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2009年8月

2009年8月31日 (月)

革命でなくて選挙=粛清でなくて落選

 

 別に革命が起きたわけでもなく、複数政党制の下での自由選挙の結果、有権者からの政権交代要求が明らかになった。

 それだけの話。

 

 英国でも米国でも、独仏伊西蘭、タイ、韓国、台湾、ペルーでもボリビアでも、要するに「民主主義政体」を採用した国では、ごくごく当たり前の話、ってこと。

 
 
 

 世の中には、様々な妄想を抱く人間がいるわけで、「民主党」の主導権がマルクス・レーニン主義者に握られているなんてのもそのひとつらしいが、それは妄想です。

 民主党の支持基盤が組合だから、なんて理由付けもあるらしいが、その類の大きな組合は現状からの受益者なのであって、文字通りの体制変革=革命なんて求めるわけがない。非正規労働者の雇用・利益の確保ではなくて、正規労働者としての自己の地位の維持向上のための組合なんだからね。

 つまり、マルクス・レーニン主義とは関係がない。

…と言いつつも、現実の世界史上のマルクス・レーニン主義者達、彼らにより構成されたマルクス・レーニン主義政党による統治の実態は、自らの党の利益の確保、党員の利益の確保に尽きたわけなので、その意味では、確かに現代日本の大企業・官公庁系の組合組織と同じようなものかも知れない。

 しかし、マルクス・レーニン主義が、プロレタリアートの利益の追求を意味するのであるならば、かつての共産主義国家の党も、現在の日本の組合も、マルクス・レーニン主義とは関係ないということになる。

 

…なんて書いてしまうと、要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀はなんと呼ぶべきなのだろうか?

 ここはやはり、現実に存在したマルクス・レーニン主義者を名乗った人間達をこそ、マルクス・レーニン主義者と呼ぶべきではないのだろうか?

 つまり、自身の体制への順応者を優遇することを、自身の体制の永続性の基盤として位置付け、体制構築をしていった「共産党」という存在を考えてしまうわけだ。実際、各国共産党はマルクス・レーニン主義の正しさを主張し、自身のマルクス・レーニン主義者としての正統性を主張していたのであるし…

 

…しかし、マルクスやレーニンはそんなことを考えていたのかどうか?

 まぁ、20世紀の現実政治の中で政治的党派の指導者として生きたレーニンと、19世紀に、経済(学)的観点から資本制経済の行く末と労働者の役割を論じたマルクスを一緒にしてしまうこと自体が、かなり乱暴な話ではある。

 しかし、それを一緒くたにしてしまうところが、「マルクス・レーニン主義」という呼称のミソでもあるのだろう。

 レーニンの党派性が、マルクスの普遍主義により隠蔽されるわけだ。 …なぁんてことを言うと粛清されてしまうのが、マルクス・レーニン主義者達による世界の現実だったわけだが…

 しかし、反共主義者にとっても、資本制社会の現実へのマルクスによる批判を回避する上で、レーニンの政治手法・政治理論とマルクスの思想を同一視することは便利な手段ではあったのだろう。

 

 共産主義者も反共主義者も、マルクス・レーニン主義という命名法からは利益を得ていたということになる。

 
 

 ところで、現実のマルクス・レーニン主義者達の振る舞いに関して、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀

なんて書いてしまったわけであるが、しかしこれ、

 要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、戦後政治おける自由民主党の流儀

って書いても、意味が通じてしまう。

 
 

 現実のマルクス・レーニン主義者達が国民にアイソを尽かされたのが、世界史的には1989年の出来事であり、わが国の自由民主党が国民からアイソを尽かされたのが2009年の夏の終わりの出来事であった。

 そこにあるのは、利益誘導の限界という問題だったのではなかろうか?

 
 
 

…なんて文章を読むことで、妄想からの脱出は可能であろうか?

 

 1989年に世界史的使命(と呼ばれたもの)を終えた現実のマルクス・レーニン主義と、2009年に日本史的使命を終えた(というか一段落つけた)自由民主党。

 

…というのは私の妄想なのだろうか?

 
 
 
 
 
 
 
 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/31 21:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/114795

 

 

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2009年8月28日 (金)

日本国の象徴と、國體の本義 2

 

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝國憲法)と、「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く」(日本国憲法)には大きな断絶があるわけだが、その核心は、「大日本帝國憲法」では「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という形式で、天皇自身の出自自体が天皇であることを保障しているという点にあるだろう。

 それに対し、「日本国憲法」では、天皇が天皇であること(天皇の地位)は、「国民の総意」という外部の承認に依存していることになる。

 

 もちろん「日本国憲法」においても、

  皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。

…と規定されており、その出自を抜きに、天皇の地位を語ることは出来ない。

 しかし、出自自体が無条件に天皇であることを保障してしまう「大日本帝國憲法」に対し、「日本国憲法」では「国民の総意」という条件の上に天皇の地位が成立するのである。
 
 もちろん、「大日本帝國憲法」においても、

  皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

…となっている。

 しかし、「日本国憲法」では「皇室典範」もまた「国会の議決」という条件の下にあるのに対し、「大日本帝國憲法」における「皇室典範」には議会は容喙出来ないのである。

 

 つまり、天皇の地位、そして皇室の存在について、議会の承認を前提とする「日本国憲法」と、議会から独立した存在として規定する「大日本帝國憲法」には大きな断絶があると言わざるを得ない。

 

 とは言え、「日本國民の總意に基く」という条件がフィクションであることも確かなわけである。「国民の総意」が検証の対象になったことはないのだから。

 しかし、組織的な異議の提出もされていないわけで、「日本國民の總意に基く」という条件は否定されていないと言うことも出来るだろう。

 特に、「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く」という文言が、「第一章 天皇」の「第一條」の条文のものであるところに、「日本国憲法」起草者の苦心の跡を見るべきかも知れない。「国民主権」という「日本国憲法」の精神(何よりその点で「大日本帝國憲法」と異なるはずなのだが)は、天皇の地位に関する条文の中に埋め込まれているのである(「前文」には「国民主権」であることが記されてはいるが)。

 

  天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

  天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

…という、政治的軍事的な「大権」の保有者としての「大日本帝國憲法」下での天皇像から、「主權の存する日本國民の總意に基」き「國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する」天皇像への劇的な変化が、皇位の世襲という条件だけはそのままに、果たされているわけだ。

 
 
 

 それが占領軍主導の下で行われたのが、敗戦という事態のひとつの帰結であった。

 そのために、占領軍による「押し付け憲法」という評価も生まれるわけだが、「国民主権」と天皇の地位については、1945年末の「憲法研究会」による「憲法草案要綱」に現憲法条文の起源を見出すことが、憲法研究者の間では常識となりつつある。

 高野岩三郎、馬場恒吾、杉本孝次郎、森戸辰男、岩渕辰雄、室伏高信、鈴木安蔵をメンバーとする「憲法研究会」による「憲法草案要綱」では、

根本原則 (統治権)

一、 日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
一、 天皇ハ国政ヲ親カラセス一切ノ最高責任者ハ内閣トス
一、 天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル
一、 天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス
一、 摂政ヲ置クハ議会ノ議決ニヨル

…とされており、GHQ民政局からの高い評価を受けていたことが明らかとなっているのである。

 
 
 

 

 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/05/27 22:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/105396

 

 

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2009年8月27日 (木)

日本国の象徴と、國體の本義 1

 

 

  明治憲法における天皇の概念(規定の仕方)は、二千年余の日本の歴史から見ると、それはある時代における特殊の天皇の概念なのであって、それが古今にわたって適用すべきものとは考えない。明治憲法における天皇の規定の仕方やその歴史的性格を脱却することが、天皇の概念に大きさと広さと豊かさを与えるものと思う。

…と、1963年3月13日の憲法調査会の席で発言したのは、若き日の中曾根康弘であった。

 ケネス・オルフ 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 (岩波現代文庫 2009) には、そんなエピソードが紹介されている。

 

 中曾根康弘の名前は、戦後の保守勢力による改憲論の流れと共に語られるものだが、このエピソードからは、明治憲法(大日本帝國憲法)への復帰への希求は読み取れない。

 
 

 敗戦後のGHQ主導での新憲法制定に際し、当時の日本政府にとり、何より受け入れ難く思われたのが、「国民主権」とセットで提示された「象徴」としての天皇の地位であった。

 
 

第一章 天皇
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條
皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第五條
天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ
第六條
天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第七條
天皇ハ帝國議會ヲ召集シ其ノ開會閉會停會及衆議院ノ解散ヲ命ス
第八條
天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ發ス
此ノ勅令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第九條
天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス
第十條
天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ揭ケタルモノハ各〻其ノ條項ニ依ル
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二條
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三條
天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
第十四條
天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス
戒嚴ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第十五條
天皇ハ爵位勳章及其ノ他ノ榮典ヲ授與ス
第十六條
天皇ハ大赦特赦減刑及復權ヲ命ス
第十七條
攝政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
攝政ハ天皇ノ名ニ於テ大權ヲ行フ
 (大日本帝國憲法)

 
 

第一章 天皇
第一條
天皇は、日本國の象徵であり日本國民統合の象徵であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
第二條
皇位は、世襲のものであつて、國會の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承する。
第三條
天皇の國事に關するすべての行爲には、內閣の助言と承認を必要とし、內閣が、その責任を負ふ。
第四條
1.天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。
2.天皇は、法律の定めるところにより、その國事に關する行爲を委任することができる。
第五條
皇室典範の定めるところにより攝政を置くときは、攝政は、天皇の名でその國事に關する行爲を行ふ。この場合には、前條第一項の規定を準用する。
第六條
1.天皇は、國會の指名に基いて、內閣總理大臣を任命する。
2.天皇は、內閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七條
天皇は、內閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に關する行爲を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び條約を公布すること。
二 國會を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 國會議員の總選擧の施行を公示すること。
五 國務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免竝びに全權委任狀及び大使及び公使の信任狀を認證すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復權を認證すること。
七 榮典を授與すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認證すること。
九 外國の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第八條
皇室に財產を讓り渡し、又は皇室が、財產を讓り受け、若しくは賜與することは、國會の議決に基かなければならない。
 (日本国憲法) 
 

 

 

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、「この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く」には大きな断絶がある。

 

 日本の国体を、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という認識と不可分のものと考える限り、敗戦を境に、国体は護持されなかったのだと考えざるを得ないだろう。

 大東亜戦争において、継続的かつ破滅的な戦局の悪化にもかかわらず、更なる戦争の継続を支えたのは、国体護持という観念であった。敗戦の受け入れは、米英による占領統治を意味し、天皇の地位の変更すなわち国体の否定の受け入れとして帰結してしまうと考えられていたわけだ。

