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2009年5月

2009年5月19日 (火)

「老衰」との距離感(死における理不尽の所在)

 
 寝転んでいる「ダミニスト」…が最後の「くつろぎ」を迎えて「死」に臨む。

 確かにこれは自然体の「ニヒリスト」の一種に違いあるまい。

 「死」を超越する事で「死」を克服する者。それが「仏」の有様と云うもの。

…というお言葉。(「ホトケノザに座る男」 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101296 「Comment 3」参照)

 

 実際問題として、死を予期し、その回避を続ける望みがないと思われる状況を想定した時に、自分がそこで何を思うのかと考えてみるのだが、

  なってみなければわからない

という言葉しか思いつけないのであった。

 

 確実に、回避不能な出来事として、死を想定しているわけだが、しかし一方で、まだ先の話という評価もしてしまっているわけだ。まだ、それほど切実に感じられる問題ではない。

 しかし、数年前の事故を思い起こせば、転倒位置が10センチずれていれば、この私も既に「遺骨」となっていたかも知れないのである。死は実に身近なところに隠れている。

 

 まぁ、要するに、生き物である限り、死は回避不能な事態だ。それが明日のことであるか、まだ数十年先のことであるのか? その程度の違いに過ぎない。

…なんてことは常日頃考えているわけだが、しかし、医師から「余命6ヶ月」と宣告された時に、自分が陥る心理状態の予測は、どうも想像力の外である。ジタバタするのだろうか?

 まぁ、私の友人の場合、ジタバタした末に、宣告後2年半を生きて過ごした、というのも実話である。「ジタバタ」の力が、彼女を生かしたのだろう。

 どうも、私の場合だと、素直に医師の宣告を受け入れ、そのまま半年後に死を迎えるというストーリーになっていたに違いない。

 
 
 

 「老衰」による「死」が理想なのだろうか?

 どうも、それもよくわからない。「戦死」は歓迎しない。「戦病死」はもっと歓迎しない。戦場での「餓死」と「戦病死」では、どっちがマシだろうか?

 「事故死」は仕方がないが、酒酔い運転の犠牲になるのは歓迎しない。見ず知らずの人間に路上で刺される、なんてのも御免蒙りたい。

 どっかの誰かの悪意や不注意による死。それは歓迎出来ない、という感情があるようだ。

 自分の不注意による死に関しては、黙って受け入れるしかないだろう。「甘受」というヤツだ。

 

…という感情のあり方が、どうも私の「反戦的」心情を生み出しているらしいことに気付く。

 

 結局、こちらの都合で見ず知らずの誰かの命を奪う。それが戦争遂行上、不可欠な行為なのである。ジョーダンじゃない。

 見知っている人間が、普段の私の言動に対し正当な恨みを抱き、殺害を決意する、というのは理解出来る話であり、歓迎はしないが甘受すべき状況に至ることも想像出来る。もちろん、ここには「逆恨み」は含まれない。

 それに対し、戦争状態の意味するところは、敵国民からそれぞれ異なる個人という属性を奪い、一様な「敵」としてカテゴライズしてしまうことなのだ。その上で、正当な殺害対象として位置付けるのである。

 要するに、私が誰であるのか? それが問われることなく遂行される私の殺害に対する抵抗感なのだろう。

 見ず知らずの誰かの都合でもたらされる死。それは理不尽なものなのである。

 
 
 

 生き物である以上、生の終着点として死が設定されていることに関しては受け入れることが出来る。生き物であることを望んだことなど一度もない、と考えれば、生そのものが「理不尽」なものとなるが、「生」を所与の条件と考えてしまえば、死そのものは理不尽なものではない、ということだ。

 つまるところ、「老衰」は理不尽さの最小形態による死、ということになるのだろう。

 
 

…と椅子に座って私は考える、のであった。

 
 
 
 
 

 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/16 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101395

 

 

 

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2009年5月13日 (水)

歴史の事実と論理

 

