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2009年12月

2009年12月28日 (月)

歴史的事実、あるいは共有され構成される経験

 

 「歴史的事実」について考えておきたい。

 
 
 

 言うまでもないことだが、「歴史」も「事実」も、どこかにモノとして存在しているのではない。つまり、見ることも出来なければ、触って確かめることも出来ない。

 行為し、経験し、認識し、記憶し、それを語る。そのような人間の営みを抜きに、つまり人間という存在とは別に、「歴史」や「事実」と呼ばれる事象はこの宇宙には存在しないのである。

 そのような人間のあり方を支えているのが言語である。言語により、行為や経験が対象化され、言葉として認識され記憶されることになる。

 日々の様々な行為や経験の内で、言語化され認識の対象となるのはその一部に過ぎないのであり、ましてや記憶されるまでに至る行為や経験は更にその一部に過ぎない。

 

 「更にその一部」となっていくのは、時系列の中で、自らの現在を説明するに有意だと思われる過去の経験、現状を説明し得るものとして因果的に把握される出来事の連鎖であろう。それが自らの来歴を形成し、自らにとっての事実となり、自らの歴史として記憶され、自身と他者に向けて説明されることになる自分という存在を構成するのである。つまり、過去は現在によって構成される。

  

 もちろん、言語とは個人により行使されるもの(個人抜きに行使され得ないものでもある)であると同時に、社会的に共有されたものでもある。つまり、個人の行使する言語には社会が組み込まれてもいるのである。結果として、言語によって構成される個人の記憶にも、最初から社会が埋め込まれているということになる。つまり、経験そして記憶は使用言語の拘束を受けるという側面を持ってしまうのである。色彩に関する語彙が少ない言語体系に属する個人は、7色の虹を経験することが出来ないのである。

 

 そのような個人による記憶の上に、家族に共有される記憶、地域に共有される記憶、共同体に記憶される記憶、社会に共有される記憶、国家に共有される記憶が成立し、それを総称して歴史と呼ぶのである。

 ここでは「共有の可能性」が焦点となる。つまり、同一の出来事に遭遇しようとも、私とあなたでは経験として認識され記憶として残される内容は異なり得るのだ(このことは、それぞれの実際の日常的経験から容易に理解出来ることであろう)。

 

 そこでは、互いの記憶内容をつき合わせ、出来ればより多くの遭遇者の記憶をつき合わせることにより、社会的に共有可能な「事実」が浮かび上がって来ることになる。

 証言内容の一致が、共有可能な事実を構成するのである。

 記録内容の一致が、共有可能な過去の歴史であることを保証することになる。

 
 

 ここで重要なことは、時系列での出来事の確定と、時系列での出来事へのその都度の当事者の推測や感想等を峻別することである。また、時系列での出来事の確定の作業に際しては、価値判断を混入させないことが重要になる。事実としての出来事の確定と、出来事への評価は、まず峻別しておくことが必要なのである。

 広範囲で共有可能な「歴史的事実」を求めるならば、まず時系列での出来事の確定が焦点とされるべきなのだ。

 
 

 たとえば神風特攻隊について、まず歴史的事実として求められるべきは、その発案者の氏名であり、発案の時期であり、作戦として採用される過程であり、その過程に関与した者の氏名であり、作戦の責任者と命令系統の詳細であり、作戦の発動日時であり、搭乗員の氏名であり、その都度の作戦命令の詳細であり、攻撃の結果である。

 現在の視点からの特攻作戦の効果の判定は、それらの事実関係の認定(つまり歴史的事実の確定)をベースとした上でなされる「評価」という行為なのである。歴史的事実の確定とは一つ次元を異にした行為として考えられなければならない。

 自殺攻撃としての特攻作戦で戦死した搭乗者に関し、その死を栄光化し賛美するのか犬死として悼もうとするのかは、価値判断の領域に属する行為なのであり、それもまた歴史的事実の認定とは次元を異にするものであることを深く認識しておくべきである。

 
 

 まず、出来事の評価あるいは価値判断を排除し、推測と経験を峻別し、出来事そのものに肉薄すること。そこに歴史的事実と呼び得る何かを見出す手段がある。

 
 

 そのような歴史的経験に関する時系列での出来事の経過(すなわち「歴史的事実」)を、まず「歴史認識」の骨格としてつかみ取ることが必要なのである。

 その上で、搭乗員と、作戦指揮官と、整備員と、特攻攻撃の対象となった艦船の搭乗員と、それぞれの家族が、どのような心情的経験として特攻を認識し記憶したのか(もちろん搭乗員には既に記憶を残す機会はないわけだが)、そのことを繊細さをもって記録することも、次の段階として必要なことなのである。

 しかし、あくまでも両者を峻別することが、まず歴史を記述するものには求められるのだと思う。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/07/30 23:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111654/user_id/316274

 

 

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2009年12月27日 (日)

雄山荘焼失を惜しむ

 

     太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼

…と、ニュースのタイトルにあった(12月26日10時16分配信 読売新聞)。

 

 

 記事の内容は、

 26日午前4時過ぎ、神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」から出火。木造2階住宅約100平方メートルを全焼し、約2時間15分後に鎮火した。
 けが人はなかった。
 別荘は、太宰治の小説「斜陽」の舞台として知られる。小田原署が原因を調べている。
 同署などによると、近くを通りかかった男性(49)が火災に気付き、「オレンジ色の炎が上がっている」と119番した。建物は近くの農業男性(63)の所有で、10年ほど前から空き家だったという。

…となっている。

  遅い目覚めの後に、PCの電源を入れ、ネットに接続すると、そんなニュース記事が目に入った。

 

 

 他にも、

 26日午前4時ごろ、神奈川県小田原市曽我谷津にある作家・太宰治ゆかりの旧別荘「雄山(ゆうざん)荘」から出火、木造平屋約140平方メートルを全焼した。建物は空き家で、けが人はなかった。小田原署は不審火と見て出火原因を調べている。
 雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた。太宰は戦後間もない1947年に訪れ、1週間滞在し「斜陽」を書いたとされる。37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。
 近くの住民によると、同荘は92年ごろから空き家になっていた。【澤晴夫】

という記事(毎日新聞 12月26日9時59分配信)があった。タイトルは、「火災 太宰ゆかりの「雄山荘」全焼、不審火か 神奈川」である。

 

 

 

 

 個人的に、心痛むニュースであった。

 

 太宰文学ファンではまったくないのだが、この話、他人事ではないのである。

 これまでも、太田静子(近代文学史的には太宰治の「愛人」ということになる)の『斜陽日記』の方は、何度か「現代史のトラウマ」で引用させてもらっている。

 たとえば、「国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会」では、その『斜陽日記』からの引用に加えて、

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

と、前後の事情の説明を試みていたわけだ(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4147.html)。

 

 この際だから告白してしまうが、この「加来氏」として登場する人物は、私の祖父に当たる人物(加来金升)なのである。

 そして、「毎日新聞」の記事にある、「雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた」という一文の、「実業家」の正体が私の祖父という関係になるのだ。ただし、「小田原出身」というのは誤りであるが…

 

 「産経新聞」の記事(12月26日19時28分配信)では、

 「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。昭和22年2月に太宰治が数日間滞在。その後、没落する華族の姿を描いた名作「斜陽」を書いた。太宰の生誕100年の年に、ゆかりの建物が失われた。
 太宰の娘で作家の太田治子さん(62)によると、太田さんの母で「斜陽」の主人公のモデルとされる静子さん(故人)が戦時中に疎開し26年まで暮らした。太田さんは3歳まで暮らし、「かやぶき屋根の数寄屋造りながら、2階に中国風の間とスペイン風の寝室があり、風流で落ち着いた雰囲気の家でした」と振り返る。
 太宰は愛人だった静子さんに「ここはいいところだ」と繰り返していたという。太田さんは「小説のイメージ通りの舞台を見つけ、太宰は喜んだと思う。母もうれしかったでしょうが、愛人の立場として永続できない悲しみもあったはずです」。
 太宰は静子さんの日記を下敷きに22年6月、「斜陽」を書き上げ、翌23年6月、別の愛人と東京都三鷹市の玉川上水に入水した。
 今年9月、太田さんは雄山荘を舞台に、父母についてつづった著書「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を出版した。「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。

となっている。記事には、

 「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。

とあるが、祖父は確かに「東京の印刷会社社長」ではあった(美術印刷専門であったらしい)が、「接客用の別荘として建てた」というのは事実ではない。

 先が長くないと診断された祖父の母の療養の場として、温暖で景色のよい(富士山がよく見えるらしい)地を選び、「別荘」としたのである。しかし、完成した時には既に祖父の母は他界しており、自分の占有の「別荘」としてではなく知人にも広く利用を呼びかけたというのが、事の真相である。