 最後の局面に至っても、ポツダム宣言の受諾の是非は、実際の戦闘継続能力の問題としてではなく、国体護持の可能性の有無と関連付けられて、議論が続けられることになった。その議論に終止符を与えたのは、広島と長崎への原爆投下であり、ソ連の対日参戦であり、その状況を受けての昭和天皇の決断であった。

 その際、ポツダム宣言の受諾は、国体の変更を意味しないという文言解釈が、戦争継続派のポツダム宣言受諾を支えたことも忘れられない。

 
 
 あくまでも護持されるべきは、統治する天皇の地位なのである。政治的軍事的な存在としての天皇の姿と言うことも出来るだろう。「天皇親政」こそが、「大日本帝國憲法」に示された「國體」のあるべき姿と考えられていたのであった。

 
 

 

 

 

大日本帝國憲法
→ http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95

日本国憲法
→ http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/05/26 22:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/105287/user_id/316274

 

 

 

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2009年8月21日 (金)

無差別爆撃の論理 7 (竹槍と機関銃)

 

 完全武装の両軍の対峙する前線を飛び越し、はるか背後の非武装の敵国民(市民)を標的に爆弾を落とす。

 「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」とは、そのような行為である。

 

 

 爆撃により、都市住民の生活基盤を破壊し、住民の生命そのものをも標的とし、敵国民の継戦意欲を低下させ、停戦・講和へと導く。

 

 第一次世界大戦における前線兵士の膨大な損耗率、つまり予測をはるかに超えて続くことになった戦争とその予測をはるかに超えた戦死者戦傷者の存在は、参戦したヨーロッパの人々に戦争への忌避感をもたらすものとなった。過酷なヴェルサイユ条約には、敗戦国ドイツに二度と戦争を引き起こすような気を起させぬ効果が期待されていたのだし、戦後の国際連盟の結成、各種軍縮条約の取り組み、そして不戦条約締結への努力には、世界からの戦争の排除という理想が込められていたのである。

 政治家が戦争の回避への努力を課題としていたのに対し、軍人達には、(政治家が)回避に失敗した戦争への対処が新しい課題となっていた。戦争の長期化と戦死者数の抑制が、そこでの課題である。期間を短く、犠牲者数も少なく、という条件の下に勝利を確保することが、第一次世界大戦後の軍事的課題となったのである。

 イタリア軍人ジュリオ・ドゥーエによる1921年の著書『空の支配』は、まさにその課題への答えとして書かれたものだ。

 荒井信一の記述を引こう。

 彼は大戦の経験から、これからの戦争は「もはや兵士と民間人の区別のない」総力戦であり、そこでは空爆によって民衆がパニックを起こし「自己保存の本能に突き動かされ、戦争を終わらせろと要求するようになる」と説き、住民の戦意をくじくテロ効果を強調して無差別爆撃論を提唱した。「戦時国家の最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられるので戦争は長続きしない」、「長期的に見れば流血をすくなくするので、このような未来戦ははるかに人道的だ」とまで述べている。
 ドゥーエは人口密集地の住民への攻撃手段として、高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾の三つをあげている。三種類の爆弾それぞれの機能を極限にまで高め一体化したものが、後の原子爆弾であるといえよう――大型台風をはるかにうわまわる衝撃波の破壊力、人工の太陽とも言われる熱線のもたらす焼夷力、放射能の毒素力――。アメリカは今でも、原爆の投下は戦争の終結を早め、多くの人命を救ったとして正当化している。それはまさにドゥーエのテーゼの現代版にほかならない。
     『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

 同時代の、ウィリアム・ミッチェル、ヒュー・トレンチャード、そして大西瀧治郎もまたドゥーエ同様に「はるかに人道的な未来戦」への志向を抱いて、それぞれの空軍力の充実への努力を開始したわけである。

 戦争の短期化と、戦死者数の減少の追求というテーマから、軍人の合理的思考が生み出した結論が、住民へのテロ爆撃としての都市無差別爆撃なのである。そこでは、より効果的な、つまり集中的で徹底した都市無差別爆撃の実行者の側が、戦争での人道的な勝利者となるはずであった。

 

 そこには、確かに、戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、としての軍人の姿を見出すことが出来る、ように思える。

 過去の戦争から学び、総力戦の意味を考え、新たな軍事理論を構築し、戦略を組み直し、新兵器を開発し、軍の編成を新たにする。そのような努力は、精神主義者のものではなく、合理主義者のものであろう。

 

 

 

 第一次世界大戦後に登場した戦略爆撃論者、都市無差別爆撃の主唱者達にとって、学ぶべき過去の戦争とは、言うまでもないだろうが、第一次大戦である。

 

 その第一次世界大戦の膨大な戦死者の存在を抜きに、都市無差別爆撃というアイディアは生まれなかったし、次の戦争でそれが実行に移されることもなかったわけである。

 

 では、その膨大な戦死者を生み出したのは何であったのか?

 そして、その膨大な戦死者を生み出させたのは誰であったのか?

 

 

 新兵器であった機関銃であり、精神主義から抜け出せなかった英軍司令官であり、仏軍司令官であった。

 既に日露戦争で、機関銃はその威力を十分に発揮していた。繰り返される乃木将軍の正面攻撃は、ロシア軍の機関銃を前にして、戦死者の山を築くことしか出来なかったのである。

 第一次世界大戦はそれから10年後の話なのだが、英仏陸軍の司令官達もまた、数年に渡って機関銃座への正面攻撃を繰り返し、戦死者の山を築いていったのであった。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/20 21:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113728

 

 

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ココログ版「現代史のトラウマ」最新情報

 

      (「freeml」用の業務連絡的文章だけど、ここにも掲載)

 

 「無差別爆撃の論理」の続きの予定だったけれど、寝不足なので今夜はお休み。

 
 
 

 実は、「ココログ」の方の「現代史のトラウマ」に手を入れるのに熱中して夜更かし。

 
 

 例えばこれ(→  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/)からだと、記事のタイトルの下に、そのまま本文が続く。

 

 しかし、検索画面からだと、例えば「神宮壮行会映像」で検索(→ http://www.google.co.jp/search?client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&channel=s&hl=ja&q=%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%A3%AE%E8%A1%8C%E4%BC%9A%E6%98%A0%E5%83%8F&lr=&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2) して、その中の「続々々々々々・映画「靖国」を観る: 現代史のトラウマ」の文字をクリックし、「現代史のトラウマ」にアクセスすると、記事のタイトルと本文の間に広告が入ってしまう。そのままだと実に読みにくいので、本文冒頭を一行あけて入力すると、現状のように少しは読みやすくなる(変更前は、広告と本文の境目がなかった感じ)。

というわけで、これまでの記事(226回分)のすべての本文冒頭に一行追加(スペースキーで一文字分だけ入力)という作業を続けたら明け方に。

 
 

 もうひとつ、記事を「カテゴリー」に分けているのだけれど、内容的に複数のカテゴリーに当てはまる記事が多い。

 「複数のカテゴリーを設定」という機能があるというのは知っていたのだけれど、放置して来てしまった。しかし、さすがに限界という感じで、操作法をチェック。

 で、ついでにカテゴリーも増やした上で、「複数のカテゴリーを設定」を実行。

 

 例えば、「老眼と自己決定 (26) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 2 」のカテゴリーは、これまでは「健康という名のテロリズム」一つだったのが、今回の追加で「マイノリティーとマジョリティーの間」、「エホバの証人」でチェックしても記事を読めるようになるわけ。それぞれに視点は違うけど、内容的に関連ある別の記事も読むことが出来るようになる。

 「本を読む」とは別に、新しくカテゴリー「本を買う」を追加することで、買っただけでまだ読んでない時点での古本購入日記を、これまでのカテゴリー「本を読む」ではなく「本を買う」に分類し直して、不当表示防止。

 
 

 そんな二つの作業を同時並行で決行。

 

 読者の便を図ってみました、というわけ。

 

 実際、、思いもよらぬ検索語からアクセスされるし(これ、アクセス記録を見るお楽しみになってる)、関連の記事を見つけやすいようにしておくのも親切だろうと思った次第。

 
 
 
 
 
 

 
(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/19 22:41 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113634

 

 

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2009年8月19日 (水)

真昼の百鬼夜行

 

 「百鬼夜行」とは字の通りで、夜中の話のはずなんだが、真昼に「百鬼夜行」に出会ってしまった。

 

 

 東京は立川市での話(オケガワは関係ない)。

 

 

 立川から多摩都市モノレールに乗って(妖怪の世界というよりSF的乗り物だ)、次の「高松」駅で下車。(地図によれば)7分ほど歩くと、国文学研究資料館に着く。

 都市計画現実化中、というか都市計画途上というか、草が伸びる空き地が残る広い空間に格子状の広い道路、そして中層(「高層」とまではいかない感じ)の現代的ビルが立ち並ぶところまではいっていないが、やがて立ち並ぶんだろう的世界。完成したら、「鉄腕アトム」的イメージの世界になるんだろうなぁ…

…という区画にある、これもデカめのガラスとコンクリート建築。

 入り口を入ると、広い吹き抜けの空間で左右に分けられている。左が「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館」のエリア。右側は、南極観測関係のナントカ法人だかナントカ機構だかが占領していた。

 

 このあたり一帯は、東京都心が地震で壊滅した時に国家の中枢機能を移転させる、という構想で整備されているらしいのだが、「立川断層」の真上に位置しているというウワサもあったりする場所だ。地震でどうなるのかは知らないが、基本がSF的「近未来」空間…と言ったって、とっくに21世紀なんだけどね。

 

 

 で、国文学研究資料館で開催されているのが「人間文化研究機構連携展示 百鬼夜行の世界」展なのだ。

 久しぶりに家族全員揃う時間が出来たので、観に行ったわけ。と言っても、夕方から仕事が入っていたので、規模の大きな展示ではないだろうという予測があればこその展観だった(会場はここだけではなくて、国立歴史民俗博物館でも連携展示をしているというスタイルだし)。

 

 

 実際、広い会場ではない(展示会場は、国文学研究資料館全体のほんの一部なのだ)ので、展示点数も多くはなかったけれど、中身は充実していた。あらためて会場で配布されていた「出品目録」でチェックすると(「図録」の方だと、2会場の両方が記載されているので)、展示総数は36点。江戸期を中心に、絵巻もあれば刊本もありの、各種の「百鬼夜行図」に出会うことが出来る。元ネタがコピーを通して展開していく姿も面白い。

 

 「freeml」的(?)には、京都市立芸術大学芸術資料館蔵の、江戸時代後期の『付喪神絵詞(つくもがみえことば)』が興味深い。行列の中に、タヌキだのイタチだのの姿を発見出来るのだ。

 展示品の中に、寛永20(1643)年刊の『仏頂尊勝陀羅尼』があって、この中に「妖怪」除け(?)の呪文が紹介されていたのだが、出品目録では「参考品」となっていて「図録」への掲載がない(会場となった「国文学研究資料館」の所蔵品だった)。なので、ここで再現出来ないのだ。残念な話である。

 それでも「図録」には、「百鬼夜行」を避ける歌の紹介はある。藤原清輔の『袋草紙』によれば、

  堅石やつかせせくりにくめるさけ 手て酔ひ足酔ひわれ酔ひにけり

というのだが、効果の程は…

 

 まぁ、いずれにしても、夜中でも街頭が道を明るく照らす世界では、「百鬼夜行」は出来ませんなぁ…

 真昼の妖狸には悩まされるけれど…

 

 

 

 駅近くに戻り、小さなビルの小さなフレンチの店でランチ。そのビルのほとんど隣が、オタクの殿堂の「フロム中武」。

 寄ると散財するので、駅上の「山野楽器」まで我慢してCDコーナーで散財、のつもりだったのだけど、アニメ関係ショップ狙いの娘について、「フロム中武」の中へ…

 こちらは古銭・コインの店狙い。

  大正2(1913)年 大日本 10銭

  1961-1971 タンザニア 5シリンギ

  1974-1977 アルジェリア 5(ディナール?)