 毎度云うが「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」だ。

 「論理」で世界を割り切ろうと試みた場合「原子爆弾」が結果される。

 それを、無実無関係な人々の頭上に落とす事が「はっきり見る」事に

 なるのかい。「冷たい方程式」って奴だな。そんな結果を回避する為

 にこそ「はっきり見る」必要がありそうなもんだが「ウマシカ」式の

 論理では「説明」は出来ても「説明しかねる」事は語れないだろう…。

(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103812 「Comment 11」参照)

 

 

 まぁ、何を言っているのか、何を言いたいのかはさて置いて・・・

 

 

 

 経験される現実自体が、論理的構造や、論理的根拠をもって、私たちの上に降りかかってくるわけではない。

 

 理不尽であり不条理。それが現実というものだろう。

 

 しかし、私たちに経験されるそれぞれの行為は、それぞれの論理の背景を備えていることも多い。行為の当事者にとっては、自身の行為の多くには理由があると考えられているものだ。やられた方にとっては、理由のわからぬ理不尽な暴力であっても、やった方には理由ある当然の行為であり得るのだ。

 

 

 行為の理由となるのは、先立つ何らかの行為の結果であろう。あいつに無視されたから、オレは仕返しに殴ってやった、みたいな。

 しかし、「あいつ」が本当に「オレ」を無視していたのかどうか? 実はそこからして怪しかったりする。別のことに気をとられていて気付かなかっただけのこと、というのはよくある話だ。

 気付かないことと、無視することは、別の事柄である。気付かれなかったことと、無視されたことも、別の事柄である。

 視点が異なれば解釈も異なるし、文脈が異なれば行為としては同一であっても意味は異なるものとなる。気付かないこと or 無視すること あるいは、気付かれないこと or 無視されたこと。「or」を挟んで対立しているのは「文脈の違い」であり、「あるいは」を挟んで対立しているいるのは「視点の違い」だ。

 

 「事実」とは「視点」に依存し、「文脈」に依存して経験されるものなのである。「被害」と「加害」の関係を考えてみれば理解しやすいだろうか?

 

 「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」になぞらえれば、感じられたこと…これすなわち事実ではないのです、と言うことが出来るだろうか?

 

 

 

 しかし、経験された出来事を、広範囲の他者との共有可能性に配慮しながら記述することは出来る(少なくともそのための努力は)。

 自身の視点を相対化し、その都度の自身の文脈に自覚的になることが出来れば、ある程度は実現可能なはずだ。「歴史学」の根底を支えるのはそのような認識だろう。

 もちろん、一方で、歴史の記述は、自身の視点及び文脈の絶対化として現実化されることも多い。自己礼賛的な歴史記述、あるいは自虐的な(と言われる)歴史記述とはそのようなものだ(「自虐的」として批判される歴史記述の多くは、単に自省的であるに過ぎないと思うが)。

 

 その際、特定の視点、特定の文脈の絶対化は、同時に特定の論理の(排他的な)選択でもある。ゆえに、そこでの論理展開の整合性や一貫性を問われることになるのだ。

 

 近代史において、「侵略的」とも評される大日本帝國の膨張主義的政策を、それに先立つ西欧列強による植民地獲得競争の模倣行為として正当化することは、確かに論理として可能である。しかし、その正当化は、大日本帝國による大東亜戦争の遂行を、「アジア解放の闘い」として正当化することを論理的に阻むものとなる。

 私が歴史を語る上での論理的整合性・論理的一貫性を問題にするのは、そのような局面においてなのである。

 

 

 歴史自体が論理的一貫性や整合性をもって展開するものだと主張するようなことは、私にはまったく無縁な態度である。

 

 

 人は、自身の視点、自身の文脈から自由になることは出来ない。しかし、そのことを意識することにより、他者との間に起こる悲劇、自身が自らの身の上に引き起こす悲劇の機会を抑制する可能性は、少しだけ増えるだろう。

