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2009年6月25日 (木)

続々々々々々々々々々・老眼と自己決定 脳死を生きる 4

 

 自殺は人間の権利と言えるのかどうか、という問いを考えることが、そもそもの「老眼と自己決定」シリーズの端緒であった。そして他者の手を借りた自殺としての安楽死、という視点からの考察である。

 

 それらの問題を、

  人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問い方に集約し、私なりに論じて来た。

 (「老眼と自己決定」~「続々々々々・老眼と自己決定」

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-53f5.html

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5574.html

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e51f.html

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-3346.html

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-5c26.html

  → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-f21e.html )

 

 

 

 そして、あらためて、2009年6月18日の衆議院本会議における「脳死臓器移植法改正案」成立を受け、脳死と脳死体からの臓器移植の問題を、

  人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いを念頭に置きながら考える事を始めたわけだ。

 

 

今回採択された「改正案」は、

脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

というものである。

 前回までに、長期脳死者の実際、「ラザロ徴候」の存在、そして臓器摘出時の脳死体の反応といった、現在までに報告されている事例を取り上げることにより、脳死状態及び脳死判定基準への疑念を示して来た。つまり、「脳死を人の死とし」てしまうことへの疑念である。

 特に幼児の長期脳死者の事例は、幼児と成人に対し一律の脳死判定基準を用いることへの疑念を呼び起こすものであり、現行の脳死判定基準の下で「年齢に関係なく臓器提供を可能にする」ことのはらむ危険性を浮かび上がらせるものであった。

 

 いずれにしても、現行の脳死判定による脳死状態の内実には不明の部分が残るのであり、「脳死を人の死とし」てしまうには、まだ時期尚早という感を抱かせる事実であろう。

 

 

 

 ここまでの問題は、脳死及び脳死体からの臓器移植をめぐる技術的側面と言うことも出来る。

 

 さて、これからは、その倫理的とでも言うべき側面を論じて行きたいと思う。

 

 

 脳死体からの臓器移植が現実的話題となり始めたのは、1980年代のことであったように記憶している。少なくとも、私の関心を引く話題となったのは、その年代であったし、手元にある立花隆の『脳死』(中公文庫)の原著の出版年が1986年であるから、「脳死」がジャーナリスティックな話題となったのを1980年代と考えることに、大きな誤りはないであろう。

 

 脳死問題、というより脳死体からの臓器移植の可能性という問題を前にして、私自身、どのように考えるべきなのか思いあぐねている中で、決定的な影響を与えたのは、木村敏氏による論考だった。当時、ある雑誌(誌名の記憶がない)に掲載された文中で木村敏が書いていたのは、

脳死者からの臓器移植による延命の可能性がもたらすのは、移植される側に抱かれることになる脳死者の発生への期待となる

という主旨のことだった。

 要するに、脳死体からの臓器移植以外に延命の手段のない患者(レシピエント)にとり、自らの生存の可能性をもたらすのは、どこかの誰かが脳死者となり臓器提供者(ドナー)となるという事態なのである。つまり、どこかの誰かの脳死という形の死=自分のより長い生存への保障、という図式になる。

 レシピエントは恒常的に、どこかの誰かの脳死への期待の上に病床生活を送ることになる、というのが脳死体からの臓器移植医療がもたらすであろう世界の姿なのである。そこに生まれるのは、他人の死を日常的に期待する状況なのである。

 

 木村敏は、その(少なくとも私にとっては)うれしくない事実を明らかにして見せたのであった。

 

 短期的未来に予測される苦痛の中での確実な死という条件の中で現在を生きる患者にもたらされる希望が、しかし他人の死を通したものであるということなのである。生き続ける希望の焦点に他人の死が位置付けられてしまうのだ。

 脳死体からの臓器移植医療がもたらすのは、既に病魔に追い詰められた人間が他人の死を期待して生きるという、より追い詰められた心理状態なのである。

 

 

 それは望ましい世界のあり方なのだろうか?

 人間の生きるあり方として望ましいものなのであろうか?

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/24 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108056

 

 

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