 ちなみに、オリジナルのネーミングは「大雄山荘」である。「大雄山」という附近の山の名に因んだ命名(山の名ではなく寺院の山号というのが正確なところのようである:2013年1月25日追記)であったが、後にお住まいになった方が「大」という(ある意味オーゲサな)字への抵抗感から「雄山荘」とし、それが通用名となったということのようだ(どことなく気持ちはわかる気がする)。

 参考までに、祖父自身が作成した「大雄山荘」の冊子の写真を掲げておこう(内容は、小学館文庫の『斜陽日記』の巻末にも紹介されている)。

「大雄山莊公開に就て」と題された文中には、

 不肖平素聊か考ふる所あり、これを獨り專用し
て晏如たる能はず。拠つて之を公開し、母に盡さ
んとしたる志を轉じて辱知諸賢に奉仕せんとす。

という言葉がある。

 

 

 

 

 

 

 

 「10年ほど前から空き家だった」あるいは「同荘は92年ごろから空き家になっていた」ということだが、別の記事(カナロコ (神奈川新聞) 12月26日19時0分配信)によれば、

 最後の借家人が去った93年、太宰ファンや市民が雄山荘の保存を求める要望書を市に提出。市は数年前まで所有者と交渉していたが、所有者側の意向で決裂し、老朽化が進んでいた。

ということである。

 結果として、文化財としての保存は叶うことなく、太宰生誕100年の年の暮れに焼失してしまったわけだ。

 

 所有者として建物を持ちきれなかった建築主の親族としては、言うまでもなく建物の保存は望むが、しかし金銭的援助も出来ぬままに保存運動に名を連ねるということもまた下品な話に思えて、手をこまねいているうちに雄山荘自体が焼失してしまったのである。

 

 

 

 

 「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。

という太田治子さんの言葉に、寂しいことではあるが、頷くことしか出来ない。
 

 

 

 ところで、

 37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。

という句会の際に、虚子一行の接待をしたのが、祖父の娘であり後に私の母となる加来都であった。

 彼女は先日の写真展の主人公でもある。私の撮影した母の最後の日々に加えて、祖父の撮影した(1913年)、誕生直後の母の写真を添えて展示プランとしたばかりである。なんというタイミングであろうか…
 (写真展については
     → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html
     → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/122197

 写真展準備の中で、あらためて雄山荘に関する記事を読んだりしていたことを思い出す。そもそもの祖父にとっての雄山荘の建築動機が、その母の介護であったことを知り、どことなく因縁まで感じたものである。

 その「別荘」が焼け落ちてしまった。

 ダミニストを自称する孫は、祖父と異なり非行動的であった。「出不精」なのである。これまで「雄山荘」を訪れたこともなかった。

 「黒色すみれ」(今年公開の太宰映画の音楽担当)のファンである娘(祖父にとっては曾孫である)とは、「今度、行ってみよう」と話をしていたのに、実現する前に焼け落ちてしまったのである。

 年末の悲しいニュースであった。

 

 

 

 

 

 

雄山荘については、
 → http://oota-shizuko.seesaa.net/category/1257220-1.html
 → http://www.archi-nishijima.co.jp/portfolio/ronbun/ronbun.htm

 

〔以下2010年1月7日追記〕

焼失前の状態が紹介されているブログ
 → http://plaza.rakuten.co.jp/earlgrey1/diary/200912260000/
焼失直後の姿が記録されているブログ
 → http://andokobo.blog73.fc2.com/blog-entry-865.html

 

焼失翌日の読売新聞記事

「類のない建築」保存の声届かず…雄山荘全焼

 神奈川県小田原市曽我谷津で26日未明、太宰治の小説「斜陽」の舞台になった別荘「雄山荘」が火事で焼け落ち、太宰ファンらに落胆が広がった。
 昭和初期、数寄屋造りを基調に西欧風や中国風を取り入れ、地元出身の実業家の別荘として建てられた家屋には建築家からも保存を求める声が出ていた。
 小田原市などによると、雄山荘は元々、経済人にして文化人だった印刷会社社長加来(かく)金升(きんしょう)氏が1925年(大正14年)、富士山と曽我梅林をともに望めるとして別荘地に選び、28年(昭和3年)に完成した。43年からは太宰の恋人太田静子さんが疎開先として暮らし、戦後は63年から93年まで俳人林周平一家が住んでいたという。
 地元の文芸サークル「西さがみ文芸愛好会」で代表代行を務める日達良文さん(78)(神奈川県二宮町)は今年5月、15年ぶりに雄山荘を訪れて変わりように驚いたという。門のくぐり戸に鍵がかかっておらず、中をのぞくと建物玄関の木戸は腐り、すき間もできていた。さらに、玄関前の両脇に置かれた中国風の一対のヒツジの石像は生い茂った雑草で覆われていた。
 しかし、その後、同愛好会会長の播摩晃一さん(8月死去)から渡された93年頃の写真で雄山荘の内部を初めて知り、日達さんは「なんてしゃれた造りの別荘なんだと驚いた」と語った。
 会長の播摩さんは、埼玉県鶴ヶ島市にあった「太宰治文学研究会」に協力し、93年には雄山荘の保存を求める要望書を小田原市長に提出した一人だった。当時は建築家の団体からも要望書が出されていた。
 その中では「文学的価値のみならず建築的にも非常に優れており、数寄屋造りを基調にしながら西欧風、中国風といった形態を取り入れた全国的にも類のない存在」と高い評価を与え、その上で「一部手を加えれば十分使用できる」としていた。
 (12月27日6時8分配信 読売新聞)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/26 23:06 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125862) 

 

 

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2009年12月26日 (土)

ノーズアートの新たな展開 (支那の空を飛ぶ虎の姿)

 

 年末である。

 

 しかも、クリスマス・イヴ、なのだった。

 

 買い物ついでに、娘と娘の母へのプレゼントを購入。

 結果は好評であった。

 

 何を買ったかというと、本だ。

 

 娘用が、

 マーティン・J・ドアティ 『図説 世界の「最悪」兵器大全』 (原書房 2008)

 娘の母用が、

 加藤浩 『神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録』 (学研 2009)

である。いったい、どんな家族だ?

 

 

 ドアティの本には、敵を殺すより使用する兵士の命を奪う類の、数々の兵器が掲載されている。実戦で使用されていたものも多い。

 書中から一例だけ、ドイツ(第二次世界大戦)の超重戦車を紹介しておこう。

 超重戦車マウス

  1943年ドイツ

 マウスは重すぎて時速20kmの設計上最大速度を出せず、また当時存在していたいかなる橋も渡れなかった。平地では時速13kmほどでのろのろと進んだ。128mm砲と75mm砲を同軸装備したマウスは、防御用兵器として、あるいは低速前進する砲台としては恐るべき兵器だったかもしれないが、装甲戦闘車輌としてはまったくの駄作だった。

 1944年に開発は中止された。だが試作車輌の制作はそのまま続けられ、第2次世界大戦末期には2輌が完成した。

…というのだが、添えられた図版には、

巨大な砲を搭載するには巨大な砲塔が必要で、巨大な砲塔を搭載するには巨大な車体と大規模な動力装置が必要だった。その結果できあがったのが、ほとんど動けない巨大な車輌だった。

マウスの重量は大変なもので、これに耐えられる橋はドイツ国内になかった。

なんてキャプションが付けられている。

 

 

 『神雷部隊始末記』の方は、娘の母が、このところ自衛隊グッズ(!)として売られていたという回天キューピーストラップとか桜花キューピーストラップの存在の話に熱中(?)していたので、歴史的事実関係探求の参考にとプレゼント。

 無神経な商品化の見本というのが、我が家の見解。

 

 

 

 

 だいたい、何でそんな本を家族のクリスマスプレゼントに…、という話をすれば、その手の本の専門書店(ミリヲタ御用達)に買い物に出かけていたのだ。要するに、自分用資料の入手が目的。

 カーチスP-40という、第2次世界大戦当時の米国製戦闘機の資料が欲しかったのである。

 購入したのは、

 世界の傑作機 『カーチスP-40ウォーホーク』 (文林堂 1993)

 オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』 (大日本絵画 2002)

の2冊。

 

 この年末に、なぜこれを?

