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2009年5月 7日 (木)

続々・映画『靖国』を観る

 

 本年の「メイシネマ祭 ’09」での映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)上映という機会に接し、映画『靖国』上映が提起した問題を考えて来た。

 


 

 
 

 前回は、『靖国』が、いわゆる「反日映画」として問題視され、当初予定の映画館での上映中止に至る過程を追ってみた。

 

 「週刊新潮」が、2007年の12月20日号で、「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」という記事を掲載したことが、「『靖国』=反日映画」という図式の一般化の始まりであるようだ。

 まず、影響力ある週刊誌による、「反日」という語の安易な使用に問題があるように思う。今ここでは記事内容が確認出来ないので、これ以上のことを言うことは出来ないが、では、週刊新潮は「反日」でないと主張することは出来るのか?出来るとすればその根拠は?と問いかけることは出来るだろう。

 「反日」という語が、明確な根拠の提示とは無関係に、恣意的・ご都合主義的に使用されていることは確かに思える。人はどのようにして「反日」ではないと判定され得るものなのだろうか? 底意地の悪い皇室記事を掲載する週刊誌は、それだけで「反日」的なのではないかと言うことも出来るだろう。

 

 映画『靖国』の「反日問題」が一般紙面に登場することに貢献したのは、2008年2月に入っての自由民主党・稲田朋美議員の行為であろう。配給宣伝会社アルゴ・ピクチャーズによる複数回の公的試写会の日程を尊重しない稲田議員の、個人的試写開催要求が発端である。

 結果として、アルゴ側の配慮により、稲田議員個人のための試写ではなく、全国会議員対象の試写会として開催されることになるのだが、その開催経費をアルゴの負担としたこと(アルゴの抵抗を押し切って)には、どこか釈然としないものが残る。試写会開催の発端は、稲田議員の個人的要求であり、それを取り次いだ文化庁の求めでもあったはずだ。

 アルゴが事前に用意していた試写会に参加するか、一般公開を待つか、それで十分なことではないだろうか?

 そもそも一般公開前に、国会議員が映画の内容のチェックをする必要などないだろう。自由主義の国で、私企業に対し、映画作品の事前チェックを与党国会議員が要求し、しかも開催された試写会の経費も支払わなかったわけだ。国民は、国会議員に対し、そのような振る舞いを求めているのだろうか? また、法的な権限の支えはあったのだろうか? 疑問が残るところだ。

 
 

 ところで、試写会参加後の稲田議員の言葉が興味深い。「論座」の記事によれば、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった、というメッセージを映画から感じた

というコメントをしたというのだが、映画自体には、そのような明確なメッセージは存在しない。

 映し出されているのは、2005年8月15日の靖国神社境内の現実の出来事の一部始終であり、靖国刀の刀匠の地道な作業記録であり、過去の資料映像だけだ。稲田議員の「感じた」というメッセージは、映像には内在しないし、そのようなメッセージ性を帯びさせるための誘導的ナレーションも存在しない。

 事実は、稲田議員自身が心の底では、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった

と考えていることの反映に過ぎないように思える。自分の深層心理の否定に躍起になっているだけのことだろう。

 
 

 ここで、「過去の資料映像」と書いたが、具体的には、

 最後に南京で首を切り落とすスライドが映りましたが、われわれの感覚からすれば、それだけで反日だということになります。しかし、中国人が靖国というテーマで撮るならば、そうならざるをえないと思うんです。

という、自ら(経費を負担し)試写会を開催した右翼・民族派である、「民族革新会議」の山口申氏の言葉が対応するだろう。確かに、そのような映像はある。

 しかし、その写真自体は、撮影地が南京であるかどうかは別として、大日本帝國陸軍関係者による支那派遣軍の行為の記念撮影として残されたものなのである(中国人が撮ったわけではない)。帝國軍人の意識としては、軍刀による捕虜殺害は、恥ずべきこと、隠すべきことではなかったからこそ、自らが記念撮影をし、その記録を残したのだ。そこを勘違いしてはいけない。

 

 軍刀(靖国刀も、もちろん、軍刀である)による捕虜殺害は、帝國軍人の誉れとして賞賛の対象であれ、恥ずべきことではない。むしろ「国体の精華」の発現であったはずだ。

 だからこそ資料映像にあるように、どこかの公会堂の壇上で、日本刀を振り回し誇らかに藁束を切りまくる人物の姿が、ニュースフィルムとして残されてもいるのだ。

 

 敗戦前の日本人が映画『靖国』を「反日映画」と思うだろうか? 少なくとも、問題とされる資料映像は「反日」的ではない。

 

 そして、反靖国派の登場シーンは、圧倒的な靖国派の登場シーンとは比較にならぬほど少ない。

 雨の中、「南京大虐殺」(百人斬り競争)の存在を否定するための署名運動を続ける人々の姿が丁寧に記録されているが、南京大虐殺肯定派の活動は取り上げられてもいないのである(ちなみに稲田議員は、弁護士として「南京百人斬り競争名誉毀損裁判」の主任代理人を務めている)。

 

 稲田議員は「客観的でなければドキュメンタリーではない」と主張していたそうであるが、確かに『靖国』は、上記の意味で決して中立的ではない。映像自体は、過剰に靖国派の主張を伝えているのだ(まさか、それだから「反日的だ」と主張するのではあるまいが)。

 

 少なくとも、「客観的に」映画『靖国』を観ようという姿勢があるならば、芸術文化振興基金からの助成金750万円が支払れた問題のドキュメンタリー映画は、「反日映画」ではなかったという結論に至るはずである。

 もちろん、助成金の支給基準を「反日」であるかどうかに置こうとすること自体がナンセンスであるわけだが(「芸術文化」を「政治」の従属物にすべきではない)。

 
 

 稲田議員が、映画『靖国』に、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった

というメッセージを見出してしまうのは、(自分では認めたくないであろうが)稲田議員自身の認識の正直な反映であるに過ぎない。

 
 
 

 映画『靖国』が、大日本帝國軍隊に対する批判、大日本帝國そのものに対する批判、あるいは靖国神社に対する批判として機能してしまうのは事実なのだろうが、しかし画面(映像及びナレーション)からは直接的メッセージ性は排除されているのだ。カメラの前に展開された事実が提示されているだけなのである(資料映像の取り扱いにもそれは一貫している)。

 敗戦という経験がもたらした意識の変化を内面化した私達一人一人が、それぞれの主観の中で、靖国神社批判あるいは反日的メッセージとして映画『靖国』を観てしまうのだ。それは私達自身により内面化された、この日本の歴史の反映なのである。

 
 

 映画製作において、李纓監督はあくまでも慎重かつ巧妙なのであり(つまり思慮深い)、稲田議員は自らの思慮不足を露呈してしまっただけ、ということになるのだろうか?

 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/07 00:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103320

 

 

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