  1975年 パナマ 10(センティノス?)

  昭和51(1976)年 日本国 100円(天皇陛下御在位50年)

  1993年 チェコ 2コルナ

 大正2年は、母の生年。1993年は、娘の生年。家族の生年の各国コインの収集、というのがコレクションの基本(カネがかからない)。

 もう一つが、今はない国、あるいは国家体制、権力者が変る前のコイン(これも、カネがかからない)。

 今回は記念硬貨らしきものが3種(タンザニア、アルジェリア、日本国)。タンザニアは独立10年。アルジェリアは(今のところ)内容・意味不明。日本は読んでの通り(ケース内に記念切手も付属していた)。  

 

 同じフロアで、なんと「古書市」開催中。

 会場内に入ってはいけない、と思いながら、会場の外の台上の本を…

 うわっ! 戦前の岩波新書が…

  小堀杏奴編 森鴎外 『妻への手紙』 (岩波新書17 昭和十三年十一月 ただし昭和十六年六月の6刷) 50銭 250円

  B・M・チェムバレン 『鼠はまだ生きている』 (岩波新書32 昭和十四年四月) 50銭 300円

  笠間杲雄 『回教徒』 (岩波新書33 昭和十四年四月) 50銭 300円

  天野貞祐 『学生に輿ふる書』 (岩波新書45 昭和十四年八月 ただし同年十月の2刷) 50銭 購入額不明(値札脱落 - 以下、同じ理由による))

  山本有三 『戦争と二人の婦人』 (岩波新書47 昭和十四年九月 ただし昭和十五年十一月の3刷) 50銭 250円

  芦田均 『バルカン』 (岩波新書55 昭和十四年十二月) 50銭 購入額不明

  安田徳太郎 『世紀の狂人』 (岩波新書58 昭和十五年三月) 50銭 250円

  西田幾多郎 『日本文化の問題』 (岩波新書60 昭和十五年三月) 50銭 350円

  J・ハックスリ A・ハッドン 『人種の問題』 (岩波新書69 昭和十五年七月 50銭 300円

  許広平 『暗い夜の記録』 (岩波新書215 昭和30年9月) 100円 購入額不明

  A・L・ストロング 『チベット日記』 (岩波新書416 1961年5月) 130円 300円

  ジュール・ロワ 『アルジェリア戦争』 (岩波新書421 1961年6月) 100円 150円

  何長工 『フランス勤工倹学の回想』 (岩波新書956 1976年2月) 230円 100円

  村上重良 『天皇の祭祀』 (岩波新書993 1977年2月) 280円 150円

…を買ってしまう。3000円ちょっとだ。
 

 『妻への手紙』の巻末には、「岩波新書を刊行するに際して」と題された岩波茂雄の有名な(?)言葉は載せられていない。『鼠はまだ生きている』の方には掲載されているのだが、あらためて読んでみるとビックリ、

  天地の義を輔相して人類に平和を輿へ王道楽土を建設することは東洋精神の発露にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。…

…なんて言葉で始まっているのだった。

 そして末尾は、

     昭和十三年十月靖国神社大祭の日

となっているのだ。あの「岩波新書」と「靖国神社大祭の日」の組み合わせである。

 

 やはりオリジナルには価値がある。

 本や論文に、当時の岩波新書からの引用があっても、この巻末の岩波茂雄の言葉を読む機会はない。

 

 値段の変化、出版年の表記が元号から西暦へ変った事実。本文以外のところも、なかなかに見所がある。

 

 

 結局、古銭と古本で5000円ほどの散財。

 まぁ、お安いお楽しみである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/18 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113552

 

 

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2009年8月18日 (火)

無差別爆撃の論理 6 (竹槍 vs 戦略爆撃)

  

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

と、書いたわけだが(昨日の話)、もちろん、非合理主義に徹し、組織的に敗北を重ねて行ったようにしか見えない大日本帝國陸海軍の存在を忘れたわけではない。

 実際、その非合理的精神主義が大日本帝國を滅ぼした、という印象が間違っているとは思えないのである。

 

 敵の戦法に対してわれらの戦法を対抗せしめねばならない。敵が飛行機で攻めて来るのに、竹槍を持っては戦い得ないのだ。問題は戦力の結集である。
     毎日新聞 昭和19年2月23日朝刊

という記事を、時の東條首相が発禁処分にした(ただし、指示は朝刊の配達後だった)のは有名な話だろう(記事を書いた記者は、後に懲罰的召集の対象となった)。つまり、竹槍で敵の飛行機と戦え、それが東條首相の発想ということになる。国民は、その後の空襲激化の下で、B-29に竹槍で立ち向かうことを求められるわけだ。

 同日の毎日新聞には、

 大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上にて決せられることはいうまでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸にて決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休すである。

という記事も掲載されていた。しかし、その後の戦争の経過は、「絶対国防圏」を破られ「本土沿岸に敵が侵攻し来る」ところまで進行してしまう。その過程で、「玉砕」が相次ぎ、「特攻」が始まるのである。

 しかし、「万事休す」とは考えられず、むしろ、竹槍での「本土決戦」にこそ希望が見出されるのだと主張されるという事態に陥るのである。

 その意味で、「竹槍精神」は、非合理的精神主義の代名詞と言えるだろう。

 

 しかし、言うまでもないことであるが、竹槍では、最新鋭の重爆撃機B-29による戦略爆撃に対抗することは出来ないのである。3月10日の東京大空襲に、「竹槍精神」は無力であった。

 

 

 

 

 さて、これまで、軍事思想としての「戦略爆撃」を対象として、その「論理」について考えてきたわけだ。

 

 第一次世界大戦での、当初の予想をはるかに超える膨大な犠牲者の存在が、戦略爆撃というアイディアの背後にあることは、既に説明し終えたものと思う。

 地上戦における、あまりに多過ぎる戦死者の数が、戦争に対する忌避感をもたらし、国際連盟の成立や数々の軍縮の試み、そして不戦条約が成立したのも、第一次世界大戦後の時代である。もっとも、戦争回避を重視するあまり、ミュンヘン会談でのヒトラーへの譲歩も生じたわけである。実際、ミュンヘン会談の「成果」は、英仏国民にも歓迎されたのである(結果的には第二次世界大戦への呼び水となってしまったのだが)。

 軍縮や不戦条約が、戦争そのものの回避への努力だとすれば、「戦略爆撃」という発想は、戦争の早期終結の可能性追求の論理として生じたものなのである。

 

 当事者である軍人にとっても、第一次世界大戦の経験は、耐え難いものであった、ということだ。前線兵士の膨大な犠牲を回避することが、民間人への直接攻撃により達成されるという予測は、実際には誤りであった(悲劇的な誤りであったが)。しかし、理念としては、戦略爆撃の効果として、銃後の国民の継戦意思の低下がもたらされ、戦争の早期終結となり、総計での戦争による死者数の減少が期待されていたのである。

 少なくとも、戦略爆撃思想の背後にあったのは軍関係者の合理主義的精神であった、ということは言えそうである。基本的に、軍人とは戦争の回避ではなく、現実化した戦争への対処がその任務なのである。戦争の回避は、まずは政治家の任務である。

 

 

 では、第一次世界大戦における膨大な犠牲者を生み出したメカニズムはどのようなものであったのだろうか。

 

 第一次世界大戦とは、様々な近代兵器が登場した戦争であった。

 その新兵器に、軍司令官達はどのように対応していたのか?

 軍人に合理主義を期待することの当否が、次回のテーマとなる、はずである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/17 22:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113443

 

 

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2009年8月16日 (日)

無差別爆撃の論理 5 (軍事的合理と不合理)

 

 「特攻」の指揮官としての大西瀧治郎。

 「徹底抗戦論者」として、ポツダム宣言の受諾阻止に奮闘した大西瀧治郎。

 8月15日に遺書を書き、翌16日未明には自決を果たした大西瀧治郎。

 

 非合理的な精神主義者の姿を思い浮かべてしまうエピソードである。

 しかし、大西は日本海軍の軍人として、海軍伝統の大艦巨砲主義を受け継ぐことなく、航空戦力を主体とする新たな時代の軍事思想を理解・主唱していた人物であった。つまり、第一次世界大戦に登場した新兵器の一つとしての航空機の持つ軍事的可能性に着目し、戦争における「戦略爆撃」の実行者としての空軍力の育成の重要性に気付き、まず対中戦争において実行して見せた当の人物が大西なのである。航空機により米国太平洋艦隊とその基地を攻撃するという、真珠湾攻撃の基本プランもまた、大西によるものであったわけで、近代戦のあり方をよく理解していた軍事的合理主義者としての姿をそこに見出すことが出来る。

 

 その大西が、特攻の指揮を執り、徹底抗戦を主張し、「ハラキリ」という最期を遂げる。

 そこにあるのが大日本帝國の限界なのか、大日本帝國海軍軍人の限界なのか、大西という一個人の限界なのか、ここでは、それを問うことはしない。

 

 

 私達が戦争を考え、戦争における軍隊という存在、軍隊を構成する軍人という存在について考える時、戦闘における勝利の確保のために合理的に振舞う人々という想定をしてしまいがちである。しかし、大西の軌跡を振り返る時、大西の所属していた日本海軍の主流は、大艦巨砲主義・艦隊決戦思想に囚われ続けていたという事実が浮かび上がる。

 近代とは、大いなる技術革新と生産力の組み合わせの下に、人間が自身の手により自身の新たな環境条件を日々作り出していく時代であり、軍事的には、新兵器の登場が戦場のあり方自体を変化させてしまうという、そんな世界なのである。しかし、そのことを日本海軍の主流は理解しなかった。

