« 日本国の象徴と、國體の本義 5 | トップページ | 日本国の象徴と、國體の本義 7 »

2009年12月20日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 6

 

 1945年(昭和20年)10月25日、幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を発足させた。

 

 委員長の松本は、10月27日の第1回総会(顧問以下全員参加)の席上、「憲法改正の要否について議論することはこの際不必要であると思う」と述べていた。

 続く10月30日、第1回調査会(顧問を除く委員のみが参加)では、第一条・第四条以外の「帝國憲法」の全条項を調査・検討の対象としてはいるが、古関彰一氏は『新憲法の誕生』(中央公論社 1989  ただし引用は 中公文庫 1995 による)において、

  すべて検討は明治憲法から出発しており、諸外国の憲法と明治憲法を比較するという基礎作業に欠けた、視野の狭い「研究」の出発点がつくられた

…と松本主導による「調査会」の性格を評している。

 
 
 

 11月1日、GHQは近衛文麿による憲法改正作業(内大臣府御用掛としての)に関して、近衛は東久邇内閣における首相の代理として「憲法を改正することを要求されるであろう旨を通達された」のであり、内閣が交代した以上、「幣原新首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」との声明を発表した。

 近衛自身は作業を継続し、11月22日になって「憲法改正要綱」を昭和天皇に上奏することになるのだが、既に近衛が憲法改正の任にあるものではないことは明らかであった。

 

 そのような事態の進展の中で、11月10日、憲法調査委員会の第2回総会において松本委員長は、

  日本をめぐる情勢はまことに切実であり、政治的に何事もなしにはすまされないように思われる。したがって、憲法改正問題がきわめて近い将来に具体化されることも当然予想しなければならない。たとえば、その場合においても決してまごつかないように準備は整えておかなければならない。要するに憲法改正の必要は、内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じうるように、さし当たって大きな問題を研究するということにとどめ、切実にやむをえないと思われる条項をふかく掘りさげてゆかねばならない。

…との情勢判断を示した。

 当初の、「この調査会は学問的な調査研究を主眼とするものであるから、若し改正の要ありといふ結論に達しても直ちに改正案の起草に当たるといふことは考へていない」という認識は変更を余儀なくされたわけである。

 
 

 その後、2回の総会と3回の調査会の審議を経て、11月24日に審議内容を集約したプリントが配布される。しかし、そこにおいても、帝國憲法の第一条と第四条については「改正の要なし(多数)」と記されていた。

 

 そのような議論を踏まえ、12月8日の帝国議会において、松本は、

  第一に、天皇が統治権を総攬せらるるという大原則には何ら変更を加えないこと。
  第二に、議会の議決を要する事項を拡充すること。その結果として従来のいわゆる大権事項をある程度制限すること。
  第三に、国務大臣の責任を国務の全面にわたるものたらしめ、国務大臣以外のものが、国務に対して介在する余地なからしめること、そして同時に、国務大臣は議会に対して責任を持つものたらしめること。
  第四に、人民の自由・権利の保護を強化すること。すなわち議会と無関係の法規によって、これらを制限しえないものとすること。また他方、この自由と権利の侵害に対する救済方法を完全なものとすること。

…との、憲法改正問題に関する4つの原則(「松本四原則」と呼ばれることになる)を、答弁において提示したが、それが議会での論戦に発展することはなかった。

 
 

 12月26日の憲法問題調査委員会第6回総会を経て、松本は12月31日、鎌倉の別荘に向かい、自ら条文の起草作業を開始し、1月4日に「憲法改正私案」(後に「憲法改正要綱」へと発展し、「松本甲案」と呼ばれることになる)として完成させる。

 この1月4日には、憲法問題調査委員会の委員3名による調査会小委員会も開催され、委員の一人である宮沢俊義が作成した甲乙2案が提出されていた。そこに松本による「憲法改正私案」も加えられ、討議されることになる。討議の過程で、より「改正点の多い大規模な改正案」の必要が論じられ、宮沢の手により「松本乙案」と呼ばれることになる憲法改正案が作成されることになった。

 

 それぞれの甲案の天皇関連条文(案)を示せば、

松本甲案
 第三条ニ天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」ト改ムルコト

宮沢甲案
 第一条 日本国ハ君主国トス
 第二条 天皇ハ君主ニシテ此ノ憲法ノ条規ニ依リ統治権ヲ行フ
 第三条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ万世一系皇男子孫之ヲ継承ス
 第四条 天皇ハ其ノ行為ニ付責ニ任スルコトナシ
 (別案) 何人モ天皇ノ尊厳ヲ冒涜スルコトヲ得ス

…というものであった。

 君臨統治するという天皇の位置に変化はない。

 つまり「国民主権」への移行というアイディアは、その影すらない、と言うより、発想そのものが存在しなかったように見える。

 
 「諸外国の憲法と明治憲法を比較するという基礎作業に欠けた、視野の狭い研究」の持つ限界を、そこに見るべきだろうか?

 「ポツダム宣言」とは、「明治憲法」の外部から突きつけられた(つまり、異なる憲法体系に支えられた「諸外国」から突きつけられた)、「明治憲法」体制すなわち大日本帝國への体制変革の要求なのである。

  吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ (ポツダム宣言 第6項)

 大東亜戦争が、敗戦=ポツダム宣言受諾に終わった戦争であったことの意味を、ことここに至るまで、憲法問題調査委員会(そこに日本政府の意識水準も反映されているであろう)が理解出来ていなかったということであろうか?

 あるいは、「無責任ナル軍国主義」としての「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者」から自分達は除外されているという自己意識のなせる業であろうか?

 

 憲法改正作業は、占領軍による戦争犯罪人の指名・逮捕と並行して進行していくのである。戦犯指名に伴う近衛文麿の自殺(12月16日のことである)もその過程で起きたことであった。

 少なくとも近衛の自己理解では、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者」が他人事であったからこそ、内大臣府御用掛として憲法改正作業を自ら行うことが出来たわけだろう。

 
 大日本帝國の支配層内部の自己理解と、占領軍司令部という他者の視線が交錯するところで、大日本帝國憲法の「改正」が進行していくことになる。
 

 
 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/03 22:01 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106057

 

 

|

« 日本国の象徴と、國體の本義 5 | トップページ | 日本国の象徴と、國體の本義 7 »

国体と象徴の本義(憲法と天皇)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/32672981

この記事へのトラックバック一覧です: 日本国の象徴と、國體の本義 6:

« 日本国の象徴と、國體の本義 5 | トップページ | 日本国の象徴と、國體の本義 7 »