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2009年10月

2009年10月22日 (木)

老眼と自己決定 (31) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 7

 

 今回も、ナチス体制下の「エホバの証人」についての話題である。

 

 

 

 

 1933年のナチスの政権掌握後、様々な形で示された「エホバの証人」信者のナチス体制への非同調的態度が、彼らにもたらした社会的苦難については既にご紹介した通りである。ナチス国家による信者への公的な「迫害」行為であったと考えるべきだろう。

 1935年に至り、ドイツの再軍備に伴う一般徴兵制の復活に際し、「エホバの証人」は「徴兵拒否」で応じた。その結果、「しだいに多くのものが刑務所や強制収容所へ拘留されることになった」(シビル・ミルトン)わけである。

 

 

 徴兵拒否により、「エホバの証人」は、それまでの雇用機会の剥奪や社会的福祉からの除外といったドイツ社会内からの間接的排除とでも言うべき段階から、刑務所や強制収容所への拘留という、国民社会からの直接的な排除という段階へと進んだナチス体制の対応に直面することになったわけだ。「迫害」の新たな段階と言うことが出来るだろう。

 

 強制収容所内での「エホバの証人」の姿について、高橋三郎が、

  「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。

…と書いていたことは既に紹介したが、今回はシビル・ミルトンの記述により、より詳細な状況を把握しておきたい。

 ミルトンによれば、

  証人たちはダッハウで隔離され、特別な懲罰隊に編成され、ダッハウのほか、マウトハウゼン、ザクセンブルク、そしてザクセンハウゼンで強制労働に割り当てられた。フロッセンブルクでは火葬場で働く仕事が割り当てられた。エスターヴェーゲンでは便所清掃の仕事が割り当てられた。証人たちはしばしば日曜労働を要求された。それは彼らの宗教的な信念を侵害するものだった。モーリンゲン、リヒテンブルク、そしてラーヴェンスブリュックの女性収容所に拘留された証人たちは強制労働に服し、栄養不良、さらし刑、体罰、そして隔離の刑にさらされた。彼らの「どんな他の集団にも見られないような反対と殉教の非妥協的精神」は、1930年代に亡命社会主義者によって配布された『ドイツ報告』の報告でとりわけ注目された。1938年10月、リヒテンブルクについてのそんなひとつの報告では、エホバの証人の囚人たちが収容所全体に放送されたヒトラーの演説を聴くのを拒否したことが記録されている。「親衛隊員はエホバの証人たちにホースで水をかけ、彼らを殴打し、総統が演説している間、一時間以上、彼らをずぶ濡れで立たせていた。10月下旬で、ひどく寒かった。その後、彼らの誰も治療を受けなかった。食物は2日か3日間、与えないで放置された」。

…いうことだ。

 高橋三郎の紹介した「信仰の放棄書」について、ミルトンは、

  ほとんどの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。彼らが拒否した結果、ザクセンハウゼンでは40人以上の証人たちに死刑が執行された。

…と書いている。宣言拒否が死刑執行を意味しても、彼らは非妥協的であり続けたわけである。

 「エホバの証人」は、「徴兵拒否」にとどまらず広範な「戦争関係業務拒否」も貫いた。再びミルトンによれば、強制収容所内でも、

  証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。

…ということになるのである。

 

 最終的には、「軍務拒否」により、

  1938年以降、250人以上のエホバの証人がドイツの軍隊に仕えることを拒否して、死刑判決を受け執行された。その罪状はドイツや併合されたオーストリアでの防衛力破壊だった。エホバの証人は「強情なイデオロギー的な犯罪者たち」と見なされた。彼らは39年8月26日の特別軍事犯罪法典に公布された規定によって死刑判決を受けた。

…という取り扱いを、「エホバの証人」は受けることになるのであった。

 軍務の拒否が死刑執行を意味しようとも、彼らが態度変更することはなかったのである。

 

 直接の死刑執行以外に、強制収容の対象となった1万人の「エホバの証人」のうち、約2500人が(虐待の結果、ということであろう)収容所内で死亡しているということだ。

 

 

 

 

 

 今回は、「エホバの証人」の「徴兵拒否・軍務拒否」が彼らに何をもたらしたのか、そしてそれに彼らがどのように対応したのかについて、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンの記述を参考に書いてみた。

 

 