 たいした希望にはつながらないが、完全な絶望からは少しだけ救われる考え方だと思っている。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/12 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103887

 

 

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2009年5月12日 (火)

続々々々々々・映画「靖国」を観る

 

 映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)の話題が続いた。

 昨日で終了、のつもりだったのだが…

 

 

 

 映画の中に、印象的なシーンがある。いや、印象的なシーンはいくつもあるのだが、その中の一つ、と考えて欲しい。

 

 

 2005年の8月15日、その日の靖国神社におけるエピソードの一つ、ということになるのだろう。

 記憶によると、その日は私自身は入院中(事故!)だったもので、天候の記憶はまったくないのだが、『靖国』(2007年 李纓監督作品)の画面に映し出されている限り、東京はよい天気ではなかったようだ。

 

 既に夜である。日中の賑わいとは異なり、人影のない境内。雨が降っている。

 そこに軍装に身を包んだ人物がやって来る。南方の戦場用だと思われる野戦服姿だ。

 一人、雨に濡れながら社殿の前にたたずみ、軍刀を抜き、一礼し、静かに去っていく。そのバックに流れるのが「抜刀隊」(歌)である。

  【軍歌】 抜刀隊 メドレー

   → http://www.youtube.com/watch?v=ZnloXwjVZJ4&feature=related

 

 

 夜の靖国神社境内、静かに雨に濡れる軍人の姿と、そのバックに流れる「抜刀隊」の歌。美しい(と言いたくなる)シーンであった。

 記憶の底を揺さぶられるような、と言いたくなるようなシーンだ。

 

 

 やがて、「記憶の底」の正体が明らかとなった。

 

 

 「論座」(2008 6)の、映画『靖国』をめぐる特集に、山口文憲氏の「日本の国柄が守られていない」という文章がある。

 いい映画を見た後で、人とその感想を語りあうのは楽しい。ましてそれがこの「靖国」のような公開前の問題作ともなれば、なおさらだろう。

という書き出しの後に、対話形式の文が続いているのだが、やがて、

「それからあそこもよかったな。雨降る夜の社殿に、野戦服の背中に鉄かぶとを背負ったオヤジがやってきて……。軍刀の鞘を払って一礼すると、そのままひとり静かに社殿を去っていく」

「そうそう。そのうしろ姿を、レンズに雨粒のついた手持ちのカメラがずっと追いかけていく。と、その絵に男声合唱の〈抜刀隊〉がかぶさってくる」

「しのつく雨に〈抜刀隊=陸軍分列行進曲〉とくれば、これは昭和十八年十月二十一日の神宮競技場、つまり学徒出陣壮行会でしょう。あの〈雨の靖国社殿〉のカットは、戦時下ドキュメンタリーの傑作〈雨の神宮競技場〉に対する、李監督の返歌というか、批評的なオマージュだと私は受け取ったけど……」

というやり取りとなる。

 そう、記憶の底にあったのは、「学徒出陣」の映像だったのだ。ただしそちらに流れていたのは、歌ではなく軍楽のインストメンタルであった。それがストレートに、私の「記憶の底」につながらなかった理由であろう。

  Germany Polydor Military band 78rpm

   → http://www.youtube.com/watch?v=npjv4JMpQs8&eurl=http%3A%2F%2Frasiel%2Eweb%2Einfoseek%2Eco%2Ejp%2Futa%2Fbattoutai%2Ehtm&feature=player_embedded

 この感じである。

 

 

 

 さて、その後の検索で、問題の「学徒出陣壮行会」シーンの画像も発見。

  学徒出陣

   → http://www.youtube.com/watch?v=uaAN3txVzBk

 記憶の底にあったのはこのシーンであった!

