« LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編) | トップページ | 老眼と自己決定 (23) 脳死を生きる 16 »

2009年7月14日 (火)

老眼と自己決定 (22) 脳死を生きる 15

 

 脳死臓器移植「医療」をテーマに、いろいろと書いて来たが、基本的に、その推進に対しては批判的なスタンスであった。

 

 

 

 

 実は、私自身は、「死体=生ゴミのようなもの」という感覚を持っている。死体の資源化という発想に対して、倫理的な反感はない。

 ただし、死体を資源として捉えることは、受益者の間に、より多くの死体の確保への欲求を生み出し、より多くの死体供給のための努力として帰結する可能性が大きい。そのことは倫理的に望ましからぬ事態を生じさせるはずである。

 そのような意味で、死体の資源化には慎重さが必要だと考えるのである。

 

 J・ヘラーが、第二次世界大戦の米陸軍爆撃機搭乗員を主人公に書いた小説『キャッチ22』には、主人公ヨッサリアンが機体後部で死にゆく後方銃手を抱きかかえながら過ごす時間を描いたシーンがある。高射砲弾の破片で身体を引き裂かれており、救命の方途はない。彼の血液に浸った状態で基地に帰投する。

 その時の経験が、繰り返しヨッサリアンの脳裏に現れ、繰り返しその意味を問うことになるのだが、死の意味が、(特にヨッサリアンにとって)戦死の意味が、人間が生ゴミと化していく過程として見出されていくのである。

 逆に、そこに戦争を生き抜くことの価値が見出されるというのが、小説の展開なのだが、「死体=生ゴミのようなもの」という私の感覚の形成に影響を与えているエピソードの一つに違いない。

 

 母の介護をする中で、母の姿を毎日撮影していたことも書いた。「ご臨終後」の一部始終も、当然、撮影の対象である。

 続く日々の中では、死体となった母の姿も撮影していたわけである。

 生死は大きく隔てられた状態だ、と、つくづく思わされたものだ。

 寝たきり状態であっても、表情は刻々と変化するのである。死体には、変化というものがまったくない。モノと化した状態。そのことを痛感した。

 

 「生ゴミのようなもの」にせよ「モノと化した状態」にせよ、私にとっての死体とは、生きている人間とは異なる状態に変化してしまった、かつて生きていた人の身体に過ぎない。それは、既に、過剰な思い入れの対象ではない。

 

 死体の資源化自体に、倫理的抵抗感がないのは、そのような感覚が背景にあるからだろう。

 そのような意味で、脳死体の臓器利用自体に抵抗感を感じるわけではないのである。

 先に示したように、私が危惧しているのは、死体の資源化の帰結がもたらす倫理的問題であるに過ぎない(しかし、このことは実に重要な問題であるが)。

 

 

 

 

 そのような話をした上で、脳死を人の死としてしまうという内容の「臓器移植法改正案(A案)」が、衆議院に続いて参議院本会議でも可決されてしまった今日、「脳死」は本当に人の死なのかどうか、そのことをもう一度問うておきたい。

 

 脳死状態が本当に生物の死として記述可能な状態なのであれば、脳死臓器移植「医療」を、死体利用の方法の一つとして考えることは出来る。

 

 しかし、やはり、そこに疑念が残るのである。

 

 

 

 執刀している医者たちが一番嫌うのは、脳死者から臓器を摘出するときに、苦しがってバタバタ暴れているようにしか見えない行動が出現する場合だ。脳が死んでいるから、その人は苦しんでいないというが、本当かどうかはわからない。脳死者から臓器を取り出すときに脳死者に麻酔をかけなければ、暴れてうまく手術が行えない事実こそは、脳死と言われているものが本当の死ではない証拠のように私には思える。
 (池田清彦 『脳死臓器移植は正しいか』 角川ソフィア文庫 2006)

という話を思い出してしまう。

 死体に麻酔をかける必要はないはずではないだろうか?そこにあるのが本当に死体であるならば。

 麻酔ではなく筋弛緩剤を使用する医師もいるらしい。筋弛緩剤では、痛みの感覚は緩和されないので、もし脳死状態が感覚の消失を意味していないのだとしたら、ドナーにとっては悲劇である。

 どうもその辺の疑念が検討された形跡がない。衆議院で9時間、参議院では8時間という審議時間なのである。あまりに安易ではないだろうか?

 

 そして長期脳死者の例がある。脳の機能の廃絶の判定の一方で、それ以外の身体は成長を続けているのである。そこでは細胞が生きており、更新され、代謝機能が有効であるからこそ、身体的成長があるはずだ。

 そのような身体機能の継続がありながら、脳の機能にのみ注目することにより、生物体としての「死」を宣告することが、脳死を人の死とすることの意味である。

 重度の心身障害者の姿を目に浮かべる時、心臓死から脳死へと変更された死のラインをほんの少し動かすことで、彼らを死者に参入させることが可能になることに思い至る。

 今回の改正に至る議論が、実に慎重さから遠いところで終始していたことを思えば、今後の死のラインの安易な変更の可能性を否定することも難しい。

 

 「精神的な死者」という、ナチスの安楽死政策の用語を思い出さずにはいられないのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/13 22:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109970

 

 

|

« LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編) | トップページ | 老眼と自己決定 (23) 脳死を生きる 16 »

健康という名のテロリズム」カテゴリの記事

脳死を生きる」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/30534447

この記事へのトラックバック一覧です: 老眼と自己決定 (22) 脳死を生きる 15:

« LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編) | トップページ | 老眼と自己決定 (23) 脳死を生きる 16 »