 

 お察しのよいミリヲタの皆様は、既にお気づきのことでありましょうが、来年が寅年であることに、大いに関係がある選択なのである。
       (来年の賀状のネタバレ状態)

          ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Flying Tigers

 

 

 

 このディズニーデザインのマークで知られた「フライングタイガース」こそは、中華民国に対する日本軍の侵攻(「支那事変」というヤツだ)に対し、中国支援のために当時の中立国アメリカの血の気の多い飛行機乗りにより結成された義勇航空隊なのである(「反日」の虎?←確かに「反日本帝国主義」的行動と評することは出来る)。

 今回は、その詳しい話には深入りせずにおきたいので、以前の記事(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7451.html)をご紹介するにとどめる。

 

 

 

 で、賀状に使用する「フライングタイガース」の画像をどうしようか、というのが問題だったわけだ。

 最初は、購入資料中の画像利用を考えていたのだが、ハガキサイズの中の画像としてインパクトがあるものがない。

 そこで、「flying tigers」で、グーグルの画像検索実行!

 そうして見つけたのが、上掲のものだ。

 
 

 ネタ元をチェックしてビックリ。
→ http://www.noseart.ch/cartoonsandanimals.htm

 

 これ、1972年生まれのスイス人の仕業だったのである。

 彼がスイス山中で発見した、戦時中に墜落したB-17の残骸が、いわば彼のカンバスとなり、戦中の米軍機の「ノーズアート」が復元されていったということらしい。

 

 つまり、B-17の残骸の一部を利用して、新たにフライングタイガースのマーキングをペイントして出来上がったのが、今回ご紹介した画像なのだ。60年以上の時を隔てて大戦中の墜落機の残骸が、彼の手で当時の「ノーズアート」を施され、蘇るのである。

 日本人感覚でいえば、一種の「供養」の形にも思える。

 売り物でもあるらしいが、確かにそこに作品としての性格を考えることも可能だろう。

 行為そのものを、一種のアートとして考えるわけだ。山中に墜落機の残骸を発見し、それをカンバスとし、「ノーズアート」の再現を通して、当時の視覚的世界にアクセスする。そのような一連の行為を、である。

 
 
 

 回天キューピーストラップ、桜花キューピーストラップからは、安易な商売感覚(批判されれば販売中止ですからね)しか伝わって来ないが、本業が薬剤師というスイス人の、

 With my Art I try to give these pieces of history a "second life", as hobby and passion.

という言葉には、共感出来るように思える。

 
 
 
 

 

参照 : 回天キューピーストラップ、桜花キューピーストラップ
 → http://d.hatena.ne.jp/notlandung320/20091218
 → http://d.hatena.ne.jp/tadanorih/20091217/1261029503
 → http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091217/1261063707

 

 

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/24 23:53 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125670

 

 

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2009年12月22日 (火)

緊急拡散!! 美しい日本語の危機

 

 「緊急拡散」という日本語があるらしい。

 

 私の生きて来た経験による限り、これまでの(古くからの、あるいは伝統的な)日本語の語彙にはない漢字熟語の用法であると思われる。「緊急」と「拡散」という、それぞれに日常語として見慣れた熟語を組み合わせることにより生み出された新しい四文字熟語、それも21世紀になっての、かなり新しい四文字熟語であろう。私自身、つい最近、知ったのである。

 

 

 私自身は、言語に関する規範的保守主義者ではないので、時代の進展に伴う言葉の変容については寛容な方だと思っている。要するに、「かつて美しい日本語があった」とか、「今の日本語は乱れている」だとかいう議論はバカバカしいと考える立場だ。まず、そのことをお断りしておく。

 

 

 

 で、今後の参考のためにと思い、「緊急拡散」という熟語を、グーグルで検索してみたのであった。

 

 検索の第一位に登場したのが、これ ↓ である。

 

日本が好きな人のブログ | 29日緊急拡散【日テレを調査検証】 (水間政憲)

29日緊急拡散【日テレを調査検証】 (水間政憲) 2008-11-29 04:59:43 現在、日本のマスメディアは、国民が安全保障等国際的水準に覚醒することを、検閲しているのが現状です。それを調査検証する手段がありませんでした。そこで提案します。 ...

 

 

 

 何じゃ、この日本語は??

…と、言語に関する規範的保守主義者でないはずの私は呻くのであった。

 

 「緊急拡散」という語の使用法を観察することによって、その語にどのような意味が与えられているのかを把握すること。それが本来の目的だったのだが、私の目は、グーグルの概要にある、

  現在、日本のマスメディアは、国民が安全保障等国際的水準に覚醒することを、検閲しているのが現状です。

という一文に釘付けとなってしまったのである。

 

 ここに発見出来るのは、すべてにおいて実に新しい漢字熟語の用法ではなかろうか?

 

 伝統的な(というほどのこともないと思うが、ごく最近までの)日本語の用法では、「検閲」という語は、政治権力の側がメディアの表現に対し行使するものであって、マスメディアが「検閲」をするというのは、大変に新しい用法に思える。

 しかも、ここでは、「検閲」の対象とされているのは「国民が…覚醒すること」となっている。

 「伝統的」な用法では、政治権力の側がメディアの「表現」を、あるいは「表現されたもの」を「検閲」することにより、(自らにとって都合の悪い)特定の事実や思考法の広汎な普及を阻止するのが、「検閲」の目的である。

 いずれにしても、「国民が覚醒すること」を「検閲」するというのは、語の用法として妥当ではないだろう。「検閲」により、「国民が覚醒すること」を「妨げる」のである。

 

 日本語の伝統を重視するタイプの人々ならば、「今の日本語は乱れている」という主張の格好の事例として取り上げるに違いないように思われる。

 

 この一文は、「美しい日本語」がお好きな方々であれば、

  現在、日本のマスメディアは、…(中略)…、妨害しているのが現状です。

…と表現することを選ぶであろうし、出来ることならば、

  現在、日本のマスメディアが、…(中略)…、妨害しているという現状があります。

…と表現しようとするだろう(と思う)。

 

 同時に、

  国民が安全保障等国際的水準に覚醒することを

…という表現の舌足らずさにも文句をつけるに違いない。

 文意を忖度した上で、書き直すなら、

  国民が安全保障等の意識に関して国際的水準に到達することを

…となるのではないだろうか?

 少なくとも、

  安全保障等国際的水準への国民意識の覚醒を

…と書くべきものに思える。

 

 

 

 

 筆者の水間政憲氏は、聞くところによれば、日頃から、日本の伝統文化の危機を訴え、伝統文化の尊重を訴えているジャーナリストだという。

 その水間政憲氏にして、この文章である。

 確かに、日本の伝統文化は、日本語の表現という次元で、危機的状況にあるようである。

 

 言語に関する規範的保守主義者ではない私でさえ、ジャーナリスト(!)としての水間氏の日本語表現能力には危惧の念を抱いてしまう、というのが正直なところなのだから…

 

 

 

〔追記〕

 「緊急拡散」ていうのは、要するに、件の水間氏の文章をコピペして、ネット上にばらまけ!! …ってことらしい。

 しかし、私には、日本の伝統文化を大事にしろと言いながら、あのような拙い(と言わざるを得ない)日本語文を、ネット上に氾濫させて平気な神経が理解出来ない(それを求める当人の神経、そしてその指示に従う人々の神経も)。

 水間氏って、ホントは日本語の破壊、そしてそれを通しての日本人の精神生活の破壊という使命を帯びた、某国(どこだかわからないけど)の工作員じゃないのだろうか? …とまでは言わないにしても、しかし、真っ当な教育を受けたネイティブ・ジャパニーズの書く日本語とも思えないのである(しかも、ジャーナリスト!)。

 「日本が好きな人のブログ」がカタコトの日本語で書かれているという不思議、なわけだ。もっとも、水間氏に「国語」を教えた教師が「日教組」のメンバーだったことが、あのような低レベルの(カタコトの)日本語の記述能力の原因なのだと主張されたりすることになるのだろうか?

