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2009年6月30日 (火)

老眼と自己決定 (14) 脳死を生きる 7

 

 前回は、

  脳の機能の廃絶

  精神的に死んだ状態

という表現の意味するところを考えてみたわけだ。

 前者は、それをもって対象(患者)を「脳死」と判定し、脳死をもって人の死とする途を拓くものである。

 後者は、それをもって対象(患者)を「生きるに値しない命」と認定し、安楽死の実行への途を拓くものであった。

 前者は、そもそも脳死体からの臓器移植という「医療行為」の実現という目的の前提としてクローズアップされることになった、ある条件化で人間にもたらされる状態である。

 後者は、障害者に対する福祉経費削減という国家経済政策上の要請を満たすという目的の実現の前提としてクローズアップされた、ある条件を生きる人間の様態である。

 前者は、現代の日本でクローズアップされている問題であり、後者はナチス時代のドイツ(もっとも、議論が始まったのはワイマール期の破滅的な経済状況の中であったが)でクローズアップされた問題であった。

 前者では、つまるところ脳死者の「死体」の資源化が目指され、後者では、資源を消費する「精神的に死んだ状態」の人間の廃棄が目指されていたわけである。

 

 

  人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いを背景に潜ませながら、脳死と脳死体からの臓器移植医療を考え続けている。

 

 前回はナチスドイツにおいて、「精神的に死んだ状態」にあると認定される対象が、政策の具体化と共に拡大していく過程を追ってみた。

 

 現在の日本では、脳死臓器移植の臓器提供者(ドナー)となりうる対象の拡大が図られている(謀られている、と書くべきであろうか?)。

 これまでは、当人が「脳死体」となる以前に、当人により積極的に示された意志の存在が、ドナーとなる(される)ための条件であった。そこには、当人の自己決定権の尊重という理念を見出すことが出来るだろう。現行法を支えているのは、自己決定権の上に存在するドナーという論理である。

 それに対し、現在、議論の対象となっている「臓器移植改正案」では、当人による積極的否定の意思表示が無い限り、家族の同意のみでドナーとする(される)ことになってしまう。当人の自己決定権の尊重という当初の理念は、著しく後退しているのである。

 そこには、ドナー不足により、脳死体からの臓器移植「医療」が普及していないという現行法施行後の日本の現実がある。脳死体からの臓器移植「医療」の推進のためには、脳死体の確保が必要なのである。潜在的脳死体としての日本国民の多くが、自身の自己決定によりドナーとなることを志願しないという現実を前にして、自己決定権の尊重という当初の理念の放棄に至ったのが、脳死体からの臓器移植「医療」推進派の現状、ということになる。

 

 ここでもう一度、ナチスの障害者に対する安楽死政策の歴史を思い起こしてみたい。

 精神障害者へのガス殺の実施は極秘の政策であったのだが、その現状を知った宗教者からの抗議で中止されることになる。その間、1940年1月に開始されたドイツ国内における精神障害者のガス殺は、中止される1941年8月までに7万273名の犠牲者を出すことになった(しかし、それとは別に、薬物注射、計画的な餓死による殺害が実施されており、そちらは続行されるのであるが)。

 ガスによる大量殺害の手法は、ユダヤ人を対象とした絶滅収容所の稼動により、精神障害者の安楽死からユダヤ人の抹殺技術へとシフトし、引き継がれることになる。ユダヤ人に対する、ガス室での大量殺人は、精神障害者安楽死技術の拡大形なのである。

 

 精神障害者の安楽死の目的は、福祉費用削減であり、「精神的に死んだ状態」の人間による資源消費の抑制が目指されていたことは既に説明した。

 それに対し、ユダヤ人を対象にした大量ガス殺人は、死体の資源化という現象をも生み出すものであった。ユダヤ人の死体からの石鹸製造とは、まさに死体の資源化の一例なのである。

 

 

 ここでは、死体を資源として考えること自体を否定しようとは思わない。それは生死観の問題、人間の死体への評価の仕方という文化的問題なのであり、それ自体は別の問題として考えるべきであろう。

 ただ、死体を資源と考えることは、より多くの死体への需要を生み出してしまう可能性をはらむのである。より多くの死体が求められてしまう世界。

 

 「脳死臓器移植法改正案」が、より多くの脳死体を確保するための法改正案であることは、私には否定し難いのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/29 22:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108563

 

 

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