 「死罪」にもひるむことなく、信仰上の要求を守り続ける彼らの姿がそこにある。

 「出血多量による死」の可能性を受け入れ、「輸血拒否」という信仰上の要求を守ろうとする「エホバの証人」の姿は、かつてのナチス体制を前にしての彼らの姿と、実によく重なるように思える。

 生の存続が持つ価値は、信仰上の要求に従うことより大きなものではない。

 それが、ナチス体制を前にした彼らを支え、輸血拒否を宣言する彼らを支える、彼らの信仰が彼らにもたらした彼らの価値観なのである。

 そのように私は考える。

 

 

 

  

 「輸血拒否」の話題とは別に、私の「エホバの証人」への興味の原点であったナチス体制下での彼らの姿を確認しておくつもりで書き始めたのであったが、書き進めた結果、両者は「別の話題」ではまったくないことに気付くことが出来た。

 思いもよらぬことであったが、個人的には大きな収穫であったと感じている。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/21 22:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119831

 

 

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老眼と自己決定 (30) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 6

 

 「エホバの証人」とナチスというテーマが続いている。

 

 

 「エホバの証人」が、ナチスの強制収容所の中で、他の収容者から独立したカテゴリーを与えられていたことに着目して、これまでの稿を進めてきたわけである。

 

 

 

 しかし、昨日ご紹介した、『ホロコースト大事典』中のシビル・ミルトンによる「エホバの証人」の項を注意深く読めば、ナチス体制が当初から「エホバの証人」を強制収容所収容者として取り扱っていたわけでもないことがわかる。

 ミルトンによれば、

  35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

…ということなのである。

 

 1935年1月のナチスの政権掌握後に、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を拒否し、選挙・国民投票への投票を拒否し、ナチ党組織への参加を拒否するといった「エホバの証人」の振る舞いは、就業機会の喪失、資産の没収、社会保証制度からの排除等の、彼らからの社会的基盤の剥奪という事態を生み出した。

 彼らの子供も、ナチスの標的とされることを免れ得ない。再びミルトンによれば、

  エホバの証人の子どもたちは、学校で侮辱と宣伝のはてしない集中砲火を浴びることになった。また同級生や教師による身体的な暴力の散発的な標的にもなった。ナチ国家の抑圧的装置はエホバの証人の家族生活や育児の領域にも拡がった。子どもはナチ教育の規範に従わないということで排斥された。彼らはヒトラー・ユーゲントに加入する意思がないことを理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。両親の保護監督権も奪われた。そのもっともらしい理由は、ドイツ民法1666条によるものであった。エホバの証人の親たちは子どもを「国家社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、子どもの福利厚生を危険にさらした」というわけである。38年までに、エホバの証人の860以上の家族から、子どもが矯正施設、感化院、そしてナチスの家庭に移されていった。38年12月27日、帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に宛てて回状を出し、「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家庭へ移すことを命じた。さらにナチ国家はまた、エホバの証人の両親には追加的な児童手当の支払いを拒否した。

…という事態が、エホバの証人の家族を襲うのである。

 しかし、彼らが反ナチの政治活動をしたというわけではない。そもそも、彼ら自身の意識の中では、彼らはナチス体制への政治的敵対者ではないのである。あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という、彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けただけなのだ。

 それがナチス体制に、徹頭徹尾、適合的ではなかったということなのである。

 

 

 現在の「エホバの証人」に関して、彼らの特異性の凝集点として周囲の社会から取り扱われることの多い「輸血拒否」もまた、同様の構図の下にあることが指摘出来るように思う。

 彼らは決して、社会的多数者(マジョリティー)の常識に対する反抗を目的として、「輸血拒否」の意思表明をしているわけではない。

 医療という場において、彼らが彼らの信仰に基づく、彼らの信仰が彼らに求める振る舞いを続けているだけのことなのである。

 ナチス体制下の「エホバの証人」にとり、ナチ体制への非同調は、彼らの信仰の維持の上で切実な問題であったが、ナチ体制への反抗を信者以外の人々に求めるものではなかった。同様に、現在の「エホバの証人」にとって、「輸血拒否」はあくまでも彼ら自身の信仰上の切実な問題なのであって、「輸血拒否」を信者以外の人々にまで求めようとするものではない。

