映されているのである。
 便衣兵を戦時国際法違反として非難する根拠は、軍服着用の投降兵を戦時国際法上の俘虜として処遇することをしなかった陸軍の論理からは導き出され得ないものなのであった。
 要するに「事変」である以上、戦時国際法の適用外であるというのが陸軍の論理であったことが理解されねばならず、戦時国際法適用外の「事変」において、戦時国際法違反を理由として便衣兵(とされた「敗走せる支那兵」)の殺害を正当化することは、論理的には大変におかしな話となってしまうのである。
               (2011年2月12日記)

 

 

 

 

〔追記〕

当記事に対していただいたコメント(「投稿: 頽廃 | 2010年3月18日 (木) 21時27分」)については、本来ならばコメント欄でお応えするべきなのだろうけれど、コメントには論点が複数含まれ、またコメント内容が当記事の中心的論点(20世紀におけるナショナリズムとレジスタンスという視点から「便衣兵」を評価しようとするもの)とは異なる事情を考え、コメント欄でのやり取りでは生産的な議論をすることが難しいと判断した。

そこで、いただいたコメントへの対応として、新たな記事を書くこととした。

直接の返答としては、「聖戦の論理(対支一撃論の果ての亡国)」(→  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-5bd9.html)をお読みいただきたい。

また、カテゴリ「聖戦の論理、あるいは正しい大東亜戦争」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat39974387/index.html)を新たに加えたが、コメントに対応した内容の記事が含まれるものとして参考にしていただければ幸いである。

コメントをいただいた頽廃様には、感謝の意を、この場にて申し上げることにいたします。ありがとうございました。          (2010年5月17日)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/02/18 20:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/130552/user_id/316274

 

 

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南京事件否定論への視点 1 松井石根の涙

 

 

  南京事件に関して世間が考えるような虐殺はなかったはずですよ。

…という話に対し、どのように答えるべきであろうか?

 

 

 

 「現代史のトラウマ」シリーズでは、これまで、「南京事件」あるいは「南京大虐殺」と呼ばれる1937年12月の出来事については取上げることをしていない。

 

 事件の有無自体が論争の対象であるし、事件の規模、性格、経緯等をめぐって多くの議論が重ねられているという事情がある。

 既に行われた議論の概要を把握するだけでも大変な作業となるだろう。…という思いもあり、積極的なアプローチをしたことはない。関連本もほとんど読んでいないのである。

 

 しかし、

  南京事件に関して世間が考えるような虐殺はなかったはずですよ。

…と言われれば、そう主張する当人が、どのように世間が考えていると考えているのかという問題は別としても、「はい、そのようですね」という言葉は私の口からは出てこない。

 
 世間がどのように考えていると考えていようと、南京攻略戦の過程において、皇軍が不名誉な行為をしたことは事実であると私は思っている。

 

 

 

 私が眼を通した数少ない関連書の一冊に、秦郁彦 『南京事件 増補版』(中公新書 2007)があるが、同書中には、旧大日本帝国陸軍将校の親睦組織である偕行社自身による調査報告に、不法処理の疑いあるもの三千名~六千名という数字が示されたことが記されている。

 犠牲者3千名~六千名という数字が「大」虐殺という表現に相応しいものであるのかどうかという議論には、私は興味はないので(犠牲者数の確定作業自体は重要であるが)、それ以上の詮索は私にとっての当面の問題とはならない。最低限数千名の日本軍による虐殺犠牲者の存在が、いわば当事者である偕行社の調査によって確認されていることを知れば、私には十分なことだったのである。

 

 

 

 今回、あらためて、

  南京事件に関して世間が考えるような虐殺はなかったはずですよ。

…という主張に接し、それが、文字通りに「虐殺がなかった」ということを意味するのであれば、「それは違うだろ」という思いを抱かさせられたわけである。
 

 

 

 
 先の秦郁彦による『南京事件 増補版』中には、「南京虐殺」の責を問われた松井石根大将自身が、

  南京事件ではお恥しい限りです。……私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
  慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った。
  従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。

…と、東京裁判の判決を受けた後に語っている事実が記されている(この松井の言葉については、「 南京事件否定論への視点 3 松井石根の涙(俘虜の取り扱い) 」で、あらためて「俘虜(捕虜)の取り扱い(=殺害である)」についての松井の認識の問題として取り上げたので参照いただきたい)。

 巣鴨拘置所の教誨師であった花山信勝に向けて、処刑を前にした松井自身がそのように語ったエピソードが、花山の著書『平和の発見』を通して伝えられているのである。松井本人が語った言葉の文言そのままではないにしても、つまり個々の語の厳密な再現性には不満が残されるにしても、文脈として理解する限りの信頼性は高いと思われる。
 
 この話のポイントは、

  慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った。

…という部分であろう。

 南京攻略戦当時の回想として、総司令官であった松井自身が、

  慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った

…ことを証言し、その理由として、

  折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった

…と「兵の暴行」の存在を認めると共に、その「兵の暴行」の事実に対し、

  甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った

…という当時の皇軍師団長クラスの人物が、「兵の暴行」を当然の行為として容認していたという事実までもが、松井石根自身の言葉からは読み取れるのである。

 つまり、兵の暴行が突発的・偶発的・散発的な出来事ではなく、(計画的とまで言えるかどうは別として)組織的な性格を持った出来事であったという認識が、南京攻略戦直後の軍司令官自身のものであったということを、松井自身の言葉は示しているわけだ。
 
 であるからこそ、東京裁判での死刑という判決に対し、

  従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。

…として、その判決を積極的に受け入れる姿勢を示していると考えるのが、妥当な解釈であると思わざるを得ない。

 繰り返しておけば、

  折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった

…という松井司令官の「兵の暴行」に関する認識は、東京裁判の結果なのではなく、南京攻略戦直後のものであったということが何を意味しているのか? という点を深く味わっておくべきであろう。

