« 続・映画『靖国』を観る | トップページ | 続々・映画『靖国』を観る »

2009年5月 6日 (水)

やなぎみわ マイ・グランドマザーズ

 

 今夜も、映画『靖国』の話題を続けるつもりだったのだが、それは明日にして、今日のことを書いておきたい。

 
 
 

 体調回復した娘も一緒に、雨の中、東京都写真美術館まで出かけた。

 目的は、

「夜明け前 知られざる日本写真開拓史Ⅱ 中部・近畿・中国地方編」 

「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」

の二つの展覧会。

 

 
 
 

 まず3階展示室の「夜明け前」から。

 

 タイトル通りの内容である。幕末から明治中期くらいまでの写真と撮影具(つまりカメラ)の展示。

 これが面白い。堆朱仕上げのカメラなんて、工芸品である。しかもセッティングのお陰で、カメラボックス内のピント面の画像(もちろん反転している)を見ることが出来る。

 露光に時間がかかるから、撮影とは、写真家にもモデルにも「忍耐」であったろう。

 そんな時代の写真を見て来たわけだ。

 

 肖像写真というジャンルは、そのような写真家とモデルの共同作業の産物なのであった。もっとも、それまでに存在したのは肖像画であり、そもそもモデルは絵描きを前に、じっと我慢を強いられていたわけだ。と言っても、日本に肖像画の伝統があったわけでもない(支配階層のトップ以外に)。

 やはり、カメラの前でじっと時を過ごすというのは、この時代の人間達が初めて経験する時間のあり方だっただろう。しかもその結果、鏡を見る以外に手段のなかった自分の姿との対峙を経験することになる。初期の写真のポーズのぎこちなさを支えているのは、写真家にとってもモデルにとっても未経験の世界であったという事実だろう。

 

 そんな写真を見ながら考えたのは、ここに写されているすべての人間が、老いも若きも、男も女も、みんなとっくに死んでいるのだ、ということだった。

 そこには、赤ん坊もいれば老人もいた。その時点での年齢差も記録されている。しかし、その時点での年齢差を越えて時は流れ、皆が既に亡き人になっているのである。

 実は先日、ジガ・ヴェルトフの1929年のフィルムである『カメラを持った男』のDVDを観ていて、サイレント映像(DVDではマイケル・ナイマンの曲が付けられているが)の中に生き生きとした姿を残した人々の全員が故人となっているのだろうな、なんてことを考えてしまったのだった。

 スチールとムービーの違いはあるが、過ぎ去った出来事が、過ぎ去ってしまった人々の存在が、記録として残されていることの意味、と言うより残されてしまったことが生み出してしまう意味を考えてしまうわけだろう。

 

 残された写真を通して、映画を通して、過去に生きた見ず知らずの人々を、見知ることになるわけだ。写真以前、映画以前の世界では想像もつかぬ経験を、私達はしていることになる。

 

 その上で、おびただしい死者そのものの姿を記録として残したのが20世紀であった。見ず知らずの人々の死体となった姿を見知るという経験。21世紀に、何か変化はあるだろうか、ありうるものだろうか?

 
 

 

 2階展示室の「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」は、作られた写真である。

 

 チラシの文面には、

 

このシリーズは、若い女性が思い描く50年後の自分の姿を作り上げたものです。背景、服装、表情にいたるまで、作家と被写体が対話を繰り返しながら生み出した作品には、現実と想像が織りなす濃密な時間が流れています。本展で初公開となる新作も展示します。様々なグランドマザーとの対話をお楽しみください。 

 

と書かれている。

 被写体(モデル)は、皆、年老いた女性の姿だ。やなぎみわにとっての想像上のグランドマザー、あるいはグランドマザーとなった想像上のやなぎみわ? じゃなくて、モデルそれぞれのグランドマザー、あるいはグランドマザーとしてのモデルだった。

 それぞれの写真自体が力強く、それだけで存在感があるのだが、そこに付けられたキャプションを読むと、それぞれの写真にはストーリーも用意されていることがわかる。それぞれが、ある物語性を秘めた時間を定着したものであることが観る側にも理解される。写真自体の力に加えての物語性。

 その上で、観客としては、それぞれの撮影の状況などまで想像してしまう。

 一枚の写真がそれだけで語ってしまうこと。そこに、写真家側が用意した物語性を重ね、観る側の勝手な想像までが重ねられる。

 写真を見ることとは、そのような出来事であり得るのだ。

 

 ところで、このような完全に作り上げられた写真こそが、写真の歴史の初期を特徴付けるものでもあった。

 まず写真は絵画の代替物として登場したのである。しかも、長時間露光の必要は、現在の写真へのイメージの根底にある「瞬間の切り取り」を不可能事としてしまう。

 やなぎみわによる、写真の最新の姿には、写真の歴史も埋め込まれているのだ(というのももちろん、観る側の勝手の想像の一例であるわけだが)。そんな想像力が、3階と2階の展示を結び付けてしまったわけだ。

 

 いずれにしても、見知らぬグランドマザーが、見知ったグランドマザーへと転換され、やなぎみわの伝える物語は、見た者それぞれの物語へ織り込まれていくのである。

 
 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/05 22:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103216

 

 

|

« 続・映画『靖国』を観る | トップページ | 続々・映画『靖国』を観る »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/29464256

この記事へのトラックバック一覧です: やなぎみわ マイ・グランドマザーズ:

« 続・映画『靖国』を観る | トップページ | 続々・映画『靖国』を観る »