〔追記の追記〕

 思うに、日本語のネイティブ・スピーカーの語感では、「拡散」の結果として予想されることは「中身が薄まること」、なんじゃないだろうか? …なんて考えると、ますます用語としての適切性が問われる気がする。まぁ、もともと中身の薄い話をもっと薄くしましょうという決意の現われを見出すべきなのだ、ということであるのかも知れないが…

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/21 23:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125384

 

 

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2009年12月20日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 11

 

 

  我が神代に於ける現国(あきつくに)即ち葦原中国の統制の原理は、記紀に見える民族意識の内に、最も厳格に又最も明確に現れてゐる。その統制の原理として最も重大な点は、唯一つ皇室の尊厳といふことに帰着するのであつて、これは総べての生活の根底たり中枢たるものである。故に皇室の尊厳を犯すことは国民生活を根底から破壊することである。

…というのは、『新制 女子国語読本 巻九』(昭和十二年 東京開成館)に収録されている、田中義能の「世界無比の我が國性」と題された文章の冒頭である。国語教科書であって、歴史教科書ではないにしても、「世界無比の我が國性」の根拠が神話の記述に求められていることは確認出来るだろう。

 この冒頭に始まる文章は、

  神代にあつては、畏くも天照大神が当時の生活の中心として仰がれ給ひ、国民のあらゆる者は悉くこれを崇敬し奉つて、誰一人としてその高大な権威を認識し奉らない者はない実情であった。随つて御降誕の初からして、「光華明彩、六合の内に照徹せり。」と伝はり、最も優れた世界の高天原に君臨せられ統治あらせられたと記されている。故に一朝素戔嗚尊の如き神があつて、その尊厳を犯し奉られるや、八百万神は、一斉に立つて、天照大神の御為に百万奉仕し、その不祥神を排斥することに全力を尽くされたのである。かくして皇祖神である天照大神の御尊厳は、如何なる僻遠の地方にも早くから徹底してゐたのであつて、その証拠は種々の記述に於て見出される。素戔嗚尊が高天原から追われて出雲の国に降りられた時、足名椎・手名椎の二神は容易に尊に信服しなかつた。恐らく当時素戔嗚尊は多数の部下を率ゐ、権威を以て足名椎に臨まれたらうと察せられるが、而もその地方の有力者であつた足名椎も尊を知らなかつたとみえて、「恐(かしこ)けれども御名を覚(し)らず。」と、躊躇の色を示しているのである。然るに素戔嗚尊がこれに対して最も厳かな口調で、「吾(あ)は天照大神の伊呂勢(いろせ)なり。」と、その兄弟神たること答へさせ給ふや、「然坐(しかま)さばかしこし。」と言下に信服の旨を言上してゐるのである。この一事によつて見ても、天照大神の尊厳が、全国の如何なる地にも及んでゐたことが十分に理解されるのである。勿論今日の如き世の中ならば、新聞紙や雑誌などによつて、統べての事が容易に全国に普及するのは怪しむを要しないことであるが、何等の交通施設もなく報道機関もなかつた当時に於て、なほ天照大神の尊厳が徹底的に普く認識されてゐたことは、尋常ではないことと言はねばならぬ。
  この時に素戔嗚尊は八岐大蛇を平げて、その尾の中から霊剣を得られたので、「これは以て私に用ふべからず。と、わざわざ特使を出して、これを御姉天照大神に献上されたと伝へられてゐる。更にその御子の大国主命は、父尊から、「速に天下を平定して大国主命となり、また宇都志国玉神となつて国土を経営せよ。」との命を受けて、努力奮闘、遂に赫々たる功勲を立てられ、百姓はその恩沢を被つて、皆その徳を仰いだといふほどの大勢力者であつたにも拘らず、天つ神からこの国土を皇孫に奉れとの命を受けられるや、何等の抗争もなしにこれを献上された上、自ら八十万神を率ゐて、永く皇孫のために奉護を盟はれたのである。此等の事は、或は一種の神話に過ぎないと見る人があるかも知れないが、上代の伝説によれば、これは確な事実である。そしてこの事実は皇室の尊厳がただ漫然と全国的に認められていたといふのに止らず、如何に深く一般国民の脳裏に浸透してゐたかといふことを物語るものである。

…と続くのである。

 ここでは、神話の内容が歴史的事実として主張されることの実際に触れて欲しい。1937年の大日本帝國の教科書には、ファンタジーとしてではなく大真面目に、このような文章が収録されているのである。

 

 ここまで読めば、冒頭の文中の、

  皇室の尊厳を犯すことは国民生活を根底から破壊することである。

…という結語は、神話=歴史的事実という認識に起源を持つものであったことが、あらためて、理解出来るであろう。

 
 
 

 もちろん、そのような認識は教科書だけの問題ではない。

 

 政治の中枢である内閣までがそのような認識を強調して見せていたのが、昭和になっての大日本帝國の現実の姿なのである。

  恭しく惟るに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法発布の御上諭に国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なりと宣ひ、憲法第一条には、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治すと明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明かなり。もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府はいよいよ国体の明徴に力を効し、その精華を発揚せんことを期す。乃千茲に意の在る所を述べて広く各方面の協力を希望す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日  第1次国体明徴声明)

  暴に政府は国体の本義に間し所信を披涯し以って国民の響ふ所を明にしいよいよその精華を発揚せんことを期したり。抑々我が国体における統治権の主体が天皇にましますことは我が国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦姦に存するものと拝察す。しかるに漫りに外国の事例学説を援いて我が国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項総て万邦無比なる我が国体の本義を基とし、その真髄を顕揚するを要す。政府は右の信念に基き姦に重ねて意あるところを間明し、以って国体観念いよいよ明徴ならしめ、英美蹟を収むる為全幅のカを効さんことを期す。
     (「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日  第2次国体明徴声明)

 昭和10年の岡田内閣による「国体明徴声明」とは、つまり、神話の記述を根拠とした、立憲君主としての天皇の地位の否定に他ならないのである。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/16 22:18 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/107300

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 10

 

 

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。
     (香港紙「華僑日報」1945年10月16日付社説「論日本修改憲法」)

 

 

 

     一六 国体の精神          辻 善之助
  そもそもわが日本帝国の国体は天照大神の神勅を基として立てられて居る。この神勅は古くからわが国民の理想として立てて居るもので、その理想は奈良時代に編纂せられた「日本書紀」の中に書き現はされて居る。然しながらそれは理想であり、主義であるのであつて、その理想を実現するために長い間の年所を経て、その間自ら消長あるを免れないと思ふ。即ち国体観念の発達の間にも尚外国思想といふものが輸入せられ、その思想の影響を受けて種種と色彩の変って居る時がある。然しながらその根本主義とふものは少しも変らない。そこで日本歴史の大体に就いて見ると、国体観念の発達には三つの大きな段階がある。
  日本の国の初めに於ては、皇室を中心として氏族制度を以て国を建てて居つた。即ち建国の精神といふものは最もよく氏族制度に現はれて居る。国家を以て父子的の一大団結として、皇室を以てその大きな家族の家長と仰いで、皇室を中心にして、多くの氏族が世襲の職によつて仕へて居る。血族団体で共通の思想感情を有する民族が、同一祖先の観念、即ち共同の氏神を有つて居るといふ観念で、皇室を中心に仰いで職業に従事して居ることである。…
 …明治の初め、五箇条の御誓文によつて、輿論政治の基礎を定められ、次いで立憲政治を始め、議会は開かれるといふことになり、これが第三段階となつた訳である。立憲政治は固より西洋思想を取り入れたものであり、西洋思想の影響を受けたものであるけれども、国体の根本精神は依然として不変である。かやうに国体験念の発達に種々の変遷はあつたけれども、その主義といふものは少しも変りはない。而も年を経ると共に益々磨かれて来たのである。(皇室と日本精神)
          (『女子 皇国新読本 巻七』 帝國書院 昭和十二年   旧字体はあらためた)

 
 
 

 「華僑日報」の社説と、『女子 皇国新読本』の「国体の精神」を読み比べると、その「国体」イメージには違いがないことが理解出来るだろう。

  国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。

…と考えることを問題視するか、

  国体の根本精神は依然として不変である。かやうに国体験念の発達に種々の変遷はあつたけれども、その主義といふものは少しも変りはない。而も年を経ると共に益々磨かれて来たのである。

…からスバラシイと礼賛するのか。それだけが異なる点だ。

 

 「華僑日報」が問題として指摘する点は、そのすべてが『女子 皇国新読本』では礼賛の対象となる。たまたま手元に『女子 皇国新読本』があったので、そこから引用してみたわけだが、例の『国体の本義』の記述もまさに「華僑日報」の認識と裏表の関係にあるものと言える。

 
 
 

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。
(だからスバラシイと考えるのが『国体の本義』で、だから問題なのだというのが「華僑日報」)

 こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。
(それを国体の顕現と考えるのが『国体の本義』で、それを「妄想」と評価するのが「華僑日報」)

 従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。
(と考えることは決してしないのが『国体の本義』で、そのように結論するのが「華僑日報」)

 
 
 

 要するに、その「国体」が遂行した戦争の被害者の視点によって書かれているのが「華僑日報」なのであり、その戦争を正当化する主体の視点から書かれているのが『国体の本義』なのである。

 礼賛されるべき点と、批判されるべき点が、ここまで一致していることも興味深いところではないだろうか。

 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/15 23:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/107216

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 9

 

 「ポツダム宣言」には、

日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ (第6項)

吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ (第10項)

そして、

前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ (第12項)

…という文言がある。

 
 
 

 「戦争犯罪人」に天皇も含まれるのかどうかという問題と、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」がどのような戦後体制を選択するのかという問題が、ここでは焦点となる。