 

 既に、召集=従軍が、戦争における「勝利」と結びついてイメージされる戦局ではなかった。戦死が前提として共有された空間なのである。。雨の中、神宮のグラウンドを埋め尽くしているのは、自らが死地に向かいつつある現実を理解している若者達の姿なのだ。

 

 その時空が、雨の靖国神社境内に一人、抜刀し敬礼する男の静かな姿に重なるのだ。

 

 

 もちろん、シナリオがあるわけではない。夜の神社境内を撮影するスタッフの前に現れ、去っていった男の姿。カメラの前に展開された現実の出来事を捉えたものだ。その一部始終を、雨の中、カメラマンは丁寧に撮影した。

 そのシーンを、「学徒出陣壮行会」に重ねたのは編集の力である。雨の中で静かに軍刀を抜く男の映像に、「抜刀隊」の音楽がかぶさる。異なる時空が、映像と音の組み合わせにより、一つの時空として融け合うのである。

 李纓監督には頭を下げざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 最後に、参考の為に、「学徒出陣」のフィルム全編へのアクセスをご紹介しておこう。

 

  『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)
   → http://www.youtube.com/watch?v=iEd1WI-3mSU

  『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-2)

   → http://www.youtube.com/watch?v=zegiRxlZDnU

   (画像ごとの音のレベルの差が大きいので、その点、ご注意を願いたい)

 

 

 

 

 

 

 

〈オリジナルは、投稿日時 2009/05/11 23:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103812

 

 

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2009年5月11日 (月)

続々々々々・映画「靖国」を観る

 

 「メイシネマ祭 ’09」で、映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)が上映されてから一週間が過ぎた。その日以来、映画『靖国』が提起した問題を考えて来たわけだ。

 

 

 その「メイシネマ祭 ’09」における映画「靖国」の上映日5月3日は、奇しくも一年前、一連の上映妨害行為を乗り越え、新たに名乗りを上げた映画館での上映の初日でもあった。

 「週刊新潮」誌上での「反日映画」とのレッテル貼り。稲田朋美自民党議員による(個人的な)事前試写要求。右翼による街宣活動。その三者が、当初の上映予定館での上映中止の要因と考えられている。

 主因がどれであったのかについては、一概に言うことは難しい。いずれにしても、『靖国』が「反日映画」だという評価においては一致していたわけである。

 

 もっとも、「週刊新潮」がこの問題でキャンペーンを展開するようなことはなかったし、右翼団体も合同試写会を開催後は、映画『靖国』を「反日映画」として上映反対キャンペーンを行うことはしなかった。稲田朋美議員自身も、2008年3月31日の配給会社による全館上映中止の発表に際し、「日本は表現の自由も政治活動の自由も守られている国。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてはいけない」「上映中止という結果になるのは残念」とのコメントを残している。

 

 

 『靖国』に対する、「反日映画」あるいは「反靖国神社映画」であるという評価を、映画の画面自体から導き出すことは出来ないというのが、これまでの私の主張であった。

 

 敗戦後の日本人の視線が、戦中の帝國軍人による敵軍人の斬首という軍刀使用法に「やましさ」あるいは「後ろめたさ」を感じてしまうが故に、そのような写真の映画中での使用に対し「反日的」であるという評価をさせてしまうのである。その写真自体は、戦中の日本人のイメージでは、皇軍の勇猛さの証しとして評価されこそすれ、恥ずべき・隠すべきものではない。

 刀匠自身が、自ら鍛えた軍刀が骨まで斬れるものであることを証言していることの意味は重要であろう。軍刀はお飾りではなく、実際の使用法の想定の上で、刀匠により鍛え上げられていったのである。

 そこに映し出されているのは、それこそ「歴史の真実」(靖国神社「遊就館」の「使命」の一つは、「近代史の真実を明らかにする」ことである)なのであり、現代の日本人も、その「真実」にこそ向き合うべきではなかろうか?

