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2009年7月 4日 (土)

老眼と自己決定 (17) 脳死を生きる 10

 

 2009年6月18日に衆議院本会議で可決された「臓器移植法改正案(いわゆるA案)」は、

  脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

というものであった。現行法からの変更点は、

1) 脳死を一律に人の死とする
2) 本人の意思が明らかでない場合、家族の同意のみで臓器提供を可能とする
3) 臓器提供者への年齢制限を撤廃する

の3点となる。それぞれに現行法では、

1) 脳死状態に陥った際の臓器提供への本人の事前の意思表示が明らかである場合にのみ、脳死を本人の死とする
2) 本人の事前の意思表示に加え、家族の同意を得て、臓器提供を可能とする
3) 15歳以下の臓器提供は禁止する

ということになる。

 現行法を支えているのは、自己決定権の尊重という理念であろう。

 1)及び 2)は、脳死状態での臓器提供に関する本人の事前の明確な意思表明の存在を前提とし、その意思の尊重という形式で、脳死を本人の死とし、脳死状態の身体からの臓器提供を可能としているわけである。

 3)は、自己決定の責任能力という観点から、15歳以下を脳死臓器提供者から除外していることになる。

 それに対し、改正案の 1)は、法的な「死」の定義そのものを、心臓死から脳死へと変更しようとするものである。法的であるということは、社会的合意としての死の定義の変更であることを意味する。これは、現行法では、死の時点が自己決定の対象とされていることも意味するわけだ。

 改正案の 2)は、現行法では本人の積極的な事前の意思表示の存在を臓器提供の要件としていたのに対し、本人の事前の意思が不明であっても家族の同意のみで臓器提供を可能にするものである。つまり、改正案では、本人の自己決定権の尊重という理念が著しく後退していることを示している。

 改正案の 3)は、自己決定能力の存在を問わずに臓器提供が可能にされているということを意味するものだ。

 

 

 参議院に議論の場が移された現実の国会では、民主、共産、社民、国民新各党などの(野党)有志議員が「子ども脳死臨調設置法案」を既に提出しているのに加え、

 

 自民党の参院有志議員は2日、衆院を通過した臓器移植法改正案のA案の修正案を来週にも参院に提出することを決めた。

 脳死を「人の死」としている点を改め、現行と同じく臓器提供時に限って人の死とする内容だ。

 修正を検討しているのは、自民党の古川俊治参院議員ら。A案は衆院で可決されたものの、脳死を人の死とすることには依然、慎重意見が根強いと見て、修正により支持を広げる考えだ。子どもへの臓器移植を可能にするため、臓器提供の年齢制限を撤廃する規定は維持する。野党にも賛同者を広げ、早ければ7日にも参院に提出したい考えだ。
 (読売新聞 2009年7月2日 20時25分 → http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090702-OYT1T00828.htm

 

と報道されている。

 参院自民有志修正案は、脳死を一律に人の死とするという、衆院での改正案(A案)を後退させるものとなっている。その点では、本人の自己決定権の尊重という現行法の理念に立ち戻っているように見えるが、2)と 3)では衆院の改正案が維持されており、実質的には、自己決定権の尊重という論理は放棄されているのである。

 野党有志議員による「子ども脳死臨調設置法案」について言えば、その背景には、これまでも繰り返し言及して来た、長期脳死者の存在がある。その意味で、必要な手続きであると言えよう。

 自民党議員による修正案の方は、一律に脳死を人の死としてしまうことについて、社会的合意が獲得されていないという現状認識が生み出したものだろう。その意味では、社会の現状への配慮として評価出来るようにも見えるが、実質的には、「A案」の根幹は維持されているのである。

 要するに、参院自民有志修正案では、1)に関しての「自己決定権の尊重」を復活させているように見えるが、脳死状態における臓器提供の決定権を本人ではなく家族にしているのが実態であり、本人の自己決定権への配慮は存在しないに等しい。

 

 

…と、長々と書いて来たが、そもそも、死の時点とは社会的合意にこそ属するものであり、自己決定の対象ではないのである。

 全細胞死の時点をオレの死としてくれ、あるいは53歳の誕生日に死んだことにしてくれ、なんて意思は尊重されることは決してないのである(尊重すれば、法的に処罰されるだけだ)。生体の辿る連続的過程における死の時点は、社会的に定義されるものなのであり、自己決定することは、原理的に不可能なのである。

 その意味で、現行法と参院自民有志修正案における 1)の規定は、本来的な「法」という体系になじむものではない。

 脳死状態の人間を死体として取り扱うことにより、脳死者からの臓器提供を可能にするという目的が生み出した言葉のマジックと考えることが妥当に思えるのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/03 22:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108988

 

 

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