 前者は連合国の意思の問題であるし、後者は日本国民の意思の所在の問題である。

 後者については、言うまでもないだろうが、敗戦後の日本における天皇の地位が問題となっているわけだ。

 
 
 

 1945年(昭和20年)6月29日付のワシントン・ポスト紙は、ギャラップ世論調査による、戦後の天皇の取り扱いに関する米国の世論として、

 処刑                     33%
 裁判で決定                17%
 終身刑                   11%
 追放                      9%
 軍閥の道具だから何もしない       4%
 日本を動かすパペットに利用せよ    3%
 雑、回答なし                23%

…という数字を掲載している。

 戦争犯罪人としての天皇認識を示す、処刑+裁判で決定+終身刑+追放のトータルは70%という圧倒的な数字となっている。

 まだ戦争が続く中での米国の世論は、天皇を裁かれるべき戦争犯罪人の一人として評価していたことになる。

 
 

 一方で、敗戦後の日本国民の「自由ニ表明セル意思」は、

 天皇制支持     95%
 天皇制否定      5%
          (「読売報知新聞」 1945年12月9日)

…というものであった。1946年1月23日付の「朝日新聞」の世論調査報道の見出しは「天皇は政治圏外に―支持が圧倒的多数九二対八%の比率」となっている。圧倒的な、大権を保有しない天皇(天皇制)への支持である。

 
 

 1945年10月16日の香港紙「華僑日報」の社説「論日本修改憲法」は、

  明治期に採択された旧憲法の特色の第一は天皇中心主義、天皇第一主義であり、国民は第二義的であり、第二の特色は天皇と国家は同一視され、天皇への忠義は国家への責任を果たすことと一つだとみなされる。第三の特色は、天皇と国民は一つの家族であり、国家は大家族と考えられ、天皇は家長とみなされる。第四に、天皇と臣民の間には明確な区別があり、天皇は絶対権を持ち、臣民は無条件的服従をなすことになっている。第五に、国体と政体とは別であり、政体は変わっても国体は不変であり、皇室が永久に支配する。こうした諸要素の総合によって世界征服の妄想、いわゆる八紘一宇の思想が唱えられた。従って、日本の中心的な伝統思想を根絶するためには、現人神的天皇は廃止すべきであり、天皇神聖の思想は打破されるべきである。

…と、大日本帝國憲法下の天皇の姿を描いていた。

 
 
 

 いずれにしても、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力」と天皇は分離可能なのかどうか、つまり大東亜戦争遂行と天皇の意思は分離可能なのかどうかが問題の焦点となるわけだ。

 これは、個人としての昭和天皇の意思の所在の問題であると共に、国体あるいは天皇制という制度の問題でもあることになる。

 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/11 22:44 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106828

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 8

 

 「大日本帝國憲法」下における、主権者として軍事的政治的大権を保有し「帝國」に君臨する天皇から、「日本国憲法」の下での「国民主権」の原則と「象徴」としての天皇への変化。

 
 

 現在では、何の疑問も持たれない「国民主権」という民主主義の基本原則ではあるが、昭和20年8月15日以後の大日本帝國を引き継いだ政治家達の脳裏にはまったく存在しない統治のイメージだった。

 これまでに、内大臣府御用掛としての近衛文麿、幣原内閣の松本烝治国務大臣主宰の憲法問題調査委員会、そして自由党あるいは進歩党といった保守政党サイドの憲法改正案を検証して来たわけだが、国家における天皇の位置付けと国民の政治的権利に関しては、明治憲法(大日本帝國憲法)からの転換の必要という発想は、まったく見出すことが出来なかった。

 
 

 

 

 大日本帝國の敗戦とは、ポツダム宣言の受諾を意味するのであり、すなわち、

 

六 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ

 

…という連合国による要求を満たす努力を、敗戦国としての日本の政府が課せられたということを意味するものであった。

 
 
 

 マッカーサーの近衛への示唆に始まる憲法改正の試みもまた、ポツダム宣言にある、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力」を「永久ニ除去」し、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘ」、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去」し、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重」の確立という諸要求の実現の過程のひとつ、それも中心となる「ひとつ」であった。

 

 ポツダム宣言には、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力」を「永久ニ除去」し、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘ」ることと、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去」し、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重」の確立という、大枠で二つの要求があったと言うことが出来る。

 戦争を主導した勢力の除去と処罰が前者であり、日本国の民主主義化が後者である。

 その両者の要に位置するのが天皇の処遇という問題であり、それは、憲法の条文の問題であると共に戦犯処罰(「東京裁判」として現実化する)の問題であり、同時に占領の統治方式をめぐる問題でもあった。

 
 

 天皇に対する戦犯指名の是非は、戦後に浮上した問題ではなく、既に戦中から各国において様々に論じられて来た問題であった。

 米国内でも、占領統治における天皇の利用可能性の問題としてであると同時に、天皇及び宮中グループ(と称せられる政治家・軍人)を「穏健派(あるいは自由主義者)」として位置付けることによる戦争主導者からの天皇の分離の可能性の問題として議論されていたのである。

 駐日大使という経歴を持ち、国務次官として戦後へ向けた対日政策立案の中心となったジョセフ・グルーこそが、滞日時代の「穏健派(あるいは米英派)」との交流経験に基き、戦後の天皇制の存続への底流を形作っていたのであった。グルーによれば、戦争は天皇の意思を離れたところで、大日本帝國憲法下での「天皇制」を利用した軍人達に主導されたものだったのである。

 すなわち、戦犯指名の対象からの天皇の除外は、占領統治における米国の負担軽減(間接統治を可能にすることによる)の問題であると同時に、大日本帝國憲法下における天皇の位置付けの評価の問題でもあったわけだ。

 特にグルーの場合は、宮中グループのような「戦前の穏健な米英派の自由主義者」との親密な交流経験が、占領統治の負担軽減というリアリズムを超えた天皇制擁護へと結実しているように見える。

 

 いずれにせよ、戦犯指名からの天皇の除外は、新たな憲法における天皇の位置付けの問題と深くリンクすることになるのである。

 あくまでも、「大権」を持たない天皇である必要があったわけだ。

 
 

 そして、大日本帝國憲法の下でも当初から立憲君主(註)を志向していた昭和天皇というイメージが、大きく意味を持つことになるのである。

 
 
 

(註) ここでは、「立憲君主」を「君臨すれども統治せず」、つまり君臨しても統治しない存在として取扱ってしまっているが、国法学的には、君臨し統治する立憲君主も存在する。
 憲法に、統治権の主体が君主であることが明記されていれば、実際に統治行為を行うかどうかとは関係なく、そこに「立憲君主」の存在は見出されるのである。
(詳細は以下の記事を参照願いたい―2011年1月6日記)
 日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3d4d.html
 日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-156d.html

 

 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/10 23:00 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106746

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 7

 

 「大日本帝國憲法」から「日本国憲法」への転換を、国家における主権者の変更という観点から考えて来た。

 

 まず存在したのは、「大日本帝國憲法」下における、政治的軍事的大権の保有者としての天皇、つまり主権者として「帝國」に君臨する天皇であった。

 大東亜戦争における敗戦を経て、「日本国憲法」により表明されたのは「国民主権」の原則であった。そして、天皇は「象徴」へと変化する。

 
 

 これまでも見て来たように、「日本国憲法」に先立つ、内大臣府御用掛の肩書きによる近衛文麿による憲法改正の試みにおいても、幣原内閣の松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」の議論においても、「国民主権」への転換という発想はなかった。

 主権者としての天皇(大権の保有者としての天皇)の位置付けは、自ら開始した戦争の敗北による国家の再出発に際しても、疑問の余地のない出発点であったということであろう。

 
 
 

 今回は、まず、憲法問題調査委員会による「憲法改正案」として取り扱われることになる「松本乙案」の内容を見ることから始めたい。

 前回も触れたように、「松本甲案」及び「宮沢甲案」が大日本帝國憲法」からの小幅な「改正」にとどまっているのに対し、「改正点の多い大規模な改正案」として宮沢俊義によりまとめられたものである。

第一条 
 (A案)
   (第一条)日本国ハ万世一系ノ天皇統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
   (第四条)削除
 (B案)
   (第一条)日本国ノ統治権ハ万世一系ノ天皇之ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
   (第四条)削除
 (C案)
   (第一条)日本国ハ君主国トシ万世一系ノ天皇ヲ以テ君主トス
   (第〇条)天皇ハ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 (D案)
   (第一条)日本国ハ万世一系ノ天皇之ニ君臨ス
第二条 削除
第三条
 (A案)天皇ハ統治権ヲ行フニ付責ニ任スルコトナシ
    (第二項)天皇ノ一身ハ侵スヘカラス
 (B案)天皇ハ国ノ元首ニシテ侵スヘカラス
 (C案)天皇ノ一身ハ侵スへカラス