 私も含め、(「輸血」をめぐる問題において)マジョリティーに属する側にいる人間には、その構図に自覚的になっておく必要があるように思う。

 

 

 「エホバの証人」による「輸血拒否」に関しては、彼らの子どもの取り扱いが焦点の一つとなっているわけだが、ナチス体制下でのエホバの証人の家族(彼らの子ども)の運命、その際の彼ら(親達)の態度を振り返ると、ここにも構図の同型性を指摘出来るようにも思う。

 ナチスによる、彼らの子ども達への過酷な取り扱いが、彼らのナチス体制への態度を変化させることはなかったのである。

 あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…ということなのだ。「キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる」以上、現世内での彼ら自身が、そして彼らの子どもが味わう苦痛・苦難が、彼らの信仰上の態度決定に影響するようなことは、あり得ないこととして考えなければならないのである。

 

 

 

 

 そして、1935年、ドイツの再軍備と共に兵役が義務化された際にも、彼らは徴兵拒否の態度を貫き、結果として強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを構成することになるのであった。

 

 

 彼らは、あくまでも、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という態度、信仰者としての態度をもって、現世に臨んでいるだけなのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/20 23:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119724

 

 

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2009年10月21日 (水)

老眼と自己決定 (29) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 5

 

 「エホバの証人」とナチスをめぐる話題の続きである。

 

 

 

 「エホバの証人」のメンバー(信徒と書くべきか?)が、ナチスから敵対的な取り扱いを受け、強制収容所の収容者の独立したカテゴリーまで与えられていたことは、既に書いた。

 前回ご紹介したように、彼らの振る舞いは、ナチス体制への徹底した非同調性、その非妥協的な態度に特徴付けられるのだが、それをナチス体制への「抵抗」として性格付けてしまうことは、いささか的外れに思える。

 

 「この世の政治」への不参加という彼らの信仰の要求する態度が、国民の政治参加の義務化とでも言うべきナチスの全体主義体制の要求からは、敵対的なものとしてしか評価され得なかったというのが現実であろう。

 「エホバの証人」の徹底した「非政治的姿勢」が、その「非政治的姿勢」の徹底性の故に、現世的現実政治の要求に対し対立的な振る舞いとしてしか実践し得ないものとなってしまうのである。「非政治的姿勢」の表現が、現実政治の場において、敵対的な「政治的姿勢」として意味付けられてしまうのである。

 「エホバの証人」は、その「非政治性」において、決してナチス体制への政治的敵対者、政治的抵抗者ではあり得ない。しかし、その信仰が要求する「非政治的姿勢」の故に、ナチス体制の政治的要求を徹底的に無視する以外の選択肢を持たず、それが結果としてナチスの側からの政治的敵対者としての高い評価を生み出してしまったわけである。

 

 

 「エホバの証人」の信仰が信徒に求めたのは、ナチス体制への政治的抵抗ではなく、ナチス体制への不参加であったに過ぎない。より正確に言えば、彼らの信仰は、現世的政治体制すべてへの不参加を求めているのであって、ナチス体制が特異的な対象であったわけではない。

 第二次世界大戦下のアメリカ合衆国では、国旗への敬礼への拒否として表現された彼らの信仰に基づく振る舞いは容認されるものとなったが、ナチス体制の下では、彼らの信仰には強制収容所がふさわしいと判断されたのである。

 

 

 シビル・ミルトンによる『ホロコースト大事典』の記述によれば、

  1934年10月7日、ドイツのエホバの証人の集会はドイツ政府に、ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明を送った。それは目覚しいものだった。「過去に神の法に反して、、またわれわれの諸権利を侵害して、あなたがたはわれわれがエホバの証人として神の言葉を学ぶために集まり、神を崇め、神に仕えることを禁止した……。それゆえに、ここに次のことを通告する。われわれはどんな犠牲を払っても神の掟に従うだろうし、神が命じるように神を崇め仕えるだろう。もしあなたがたの政府や官庁が、われわれが神に従っていることを理由にわれわれに暴力を加えるならば、そのときわれわれの血はあなたがたの上にふりそそぐことだろう。あなたがたは全能なる神の問いに答えることになろう。われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。われわれは誰に対してであれ傷つけたり、害を与えるつもりはない。われわれは平和に生活し、機会があればすべての人々に善をなすことを喜ぶ。しかし、あなたがたの政府と官庁がわれわれに宇宙の最高の法に背くよう強制しようとしつづけているので、われわれは今やあなたがたに、われわれが神の恩恵によりエホバの神に従うこと、神がわれわれをすべての圧制と迫害から解放することを完璧に信じていることを通告せざるをえなくなった」と。35年4月1日に、ドイツ帝国とプロイセンの内務大臣はエホバの証人の国内でのすべての宗教活動と出版を禁止した。

