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2009年7月 7日 (火)

老眼と自己決定 (18) 脳死を生きる 11

 

 

  脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

  脳死を「人の死」としている点を改め、現行と同じく臓器提供時に限って人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

 

 前者が、2009年6月18日に衆議院本会議で可決された「臓器移植法改正案(いわゆるA案)」であり、後者は参議院に提出予定の、自民党参院有志議員による衆院改正案に対する修正案である。

 

 いずれにしても、現行法では、本人の明確な臓器提供への意思表示の存在を脳死臓器移植実施の要件と定めているのに対し、本人の意思が不明確であっても家族の同意により、脳死状態に陥った時点で死体として取り扱われ、臓器が摘出されてしまうことになる。

 現行法では、本人の自己決定権の尊重の結果としての脳死臓器提供の容認という形式を踏んでいるのに対し、衆院改正案及び参院修正案の両者共に、自己決定権への配慮は大きく失われている。しかも15歳以下も臓器提供対象とすることで、自己決定能力を問うという現行法の姿勢は完全に失われたと評価することも出来そうである(自己決定能力の不在が、現行法における臓器提供の年齢制限の理由であった)。

 

 

 これまで、まず、一律に脳死を人の死としてしまうことの妥当性への疑念を、「長期脳死者」の事例や「ラザロ徴候」、そして臓器摘出時に脳死体が示す反応例の報告を通して考えて来た。

 脳の状態のみをもって、人が生きている状態の判定基準とすることの妥当性(あるいは危険性)を、ナチスの安楽死政策との対比で考えてもみた。脳死を人の死とする発想は、脳に重度の障害を持つ心身障害者の存在に対し、その生存権への否定につながりかねないものなのである。

 また、脳死臓器移植「医療」がもたらす「死体の資源化」とでも言うべき状態は、より多くの死体の供給への欲求を生じさせることになる。ここでは、救急救命医療の対象であるはずの患者が、同時に潜在的脳死体として評価・期待されるという状況も生まれてしまうだろう。救急救命医療とは正反対のベクトルの上に脳死臓器移植「医療」が成立するという構図として描くことが出来る。

 そして、「自己決定権」という理念の尊重の上に成立している現行法と、「自己決定権」への配慮を喪失させることで脳死者として判定される患者を増加させ、脳死臓器移植「医療」の推進を図ろうとする「臓器移植法改正案」とその「修正案」を対比し、そこに潜む問題を示してみたわけである。

 

…と、これまでの議論を振り返った上で、木村敏氏の提起した、脳死臓器移植の実施が、臓器移植を待ち望む患者に脳死者の出現を待ち望む心理を生み出してしまうという倫理上の問題について、再び考えておきたい。

 

 

 

 

 脳死体からの臓器移植という方法以外に生命の存続の可能性のない患者という状況を、自身に当てはめ想像することは簡単なことではない。とりあえず健康であるということは、この数ヶ月、これから数年間は生きている自分という想定と共に日々を過ごしていることを意味しているはずだ。死の現実的可能性に直面すること、それも近い将来に苦痛を伴う形で実現するという可能性に直面する自分の姿を想定することは簡単なことではないのである。

 健康人に、当事者としての患者の心理状態を想像することは出来ないし、そのような健康人が当事者としての患者の欲求を、自分を高みにおいて批判することはあまりに無責任な話であろう。

 

 そのことを確認した上で、患者(レシピエント)と臓器提供者(ドナー)との関係性を考えてみたい。

 

 脳死状態に陥る他者の出現のみが、自らの生存の可能性を現実化するという状況。それが患者の置かれてしまう状況である。

 自らの生存のために、他者の死(脳死)を望む状況だ。自分が生き続けるために、どこかの誰かの死を願うという状況なのである。

 純粋に、「利己的」な状況と言うことが出来るだろう。自分が願わぬ自身の死と交換に、他者の死(他者も自身の死など望まぬはずであろうに)を願うという状況だ。

 患者が幼児である場合、どこかの幼児の死を願うのは、患者である幼児自身ではなくその家族=両親であろう。自らの愛する子供の生の存続への希望は、どこかの誰かの愛する子供の死への期待の上にのみ成り立つものなのである。そこにあるのは、実に純粋な利己的な心情であろう。

 

 一方で、脳死状態に直面した幼児の家族に要求されるのは、長期脳死状態をもたらすかも知れぬ医療の継続ではなく、脳死を自らの愛する子供の死として受け入れ、どこかの誰かの愛する子供のための臓器提供に同意することとなるわけである。ここでは、自らの愛する子供の延命治療の継続を求めることは否定されるべき利己的な行為として評価され、一方的な利他性のみが要求されることになるだろう。

 

 

 「臓器移植法改正案」及びその「修正案」が生み出すのは、このような構図の中に追い込まれる、現行法より多くの患者であり家族の姿である。レシピエントの側も、ドナーとされる側も、患者も家族も共に、このような倫理的困難の中に追い込まれて行くことになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/06 23:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109310

 

 

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