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2009年6月27日 (土)

老眼と自己決定 (13) 脳死を生きる 6

 

 脳死状態の人間を死者として取り扱うことにより、つまり、たとえ心臓が動き身体が温かくとも、人工呼吸器を着けベッドの上に横たわる人物を死体と認定することにより、臓器の切除利用が可能となる。

 つまり、脳の機能の廃絶の判定に基き、まだ心臓が動いている身体からの臓器摘出を可能にするのが、「脳死を人の死とし」てしまう、新たな死の定義なのであった。

 

 「脳死」の定義の特異性は、「心臓死」=人の死とする伝統的な生死観の上ではまだ生きている患者を、既に死んでいるものとみなしてしまうところにある。

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いに関連させれば、人の死を決定するのは社会的合意なのであり、現在の日本社会では、「脳死を人の死とし」てしまうことへの合意形成への試みが、まさに進行中なのである。

 

 

 

 脳の機能の廃絶=死という定式化がここにあるわけだ。つまり、人間が生きていることを、脳が機能している状態として定義するわけである。

 ここで再び、私たちは、あのカール=ビンディング(法学者)とアルフレート=ホッへ(精神医学者)の共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)を思い出すことになる。

 同書が手元にないので(友人のところへ出張中)、ここでは小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書 1997)の同書に関する記述を引用しておくと、

 

 このなかでビンディングは、「正当な基準」(死期が目前に迫っていること、および治癒回復の見込みがないこと、の二点)が満たされさえすれば、(当時の)法的規制はおのずと解除され、安楽死は容認される、との主張を展開している。一方、ホッヘは、精神医学の立場からどのような患者が安楽死の対象となるのか、について詳述している。その際彼は、「精神的に死んだ状態」の有無を最大の引照基準としている(ホッヘによれば治癒不能の精神障害者の大部分がこれに該当する)。そしてこの精神的死の状態を、さらにつぎの二つのグループに分類している。

 第一群 : 脳の老年性変化、いわゆる脳軟化症(麻痺性痴呆)、脳動脈硬化性病変、若年性の痴呆過程(早発痴呆)
 第二群 : 先天性あるいは生後早期に出現する脳疾患(脳の奇形・発育異常にともなう精神薄弱およびてんかん)

 また、ホッヘはこの著作のなかで、のちにナチスによって抹殺されることになる犠牲者を指し示す二つの新語を作り出した。ひとつはこの「精神的死者」、もうひとつは「お荷物」(Ballastexistenz)である。

 この書物がナチ政権の安楽死計画にどの程度の影響を及ぼしたのかについては、今日なおいくつかの議論がある。しかしながらナチスによってのちに好んで使用された「価値なき生命(レーベンスウンヴェルト)」という呼び方は、この書のタイトルに由来している。

 

ということになる。

 ここでホッヘは、「精神的に死んだ状態」の患者を安楽死の対象として主張したわけである。

 現代の脳死論議とは別の話であることも確かではあるが、しかし相似形の問題がそこにあることも否定出来ない。

 

 「脳死を人の死とし」てしまうということは、「精神的に死んだ状態」にある患者を安楽死の対象とするまでもなく、既に死んだものとして取り扱うことを意味してもいるのである。

 

 

 小俣和一郎が言及しているナチ政権の安楽死計画について言えば、1939年8月18日の「遺伝性および先天性重症患児の登録に関する帝国委員会」の極秘通達では、

1、白痴及び蒙古症(とくに盲目または聾を合併している場合)
2、小頭症
3、水頭症(重症ないし進行度の高いもの)
4、すべての奇形、とくに四肢の欠損、重度の頭裂蓋および脊椎裂など
5、リットル病を含む種々の麻痺

という登録すべき障害の条件を示していた。

 1939年9月1日のポーランド侵攻に伴い、ナチス・ドイツはポーランド国内の精神病院入院患者の殺害を実行する。

 ドイツ国内に関しては、9月21日の精神病院施設登録に始まる「精神病院帝国作業委員(RAG)」の活動の一環として、安楽死対象者の判定基準が示されることになる。そこでは、

労働能力の有無
診断名(精神分裂病=統合失調症、てんかん、老年性疾患、梅毒性疾患、精神薄弱、神経疾患の終末状態)
5年以上の入院期間、
犯罪歴の有無、
人種

が鑑定医によって判定され、安楽死対象として選別された患者は安楽死施設に移送され、実際にガス殺の対象となったのである。

 

 「精神的に死んだ状態」と判断され、安楽死の対象とされた患者の範囲の急速な拡大をそこに見ることが出来るだろう。

  

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いかけに立ち戻れば、社会的合意というものの恣意性を、ビンディングとホッヘの著書からナチスの安楽死政策の実行への展開史(その対象の拡大)を追うことで理解しておくことは無駄ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/26 22:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108259

 

 

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