…ということになる。

 ここでミルトンは「ナチ国家の権威に対する全面的な抵抗を肯定する諸原則の公式声明」と、「抵抗」という語を用いて書いているが、声明の内容を見れば明らかなように、その「抵抗」は決して政治的なものではない。

 彼らの態度の核心にあるのは、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という認識なのである。あくまでも。

 
 
 

 ミルトンの記述に戻れば、

  ナチ支配のはじめの二年間に、エホバの証人たちは公務員や私企業従業員としての彼らの職を失ってしまった。彼らが労働戦線に加わることや「ハイル・ヒトラー」の敬礼を使うこと、あるいは選挙で投票することを拒否したからだった。1935年1月23日、ドイツ帝国とプロイセンの内相はドイツの「ハイル・ヒトラー」のあいさつを使わないと、官庁や民間企業から解雇されることになると布告した。36年2月2日、ドイツ帝国とプロイセンの労働大臣はエホバの証人にはすべての失業手当や年金が留保されることがありうると布告した。さらに、彼らの個人的な財産や事業の財産も、破壊分子と敵の財産没収法を適用して没収できるとされた。この没収法はもともとは、追放され国籍を奪われた政治的な敵の資産を取り上げるために使われたものだった。エホバの証人はまた人種法に従うことも拒否した、なぜならば、彼らは「すべての人間は神の目には平等である」と信じたからである。彼らの失業手当、福祉手当、年金手当はしばしば否定された。35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。35年初め、エホバの証人の逮捕や保護検束を命じるゲシュタポの規則は、以前より体系的になった。

…ということになる。

 つまり、

  われわれは政治の出来事に関心はないが、キリストのもとにある神の王国にすべてを捧げる。

…という彼らの信仰の求める態度の帰結として、完全な失業、福祉・社会保障制度からの排除、財産の没収といった、生活の根幹を奪われるという事態が彼ら「エホバの証人」の上に降りかかるのである。

 そして、

  35年の強制兵役の導入により、彼らの徴兵拒否や戦争関係業務拒否の結果、しだいに多くのものが刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

…とあるように、彼らの信仰が求める「兵役拒否」は、彼らをより過酷な状況に導くものとなるのである。

 

 「兵役拒否」についての詳細は、稿をあらためて、次回の話題としたい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/19 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119612/user_id/316274

 

 

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老眼と自己決定 (28) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 4

 

 前回の続きとして、ナチス体制の中での「エホバの証人」について書いておきたい。

 

 

 

 

 ウォルター・ラカー編の『ホロコースト大事典』(柏書房 2003)に、シビル・ミルトンの執筆した「エホバの証人」の項がある。

 

 ナチスの強制収容所における「紫」カテゴリー(すなわち「エホバの証人」である)の収容者の比率の、収容者全体に占める高さにまず驚かされるだろう。

 ミルトンによれば、

  1935年から39年にかけて、エホバの証人はしばしば刑務所内の保護拘束から強制収容所における無期限拘留に移された。35年以降、強制収容所の囚人数が増加する中で、エホバの証人はかなりの割合を占め、大戦前には、強制収容所の全囚人の10%以上にのぼっていた。39年までに7000人近くのエホバの証人が強制収容所に拘留された。彼らはドイツ、編入されたオーストリア、チェコスロヴァキアの出身だった。38年5月、ブーヘンヴァルトの全囚人の12%がエホバの証人だった。38年に、リヒテンブルクの女性収容所には260人のエホバの証人がいた。それは囚人たちのおよそ18%であった。
  1940年以降、占領されたヨーロッパからやって来るあらゆる種類の囚人で収容所の人口は増大した。その数は、ドイツやオーストリアからのそれ以前の囚人たちよりも多かった。その結果、すべての収容所でエホバの証人の比率は減少した。40年の終り頃、強制収容所には一万人のドイツやオーストリーのエホバの証人に加え、小数のベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェー、そしてポーランドのエホバの証人が閉じ込められていた。

