老眼と自己決定 (20) 脳死を生きる 13
昨夜で、「老眼と自己決定」シリーズの「脳死を生きる」編も、12回目となってしまっている。
いずれにしても、「脳死臓器移植」をめぐる善悪正邪の判定が目的ではなく、要するに自分の腑に落ちない点をはっきりさせておこう、というのが論の主眼である。
他人がどう思うかとは別に、私の視点から、気になること、世の中の議論から抜け落ちているように感じられることを書いておきたいわけだ。
私自身は、これまでにも書いたように、木村敏氏の提起した問題に大きく影響を受けている。
脳死臓器移植「医療」は、患者(レシピエント)に他人の死を期待する心情を持たせてしまうことになる、という指摘だ。
その論理、あるいはそこから生み出される倫理観は、少なくとも私自身には、自分自身が脳死臓器移植「医療」でのレシピエントとなることへの抵抗感を抱かせるものとなった。家族という立場でも(つまり、たとえば自分の娘が脳死臓器移植以外に延命の可能性がないという状況になっても)、脳死臓器移植「医療」を選択することはしたくない。
そのような意味で、脳死臓器移植「医療」に関しては、(脳死臓器移植医療ではなく)しつこく「 」付きで脳死臓器移植「医療」と表記しているように、医療行為としての位置付けに戸惑いを覚えていることも確かなのである。つまり、「中立的立場」で問題を論じていると主張することは出来ない。
しかし、脳死臓器移植「医療」を「告発」することを目的としているわけでもない。
私の視点から、論点を整理しておくこと。そこに、書き続ける動機がある。
批判的な記述が多くなっていることは確かだろうが、私が問題をそのように見ているというだけの話で、読者の同意を求めているわけでもなければ、読者を説得しようとしているわけでもない。
脳死臓器移植「医療」の推進を求める方には、私の疑念をクリアした上で、その主張を展開していただければよいと思うだけだ。問題をスルーするのではなく、クリアすることにより、推進の論理も強固なものとなるだろう。
世の中では、シロクロを明確にした議論、わかりやすい結論が求められる傾向があることは承知しているが、そのような方向性は、これまでの議論からも、これから書くかも知れない議論からも見つけることは出来ないと思う。
話としてはわかりにくく、じれったく感じられるかも知れないが、何らかの結論ではなく問題を「考える」姿勢を共有していただければ、それで私の目的は達せられるものと思っている。
(オリジナルは、投稿日時 2009/07/08 23:37 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109495)
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