 

 

 

…というような話をしたわけだ。

  南京事件に関して世間が考えるような虐殺はなかったはずですよ。

…という主張に対し、それが文字通りに「虐殺がなかった」ということを意味するのであれば、私が「それは違うだろ」という思いを抱く理由を示してみたわけである。
 
 
 
 

 しかし、それに対し、

  「私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい」というのは、その理由が「虐待していた」からなのか、「虐殺事件」の故なのか、どちらとも受け取れるので、多少の疑問が残る。

…という主旨の答えが返って来た。

 そこで、それでも私は、南京事件を日本軍による組織的な(と評価され得るであろう)、不法殺害の事例として考えることに対して、「多少の疑問が残る」というよりは、「疑問は残らない」という心証を得ていることを伝えた。
 
 
 理由としては、秦郁彦 『南京事件 増補版』を読む限り、松井石根自身が、東京裁判の訴因第四五にある、

  南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

つまり、中華民国の一般人及び非武装軍隊に対する不法殺害としての南京事件の存在を、東京裁判の過程において否定していないと私には考えられるからだ。
 
 東京裁判自体の正統性とその判決の正当性に対する疑義は、言うまでもなく存在するが、その一方で、東京裁判が「問答無用」に尽きるものでなかったことにも、注目しておくべきであろう。それぞれの被告には弁護人が確保され、弁護活動が展開されていたことも歴史的事実なのである。

 起訴事項に対し、被告当人が無罪を主張し、被告当人の名誉、軍の名誉、国家の名誉、天皇の名誉を、弁護活動を通して守ろうとすることは可能であったのであり、事実、弁護団はそのように活動しているのである。

 訴因第四五の、

  南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

…という告発に対し、松井石根には、それ自体を否定することで、自身の無罪を主張し、自身の名誉、軍の名誉、国家の名誉を守るための努力をすることが(本人が望めば)可能だったはずだ。そこには、自身の名誉の問題だけでなく、軍の名誉、国家の名誉もかかっている以上、むしろ主張すべきであった、と言うべきであろう。

 しかし、そのような弁論活動はされていないのである。

 むしろ口供書では、松井自身が、

 …一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ひたるものありたるならむ。
 …南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。

…等の文言をもって弁明を試みているというのが現実なのである。

 つまり、

  一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ひたるものありたるならむ

…との認識が松井自身のものであったからこそ、

  憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめ…

るという処置をしたと考えるのが、当然の口供書の解釈となるであろう。
 

 東京裁判における、

  南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

…という嫌疑が事実無根なのであれば、そのように主張しなければならない。それは松井個人にとどまる問題ではなく、皇軍の名誉の問題であり(帝國軍人としての義務の問題である)、大日本帝國の名誉の問題であり(帝國臣民としての義務の問題である)、そして大元帥陛下たる天皇の名誉にもかかわること(つまり「股肱の臣」としての義務の問題である)なのだから。

 しかしそれをしなかったということは、

  南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

…という訴因自体を否定することは不可能であると、松井自身が判断していたからではないか?

 つまり、

  南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害

…という訴因に関しては、その規模は別としても、不法行為の存在を、松井自身が事実と認識していたからではないのか?
 

 私は、そのように考え、「多少の疑問が残る」と判断するよりは、「虐殺事件」の存在を、松井石根自身が認識していたものと判断することの方に、合理性を見出すのである(東京裁判の判決が、この判断には何の影響も与えていないという点が重要である)。

 

 

 そのような判断理由を述べ、

  自分のスタンスは納得できるかどうか

…であると言っていた相手に対し、私はそのような論理で問題を「納得」していることを伝え、私の判断に問題があると思うかどうかを問うてみたのであった。
(つまり、松井閣下の人格の高潔さを信じるならば、東京裁判の場での松井が訴因第四五を否定しなかった以上、我々は訴因にある「南京攻撃に依る中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害」を歴史的事実として考える以外にないのであり、訴因第四五が事実でないならば、それを東京裁判において否定しなかった松井は、勝者に迎合する不忠の臣であったということになってしまうのである―追記:2011年1月28日)

 

 その結果、

  特に問題はないと思います。

…という相手の返答を得ることが出来た。

 

 

 
 

 この一連の議論で、実は相手の立場は一貫したものではなかった。

 南京事件の存在自体の否定(虐殺の存在の否定)をすると同時に、虐殺の規模の大小をも問題の俎上に載せようとするという、論理的には矛盾した姿勢が見られたのである。虐殺の存在自体を否定するならば、規模の大小の議論は不必要なことは言うまでもないだろう。

 話が複雑になるので、虐殺自体の否定への批判に論点を絞って応対したのだが、それで「納得」したわけだから、確固たる立場など最初からなかったのかも知れない。

 
 

 今回の収穫は、「南京事件」に関しても、新書の数ページの記述の読解だけで、虐殺否定論が通用しないことが明らかになったことだろうか(それも、著者の論点・結論とは関係なく、示された資料の解釈のみで、というところが重要である)。あらためて取り組んでみて、虐殺の存在の有無については、専門書を読破するまでもない話だと実感した次第である。しかし、それにもかかわらず、虐殺否定論を、いまだに言い張り続ける人間が(今回の議論の相手の背後に)事実として存在するということも思い知らされたのであった。

 

 しかし、話はまだ終わらなかった。

 続いて、

  しかし一般人に化けている便衣兵(ゲリラ)には南京攻略部隊は困ったでしょうねえ。

…というような、虐殺の正当化の定番のリクツが登場するのであった。
 

 嗚呼…

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/02/16 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/130418

 

 

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