 皇軍の精神を肯定するならば、軍刀が象徴する本来の世界をフィルム(ヴィデオ?)に収めてくれた李纓監督の営為には感謝すべきであろう。

 もちろん、李纓監督自身が皇軍精神礼賛のために作品を制作したかどうかは別問題である。しかし、我々が観るべきは、映像そのものなのであって、そこに「反日性」を見出すのは、敗戦後の日本人ならではの「負い目」という「目」なのである。
 

 

 

 稲田朋美議員自身は、映画に対し、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった、というメッセージを映画から感じた

というコメントを残している。文脈から考えて、肯定的な評価ではないように思われる(でなければ、映画『靖国』への芸術文化振興基金からの助成金支給に批判的態度はとらないだろう)。

 しかし、前回も指摘したように、稲田議員自身の靖国神社認識である、

 靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、「祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないんです

という言葉は、「祖国=天皇陛下」・「後に続きます=戦死します」として変換可能であり、稲田議員が受け取ったと感じた「メッセージ」は議員自身の「靖国」認識に合致しているのである。

 

 ただし、靖国神社の歴史を考えれば、「侵略戦争に国民を駆り立て」るという意図は、創建時の理念からは見出せない。明治維新の過程における、官軍側の死者の慰霊施設というのがそもそもの起源なのである。

 最初期の慰霊(文久2年に「私祭」として営まれた)の対象者は、時の正統政府である「幕府」へのテロリストであった。もちろん、「勝てば官軍」なのであって、かつての反体制テロリスト及び官軍側従軍者を、政変の後に、新たに体制側(かつては反体制テロリストの側にいたわけだ)となった人間達が祀った場が、靖国神社の起源となるのだ。(『靖国神社 遊就館図録』 2004 「靖国神社の創祀」の項、及び小島毅 『靖国史観』 ちくま新書 2007 参照)

 つまり、内戦という過程を経ての政治的正統性の問題と不可分の場ではなかったのである。戦死者の慰霊行為に際し、「賊軍」の戦死者を排除し、そのことで「官軍」の勝利と薩長政権の正統性をアピールする場となっていたのだ。西南戦争まで、その構造が続く。

 戊辰戦争では「賊軍」として慰霊の対象とされなかった会津出身者も、西南戦争で政府軍に従軍し戦死した者は、靖国神社に祀られることになる。ここでも内戦状況で勝利した側のための慰霊の場であることに変化はない。

 

 対外戦争における戦死者の慰霊施設として本格的に機能し始めるのは、日清戦争以降になってのことなのである。「祖国=大日本帝國」という図式は、対外戦争において成立するものなのだ。それまでの「国」とは、薩摩や長州あるいは会津なのである。つまり、それが「内戦」というものだ。

 

 ここで興味深いのは、つまり稲田朋美議員の認識の興味深さということなのだが、彼女の尊敬する人物をご存知であろうか?

 なんと西郷隆盛、だそうである。

 もちろん、西郷隆盛は西南戦争という内戦における「賊軍の首魁」であり、「英霊」として靖国神社には祀られてはいない。そもそもの靖国神社の意義は、内戦時における敵味方の峻別にあった。その靖国神社から排除された西郷隆盛を尊敬するというのは、そもそもの靖国神社創建の理念に反することなのではなかろうか?

 

 その辺の論理的整合性が、この弁護士資格を持つ国会議員の中でどのように処理されているのか? 私には実に興味深く感じられるのである。

 

 もちろん、それは私の私的興味にとどまる問題ではなく、靖国神社という施設への認識の根幹に関わることなのである。

 

 

 

 こんなことを考えてしまうのも、一週間前の「メイシネマ映画祭 ’09」初日の、李纓監督作品『靖国』との出会いあればこそである。

 何よりも映画祭関係者には感謝を申し上げたい。この一週間、実に楽しんで書き継ぐことが出来たのだから。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/10 21:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/103722/user_id/316274

 

 

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2009年5月 9日 (土)

続々々々・映画『靖国』を観る

 

 「メイシネマ祭 ’09」での、映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)の上映を機に、映画『靖国』が提起した問題を考えて来た。