 もちろん、巨大戦艦である大和も武蔵も「最新兵器」ではある。しかし、航空戦力が戦争の勝敗を決する時代の現実からすれば、時代遅れの旧兵器なのである。

 つまり「新兵器」とはモノの問題ではなく、背後にある思想の問題であり、思想に基づく適切な使用の問題なのだ、ということになる。

 巨大戦艦大和と武蔵が、「艦隊決戦」で主役を演じることなしに、巨大「特攻」兵器として出撃させられ、航空機による攻撃で撃沈されたという事実の意味は、熟考に値すると思う。

 

 

 

 

 「戦略爆撃」の思想は、第一次世界大戦の経験をもとに、1920年代にイタリアのジュリオ・ドゥーエ、アメリカのウィリアム・ミッチェル、イギリスのヒュー・トレンチャードらによって提唱されている。「戦略爆撃」が「無差別爆撃」という様相をとって現実化することに関しては、その背後に、植民地における航空機による「効率的な」住民殺戮の経験があることも指摘されている。

 「戦略爆撃」については、第一次世界大戦と植民地支配の経験をもとに、まず思想が先行し、モノである兵器の生産が後を追い、軍の作戦として現実化する過程として描くことが出来る。

 航続距離が長く、爆弾搭載量の多い重爆撃機の生産と、そこに搭載される焼夷弾の開発がなくては、「戦略爆撃(ここでは特に都市無差別爆撃)」が現実化することはない。その意味では、重爆撃機の生産確保に成功した英米のみが、思想としての「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の完全な実行者であった、と言うことは出来る。

 もちろん、ナチスドイツ空軍は1937年、ゲルニカにおいて無差別爆撃の実行者として名乗りを上げていた。焼夷弾の使用の事実一つを取ってみても、それが軍事目標主義による爆撃ではなく、無差別爆撃であったことは明らかである。

 大日本帝國海軍も、1938年の段階で南京への渡洋爆撃を都市爆撃として行い、国際連盟から「無防備都市の空中爆撃の問題」として「かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損失」の実行者として非難されているのであって、日独が「戦略爆撃(都市無差別爆撃としての)」の初期の実行者であり、それが世界史的出発点であったことは確かなことなのである。

 それに対し、ここでは、モノとしての重爆撃機の保有が「戦略爆撃思想」の到達地点であることを確認しておきたい。

 その意味で、戦略爆撃の思想を現実化・完成させたのは英米なのであり、その完成された「戦略爆撃思想」の効果を実際に味わうことになったのが、日独国民だったのである。

 

 

 

 

 ところで、「戦略爆撃思想」の基底にあるのは第一次世界大戦の経験であった。

 戦場における陸軍兵士の損耗率の高さ、つまり犠牲者数の事前の想像をはるかに超えた大きさが、参戦したヨーロッパ諸国に、新たな戦争の時代の深刻な脅威として意識されることになる。

 その第一次世界大戦は兵器としての航空機の登場の時でもあった。

 その両者が結びついたところに、戦場の背後の敵国の政治的経済的軍事的中枢及び国民(兵士ではなく市民としての)そのものを標的とした航空機による攻撃の有効性という発想が生み出されたわけである。戦争の勝敗を戦場で決するのではなく、戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)により敵国民の戦意喪失を目指すことで、前線兵士の犠牲を最小限にとどめ、戦争の早期終結が可能となる(はずだ)というのが、その論理であった。

 

 しかし、現実には、都市無差別爆撃の実行は、敵国都市民の敵愾心をむしろ高揚させる結果となり、戦争の早期終結には成功していないのである。

 そしてそのことは、既に英国がドイツ空軍による都市爆撃の対象となった1940年の時点で、英国民には自身の経験として理解されている。しかし、その英国が、ドイツへの夜間都市無差別爆撃を推進していくのは、その後のことなのである。ここには、ドイツ市民に対する「報復感情」という後押しを見出すべきであろうか?

 

 いずれにしても、軍事理論としての「戦略爆撃(特に都市無差別爆撃)」を評価するならば、第二次世界大戦の経験から、その無効性こそが導き出されていなければならない(はずだ)。

 しかし、ヴェトナム戦争での米戦略空軍による「北爆」の実施は、依然としてドゥーエの理論が軍人達の中に生き残っていたことを示しているものであろう。

 

 戦闘(そして戦争)の勝利のために合理的に振舞う人々、という軍人像には、どこか誤りがありそうなのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/16 18:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113320

 

 

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無差別爆撃の論理 4 (特攻と戦略爆撃)

 

 「あの戦争」について語る時、「特攻」の問題を避けて通ることは出来ないだろう。

 

 

 特攻による戦死者を、崇高な精神の発揮者として賛美するか、無謀な戦争の果ての無責任な作戦の犠牲者として悼むのか、いずれにせよ、そこにあるのは軍の作戦としての自殺攻撃という手法なのである。

 近代における技術と生産力の発展という条件の下に、人類は二度にわたる「世界大戦」を経験することになった。技術革新と新たな兵器の登場。それが20世紀の戦争を語るに際し、あの時代の戦争の特徴的な姿として、私達に共有されているように思える。

 

 近代戦争、近代総力戦と呼ばれる戦争の形の背後には、技術革新と生産力の結合がある。そこからは、戦争遂行者としての軍隊が、技術革新の集約的産物である最新兵器を最後まで駆使し得るかに戦争の勝敗の帰趨がかかっている、という認識が生まれるだろう。

 「あの戦争」において大日本帝國の軍隊が追い込まれたのは、技術革新と工業的生産力に基づく戦争遂行という条件における無能力さという現実であり、特別攻撃という名の自殺攻撃の採用であった。そこには、兵器の操作者としての軍人・兵士の存在は既になく、人間の命そのものが攻撃兵器として「作戦」に使用されるという状況のみが残されていた。

 

 特攻による戦死者を賛美するにせよ、犬死として悼むにせよ、そこには近代戦争としては異様な用兵・作戦の存在があったことが、前提として理解・共有されているものと言い得るだろう。

 

 

 

 大西瀧治郎の名は、その特攻攻撃の組織者あるいは責任者の名として理解されている。近代戦争における非近代的な用兵・作戦の実行者、ということになるだろう。昭和19年10月に大西が第一航空艦隊司令長官として、特攻作戦の指揮を執ったことは事実である。

 しかし、大西の軍人としての生涯を見渡せば、彼自身はそのような非近代的用兵・作戦の発想から最も遠い場に身を置いていたことがわかる。

 第一次世界大戦後の世界に軍人として身を置いた彼は、戦争における航空力の優位を主張していた人物として、日本海軍で頭角を現すのである。戦艦の建艦能力と保有量が海軍の戦力を決するという当時の認識の中で、第一次世界大戦後の世界、第一次世界大戦後の戦争のあり方を、つまり近代戦争の現実を正確に理解していたのが大西瀧治郎その人、ということなのだ。

 

 

 

 たとえば荒井信一は、1936年の陸軍航空本部作成の『航空部隊用法』中の「政略攻撃」の項を、当時の日本陸軍における「戦略爆撃」思想の例として紹介した上で、

 一方、海軍では1937年7月、航空本部の意見パンフレットとして『航空軍備に関する研究』が関係者に配布された。起案者は、当時航空本部教育部長であり、のちに特攻作戦の発案者となる大西瀧治郎大佐であった。陸海軍の作戦への協力以外に戦略爆撃を実施する独自の戦力として空軍(純正空軍)の独立を説き、「純正空軍式航空兵力の用途は、陸方面においては、政略的見地より敵国政治経済の中枢都市を、また戦略的見地より軍需工業の中枢を、また航空戦術見地より敵純正空軍基地を空襲する等、純正空軍独特の作戦を実施するほか、要する場合は敵陸軍の後方兵站線、重要施設、航空基地を攻撃し陸軍作戦に協同するにある」と述べ、「純正空軍式の戦備」の急速な整備を急務と説いた(戦史叢書『海軍航空概史』)。
 …
 しかし、海軍ではパンフレットは部内の統制を混乱させるとして、回収を命じられた。海軍の主流にとっての関心事が、海上決戦の主力である主力艦を戦艦にすべきか航空母艦とすべきかという時代錯誤的な論争にあったからであろう。
     荒井信一 『空爆の歴史』 (岩波新書 2008)

と、海軍における戦略爆撃思想の理解者・主唱者として、大西瀧治郎の名を提示しているのである。

 

 支那事変の進展に伴い、

 海軍は陸軍の要請に応え、航空隊の主力を支那方面艦隊の指揮下に移し、第一・第二連合航空隊(司令部漢口)に配備していた。海軍きっての戦略爆撃論者大西瀧治郎は、1939年末に第二連合航空艦隊司令官に任じられ、奥地爆撃の強化に当たる。翌年4月10日付で各艦隊司令官などに配布された『海軍要務令(航空戦之部)』は、「要地攻撃」を「軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等敵国要地に対する空中攻撃」と定義している。作戦実施要領の骨子は、37年に大西が起案し「怪文書」として没収されたパンフレットの内容そのままである。「要地攻撃」の最大目標として重慶爆撃が本格化するのは39年5月からである。

という形で、近代戦における航空機の優位と戦略爆撃の有効性の論理を理解し、部隊司令官として攻撃を実行した人物としての大西瀧治郎の姿が、荒井により描かれている。

 

 

 

 しかし、海軍では艦隊決戦論者の下に戦艦大和・武蔵の建造が優先され、航空母艦及び航空兵力の充実は後回しにされることになる。真珠湾攻撃(大西の基本計画に基づく)の成功は、実戦での航空力の優位を証明するものであったにもかかわらず、そのことへの理解が得られたようにも見えない。

 そのような状況下で、米国の圧倒的な工業生産力との闘いとして大東亜戦争は進行し、生産力の絶対的劣位の中で大日本帝國は敗退していくのである。

 

 軍人として近代戦争を誰よりも理解していた人物が、航空本部教育部長としてパイロット養成の困難を誰よりも理解していたはずの人物が、「特攻」という「統帥の(統率の)外道」の作戦指揮を執る事態に陥るに至る軌跡は、この国の歴史の一断面として、「あの戦争」の現実を語る際に忘れずにいたいことの一つである。

 

 

 軍事理論としての「戦略爆撃」思想の先駆的理解者の一人が大西瀧治郎であったのであり、中国大陸における「要地爆撃」を実施する「戦略爆撃」の先駆的実行者の一人が大西瀧治郎であった。

 大東亜戦争の戦局の悪化の中で、その大西が「特攻」を指揮し、その祖国が容赦のない戦略爆撃の対象となっていく。空襲により荒廃した東京で、ポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を叫び続けたのも同じ軍令部次長としての大西瀧治郎であった。

 昭和20年8月15日、大西は渋谷の軍令部次長邸で自決する(靖国神社『遊就館 図録』によれば自決の日付は15日であるが、『ウィキペディア』によれば8月16日である)。

 

 

 

 

 

【大西瀧治郎】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
【無差別爆撃の論理】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33391635/index.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/15 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113240

 

 

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2009年8月15日 (土)

国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会

 

 昭和20年の8月14日、まだ戦争は続いていた。

 小田原がB-29の空襲を受けるのは、8月15日へと日付が変るころだった。

 

 

十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞と、本土決戦をひかえて、最後のつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手が上がり、それは、絵のように美しかった。
     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫 1998)

 

 まさに、昭和20年8月14日の夜更けに、「小田原が燃えた」のである。

 太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

 「兄上」同様、多くの日本人にとっては、「本土決戦」という事態がやがて待ち受けている。それが、昭和20年8月14日夜、大日本帝國臣民にとっての平均的未来像であったはずである。

 

 

 

 

 本土決戦?