…という条文案であった。これが、「改正点の多い大規模な改正案」の内実なのである。

 万世一系の天皇は統治権を総攬する不可侵の存在であることにおいて、明治の「大日本帝國憲法」と異なるものではない。

 大日本帝國期の支配階層により構成された幣原内閣、そして憲法問題調査委員会のメンバーにとって、かねての松本の主張である通り、帝國憲法の第一条と第四条については「改正の要なし」なのであった。その、第一条・第四条である

 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス (第一条)

 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ (第四条)

…を一つの条文にまとめたのが、「松本乙案」における「大規模な」(?)「改正点」ということになる。

 
 

 参考までに、多数派保守政党による憲法改正案も見ておこう。

 

 まずは自由党の「憲法改正要綱」(1946年1月21日)では、

(二)天皇
 (1)統治権ノ主体ハ日本国家ナリ
 (2)天皇ハ統治権ノ総攬者ナリ
 (3)天皇ハ万世一系ナリ
 (4)天皇ハ法律上及政治上ノ責任ナシ

…となっており、ここでも天皇は万世一系の統治権を総攬する無答責の存在である。

 進歩党からは、

 (1)天皇制護持
 (2)君主政体と民主主義とは両立する
 (3)「天皇ヲ国家ノ機関トスル説ノ如キ、又天皇制ハ存置スルガ統治権ハ其ノ一部ヲ天皇ニ残シ他ハ人民ニ帰セシメントシ、或ハ天皇制ヲ廃シテ天皇ヲ以テ単ニ儀礼的象徴トスルニ非ザレバ民主主義ヲ貫キ得ズト考フルガ如キハ、何レモ我党ノ採ラザル所デアル」。

…という「方針」が示された。

 どちらにも、天皇の地位に関して、「大日本帝國憲法」からの大きな転換(の必要)という発想は見られない。

 
 
 

 政治的軍事的大権の保有者としての天皇からの、「象徴」までの距離の大きさを、ここでは実感しておきたい。

 
 
 
 
 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/05 22:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106243

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 6

 

 1945年(昭和20年)10月25日、幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を発足させた。

 

 委員長の松本は、10月27日の第1回総会(顧問以下全員参加)の席上、「憲法改正の要否について議論することはこの際不必要であると思う」と述べていた。

 続く10月30日、第1回調査会(顧問を除く委員のみが参加)では、第一条・第四条以外の「帝國憲法」の全条項を調査・検討の対象としてはいるが、古関彰一氏は『新憲法の誕生』(中央公論社 1989  ただし引用は 中公文庫 1995 による)において、

  すべて検討は明治憲法から出発しており、諸外国の憲法と明治憲法を比較するという基礎作業に欠けた、視野の狭い「研究」の出発点がつくられた

…と松本主導による「調査会」の性格を評している。

 
 
 

 11月1日、GHQは近衛文麿による憲法改正作業(内大臣府御用掛としての)に関して、近衛は東久邇内閣における首相の代理として「憲法を改正することを要求されるであろう旨を通達された」のであり、内閣が交代した以上、「幣原新首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」との声明を発表した。

 近衛自身は作業を継続し、11月22日になって「憲法改正要綱」を昭和天皇に上奏することになるのだが、既に近衛が憲法改正の任にあるものではないことは明らかであった。

 

 そのような事態の進展の中で、11月10日、憲法調査委員会の第2回総会において松本委員長は、

  日本をめぐる情勢はまことに切実であり、政治的に何事もなしにはすまされないように思われる。したがって、憲法改正問題がきわめて近い将来に具体化されることも当然予想しなければならない。たとえば、その場合においても決してまごつかないように準備は整えておかなければならない。要するに憲法改正の必要は、内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じうるように、さし当たって大きな問題を研究するということにとどめ、切実にやむをえないと思われる条項をふかく掘りさげてゆかねばならない。

…との情勢判断を示した。

 当初の、「この調査会は学問的な調査研究を主眼とするものであるから、若し改正の要ありといふ結論に達しても直ちに改正案の起草に当たるといふことは考へていない」という認識は変更を余儀なくされたわけである。

 
 

 その後、2回の総会と3回の調査会の審議を経て、11月24日に審議内容を集約したプリントが配布される。しかし、そこにおいても、帝國憲法の第一条と第四条については「改正の要なし(多数)」と記されていた。

 

 そのような議論を踏まえ、12月8日の帝国議会において、松本は、

  第一に、天皇が統治権を総攬せらるるという大原則には何ら変更を加えないこと。
  第二に、議会の議決を要する事項を拡充すること。その結果として従来のいわゆる大権事項をある程度制限すること。
  第三に、国務大臣の責任を国務の全面にわたるものたらしめ、国務大臣以外のものが、国務に対して介在する余地なからしめること、そして同時に、国務大臣は議会に対して責任を持つものたらしめること。
  第四に、人民の自由・権利の保護を強化すること。すなわち議会と無関係の法規によって、これらを制限しえないものとすること。また他方、この自由と権利の侵害に対する救済方法を完全なものとすること。

…との、憲法改正問題に関する4つの原則(「松本四原則」と呼ばれることになる)を、答弁において提示したが、それが議会での論戦に発展することはなかった。

 
 

 12月26日の憲法問題調査委員会第6回総会を経て、松本は12月31日、鎌倉の別荘に向かい、自ら条文の起草作業を開始し、1月4日に「憲法改正私案」(後に「憲法改正要綱」へと発展し、「松本甲案」と呼ばれることになる)として完成させる。

 この1月4日には、憲法問題調査委員会の委員3名による調査会小委員会も開催され、委員の一人である宮沢俊義が作成した甲乙2案が提出されていた。そこに松本による「憲法改正私案」も加えられ、討議されることになる。討議の過程で、より「改正点の多い大規模な改正案」の必要が論じられ、宮沢の手により「松本乙案」と呼ばれることになる憲法改正案が作成されることになった。

 

 それぞれの甲案の天皇関連条文(案)を示せば、

松本甲案
 第三条ニ天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」ト改ムルコト

宮沢甲案
 第一条 日本国ハ君主国トス
 第二条 天皇ハ君主ニシテ此ノ憲法ノ条規ニ依リ統治権ヲ行フ
 第三条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ万世一系皇男子孫之ヲ継承ス
 第四条 天皇ハ其ノ行為ニ付責ニ任スルコトナシ
 (別案) 何人モ天皇ノ尊厳ヲ冒涜スルコトヲ得ス

…というものであった。

 君臨統治するという天皇の位置に変化はない。

 つまり「国民主権」への移行というアイディアは、その影すらない、と言うより、発想そのものが存在しなかったように見える。

 
 「諸外国の憲法と明治憲法を比較するという基礎作業に欠けた、視野の狭い研究」の持つ限界を、そこに見るべきだろうか?

 「ポツダム宣言」とは、「明治憲法」の外部から突きつけられた(つまり、異なる憲法体系に支えられた「諸外国」から突きつけられた)、「明治憲法」体制すなわち大日本帝國への体制変革の要求なのである。

  吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ (ポツダム宣言 第6項)

 大東亜戦争が、敗戦=ポツダム宣言受諾に終わった戦争であったことの意味を、ことここに至るまで、憲法問題調査委員会(そこに日本政府の意識水準も反映されているであろう)が理解出来ていなかったということであろうか?

 あるいは、「無責任ナル軍国主義」としての「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者」から自分達は除外されているという自己意識のなせる業であろうか?

