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2009年7月11日 (土)

老眼と自己決定 (21) 脳死を生きる 14

 

 脳死臓器移植「医療」を推進するためには、脳死状態の患者からの臓器摘出の合法性を保証しておく必要がある。

 つまり、脳死を人の死と定義することにより、脳死状態の患者は、治療の対象から死体へと変化する。臓器摘出により脳死状態の患者が死ぬのではなく、患者は既に死んでいるというのが、脳死を人の死と定義することにより生み出される解釈である。

 

 そして、別の場所で臓器移植を待ち望む患者に、脳死体となった患者からの臓器が提供され、移植手術が成功すれば、前者の近い将来の確実な死は遠ざけられることになる。

 

 

 一人の患者(ドナー)の死が、一人の別の患者(レシピエント)の生を保証するのである。

 

 

 脳死臓器移植「医療」先進国である米国のリポート(数日前のテレビニュースによる)などを見ると、ドナーの家族にとり(成人ならドナー自身もだろうが)、ドナーの死は臓器移植を通してレシピエントの生と結びつき、レシピエントの体内におけるドナーの生の継続として解釈されるという形式で、脳死臓器移植を受け入れるという構図が出来上がっているらしい(もちろん、「脳死=人の死」という図式が共有されていればこその話であろうが)。

 要するに、脳死臓器移植を通して、あるいは脳死臓器移植という手段があればこそ、ドナーの死は回避されたものとして認識されうるわけである。

 米国のケースでは、レシピエントの現実の延命と同時に、ドナーの想像上の延命として、脳死臓器移植が機能しているということのようである。

 

 死の回避は、確かに人間にとっての究極のと言っていいくらいの根深い願望の一つであろう。

 その意味で、米国における脳死臓器移植医療を支える論理と、そこから生み出される感情は、多くの人類に共有されると思われる不死への願望に適うものとして評価することも出来そうだ。

 

 愛する家族の死を受け入れる上で、家族を脳死臓器移植のドナーとすることに同意することが、その家族にとっては一種の救いとして機能しうるわけだ。家族の死(脳死)の受け入れが、同時に、家族の(他者の臓器としての)生の存続の保証となるのである。

 

 世界からの死の排除という願望を、脳死臓器移植が叶えるのである。

 ここでは、米国での脳死臓器移植医療の普及・進展が、それなりの完結した論理に支えられていることを見ておくべきなのだろう。

 

 レシピエントとしての患者が、どこかの誰かのドナーとしての脳死を期待しながら日常を送ることの倫理性を問うという発想は、このような論理に覆われる世界からは生まれにくいのかも知れない。

 レシピエントの存在こそが、ドナーの死をただただ悲しく不条理なものから、意味あるものへと変換するのだ。

 死を受け入れ可能なものにするのが、死を他人の中で継続する生へと変換する論理であり、その具体的手段こそが脳死臓器移植医療なのである。

 

 

 

 

 私自身は、生きていることはいつか必ず訪れる死を前提とした状態である、という思いの中で日々を生きている。

 小学校2年生の時に、父の死に続いて、双方の祖父母の死を体験したことが、その思いを生み出したのだと考えている。「人は皆、最後には死ぬものなんだなぁ…」という実感が、小学校2年生の私に刻み付けられたのである。

 

 この10数年の間に、姉と母を亡くした。無感動なわけではなかった。悲しみの感情は、常日頃から「人は皆、最後には死ぬものなんだなぁ」と思っている男の上にも宿るものである。

両者に対し、適切な医療の提供は出来たのだろうか?

その都度の選択は、最適なものであったのだろうか?

…といった疑念からは逃れられないし、とにかく、これまで直接的コミュニケーションを交わしていた家族と共に時を過ごすことは出来ないのである。それに気付くことは、既に取り返しのつかない地点にいるのだということを再認識させられることであり、そこで自身の無力感と喪失状態をあらためて味わうことになる。

 

 ただ、そのように考えても、生きていることがいつか必ず訪れる死を前提にした状態である、という認識はそのままに残る。

 やがて死ぬものこそが、現在を生きているものなのだ。

 そのような死生観からは、米国流の脳死臓器移植を支える論理が、魅力的だったり説得力を持ったものとして見えて来るということもない。

 

 

 自らの死を望まないのなら、まずは他人の死を望まない。

 私には、こちらの方が、理屈としても倫理観としても説得力があるものに思える。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/10 22:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109689

 

 

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