…ということになる。

 つまり、第二次世界大戦の開始後は、占領地からの強制収容所収容者数の増大により全収容者中のエホバの証人の比率が低下したわけだが、戦争開始以前のドイツ帝国のドイツ人(ユダヤ人、ジプシーも含む)を対象とした強制収容所であった時代には、エホバの証人の全収容者に占めた比率は高いものであった、ということだ。

 ひとつの宗教的信仰集団が、ナチス体制への非同調者として、ナチス体制から単に名指されていたのみならず、強制収容所収容者の独立したカテゴリーを与えられ、実際に全収容者中に高い比率を占めていたことを、まず事実として認識しなければならない。

 

 

 彼らの信仰が、信仰自体が、ナチス体制への同調を不可能にしていたのである。

 戦後の彼らの信仰が、輸血拒否という態度を生み出すものとなったと同様に、戦前戦中のドイツにおける彼らの信仰が、ナチス体制への非同調という彼らの態度を生み出したのであった。

 

 

 ミルトンの記述に従えば、

  ナチスが1933年1月に権力を握った後、エホバの証人への攻撃はほとんどすぐにエスカレートした。それは彼らの信仰や行動のためだったが、とくにナチ国家に敬意を表することを拒否し、あるいは何らかのナチ党付属組織に加わることを拒絶したことによるものだった。…(中略)…つまり、エホバの証人は「ハイル・ヒトラー」の敬礼で腕を上げることを拒否し、鉤十字章の旗を掲揚しようとせず、ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった。ドイツ労働戦線に参加せず、冬期救済事業に献金しようとしなかった。子どもたちがヒトラー・ユーゲントに加わることも許さなかった。エホバの証人はしばしば拘留され、殴打された。彼らの事務所は捜索されそして破壊され、彼らの資金は没収され、彼らの定期刊行物や出版物は検閲され、禁止された。何百人ものエホバの証人たちが、いわゆる保護政策(シュッツハット)で刑務所や強制収容所に抑留された。33年4月にエホバの証人の団体と印刷物が帝国全域で禁止された。…(後略)

…ということなのである。

 ただし、「ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった」とあるが、

  神の王国への支持を表明するため、政治への参加(投票など)をしない。 - ヨハネ 18:36

…という『ウィキペディア』の「エホバの証人」の項の記述にあるように、彼らの「この世」での政治への不参加はナチス体制に対するものには限らない。

 また、国旗への敬礼の拒否、国歌斉唱の忌避も、ナチス統治時代に限定されるものではなく、ナチス・ドイツという国家領域に限定されるものでもない。まさに第二次世界大戦中のアメリカ合衆国において、国旗への敬礼の拒否を貫き、連邦最高裁判決でその行為を容認されたのも、彼ら「エホバの証人」の信仰が生み出した歴史的事態なのである。

 

 

 この世の政治への不参加という彼らの信仰の根幹が、特にナチス体制と相容れないものとしての、ナチスによる「エホバの証人」への敵対的な評価となった、ということになるだろう。

 

 

 

 エホバの証人による「兵役拒否」をめぐる問題については、今回は触れることが出来なかった。

 次回の課題としたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/18 19:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/119511/user_id/316274

 

 

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老眼と自己決定 (27) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 3

 

 この話題の前回は、「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう、という書き出しで始まっていた。

 

 その上で、彼らの示す、

  自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

という態度の結果、彼らの子供までが「輸血拒否」の対象とされてしまい、出血多量で死亡する事例について取り上げることを予告してしまっていた。

 しかし、今回は、その問題の検討に入るのではなく、私の「エホバの証人」の存在への関心の核心にある、ナチスとの関係について書いておきたい。

 

 

 