 何のために??

 国体護持のために!!!

 

 戦争における敗北の経験は、それまでの「近代」の日本人にはなかったということを、ここでは思い出しておくべきかも知れない。

 単に未経験な事態であるばかりではなく、神国日本の国体の精華である皇軍は不敗の存在なのであり、勝たない(勝てない、ではなく)戦争など想像のつくものではなかったように見える。戦争に、敗北という終了があることに考えが及ばない状態、とでも言えばよいだろうか?

 昭和という時代は長いが、後に「戦前・戦中」と呼ばれることになる時期には、軍事的手段による大日本帝國の支配領域の拡大への努力が日常化し、それは常に成功するものと想定されていたのである。

 

 現実には、昭和12年7月7日以来の「支那事変」では、見かけ上の支配領域の拡大の一方で、期待されていた中華民国国民政府の降伏による戦争状態(あくまでも「事変」であって、国際法上の「戦争」ではなかったことになってはいるのだが)の終了に至ることはなく、つまり大日本帝國の勝利として戦争状態の終了を迎えることは出来なかったのである。

 支那(中華民国国民政府=中国)が負けを表明しない限り、大日本帝國としての勝利はないのである。しかし、当初の「対支一撃論」は根拠のない楽観であったし、「首都南京占領」が中国国民政府の降伏に結びつくこともなかった(国土は広く新たな首都は重慶とされたが、南京まではたどり着けた皇軍にも、重慶は遠すぎた)。

 しかし、そのことを大日本帝國から見れば、大日本帝國も決して負けているわけではないのであって、つまり、いつまで経っても勝てないという状態が続いていただけなのだ、ということになる。

 少なくとも、個々の戦闘には勝利し、大日本帝國は、その地図上の支配領域の拡大に成功したことも確かなのではあるが、安定した支配権力を確立することも最後まで出来なかったのである。

 広大な国土と、無尽蔵であるがごとき中国(あるいは支那)の人的資源を前に、戦争状態はいつまでも続くものに見えるようになった。あるいは「行き詰まり」状態として感じられるようになった。

 

 その「行き詰まり」の打開策として選択されたのが、米英との戦争なのである。

 

 しかし、言うまでもないことであると思われるのだが、対米戦争とは、米国の広大な国土と人的資源の大きさに加え、すべてにおいて巨大なその資本力と資源量と工業生産力との戦争となることを意味するのである。

 中国大陸における広大な国土と無尽蔵な人的資源を相手にしての、勝利という結末を見ることの出来ぬ戦争状態の継続の打開策が、米国との戦争であったということなのである。

 中国における戦争状態を勝利をもって終えることの出来ぬ大日本帝國が、中国大陸における戦争状態の継続に加え、新たに対米英戦争を開始してしまったわけなのだ。

 勝てるわけがない、と、現在の冷静な判断からは言うことが出来る。

 

 

 資源量の絶対的不足、工業力の絶対的劣位、その上で「特攻」という手法の採用による人的資源(及び工業生産物)の回復不可能な浪費・消耗にまで至るのが、対米英戦争開始後の大日本帝國なのである。

 しかし、負けるはずがないというのが、「戦前・戦中」と呼ばれる時代の(国体の精華としての)日本人の感覚であった(あるいは想像力の限界であった)。日本は「神国」なのであるから(20世紀の日本人は、実際に、そのように信じていたのである)、負けるはずはないのである。

 

 

 自ら策定した「絶対国防圏」を侵された段階で、戦争を勝利をもって終了する可能性の喪失が判断されるべきであるし、その時点で、国家目標は、戦争継続から戦争終結への努力へとシフトされるべきであった、と現在の冷静な視点からは言うことが出来る。

 

 しかし、玉砕、特攻、そして本土決戦という選択肢以外にないという視野狭窄状態が、大日本帝國の国体の精華として顕現してしまったのが、「戦前・戦中」と後に呼ばれることになる昭和の一時期のこの国の現実であったのである。

 本土決戦もまた、玉砕と特攻に終始することになったはずである。「負けたと言わねば負けたことにはならず、負けたと思った方が負けなのである」とは当時の新聞紙上にありふれた言い回しであった。しかし、玉砕と特攻、あるいは特攻と玉砕の組み合わせの果てにあるのは、大日本帝國の臣民の絶滅という事態である。

 絶対国防圏喪失後の大日本帝國の戦争継続理由は「国体の護持」であったわけなのだが、その結末が大日本帝國の臣民の絶滅となることは、頭を冷やせば誰にでもわかる理屈であろう。国民の絶滅によって、「護持」され得る何かがあるのだろうか?

 

 

 その理屈が理解出来る程度に頭を冷やす努力もしなかった結果、昭和20年8月15日まで日本国民にとっての戦争は続き、未明の空襲により小田原市民1,500人以上が罹災し、30~50人がが死亡することになったのである(正確な被害状況は今に至るも不明らしい)。

 

 

 

 ところで、昭和20年8月15日以前の大日本帝國には、戦争における敗北の経験はなかった。つまり、それまでは、戦争を勝利という状態でしか経験したことがなかったのである(個々の戦闘における勝利の集積が戦争における勝利となるわけだ)。

 その日本人にとって戦争における敗北が何を意味していたのかを考える上で、興味深い歴史的事実がある。

 あの「特殊慰安施設協会(RAA)」の存在を思い出すことが出来るだろうか?

 「特殊慰安施設協会」設立の経緯は、それまで自身の「戦争の敗北」経験を持たなかった日本人の想像力が描いた「敗北後の国民」が、敵兵に陵辱される婦女子の姿でイメージされていたことを示しているのである。

 戦闘の勝利が、かつてのこの国においては、戦時強姦の実行(そこでは実行する側であったことに留意)としてイメージされていたことを、あの「特殊慰安施設協会」設立の歴史が教えてくれるのである。

 「特殊慰安施設協会」の存在を、あらためて、わが国体の精華として深く認識に留めておくべきであろう。

  

 

【小田原空襲】
 → http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-odawara.htm
【対支一撃論】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
【神国日本】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html
【特殊慰安施設協会】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33396926/index.html



 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/14 21:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113133

 

 

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2009年8月13日 (木)

老眼と自己決定 (26) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 2

 

 「エホバの証人」の信仰を論じる場合、「輸血拒否」は、本来、中心となるべき話題ではないだろう。「輸血拒否」は彼らにとって、彼ら自身の信仰・教義体系から生み出された態度の一つではあっても、彼らの信仰の焦点などではないはずだ。

 

 ただ、現代のいわゆる先進国において、「輸血」という医療行為に対し社会のマジョリティが示す態度と彼らのそれとの隔たりの大きさが、マジョリティに違和感を抱かせてしまうことにより、彼ら自身の意図を超えて、マジョリティにより構成される社会からの問題視として帰結しまっているのだと思える。

 

 前回(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cec.html)にも指摘したように、「輸血」という医療技術自体が、第二次世界大戦期前夜に確立し、第二次世界大戦での負傷者の治療と共に普及へと向かったものなのである。

 前回は、とりあえずの思いつきで、20世紀生まれの高度医療技術の一つとしての「輸血」と、患者による医療内容の選択としての「輸血拒否」という構図で、問題を整理してみたのだが、そのような形での議論が既になされていることがわかった。高度医療技術と、医療内容に対する患者の自己決定権の組み合わせという構図である。

 

 

 

 文化人類学者の星野晋によれば、

  協会(ものみの塔聖書冊子協会-引用者)が輸血を受け入れないという立場を示したのは1945年のことである。
  (「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」 日本臨床麻酔学会誌 26巻3号 2006年3月)

…ということだ。「エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、当初から「輸血拒否」を信仰の一部としていたわけではない。「輸血」という医療技術の出現への対応として、1945年になって初めて、「輸血拒否」という態度が彼らのものとなったのである。

 

 

 「エホバの証人の輸血をめぐる問題」と題された、麻酔科医師による論文によれば、

  実際には専門以外の分野を看板に書く医師はほとんどいないが、法的には医学部を卒業して医師免許を取得した者であれば、誰でも「内科」とか「外科」という看板を勝手に掲げることが可能である。
  しかし、「麻酔科」だけは例外である。麻酔は非常に専門性の高い技術であり、一歩間違えれば生命に直結する手技であるため、決められた病院で通 常2年以上の研修を受け、厚生省の医道審議会である「麻酔科標榜資格審査会」で認められた者しか「麻酔科」の看板を掲げることはできない。この資格を「麻酔科標榜医」という。医師には麻酔も含めて治療上必要な処置を行うことが許されているが、麻酔科を正式に名乗るためには麻酔科標榜医である必要がある。
  麻酔科医の役割は多岐にわたるが、手術室での業務は麻酔を施行し、手術中、患者の管理の責任者となることである。薬品や輸液、血液の使用は麻酔科医にすべて任されている。術者は手術に集中し、とてもその他のことを配慮する余裕がないからである。

…ということになる。

 つまり、「非常に専門性の高い技術」を要求される麻酔科医の「手術室での業務」に、「薬品や輸液、血液の使用」も含まれているわけである。この<事実>の背後にも、「輸血」という医療技術の「高度医療」としての側面を見出すことが出来るように思える。

 

 

 

 前掲論文では、麻酔科医師の直面させられる問題として、

  信教の自由は最大限尊重されなければならないが、医療を受けるにあたっては医療従事者との接触は不可避である。同じ宗教を信じる医療従事者のみが関与するのであればそれほど問題にはならないのかも知れないが、そのような病院は現在存在しない。「エホバの証人」患者を診療するにあたって、私達が納得できない教義の問題点を以下列挙する。
① 自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する。
 これにより聖マリアンナ大学で輸血拒否小児死亡事件がおこった。これについては後述する。
② 赤血球輸血のみを拒否する理由が非合理である。 
 これについての詳細も後述する。
③ 医師の良心を苦しめる
 「死んでも良いから輸血しないでくれ」というのは医師の職業倫理を否定することになる。いくら「免責書」をもらっても、良心のうずきが癒されるわけではない。