 

 憲法改正作業は、占領軍による戦争犯罪人の指名・逮捕と並行して進行していくのである。戦犯指名に伴う近衛文麿の自殺(12月16日のことである)もその過程で起きたことであった。

 少なくとも近衛の自己理解では、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者」が他人事であったからこそ、内大臣府御用掛として憲法改正作業を自ら行うことが出来たわけだろう。

 
 大日本帝國の支配層内部の自己理解と、占領軍司令部という他者の視線が交錯するところで、大日本帝國憲法の「改正」が進行していくことになる。
 

 
 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/03 22:01 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/106057

 

 

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日本国の象徴と、國體の本義 5

 

 占領軍司令官からの憲法改正要求に対し、1945年(昭和20年)10月25日、幣原内閣は「憲法問題調査委員会」の設置をもって応えた。

 

…と言っても、これは、「憲法改正」を議論するための委員会ではなかった。委員長の松本烝治国務大臣の説明によれば、「この調査会は学問的な調査研究を主眼とするものであるから、若し改正の要ありといふ結論に達しても直ちに改正案の起草に当たるといふことは考へていない」ということだった。

 先行する、内大臣府御用掛という肩書きでの、近衛文麿による改憲作業への幣原内閣による対抗措置というのがそもそもの発端なのである。委員会の性格も、閣議了解に基くだけの非公式なものであった。

 
 

 10月27日に開催された第1回総会でも、松本烝治は、「憲法改正の要否について議論することはこの際不必要であると思う」と述べていた。

  ポツダム宣言では、この問題は日本人の自由意思にもとづいて決定すべきものとしているから、アメリカといえどもこれに命令し強制することはできない。日本人の総意は山の如く動かぬのである。したがって、第一条・第四条に触れる必要はない。第一条・第四条に触れなければデモクラティックにならぬなどということがあるはずはない。改正すべき点は数多くあっても、この問題は不変であると考える。

…とまで言い切っている。

 ちなみに、大日本帝國憲法の第一条・第四条は、

 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス (第一条)
 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ (第四条)

…である。つまり、主権者としての天皇を示す条文だ。

 松本烝治にとり、

  吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

…というポツダム宣言の文言は、「国民主権」への転換要求を含むものではなかったということになる。確かに、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」という一節の「復活強化」という文言からは、かつて存在した「民主主義」への「復活強化」という解釈は生じうるものだろう。

 

 しかし、ポツダム宣言の背後にある連合国の視点からすれば、「大日本帝國憲法」の条文に支えられた国家体制こそが戦争を引き起こしたのであり、帝国憲法の拘束下での「民主主義」には戦争を阻止出来なかったのだ、ということになる。

 つまり、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」及び「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」という「帝国憲法」の体制の継続では、

六 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

…というポツダム宣言の条項の達成は出来ないということになるだろう。

 世界より駆逐されるべき「軍国主義」を生み出すシステムとして機能したのが、「大日本帝國憲法」であったという認識となるわけだ。

 

 

 
 

 主権者としての天皇、政治的軍事的大権の保有者としての天皇が意味するのは、大日本帝國の政治的(軍事的)意思決定における国民の従属性である。

 政治的意思決定における国民の主体性の保証こそが民主主義の根幹であると考えるのだとすれば、そこでは「国民主権」という原則の採用が当然の帰結となるはずなのである。

 
 

 昭和20年の10月、近衛文麿にも松本烝治にも、その認識はなかったということになる。

 
 

 
 もっとも、戦後の昭和天皇の証言によれば、天皇自身は常に「立憲君主」として振舞うことを心がけていたのであり(註)、天皇もまた、「政治的軍事的大権の保有者」と憲法上は規定されながらも、政治的軍事的意思決定への従属的存在であったということになっているのである。
 
 
 

 

 

(註) ここでは、「立憲君主」が「君臨すれども統治せず」的に、つまり君臨しても統治しない存在(政治的軍事的意思決定への従属的存在)として取扱われてしまっているが、国法学的には、君臨し統治する立憲君主も存在する。
 憲法に、統治権の主体が君主のものであることが明記されていれば、実際に統治行為を行うかどうかとは関係なく、そこに「立憲君主」の存在は見出されるのである。
(詳細は以下の記事を参照願いたい―2011年1月6日記)
 日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3d4d.html
 日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)
  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-156d.html

 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/02 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105972

 

 

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2009年12月18日 (金)

売国民主党政権打倒、あるいは傀儡政治の所在

 

 タイトルにした「売国民主党政権打倒」という言葉は、さる「超国家主義」を掲げる団体が、御茶ノ水駅頭で配っていたチラシ(もちろん、喜んで、こちらから頂きに上がったことは言うまでもない)にあったものだ。

 
 

 そのチラシには、

 民族生存意欲なき傀儡政治を打倒せよ!

という言葉も載せられている。

 
 

 以下に記すのは、そんな言葉に喚起された、私の、妄想である。つまり、超国家主義団体の皆さんの主張とはまったく関係ないということをあらかじめお断りしておく。

 
 
 
 

 沖縄の米軍基地問題、特に、このところクローズアップされている「普天間基地移設」をめぐっての鳩山民主党政権の対応をどのように評価すべきか、という問題。

 
 

 在日米軍基地に関しては、沖縄県への偏在により、沖縄県民に過重な負担を課す現状があることは否定出来ないことだ。

 大日本帝國の敗戦後、沖縄県は米軍の統治下に置かれる。日本国としての主権回復後も、その地位に変化はないまま「本土復帰」までの20年以上にわたり、軍政下の状態が続いたのである。在日米軍基地が沖縄に集中している現状の起源は、大日本帝國の敗戦であり、その後の米軍統治という沖縄の地位であり、復帰後の日本政府の姿勢である。

 多くの沖縄県民が基地の集中する現状を負担と考えていることは、先の衆議院議員選挙において、辺野古地区(キャンプ・シュワブ)への基地移設(つまり、県内移設案)への反対を表明した候補を当選させることにより、米軍基地県外移設への期待を意思として示したことに明らかである。

 

 現在の鳩山首相の言動による限り、県内移設ではなく、県外・国外移設を政権の方針としつつあるように見える。

 
 

 私自身は民主党支持者というわけではなく、鳩山氏にも何の義理もないのだが、沖縄の在日米軍基地の県外・国外移設への模索に関しては、現在の鳩山氏の方向性を躊躇なく支持するものだ。

 

 もっとも、この「普天間基地移設問題」をめぐる鳩山氏の言動が、彼自身のどのような展望に基づくものなのかどうか、もうひとつ不明なところがある。

 それが鳩山氏の一定の理念に基づくもの、あるいは実現への政治的可能性への戦略を備えた決断であるのかどうか、という点である。

 
 
 

 日本国内に米軍が駐留することの意味は、米軍サイドから見れば、その世界的軍事戦略の一環という観点と共に、日本国政府の供給する莫大な「思いやり予算」の存在という事実を見逃すことは出来ないだろう。

 日本に駐留することは、何より、どこより、米軍にとって(つまり米国にとって)「安上がり」なのである。

 

 外国の軍隊の駐留、外国の軍隊への基地用地の提供は、通常、国家主権への侵害として考えられるものだ。実際、1989年のベルリンの壁崩壊後の東欧圏では、まず駐留ソ連軍の撤退が求められたことを思い出しておきたい。

 主権国家間の関係という観点から在日米軍の存在を考えれば、日本国政府は何よりも基地提供への見返りを米国に請求すべきはずなのである。

 米国の説明によれば、日本国内の米軍基地は戦略上の重要性を備えたものであるということになっている。東アジアから中東を視野に入れた戦略拠点としての在日米軍基地の重要性には、確かに疑問の余地はない。つまり、米軍の、そして米国の利益が、日本国内の米軍基地を必要としているということだ。

 この関係性の中での、日本政府の支出としての「思いやり予算」は異常である。基地使用料を請求することこそ、主権国家としてのあり方であろう。あるいは、使用料徴収に代えての在日米軍による日本の防衛義務。

 

 その構図からは、沖縄の基地の現状の解決策として県外(あるいは国外)移設を求めることが、主権国家の政府としては、あまりに当然の要求であるに過ぎないことが理解出来るはずだ。

 この理解からは、先にご紹介した「超国家主義」団体のチラシにある「傀儡政治」という文言が、これまでの自民党政権の対応にこそふさわしいように感じられてしまうのである。

 
 
 

 問題をそのような構図の下で理解すれば、煮え切らぬようにしか見えない鳩山氏の態度が、逆にタフ・ネゴシエーターのそれに見えて来る。

 交渉の引き延ばしによる、譲歩の獲得こそは、タフ・ネゴシエーションの基本である。パレスチナ問題におけるイスラエル政府の姿、あるいは旧ユーゴ崩壊過程での「デイトン合意」に至るまでのミロシェビッチやイゼトベゴビッチの執拗かつ周到な交渉術を、ここでは思い出しておくべきなのではないか?

 

…と書きつつも、あの鳩山首相にそんな覚悟・戦略があるのかどうか?