 高橋三郎氏の名著(と私は考えるが)、『強制収容所における「生」』(二月社 1974)に、強制収容所の収容者に対するナチスによる「分類」についての解説があった。

 同書によれば、人種・国籍による分類(が形成するヒエラルキー)が大きな柱となる一方で、

  もうひとつの抑留者の分類は拘禁理由によるもので、政治犯、刑事犯、聖書研究会員、反社会的分子、同性愛者、亡命者といったカテゴリーである。抑留者はカテゴリーを示す色の逆三角形の布を左胸と右足に縫い付けさせられていた。基本的な色(カテゴリー)は次のようなものであった。
 「赤」=政治犯
  (この項の詳細説明の引用は略)
 「緑」=刑事犯
  (この項の詳細説明の引用も略)
 「黒」=反社会的分子
  (この項の詳細説明の引用も略)
 「桃色」=同性愛者
  (この項の詳細説明の引用も略)
 「紫」=聖書研究会員
  「エホバの証人」ともよばれるこのグループは、エホバにたいする信仰から兵役を拒否して、ナチスが政権を獲得した直後から弾圧されていた。しかし、強制収容所の内部ではやや特異な地位を占めていた。彼らは信仰の放棄書に署名さえすれば、いつでも完全に自由の身になることができたのである。また、すすんで勤勉に仕事を果たしたから、SSからもある種の敬意をうけ、比較的楽な仕事やSS隊員の家事に使われた。だが他方、SSは、ドイツ人でありながらかたくなな信仰の故にナチス・ドイツに協調しようとしない「紫」に強い憎しみを抱くことがあった。
  良心的兵役拒否者は、時により「黒」にも「紫」にも分類された。
 「青」=亡命者
  (この項の詳細説明の引用も略)
 「黄」=ユダヤ人
  (この項の詳細説明の引用も略)

…として、「拘禁理由」による、ナチス強制収容所の抑留者の分類の実際が紹介されていた。それを読んで以来、「エホバの証人」に関して、ナチス強制収容所の収容者の独立したカテゴリーを形成した人々という強い印象が私のものとなった。ナチスへの非同調者としての「エホバの証人」、ということになる。

 紫の標章を与えられ、つまり強制収容所において「独立したカテゴリー」を形成すべき集団としてナチスから評価されていたということの意味は大きい。裏返しの形ではあるが、そこにナチスによる、「エホバの証人」に対するナチス体制への非同調者としての高い評価を見出すことが出来るからだ。

 

 『強制収容所における「生」』を読んだのは20年以上前の話だが、そこに「聖書研究会員」として登場した「エホバの証人」の印象は、強く私の中に刻印されたのである。

 前後して読んだ、L=F・セリーヌの小説(多分『北』、あるいは『リゴードン』だったか?)中に、北ドイツの荒涼とした光景の中で黙々と作業をする「聖書研究会員」の姿が描かれていたことも、私の印象を強化したように思う。

 

 

 

 以来、我が家を訪れる「エホバの証人」の人々に対して、あのナチスへの非同調者の末裔への敬意の混じった視線が(少しだけ)注がれることになったのである。

 もっとも、その後、戦時期日本の灯台社と明石順三の事跡と、戦後の「エホバの証人本部」との関係の顛末を知るに及び、視線には若干の冷ややかさが加わることになったのではあるが…

 

 

     (ナチス体制と「エホバの証人」の関係の歴史的詳細は次回としたい)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/16 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/119328

 

 

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秋の空の下、アウトサイダー作家の誕生?

 

 さすがに、10月もここまで来ると、夏の名残もない。

 
 

 夏の初めに、学生の企みに乗せられて写真展を…、というような話を書いた。
  (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html

 
 

 メールのやり取りの結果、11月24日~12月5日という会期での開催が決定。

 そろそろ準備も本格的に始めなければならない。

 
 
 
 

 ところで、学生の作った企画書の「作家紹介」が、家族的にウケた。

 その最後が、

 正規のアート教育を受けていないアウトサイダー作家である。

という言葉で結ばれているのだった。

 

 「アウトサイダー・アート」と呼ばれるジャンルがあるのだ。近年注目の対象となっているジャンルである。
  (→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88

 『ウィキペディア』の記述中にもある、世田谷美術館の「パラレル・ヴィジョン」展には、私も足を運んだものだ。そして『ウィキペディア』の記述中にもある通り、展示作品の中での精神障害者の作品の比率は高い。

 
 

 特に、子どもや、正式な美術教育を受けずに発表する当てもないまま独自に
 作品を制作しつづけている者などの芸術も含む。なお、デュビュッフェの作品を
 アール・ブリュットに含める場合もある。

 

という意味では、私の写真は仕事ではないし、「作品」として人に見せることを考えたものではないし…と考えれば、「アウトサイダー・アート」と呼ぶことも出来るのだろう。

 しかし、そもそも私の撮った写真は「芸術」なのか?