 

 

 「週刊新潮」による「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」と題された記事の掲載、稲田朋美自民党議員による文化庁を介した事前試写要求、そして右翼の街宣活動(もっとも参加街宣車は2台だったが)といった事態の展開が、一般公開予定の中止につながった経緯は既に書いた。

 もっとも、別の映画館が上映を申し出たことにより、当初予定数を上回る館で上映されてしまうことになった。「反日的」というレッテル貼りと上映中止騒動は、むしろ人々の関心につながり、観客動員数を増やす結果にもなったわけだ。「週刊新潮」、稲田朋美議員とそのお仲間、そして街宣車で活動した右翼の諸氏は、李纓監督のドキュメンタリー映画『靖国』のヒットを支えたことになる。

 

 もちろんそこでは、ジャーナリズムによる安易な「反日」というレッテル貼りの是非、上映への圧力として機能してしまうことに無自覚な議員の行動、暴力的イメージが伴われる街宣車を使用した上映妨害活動の問題性が問われなければならないだろう。

 鈴木邦夫氏の語るところによれば、「週刊新潮」の取材は、当初から煽動的だったという。扇情的なジャーナリズムが扇情的に振舞っただけなのかも知れないし、取材も表現も自由であるが、しかし、「反日」というような曖昧な、しかし否定的イメージの大きい語の安易な使用には抑制的であって欲しい。

 稲田議員の行動にしても、配給会社が用意していた複数回の試写会予定に自身のスケジュールが合わないのなら、一般公開後に観れば済む話だ。芸術文化振興基金からの助成金750万円の支払いの是非を問うのなら、一般上映後で十分だろう。しかし、ここでも、助成金支出の是非の焦点が、「反日映画」であるか否かであるのなら、それは問題だ。あまりに基準として恣意的であり過ぎる。そのことに自覚的でない国会議員の見識が、この国の芸術文化振興を左右するようでは、あまりに情けないと言わねばなるまい。与党国会議員(政権側の人間であることを意味する)による事前検閲という印象(当人の意思の有無とは別に)さえ周囲に与えてしまうわけだから、ご自身の行為には慎重であって欲しい。

 右翼街宣車による活動に関しては、その暴力的イメージは問題であるが、その点の抑制が出来るなら、政治的デモンストレーションの自由として保障されなければならない。上映中止の理由付けにされてしまったとはいえ、今回の活動参加街宣車は2台のみ。しかも、右翼・民族派団体が合同試写会を開催し、結果として上映妨害行為は終息している。マスコミからは悪役扱いされてしまったが、上映中止騒ぎで実際に果たした役割は小さいと考えるべきであろう。

 実質的な上映妨害行為に当たるのは、「週刊新潮」と稲田朋美議員(とそのお仲間)の振る舞いということになるだろうか。

 

 これまでも繰り返し書いてきたように、映画『靖国』自体は、明示的に「反日的」メッセージを発信するような作品ではない。そこに反日的メッセージを見出すのは、観客の側の問題であって、映像自体に反日性が内在してるわけではないのである。

 

 

 

 

 稲田朋美議員の言葉をここで思い出そう。

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった、というメッセージを映画から感じた

というものだった。

 確かに、「靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置」として機能したことは否定出来ないだろう。国境線を越えて相手国への敵対的な軍事行動を継続することが「侵略」ではないと言うのなら話は別だが、「支那事変」とは、退却を続ける中華民国国民政府の軍隊を相手に敵対的な軍事行動を中華民国領域内で継続したものに他ならないのであって、私が見る限り「侵略」行為そのものである。その「事変」をも含む「大東亜戦争」において、「天皇陛下のために死」んだ帝國軍人を受け入れるための施設であったのが靖国神社なのである。

 

 稲田朋美議員自身が、

 靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、「祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないんです

          「WiLL」 (2006 9)

と語っているわけだから、「天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった」という認識は、そもそもご自身のものであることになる。