…という3点が示されている。

 ② に関しては、

  「エホバの証人」の多くは、人工心肺、臓器移植、赤血球を含まない血液製剤の輸血は受け入れている。臓器移植には白血病の治療である骨髄移植も含まれているのであるが、骨髄には当然ながら赤血球を作り出す細胞が含まれており、出来たての赤血球も存在しているわけである。骨髄移植が許されるのに赤血球輸血が許されないとする理屈が全く非論理的である。
  1996年以来、医療機関連絡委員の一部を含むエホバの証人たちが、匿名で現在の輸血拒否の方針に疑問を表明し、その数は増加している。彼らは「血液拒否改革エホバの証人連合」を形成し、彼らの言葉によれば、矛盾と一貫性に欠ける複雑な規則に縛られた輸血拒否の方針が、聖書の根拠も明らかにされないままに厳しく施行されている状態に対して、内部からの改革を提唱している。
  事実としてエホバの証人は過去において、ワクチンを輸血と全く同じ理由(すなわち「血の神聖を犯す」という理由)によって、忌避すべきことを信者に教えたが、三十余年後には同じ機関紙の紙面に正反対の主張をし、現在は認めているのである。輸血についても同様に今後、方針が変更になる可能性は十分にあると考えられる。

…と、その詳細が示されている。

 

 これまで私は、エホバの証人による輸血拒否について、「自己決定権」という側面から論じて来たわけであるが、現場で直接に対応に当たる麻酔科医の言葉として、

  私の経験からすると、手術の前に、最大限尊重はするがやむをえない場合には輸血をする方針であることを話してその場では納得された患者でも、あとで知人と称する人達に説得されて、輸血は絶対しない旨の承諾書にサインしなければ手術を受けないと翻意された例を何度も見ており、多くの信者は本心からではなく、やむを得ず輸血拒否を表明させられているのではないかと感じている。

…という経験と推測があることを無視することは出来ない。最終的決断は、確かに患者当人のものであるにせよ、「自己決定」に積極的に介入する他者の存在があることも見逃せない。ただし、この場合、患者に「輸血」の受け入れを求め続けることもまた、「自己決定」への「他者の介入」となってしまうわけである。

 

 

 

 

   自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する

…という ① として示された問題点については、前回の私の観点とも一致するものであり、次回、あらためて考えてみたい。
 

 

 

 

 

 

 

「輸血拒否の主体は誰か-文化人類学的視点から見た輸血拒否-」
 → http://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsca/26/3/296/_pdf/-char/ja/
「エホバの証人の輸血をめぐる問題」
 → http://www.hbs.ne.jp/home/kterasa/sotsuron.htm
 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/13 20:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/113040

 

 

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老眼と自己決定 (番外編)  麻薬常習と自己決定…??

 

 麻薬使用の問題点は、結果としてもたらされる習慣性・依存性と、その果てに訪れる身体、特に、脳機能の異常ということになるだろう。

 

 毒にも薬にも、という表現があるが、ヤク=薬なのであり、そのヤク=薬への依存による過剰な摂取が、ヤク=毒という状態をもたらすわけである。

 
 

 タバコへの依存に関して言えば、日常生活に支障を生ずるほどの脳機能の異常には結びつくことはないが、肺癌の発症率を高めることになることは否定出来ない。

 タバコが禁止されないのは、税源として依然として有効であることと、受動喫煙という問題が浮上しつつあるとは言え、引き起こされる病態が当人の身体性のものにとどまっているからだろう。喫煙者が、過度の喫煙により傷害事件を起す例は知られていないのである。

 

 麻薬として法的に禁止対象となっている薬物に関しては、その習慣的摂取が、単に当人の日常生活に支障をもたらす脳の病変(それ自体問題ではあるが)にとどまらず、傷害事件を引き起こすような幻覚等の認知・判断力・情動の変化をもたらしてしまうという事実が広く認められているからだろう。

 
 

 自己決定権は尊重されるべきではあるが、他者への傷害に結びつくような習慣の継続は、社会的利益という観点から、支持されるものではない。

 当人自身が、タバコへの依存の結果、肺癌に苦しむことは、社会的利益を大きく侵すものではないと判断されるのであろう。当人の自由の領域の問題として考えることは可能である。もっとも、健康保険支出の問題を考えれば、社会的利益を損なう側面があることも否定出来ない。しかし、一方で、肺癌治療自体が経済行為としてシステム化されており、医療ビジネスという観点からは、タバコの禁止による肺癌の減少は、経済的既得権の侵害として理解され得るものでもある。

 受動喫煙の問題さえ克服出来れば、自身の身体への積極的侵害として、一種の愚行権としての自己決定権の行使として尊重することに、私は異議を唱えることはしない。

 

 健康は権利であっても義務ではない。それが私の基本的信条である。

 
 
 

…と、ここまでは前フリ、そのようにお考えいただきたい。

 

 つまり、これからが本題である。

 
 
 

 私自身が合法的麻薬の依存状態にあることを告白しよう、というわけだ。

 

 今のところ、身体への異常は感じていないし、日常生活に支障をきたすような脳の機能障害にも見舞われていない。幻覚は見ないし、過度に被害的になったり、過度(私にとって必要以上)に攻撃的になるということもない。

 自己申告のあてにならなさ具合、自身で病識を持つことの難しさも承知しているが、家族関係に大きな問題もなく(片付かない部屋という以外には)、職業生活の継続に支障が出ているという事実はない(はずだ)。

 
 

 皆さんがご存知かどうかは知らないが、しばらく前まで私自身も知らなかったことでもあるのだが、「仔猫吸引 」に近いことを日常的に、つまりほとんど習慣化した状態で、行うようになってしまっていることを、この際だから告白しようというわけだ。ここで、「近いこと」と書いたのは、実際に、私が日常的に繰り返しているのは「成猫吸引」と呼ばれる行為だからである。

 
 
 

 「仔猫吸引」時の画像として有名なのは、ブッシュ米前大統領の写真であろう。

 
 

 
 

 この写真を見て、私自身が、あのブッシュと同類であったことを知ってしまったのだ。決してうれしい話ではない。

 

 皆さんも次の画像に見覚えはおありだろう。

 
 

 
 

 私もブッシュと同じことをしているように見えるではないか!
  (吸引しているのは、オレンジの「上物」である)

 

 まぁ、報道によれば、不器用なブッシュは、「吸引」ではなく「咀嚼・嚥下」という実にアブノーマルな行為をしているのであって、そこはお間違えにならないでいただきたい。私の場合は、あくまでも、成猫吸引と呼ばれる行為をしているに過ぎないのである。

 
 
 

 いずれにしても、それがもたらす幸福感を、私は、捨てる気はない。

 健康を阻害することは決してない。そう私は信じている。

 
 

 今後、民主党政権になっても、「仔猫吸引(成猫吸引も)」の禁止立法のないことを願いたい。仔猫の単純所持禁止なんて、とんでもない話だ。

 多分、あくまでも多分だが、たとえ非合法化されても、「仔猫吸引(成猫吸引)」をやめることはないだろう。

 マニフェスト実現の財源としての課税措置も願い下げだ。そのことも、ここに明記しておきたい。

 
 

 禁煙に努力中のオバマ米大統領も、「仔猫吸引」の非合法化を推進することはないと考えたい。核兵器のない、安心して仔猫を吸引出来る世界。

 

 そこにこそ、平和な未来がある、と私は信じる。

 

 

 

 

 

【健康は権利であっても義務ではない】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-46de.html
【仔猫吸引】
 → http://ansaikuropedia.org/wiki/%E4%BB%94%E7%8C%AB%E5%90%B8%E5%BC%95
【成猫吸引の瞬間】
 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/62284
【成猫吸引の瞬間 ver.2】
 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/63057/

 
 
 
 
 
註 : 「freeml」用のネタ、である。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/12 21:50 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112943

 

 

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2009年8月11日 (火)

無敵のデリダ 劇団無敵旗揚げ公演潜入記

 

 

 デリダの子供がガタリ。デリダの弟子がドグマ。ドグマの部下がフーコーとバルト。

 
 

…というのは、劇団無敵旗揚げ公演、そのタイトルは『清潔』の中での設定。

 

 「劇団無敵」は、「劇団むさび」の役者にして演出家にして劇作家でもあった金城孝裕が、新たに立ち上げた団体だ。その「旗揚げ公演」が高円寺の明石スタジオであり(今日まで)、家族で楽しんで来た。

 明石スタジオ、20年ぶり(いやそれ以上?)、という感じだ。若干、閉所恐怖症の気味があるので(あくまでも「若干」だが)、小劇場系の公演に、自分から出かけるということはない。つまり、その時々の友人関係(恋人関係?)が、私を小劇場まで引きずり出すのである。今回は、家族関係に引きずり出された、ということになるだろうか? 娘がカネシロファンなのである(これまでにも何度か書いたと思う)。

 
 

 芝居自体について詳しいことを書くのはメンドーなので、とりあえずシチュエーションの中で、こちらに響いた言葉を書き残しておきたい。

 
 

  医学は反自然だ

 

という意味のセリフ。

 つまり「治療」は「反自然的行為」なのである。

 デリダは外科医。ガタリは医学部を目指すデリダの息子。ドグマは、デリダの(不肖の)弟子。 …というシチュエーションの中で、その言葉が、何度か吐かれる。

 これ、「老眼と自己決定」シリーズ(「現代史のトラウマ」の、だ)のテーマとなりつつある問題だ。輸血も人工呼吸も「反自然的行為」なのだ。もちろん、脳死臓器移植は「反自然的行為」の極みだろう。
 (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cec.html

 もっとも、劇中では、医学的な文脈が、天文学的な文脈とシンクロするものとしても描かれている。「反自然」であるはずの「医学」の深奥の秘密は、「自然」である天体の運行に支配されているわけである(あくまでも芝居の中での話だが、それが、動脈、静脈、包帯の赤青白と、月蝕状態の月の赤、地球の青、太陽の白のイメージを用いて説明されていたことは書き残しておこう)

 振り返ってみれば、医学のモチーフの上に進行するストーリーには、もう一つ「人力飛行」という、これまた「反自然」的モチーフが重ねられていたのだった。飛行もまた、反自然ではあるが、自然の原理(物理的原理)に拠ることにより可能になる技術であろう。

 