 そんな意図すらないのである。まぁ、他人が決めることなんだろうけれど…

 しかし、やっぱり「アート・芸術」というものが、そもそもよくわからないものではないか、と言わざるを得ないわけだ。誰がそれを決めるのか?つまり、誰が対象となる何かを「アート・芸術」として認定するのか?誰にその資格があるのか?

…と考え出すと(ここでそれを考え始めてしまうところがいかにも「私」なわけだが)、何を「作品」と呼び「アート・芸術」と認めるのか、というのは簡単な問題ではないことが理解出来るだろう。

 

…というメンドーな話はこのくらいにして、「アウトサイダー作家」と呼ばれてしまったことは、個人的には(そして家族的には)面白いことなのであった。

 「作家」であるかどうかは別として、「アウトサイダー」であることは、確かに自分の人生での選択であったという意識があるからだ。要するに、オレは日本の世間には参加しないよ、というのが若き日の我が決意であったわけである。

 そういう意味で、確かに「アウトサイダー」であることは、自明のことだったわけだ。

 

 その「アウトサイダー」としての私が、カメラを手にしシャッターを切ることを生活の一部としていた、ということなのであった。カメラにフィルムあるいはメモリー・カードが入っていれば、シャッターを切った後には写真が残されるのである。

 それがギャラリーという場で展示されることによって「作品」と呼ばれ、結果として撮影者が「作家」と呼ばれることになる、というのが理解としては妥当なことなのかも知れない。

 
 
 
 

…と、まぁ、書き出したら長くなってしまったが、古本購入記を書いておくのが今夜の日記の予定であった。

 で、今からそれを始める。

 家族総出で、家の本(私のではない本)の処分のために、駅の向こうの古書店(チェーン店)まで出かけたわけだ。そこで買ってしまった本、というわけである(毎度の話だが)。

 
 

 ジョアン・フォンクベルタ + スプートニク協会 『スプートニク』 (筑摩書房 1999) 2600円→1300円
 松本昭夫 『精神病棟の二十年』 (新潮文庫 2001) 400円→200円
 井上嘉大&D.T.Wプロジェクト 『忘れられた大日本帝国 1936』 (英知出版 2005) 2667円→1250円
 加藤恭子 『昭和天皇と田島道治と吉田茂  初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』 (人文書院 2006) 2500円→1050円
 田中孝彦 青木人志 編 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』 (勁草書房 2008) 2800円→1550円

 

 ここまでが古本。

 その後で駅上の書店で新刊本として、

 ロベルト・エスポジット 『近代政治の脱構築 共同体・免疫・生政治』 (講談社選書メチエ 2009) 1800円

も買ってしまった。ナチスの安楽死計画への言及があるにとどまらず、全体として私のテーマと重なる内容となっているようだ。

 
 

 古書中の『スプートニク』は、帰宅してからあらためて見たら、

 本書「スプートニク」は、解説を除き、すべて作者ジョアン・フォンクベルタ氏によるフィクションです。

と書いてあった。その解説の執筆者は荒俣宏氏であった。

 ウマシカ氏による「陸軍冬期戦研究所」バナシの大掛かりなものなのであった。感動した!!

 

 『精神病棟の二十年』は、

 私は昭和三十一年、21歳の時に精神分裂病に罹患した。当時私は大学受験を控え、東京目黒の下宿で、勉強にうちこんでいた。
 以来七回、前後約六年間にわたり、東京、札幌、旭川の精神病院に入退院をくり返してきた。旭川のT精神病院を最後に退院したのが、昭和五十年九月、その日から五年が過ぎた。
 精神病院の一日一日は、私にとってすべてが空しく、無意味で、苦々しい時間であった。
 その失われた歳月はたとえようもなく惜しいが、もはや返ってはこない。
 私はいま四十五歳である。生地に近い旭川市の小さな出版社に勤め、営業マンとして働いている。一度離婚して以来、約十年ほど独身生活をしていたが、最近再婚もした。
 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。
 私ぐらい愛について魯鈍な者もいなかったのではないだろうか。私は愛を受け取ることばかりに長じていて、愛を与えることはまるで幼児より下手だった。…

という文章で始まる、松本昭夫氏による自身の記録である。

 これから後、自分の病気が決して再発することがないことを希っている。信じている。祈っている。

という、「希っている。信じている。祈っている」と重ねられた表現に、ご自身の年月が集約されているように思える。

 