 稲田朋美議員が映画『靖国』から感じたというメッセージは、むしろ稲田議員自身の「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところ」という信念に合致するものなのであり、そのようなメッセージを映画『靖国』が発信していると本気で思ったのならば、助成金獲得を擁護することこそがご自身の務めであっただろう。

 そういう意味では、映画『靖国』上映をめぐる稲田朋美議員の行動は、実に不思議なものに見える。

 

 まぁ、結果として上映館が増え、観客動員数も増えたわけだから、稲田朋美議員(とそのお仲間)の行為も、映画『靖国』上映への支援活動だったのだと考えておくべきなのかも知れない。もちろん、これは皮肉なのであって、当人には自分自身の言行の意味するところは、まったく自覚出来ていないようである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/08 22:21 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103503

 

 

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2009年5月 8日 (金)

続々々・映画「靖国」を観る

 

 「メイシネマ祭 ’09」で、映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)が上映されたのは5月3日のことであった。その日の夜以来、映画『靖国』上映が提起した問題を考えて来た。

 

 

 映画『靖国』は、「反日映画」であると言えるのかどうか?

 もう一度、そのあたりを考えてみたい。

 

 昨日も触れたことだが、そもそも「反日」という語の内実があやふやに過ぎる。

 

 映画『靖国』を誌面で問題にし、しかも映画に「反日」のレッテルを貼ったのは、一般誌では「週刊新潮」の記事が最初であった。記事のタイトルは、「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」であり、当初から「反日映画」として『靖国』は取り扱われていたのである。

 その2007年12月20日号の「週刊新潮」の取材ぶりの一端が、鈴木邦夫氏(一水会顧問)により明らかにされている。

 「靖国」については右翼の間でも、あの映画は反日的だと批判する人がいるけれど、実際に映画を観ないで抗議の電話をかけたり、街宣車で押しかけたりする人が多い。今回のような騒ぎになったのは、07年末に『週刊新潮』が取り上げたせいですよ。僕のところにも取材に来ましたが、こんな映画を許しておいていいんですか、としきりに煽っていましたね。

          『靖国 上映中止をめぐる大討論』(創出版 2008)

ということであって、当初から「反日」という文脈で、扇動まがいの取材がされていたことになる。

 

 

 しかし、映画のどこが「反日的」だったのだろうか?

 

 「映画『靖国』を観る」では、私は、「反日映画」としては不合格、と書いた。

 つまり、そのまま何も編集に手を加えずに、ナレーションを少し加えれば、靖国神社の宣伝映画として通用してしまうだろう、というのが私の判定。

 現状では、制作側の誘導的ナレーションは存在せず、2005年8月15日の靖国神社境内のドキュメントと、現役の最後の靖国刀の刀鍛冶である刈谷直治氏(当時90歳)の神社奉納用日本刀制作風景とインタビュー、合祀取り下げを求める日本人と台湾人遺族の神社との交渉風景とインタビューと過去の歴史映像だけで構成された映画であるに過ぎない。カメラの前に展開された事実の提示、それが映画『靖国』の基本なのである。

 ここに、「反日的」という評価の対象となりうるナレーションを加えれば、確かに「反日映画」になるのだろうが、そのような付加物はない。

というのがその理由であった。

 

 実際、この映画の評価をめぐっても、まさにその点を理由に、ドキュメンタリーとしての「つまらなさ・ものたりなさ」を指摘する論者は少なくない。

 宮台真司、吉岡忍、呉智英といった諸氏の評価はその点において共通している。ここでは、呉智英氏の、

 情報は整理されて初めて知識になり、事実は解釈されて初めて真実になる

という言葉(「論座」 2008 6)をご紹介しておこう。

 私の書いた、

 凝った味付けの料理を提供することではなくて、良質な素材を提供すること。それが目指されていたように見えるし、そのことに成功した作品であるように、私には思えたのだ。

という評価は、呉智英氏の言葉と表裏一体の関係にあるわけだ。

 