 どうも、妄想というか幻想についてオレは語っているに過ぎないのではないのか、という現実的な疑問からは逃れ難いことも確かである。

 
 
 

 しかし、そもそも、この「県外移設案」は、あの社民党が主張していたものなのである。つまり、他県での米軍基地の拡張あるいは新設に関し、今後は、社民党には反対する理由がなくなる。消極的ではあれ、他県における米軍基地拡張あるいは新設を社民党は支持すること(支持しなければならないこと)になるのだ。

 こんな面白い話は滅多にないものだ、と思う。 …という言い方は不謹慎かも知れないが、ここに「政権交代」というものの意義を見出しておくべきであろう。「与党」として政治過程に参与することがもたらす「責任」は、万年野党としての無責任な原理主義とは別の次元に、社民党を導いているのである。

 
 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/17 23:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/125046

 

 

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2009年12月12日 (土)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル…

 

 『日米交渉の経緯』と題された、昭和17年12月の刊行物を読んでいるわけだ。

 

 

 タイトルページの次には、見開きの左ページに「詔書」の文字のみ記されている。そこには振り仮名が付されているのだが、「セウシヨ」となっている。

 つまり、刊行元の東京日日新聞社及び大阪毎日新聞社は、昭和17年7月の国語審議会の提議した「字音仮名遣整理案」を無視していることになる。もっとも、文部省からの修正・正式発表は同年12月のことらしいので、手続き的には問題ないのかも知れない(発行日と発表日の前後関係が今のところ不明なので、正確なことを言うことは出来ない)。

 

 その次のページには、見開きの左右を用いて、詔書本文が掲載されている。冒頭は、言わずと知れた(?)、

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル…

となっているわけだが、そこに付された振り仮名は、

 天佑=テンイフ

 保有=ホイウ

 萬世一系=バンセイイツケイ

 皇祚=クワウソ

 踐=フ

である。振り仮名の示す音の通りに読んでしまうと、

テンイフヲホイウシバンセイイツケイノクワウソヲフメル…

となってしまう。もちろん、それを、

テンユウヲホユウシバンセイイッケイノコウソヲフメル…

という本来の音で訓めたからといって、意味の理解に結びつくという保証はない。

 しかし、振り仮名の役割が、漢字音の訓み方の補助にあるのだとすれば(それ以外にどのような役割があるのかは知らないが)、「テンイフヲホイウシバンセイイツケイノクワウソヲフメル」では、その本来の役割を果たすことにはならない。

 確立されるべき大東亜共栄圏における機軸語としての、日本語の期待されるべき地位を考えれば、つまり非日本語圏の人々への日本語の普及という課題として問題を考えるならば、あるべき振り仮名の姿は「テンユウヲホユウシバンセイイッケイノコウソヲフメル」でなければならないだろう。

 

 いわゆる「歴史的仮名遣ひ」に対する「字音仮名遣」の優位性は、確立されるべき大東亜共栄圏という、広大な非日本語地域の存在を前にする時、疑問の余地のないものとなる。

 「歴史的仮名遣ひ」に関する知識は、もちろん、大日本帝國の誇るべき古典文学の読解には必要不可欠なものである。日本の古典文学が、日本語圏の外の世界でも通用するものであるならば、まずは翻訳がその流通を助けるであろうし、それ以上の理解を求める人々が現れれば躊躇することなく古日本語の学習に勤しむことになるだろう。シェイクスピアは日本国内では翻訳で流通しているわけだし、シェイクスピア研究者ならばまずエリザベス朝英語を学習するのと、話として異なるところはない。

 最優先されるべき日常に必要な日本語の学習において、「歴史的仮名遣ひ」の優先度が低くなるのは当たり前のことだろう。非日本語圏の人々への日本語の普及という、大東亜共栄圏における政治的課題を前にして、趣味的な「歴史的仮名遣ひ」への執着など問題にならない話なのである。

 
 
 

 もっとも、ミッドウェー海戦での敗北は1942年(昭和17年)6月のことであり、国語審議会の答申の時点で、既に大東亜共栄圏の確立という目標には暗雲が生じつつあったわけである。爾後、大日本帝國の占領域は拡大から縮小に転じることになる。やがて自ら策定した「絶対国防圏」を侵され、硫黄島そして沖縄を失い、本土決戦を残すのみというところまで追い詰められ、最終的にポツダム宣言受諾に至るわけである。

 

 結局のところ、昭和17年の国語審議会が課題とした「日本語の大東亜共栄圏進出」という想定は、歴史的には、実現することなく終わってしまった。

 英語には、「ピジン・イングリッシュ」と呼ばれる現地流通形態語の発生や、「ベーシック・イングリッシュ」という簡易化英語の試みが生まれている。

 昭和17年の国語審議会の奮闘を振り返る時、そこに、現在とは異なる日本語への可能性が(少しだけ)開かれていたようにも思える。ピジン・ジャパニーズあるいはベーシック・ジャパニーズへの可能性である。「歴史的仮名遣ひ」派にとってはとんでもない話だろうが…

 
 
 
 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/12 00:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/124563

 

 

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2009年12月11日 (金)

北支事変といふ思ひがけない災厄…

 

 去る六月十七日に標準漢字原案(常用漢字一一三四、準常用一三二〇、特別漢字七四字)を発表した国語審議会は、字音仮名遣整理案、漢字左書案(横書きの場合左書きにする)を満場一致で可決、文相への答申を経て閣議にかけ正式決定とともに交付し各官庁、全国学校および一般社会で使用励行して行くことになった。

…というのは、昭和17年7月17日の新聞記事(多分、「毎日」)である。ちなみに、

 新字音仮名遣は一口にいえば発音通りに書く。例えば、「ゐ、ゑ、を、くわ、ぐわ、ぢ、づ」などは「い、え、お、が、じ、ず」に統一し長音は全部「う」をつけて書く、この際「ぢ、づ」を「じ、ず」とし「づ」を「ず」とすることに押し通すには多少の無理が生じるので、連声によって濁る場合-たとえば入智恵の「ぢ」は「智」の原音を尊重して「じ」にしないこと、濁音によって濁る「地震」なども「ぢ」を尊重して「じ」としない。
 字音仮名遣は従来に比してずっとやさしくなったが正確な発音さえ知っていれば大体間違いない使い方が出来る。たとえば「後悔(くわい)」が「後悔(かい)」に「友(いう)人」が「友(ゆう)人」に、「八紘(くわう)」が「八紘(こう)」に、「象(ざう)」が「象(ぞう)」に「葡萄(だう)」が「葡萄(どう)」に、「法(はう)」あるいは「はふ」とつけたのが「法(ほう)」に、「給(きふ)金」が「給(きゅう)金」に、「職業(げふ)」が「職業(ぎょう)」になる。

というのが「字音仮名遣」の正体である。「戦後民主主義」が「犯人」だとばかり思っていたが、実際は、「大東亜共栄圏建設」の賜なのであった。

 翌日の記事によれば、

審議会による漢字制限は「日本語の大東亜共栄圏進出」を考慮して答申されたもの

なのである。ちなみに、この翌日の記事は、「戦時下わが国の歴史蔑視の風潮を招来する企てであるとして、答申案不採用の建白書を橋田文相に提出」した頭山満以下16名の行動を伝えるものであった。保守的人士からの評判は悪かったらしい。

 

 21世紀になっても、「歴史的仮名遣ひ」に拘泥する方もお見受けする。

 かの靖国神社の『遊就館図録』巻頭の「ご挨拶」や、巻末の小堀桂一郎先生による「解題」などがその見本であろう。ただし、この『遊就館図録』は、なぜか本文では「字音仮名遣」が用いられている。こちらは「日本語の大東亜共栄圏進出」に対する配慮なのだろうか?

 

 

 「歴史的仮名遣ひ」への拘泥は、「日本語の大東亜共栄圏進出」という新時代の要請に対し、公然と背を向けようとするものだ。

 大東亜戦争を称揚しようと試みるのであれば、新時代のための日本語表記改革の意義への無理解はいただけない。

 たとえば、

 盧溝橋事件に始まる北支事変といふ思ひがけない災厄…

という表現に拘泥することで、何が守られるのだろうか?

 盧溝橋事件に始まる北支事変という思いがけない災厄…

と表現することで何が失われるのだろうか?私には、彼らの拘泥は理解し難いものだ。

 

 「歴史的仮名遣ひ」への拘泥が示すのは、つまるところ、大東亜戦争の大義への不同意ではなかろうか?

 

 日本語の正書法を、発音に基づいたものにすることは合理的であり、私にはそれを否定すべき理由は思いつけない。大東亜共栄圏建設というかつての東亜の新秩序の理想を考えれば、共栄圏での機軸語の地位を期待された日本語の正書法を合理的に洗練させることの政治的意義は大きいだろう。

 懐古趣味に溺れて「歴史的仮名遣ひ」に拘泥し続けることは、結局のところ、大東亜戦争の歴史的意義への無関心を示すものに他ならない。その意味で、『遊就館図録』は実に興味深い読み物なのである。

 もっとも、現代の「ネトウヨ」諸氏の文章に至っては、「歴史的仮名遣ひ」どころか、現代日本語の「て・に・を・は」すら怪しいという壊滅的事態を示している。

 「日本の伝統・文化」の称揚を志しているつもりの彼らの文章の「て・に・を・は」の乱れぶりには、正直なところ、言葉を失ってしまう。日本人であることを誇示・礼賛しようとする文章が、日本語の範足りえていないという、何とも実に嘆かわしい話なのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/12/10 23:00 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/124473

 

 

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