 『忘れられた大日本帝国 1936』はDVD2枚付きの資料集として、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』はタイトルが内容を語っているだろう。

 『〈戦争〉のあとに ヨーロッパの和解と寛容』は、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、冷戦終結後、という三度の「戦後」をテーマとした論文集。頭の整理に。

 
 
 
 

で、話は冒頭に戻る。

 帰宅後に、これを書くためにココログの記事を久しぶりにチェックした際に、文中でサヴァールの演奏の紹介をしていたことに気付いた。

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

 

 写真展を企画した学生によれば、サヴァールの姿はウマシカ氏に似ているらしい。

 鼻の形が違うような気がするが、ヒゲ、メガネ、マユゲ、ヘアスタイルについては、確かに似ているようにも思えた。

 で、最後に、サヴァールの演奏のオマケ。

 

Diego Ortiz: Recercada quarta sobre la folia / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=egQ5TtE7E9I&feature=related
Anonymous: La Folia ( XV century ) / Jordi Savall
 → http://www.youtube.com/watch?v=uUeLAF54m_U&feature=related

 
 
 
 
 
 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/10/12 19:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/118924

 

 

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マイナスの後のプラス

 

 結局、隣町の隣町まで出かけてしまった。

 
 
 

 家族が、本を処分するというので、ついて行ったわけだ。

 しかし、地元の古書店がなぜか軒並み休み(って2軒しかチェックしてないけど)。

 駅上で、コーヒーにケーキで一服しながら話すうちに、国立まで行くことに決定。

 古本屋もあるし、なんと言っても新刊本の増田書店がある。しばらく行っていないので、地元で手に入らない本の探索をしたいところだったのだ。

 
 

 まず、南口駅前左側の古書店。

 近代文学館による名著復刻全集の、

 内田魯庵 『文学者となる法』 (右文社 明治二十七年 ほるぷ出版 昭和54年) 200円
 大須賀乙字選 『碧梧桐句集』 (俳書堂 大正五年 ほるぷ出版 昭和54年) 200円

の2冊が、店頭の棚でそれぞれ200円。魯庵のは、傑作(皮肉の効いたお笑いの)なので、前から欲しかったもの。河東碧梧桐は、一応は「ご親戚」らしいので、一冊欲しかったというわけ。

 

 店内で、

 森松俊夫 『図説陸軍史』 (建帛社 1991) 2500円→1500円
 竹内浩三 『戦死やあわれ』 (岩波現代文庫 2003) 1000円→400円

という二冊。

 「現代史のトラウマ」ネタ系ということか。

 他にも気になる本がいろいろあったけれど深追いはナシにする。

 
 

 次に、南口右側の大型古書店(チェーンのヤツ)。ここでウチの本が処分される(私のは入っていない)。

 つまらない本ばかりの店。DVDコーナーで余計なものを買ってしまう。

 ヴィルヘルム・テーレ監督 『ガソリンボーイ三人組』(1930 ドイツ) 500円
 ジェームズ・マクティーグ監督 『V フォー・ヴェンデッタ』(2006 イギリス) 500円

 30年代ドイツの音楽映画と、21世紀イギリスの近未来映画。

 後者の原作コミックスは昨年の娘への誕生日プレゼントだったので、今年はDVD版をプレゼント、ということにしてしまう(誕生日は6月だったんだけど…)。

 
 

 そして増田書店へ。

 佐藤卓巳 『八月十五日の神話 -終戦記念日のメディア学』 (ちくま新書 2005)
 田中利幸 『空の戦争史』 (講談社現代新書 2008

 読みたかったが、地元書店になかった二冊。古書店でもめぐり合えなかった二冊が、ちゃんと売り場に並べられていた(しかし、どちらも専門書ではなくありふれているはずの「新書」でしかないのだが)。

 後はNHKブックスの、吉田敏浩『反空爆の思想』(2006)があればカンペキだったのだが…

 

 その他、欲しい新本が次から次へと並べられているのに出会える極上書店なのだ(つまり、危険地帯である)。

 
 
 

…と、本日も本を増やしてしまいました日記。

     (売りに出かけたはずが) 

 
 
 
 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/09/07 00:31 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/115363

 

 

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