 「医学」を究めようという欲望に突き動かされ、患者の利益などまったく考えることのないデリダ以下の集団と、「人力飛行」に賭ける仲間が、医師と患者の関係を通して出会ってしまう。そんなシチュエーションが生み出す、非現実的な進行の背後に現実的な問題意識も垣間見せる舞台、という括り方も乱暴ではあるけど、「武蔵野美術大学競技ダンス部」の「協力」も得ての躍動感あるステージに出会えたわけだから、「閉所恐怖症(ただし若干)」を克服(?)して出かけただけの甲斐はあった、と言うことにウソはない。

 
 
 

…と、ここまで書いたのを読み直して、前回の金城作品である『アケオメスト』(劇団むさび公演)のモチーフも、未知を既知へとすることへの努力というか欲望であったことを思い出した。

 「もっと先が見たい・知りたい」という欲望、である。

 今回は、その対象が医学であり、もっと完璧に空を飛びたいという欲求であった。妻が設計した人力飛行具の操縦者として、夫は墜落し、結果として命を失う。墜落した夫の搬送先で、その夫の救命に失敗するのが医師ドグマなのであった。

 

 金城作品のこの先を観たいし、知りたいしという欲望に突き動かされ、小劇場の閉所的空間に足を運ぶことになる。

 どうもそんな未来が待ち受けていそうである。

 
 

 相手は「無敵」なんだから、抵抗はムダなんだろう…

 

 最後になったが、デリダを演じていたのはカネシロ本人であった。

 
 
 
 
 
 
註 : 「反自然的行為」としての「医学」に言及した文章として、ここに採録しておくことにした。

 「劇団無敵」のその後の公演については、「ジュリエットDVD 無敵の英雄(その知られざる過去)」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-067d.html)をどうぞ。

 

 

 

 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/09 23:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112628

 

 

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2009年8月10日 (月)

老眼と自己決定 (25) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理

 

 どうも、調べてみると、「輸血」という医療技術が本格的に用いられるようになる時期は、第二次世界大戦と重なるようである。

 

 「輸血」による治療の試みは20世紀以前に遡るようだが、「血液型」が発見されるのが1900年、そして血液の「抗凝固剤」が発明されたのが1914年であり、それぞれの発見と技術なしには、「輸血」が医療技術として確立・普及することはあり得なかったわけだ。

 そして最初の「血液銀行」設立が1937年(「盧溝橋」の年)となっている。

 

 つまり、第二次世界大戦前夜に、技術的な基盤が確立し、第二次世界大戦では、その輸血技術が多くの負傷兵の命を救ったわけである。
 (→ http://www.wanonaka.jp/sub10.htm

 

 平和であっても輸血技術は普及したに違いないにしても、戦争が大きく後押しをしたこともまた<事実>ということになりそうである。

 

 

 

 もう一つの20世紀になっての医療技術である「人工呼吸器」は、その本格的使用が朝鮮戦争の時期と重なるようだ。

  先にも述べたように、脳死は人工呼吸器なしには発生しない。そして、人工呼吸器が発達したのは、 1950年代に入ってから、朝鮮戦争を契機としてなのである。50年代後半に、朝鮮戦争で急激に発達した 人工呼吸器が一般の医療現場にも積極的に導入されるようになったとき、人工呼吸器を使用している重篤な患者の中に、たしかに心臓は動いているが、どう見ても生きている徴候が全く見られない患者が観察されるようになった。そういった症状に対して、'coma depasse'(行きすぎた昏睡、超過昏睡)とか、卑俗には『力強く脈打つ死体』といった表現が用いられるようになった。
 立花隆 『脳死』(中公文庫 1988)

…ということなので、「人工呼吸器」に関しても、その技術的発展の後ろには戦争があったということになる。

 
 
 

 もともとの「脳死」の問題への関心から、人工呼吸器という20世紀の「高度」と言ってよい医療技術、その後のより高度の医療技術の基礎となったものとしての、そして脳死状態を準備した技術としての、「人工呼吸器」の存在は、私には、しばらく前から気になるものであった。

 つまり、「脳死状態」を生み出すのは、実は、その「高度医療技術」なのだから。

 

 
 

  

 今回、あるML上での「エホバの証人」をめぐるやり取りを通して、彼らが異端視される要因となる「輸血拒否」の問題を考えることになった。

 

 ML上では、ナチス時代のドイツにおけるナチスへのキリスト教徒の態度、という問題が論じられていたのだが、強制収容所収容者の一カテゴリーを形成(紫の標章で、他の収容者から区別された)するに至る「エホバの証人」の存在に関する私の言及が、正統的クリスチャンを任ずるらしい他のメンバーからの大きな反発を招いたのである。彼らの教義は、キリスト教徒のものではない、と言うのである。

 私自身は、信仰の外部の人間なので、彼ら「エホバの証人」の信仰をキリスト教内部のものとして評価することの妥当性の判断を、信仰上の問題として論じることは出来ない。そのことを述べた上で、以後は「エホバの証人」については「聖書の文言に基づく信仰を抱く人々」として言及することにした。系譜論的には、「オウム真理教」の教義を仏教教義の一支流として論じることが出来るのと同様に、「エホバの証人」の教義をキリスト教の歴史が生み出したものとして論じることは可能だと考えているが、ここでは「正統派クリスチャン」氏の<情>に配慮したわけである(しかし「正統派クリスチャン」氏の疾走する<情>は、この配慮を理解しなかったのであるが、まぁ、その話はここでは関係ない)。

 

 話を戻せば、確かに、「エホバの証人」の信仰が要求する「輸血拒否」というのは異様な感じを受ける行為である。

 しかし、一方で「輸血」という医療を考えれば、今でこそ普及してはいるが、上記のように、基本的に20世紀になっての「高度医療」に属するものなのであり、「人工呼吸器」同様に、現代のより高度の医療の基底をなしているわけである。

 
 逆に言えば、いわゆる第三世界には、まだまだその恩恵に与ることの出来ぬ人々の存在するタイプの医療、ということになる。

 つまり、現在でも地球レベルでは、必ずしも普遍性ある医療技術ではないということになるわけだ(アフガンやイラクの病院の状態を想像すること)。

 
 高度医療技術としての「輸血」という観点からは、「輸血拒否」を、インフォームドコンセントの延長としての、患者による医療内容の選択という領域の問題と考えることが出来るように思える。医療内容の選択、つまり患者の自己決定権の行使である。

 ここでは「輸血拒否」は、高度医療継続の拒否なのであり、いわゆる「尊厳死」の問題につながるものとして、その一見しての異様な印象とは別に理解することへの可能性が開かれるのではないだろうか。もちろん、あくまでも、彼らの聖書解釈の妥当性という信仰の文脈とは独立して考えることが必要となる。

 

 ここで問題があるとすれば、成人なら確かに本人の自己決定の問題となるが、未成年者の場合の取り扱いであろう。

 自分の子供への輸血拒否は許容されるのかどうか?ということである。つまり、親が子供への輸血拒否をすることの当否、という問題である。

 
 ここで、「脳死」の問題が大きくリンクしてくる。

 先般の臓器移植法の「改正」では、脳死状態に陥った15歳未満の子供からの臓器移植が、その親の同意を要件とすることにより、合法性を備えたものとして可能となった。つまり、子供自身の事前の意思確認なしに、親の同意のみで、脳死臓器移植が可能とされたのである。

 子供自身による自己決定権の尊重という姿勢は失われてしまったのである。

 もちろん、現実には、これまでは、自己決定能力の未完成を理由に、15歳未満の子供からの臓器提供は禁じられていたわけだ。未成熟な責任能力という観点から、15歳未満の子供への意思確認の妥当性自体が否定されていたのである。

 今回の「改正」では、子供の自己決定能力の有無が問われることはなくなり、親の同意のみで子供からの脳死臓器提供が可能となってしまった、ということなのである。

 

…ということは、論理的には、「エホバの証人」による自分の子供への輸血拒否は尊重されねばならない、ということになってしまうはずである。

 子供の受ける医療内容への最終的決定権が、その子供の親にあるというのが、今回の臓器移植法改正の眼目なのだから。

 

 

 まぁ、私自身には、成年者本人はともかく、親の意思による子供への輸血拒否を支持することは出来ないし、そもそも今回の臓器移植法「改正」も支持出来ないわけであるが…

 

 
 

 
 そう言えば、イラク戦争では、ヘルメットの改良により防護能力が高まった結果、逆に、これまでに見られなかったタイプの脳損傷に見舞われた兵士が多く見られるということである。そして、その対処・治療法の確立が問題になり始めているわけだ。

 

 これもまた、戦争と医療の関係の新たな一断面ということになりそうである。

 
 
 
 
 

註 : 「老眼と自己決定 (番外編) 輸血と人工呼吸器、そしてイラクのヘルメット」(2009/08/01 23:38 )のリライト
 (→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/111867/user_id/316274

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/10 12:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112664

 

 

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2009年8月 9日 (日)

リベラルはサヨク、なのか? 自由主義者としての吉田茂

 

 日々、果敢な闘いを展開していらっしゃるウヨクの皆様によれば、リベラルはサヨク、民主党はリベラルだからサヨク、ということになるらしい。

 もちろん、その闘いの当面の目標は、自由民主党政権を擁護し、「リベラル」な民主党政権成立を阻止することだ。

 

 

 まぁ、以前にも指摘したことがあるけれど、自由民主党は、英語圏に向けては「リベラル・デモクラティック・パーティー(Liberal Democratic Party=LDP)」と名乗っている政党である。自由民主党をこそ、正統派のリベラルと考えねばならない、のではないだろうか?

