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2009年12月28日 (月)

歴史的事実、あるいは共有され構成される経験

 

 「歴史的事実」について考えておきたい。

 
 
 

 言うまでもないことだが、「歴史」も「事実」も、どこかにモノとして存在しているのではない。つまり、見ることも出来なければ、触って確かめることも出来ない。

 行為し、経験し、認識し、記憶し、それを語る。そのような人間の営みを抜きに、つまり人間という存在とは別に、「歴史」や「事実」と呼ばれる事象はこの宇宙には存在しないのである。

 そのような人間のあり方を支えているのが言語である。言語により、行為や経験が対象化され、言葉として認識され記憶されることになる。

 日々の様々な行為や経験の内で、言語化され認識の対象となるのはその一部に過ぎないのであり、ましてや記憶されるまでに至る行為や経験は更にその一部に過ぎない。

 

 「更にその一部」となっていくのは、時系列の中で、自らの現在を説明するに有意だと思われる過去の経験、現状を説明し得るものとして因果的に把握される出来事の連鎖であろう。それが自らの来歴を形成し、自らにとっての事実となり、自らの歴史として記憶され、自身と他者に向けて説明されることになる自分という存在を構成するのである。つまり、過去は現在によって構成される。

  

 もちろん、言語とは個人により行使されるもの(個人抜きに行使され得ないものでもある)であると同時に、社会的に共有されたものでもある。つまり、個人の行使する言語には社会が組み込まれてもいるのである。結果として、言語によって構成される個人の記憶にも、最初から社会が埋め込まれているということになる。つまり、経験そして記憶は使用言語の拘束を受けるという側面を持ってしまうのである。色彩に関する語彙が少ない言語体系に属する個人は、7色の虹を経験することが出来ないのである。

 

 そのような個人による記憶の上に、家族に共有される記憶、地域に共有される記憶、共同体に記憶される記憶、社会に共有される記憶、国家に共有される記憶が成立し、それを総称して歴史と呼ぶのである。

 ここでは「共有の可能性」が焦点となる。つまり、同一の出来事に遭遇しようとも、私とあなたでは経験として認識され記憶として残される内容は異なり得るのだ(このことは、それぞれの実際の日常的経験から容易に理解出来ることであろう)。

 

 そこでは、互いの記憶内容をつき合わせ、出来ればより多くの遭遇者の記憶をつき合わせることにより、社会的に共有可能な「事実」が浮かび上がって来ることになる。

 証言内容の一致が、共有可能な事実を構成するのである。

 記録内容の一致が、共有可能な過去の歴史であることを保証することになる。

 
 

 ここで重要なことは、時系列での出来事の確定と、時系列での出来事へのその都度の当事者の推測や感想等を峻別することである。また、時系列での出来事の確定の作業に際しては、価値判断を混入させないことが重要になる。事実としての出来事の確定と、出来事への評価は、まず峻別しておくことが必要なのである。

 広範囲で共有可能な「歴史的事実」を求めるならば、まず時系列での出来事の確定が焦点とされるべきなのだ。

 
 

 たとえば神風特攻隊について、まず歴史的事実として求められるべきは、その発案者の氏名であり、発案の時期であり、作戦として採用される過程であり、その過程に関与した者の氏名であり、作戦の責任者と命令系統の詳細であり、作戦の発動日時であり、搭乗員の氏名であり、その都度の作戦命令の詳細であり、攻撃の結果である。

 現在の視点からの特攻作戦の効果の判定は、それらの事実関係の認定(つまり歴史的事実の確定)をベースとした上でなされる「評価」という行為なのである。歴史的事実の確定とは一つ次元を異にした行為として考えられなければならない。

 自殺攻撃としての特攻作戦で戦死した搭乗者に関し、その死を栄光化し賛美するのか犬死として悼もうとするのかは、価値判断の領域に属する行為なのであり、それもまた歴史的事実の認定とは次元を異にするものであることを深く認識しておくべきである。

 
 

 まず、出来事の評価あるいは価値判断を排除し、推測と経験を峻別し、出来事そのものに肉薄すること。そこに歴史的事実と呼び得る何かを見出す手段がある。

 
 

 そのような歴史的経験に関する時系列での出来事の経過(すなわち「歴史的事実」)を、まず「歴史認識」の骨格としてつかみ取ることが必要なのである。

 その上で、搭乗員と、作戦指揮官と、整備員と、特攻攻撃の対象となった艦船の搭乗員と、それぞれの家族が、どのような心情的経験として特攻を認識し記憶したのか(もちろん搭乗員には既に記憶を残す機会はないわけだが)、そのことを繊細さをもって記録することも、次の段階として必要なことなのである。

 しかし、あくまでも両者を峻別することが、まず歴史を記述するものには求められるのだと思う。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/07/30 23:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111654/user_id/316274

 

 

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