 実際問題としても、自由民主党に結集した政治家の皆さんが、自らの集団を「自由民主党=Liberal Democratic Party」と呼ぶことにしているのは、コミンテルンの陰謀ではなく、自由党と日本民主党を母体に持つ、その歴史によるものだ。1955年11月に、自由党と日本民主党の合体(いわゆる「保守合同」)により発足したのが、現在に至る自由民主党なのである。

 どう考えても、リベラルの名は(「実」はともかくも)、民主党ではなく自由民主党にこそふさわしい。

 

 

 その自由民主党のルーツとなる、そのものずばりの「自由党」は、戦前の2大政党の一つであった「立憲民政党」系の政治家によって、敗戦後の日本で結成されている。

 1946年の衆議院議員選挙で第一党となり、総裁である鳩山一郎の首相就任が確実となったのだが、当の鳩山が、占領軍による公職追放により、政界から排除(パージ)されてしまう。そこで鳩山に代って登場したのが、あの吉田茂なのである。

 

 吉田茂こそは、戦前・戦中より、リベラル=自由主義者として、当時の米国駐日大使ジョセフ・グルーにより、高く評価されていた日本人なのである。

 吉田茂は、西園寺公望、牧野伸顕、樺山愛輔と並んで、親英米派の自由主義者として、グルーから大きな信頼を得ていたのであった。

 

 この親英米派の「自由主義者」達は、同時に「宮中グループ」とも呼ばれる昭和天皇の側近でもあった。

 (敗戦後の天皇自身の言葉によれば)戦前・戦中は立憲君主として振舞うことを何よりも心がけていたという天皇から誰よりも信頼されていたのが、彼ら「宮中グループ」であったということも忘れてはならないだろう。立憲君主としての立場上、自身の意思を表明することは叶わなかったにしても、昭和天皇の信頼は「軍国主義者」の上に注がれていたのではなく、彼ら「自由主義者」のものであったのである。

 つまり、昭和天皇もまた「自由主義」の側の人間として、少なくとも駐日大使グルーには理解されていたのである。そしてその「理解」があったからこそ、敗戦後の日本においても「象徴」という形で、天皇の地位は保たれることになったということも、この国の「自由主義=リベラル」の伝統を考える上で忘れられるべきではない。

 

 戦前・戦中の、いわゆる軍国主義に抗したグループを大別すれば、共産主義者と自由主義者ということになるであろう。共産主義者達は治安維持法下、刑務所に収容されていたわけで、実質的に(それが成功しなかったにせよ)軍国主義に立ち向かったのは自由主義者達であった。その傍らには昭和天皇の姿もある。

 それが敗戦に至るこの国の歴史の<事実>である。ウヨク流(あるいは田母神氏流?)の表現をすれば「近代史の真実」ということになろう。

 

 

 その上で、戦後の彼らの軌跡を振り返ってみよう。戦前・戦中の反軍国主義者としての「リベラル」の戦後は、反共産主義者としての戦後であったのである。冷戦構造の中、吉田茂は、政治家としてその反共主義を貫くことになる。

 そもそもリベラリズムは、経済思想としても政治思想としても、共産主義(サヨク正統派!)に対峙する思想なのである。

 

 ここにこそ、我が国のリベラリズムの伝統があると考えるべきであろう。

 この国と歴史の伝統を、少しでも大事にする気があるならば、リベラリズムをこそ擁護せよ!と言うべきなのである。

 

 

 

 戦前・戦中・戦後と、その日本の「リベラル」を体現していた人物の孫が、現在の自由民主党(Liberal Democratic Party)の総裁なのだ。

 「リベラル」を攻撃することによって、麻生太郎氏の率いる自由民主党を擁護しようという発想は、とんでもなくナンセンスなものなのである。この国の歴史と伝統を尊重する気があるのなら、このことをまず理解しなければならない、はずだ。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/112525

 

 

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2009年8月 5日 (水)

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

 

 

ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
(マルティン・ニーメラー/ナチスに抵抗したルター派牧師)

 

上記は自由と民主主義を語る上で有名な牧師の言葉です。労組などの組織的支援があり、行政に深く食い込み、豊富な資金力と動員力を持つ左翼団体こそ現在のナチスと言えるでしょう(左翼をナチスと呼ぶのが適切であるかどうかは別として)。
6.13デモを数と力で押しつぶそうとする左翼サイトにも同じ文章が引用されていますが、現在の状況からすれば悪意ある誤用とでも見るべきですね。
 (http://www.zaitokukai.com/modules/wordpress/index.php?p=103

 

 

…というお話は興味深い。

 コメントからわかる通り、「左翼」に敵対する皆さんの運営するサイトで見つけたお話だ。

 

 

 ニーメラーの言葉を歴史的事実として説明すれば、ナチスの攻撃対象は、

1) 政治的に、ナチスに敵対していたからこそ、共産主義者や社会主義者はナチスから攻撃された。

2) ナチスへの非同調者とみなされ、ナチスに攻撃された学校・新聞はあったが、ナチス体制に同調し、組み込まれていった学校・新聞もあったことは言うまでもない。

3) 健康なアーリア人のユートピアであるナチス国家にふさわしくないとして、障害者とユダヤ人は排除・抹殺された。

という3つのカテゴリーに分けることが出来る。

 

 

  そしてナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから行動にでた。
  しかし、そのとき自分のために声を上げてくれる者はいなかった。
 

というニーメラーの言葉を言葉通りに受け取るべきでもない。1)2)3)の進行する過程に並行し、1934年の段階で(つまりナチスの政権掌握の翌年には)、ニーメラーはナチス体制への非同調者としての「告白教会」の設立者の一人となっている(設立に向けた活動は、既に1933年に始まっている)。つまり、事態は同時進行していたのだ。「非同調」がやがて「抵抗」を意味するものとなっていくのである。

 しかし、「自分のために声を上げてくれる者はいなかった」という点で、このニーメラーの表現は歴史的事実に反するものということにもならない。

 

 まず、この言葉が、戦後ドイツという条件を背景に発せられたものであるという点を理解しておかなければならないだろう。

 ナチス体制の実質的共犯者としてのドイツ国民という反省的認識が、そこに込められているのである。

 教会=牧師は、ナチスへの抵抗者であり犠牲者であると共に、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人へのナチスの攻撃を他人事として見過ごしたという意味で、国民と同様の共犯者でもあったという両義的な意味を読み出す必要を感じる。ここでは、告白教会の非力と共に、ナチ体制への同調者を含む教会全体としての責任が問われていると考えられるわけだ。

 

 

 

 

 さて、この言葉が、ここでは「左翼」批判のために引用されているところが注目点である。「左翼」がナチス同様である、という論理だ。

 つまり、ここでは否定的な存在としてナチスが登場させられていることになる。

 そして否定されるべきは、ナチス同様の左翼なのである。

 それは自由と民主主義に反する存在であるから、ということになるのであろう。

 我々の社会では、伝統的には、ナチスに政治的に敵対していた共産主義者や社会主義者のことを「左翼」と呼んできたわけだ。実際に、それゆえにナチスの最初の攻撃対象が共産主義者だったのであり、社会主義者だったのである。そういう意味で、ナチスからすれば、なんとも不本意な非難のされ方であるに違いない。もちろん、正統的な「左翼」である共産主義者や社会主義者たちにとっても、だ。

 

 

 ニーメラー牧師の言葉を引用した皆さんは、左翼を敵とみなし、「反日」勢力との闘いに心血を注いでいる方々である。

 ところで、ここで、大日本帝國の歴史を思い出しておきたい。

 第2次世界大戦と呼ばれる「あの戦争」で、大日本帝國はナチスドイツと同盟関係にあったことを。日独は、枢軸国として、米英の世界支配に対し共に戦った関係にあったのだ。もちろん、ナチスとの同盟関係はコミンテルンの陰謀によるものなどではなく、大日本帝國政府が国策として主体的に採用したものである。

 論理的には、ナチスを否定の対象とし、現在の「左翼」に対し、ナチス同様であるという言葉を以て非難する以上、体制的共感に基づくナチスの同盟者であった大日本帝國もまた、自由と民主主義の敵として非難されるべきことになる。

 多分、大日本帝國も反日的国家であったに違いない。

 

 

 

 

 ところで、今回あらためて、ニーメラー牧師の「言葉」の出典・初出を調べてみたのだが、文書の文言として流通している確定したテキストとしては、米国人ミルトン・マイヤーの著作『they thought they were free』(『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』 1955年)に収録されたものが初出、ということになるらしい。ただし、ニーメラー自身は、繰り返し同趣旨の言葉を語っていたようで、研究者によれば、時期的にはもっと遡ることが出来るようである。

 また、発言の度、引用の度に、ナチスの攻撃対象として例示される集団も変化しており、巷間ニーメラーの言葉として流通しているものには複数のヴァージョンが存在するということだ。

 

 例えば、1976年ヴァージョンでは、

  彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
   (ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
  私は共産主義者ではなかったから。

  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
  私は社会民主主義ではなかったから。

  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
  私は労働組合員ではなかったから。

  彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
  私はユダヤ人などではなかったから。

  そして、彼らが私を攻撃したとき、
  私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

 

となっている。冒頭に掲げた言葉とは、かなり異同があることがわかるだろう。
 

 戦後最初期(1946年)のもの(実際のスピーチ)では、ナチスの犠牲者(被攻撃対象)として並べられているのは、

 共産主義者
 障害者
 ユダヤ人 あるいは エホバの証人
 ナチス占領下の人々

であったという話だ。

 「現代史のトラウマ」シリーズの観点からすれば、障害者(不治の病者)への言及に注目してしまうところだし、このところ関わってしまった議論からは、ここに「エホバの証人」の名が登場するところに感慨を持つ。

 障害者はナチス国家から排除・抹殺の対象とされ、「エホバの証人」はその信仰を理由とした不服従ゆえに、強制収容所における収容者の一カテゴリーを形成する集団となったのである。

 

 

 

 ある定義によれば、

  日本固有のウヨクってのは、いつも<情>が疾走して<知>を無視します

ということになるらしい。確かに田母神氏の「論文」など、史的事実の究明とは関係なく、論理的分析への配慮も欠落した、ただただ「お気持ち」だけで書かれた文章であった。

 

 今回ご紹介した、反日勢力との闘いを使命としているらしい団体にしても、「左翼」批判のためにナチスを利用しているわけだ。ナチス=自由と民主主義への敵対者=「左翼」という構図を描くことによって。

 そのような前提の結果として、大日本帝國の国策が自由と民主主義に敵対する勢力(つまりナチス・ドイツ)との同盟の構築であったという歴史的事実の位置付けが問題として浮上してしまうことになる。

 つまり、大日本帝國を自由と民主主義への敵対者との同盟者として認識せざるを得なくなるわけで、彼らの「左翼」批判の論理は大日本帝國批判の論理として帰結してしまうことになるのである。

 

 もちろん、これは彼らも<知>を重視することが出来ればの話であることは言うまでもない。

 彼らにこの論理的問題点は理解出来るだろうか?

 何よりも問題の焦点はそこにある、ように思われる。

 

 

 

 最後にもう一つ。彼らは、特定民族出身者に対する排外主義的運動を、その活動の中心に据えている団体である(在特会=在日特権を許さない市民の会)。言うまでもなく、ナチスこそは、アーリア人の国家からのユダヤ人の民族的排除を運動の中心に据えていた団体であった。

 ニーメラー牧師の言葉を思い出そう。

 彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
 私はユダヤ人などではなかったから。
                      (1976年版)

 ここでは、ユダヤ人がナチスの犠牲者としての独立したカテゴリーを形成しているのである。

 「在特会」の皆さんが、左翼団体を「現在のナチス」と呼ぶこともご自由ではあるが(<情>の表現として)、その前に、自らがその民族的排外主義において、十分にナチスの似姿であることにも(少しは<知>を発動させて)気付いておいて欲しいところである。

 

 

    …そして、彼らが私を攻撃したとき、
              私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった…

 

 

 

 

 

参照

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

First they came...
 → http://en.wikipedia.org/wiki/First_they_came...

在日特権を許さない市民の会=在特会
 → http://www.zaitokukai.com/

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/08/04 22:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/112142/user_id/316274

 

 

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