 

 私は、李纓監督によって提供された素材の面白さを堪能したわけであるし、上記のような諸氏にとっては、料理の仕上がりとして期待はずれなものだったということであろう。

 靖国刀の刀匠の存在そのものが、そしてその作業自体が、私には面白くてたまらなかったし、八月十五日の靖国神社境内の情景も、それだけで十分に楽しめるものであった。

 

…という視点で映画を観る限り、(どちらの視点からも)『靖国』は「反日的」作品たりえない。

 

 

 稲田朋美議員が、この映画から、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった

というメッセージが発せられていると主張する根拠(それが「反日的」であることの意味だろう)はどこにあったのか?

 

 昨日も触れたように、問題は、「民族革新会議」の山口申氏の、

 最後に南京で首を切り落とすスライドが映りましたが、われわれの感覚からすれば、それだけで反日だということになります。

という指摘に集約されるだろう。

 

 しかし、それは、あくまでも敗戦後の日本人の感覚なのであって、大日本帝國の日本人の感覚ではない。そこには、靖国刀を含む軍刀の使用法の実際が写されているだけの話なのである。そこにやましさを感じるのは、敗戦後の日本人であることの証左となり得るかもしれないが、映し出されている帝國陸軍将校にとり、そしてその写真に接した銃後の人々にとっては、「やましさ」は無縁の感覚なのである。

 

 稲田朋美議員は、弁護士としては「南京百人斬り競争名誉毀損裁判」の主任代理人だったそうだが、まさに過熱した「百人斬り競争」報道の存在が、「やましさ」とは無縁だった、当時の大日本帝國の日本人の感覚を伝えるものだろう。

 「百人斬り競争」の実態がどうであったのか(私自身はマスコミの過剰報道という疑念を否定出来ないが)とは別に、戦場での軍刀を使用した「百人斬り競争」が、新聞読者にはリアルなものとして、しかも肯定的に受け止められていたことは確かである。

 そのような風土では、「南京で首を切り落とす」光景は、決して「反日的」なものではなく、むしろ皇軍の武威の象徴として受け取られ得るものであったことを理解しておく必要がある。

 

 「南京で首を切り落とす」光景に「反日的」メッセージを嗅ぎ取るのは、そこに「やましさ」を感じてしまう敗戦後の日本人の一員であるからなのだ。

 

 つまり、映像自体が「反日的」なのではなく、稲田朋美議員を含めた敗戦後の日本人の抱く「やましさ」が、そこに「反日的メッセージ」を見出させてしまうのである。

 

 

 

 まず私たちは、その構造を理解しておく必要がある。

 

 

 

 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/07 23:06 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/103433/user_id/316274

 

 

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2009年5月 7日 (木)

続々・映画『靖国』を観る

 

 本年の「メイシネマ祭 ’09」での映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)上映という機会に接し、映画『靖国』上映が提起した問題を考えて来た。

 


 

 
 

 前回は、『靖国』が、いわゆる「反日映画」として問題視され、当初予定の映画館での上映中止に至る過程を追ってみた。

 

 「週刊新潮」が、2007年の12月20日号で、「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」という記事を掲載したことが、「『靖国』=反日映画」という図式の一般化の始まりであるようだ。

 まず、影響力ある週刊誌による、「反日」という語の安易な使用に問題があるように思う。今ここでは記事内容が確認出来ないので、これ以上のことを言うことは出来ないが、では、週刊新潮は「反日」でないと主張することは出来るのか?出来るとすればその根拠は?と問いかけることは出来るだろう。

 「反日」という語が、明確な根拠の提示とは無関係に、恣意的・ご都合主義的に使用されていることは確かに思える。人はどのようにして「反日」ではないと判定され得るものなのだろうか? 底意地の悪い皇室記事を掲載する週刊誌は、それだけで「反日」的なのではないかと言うことも出来るだろう。

 

 映画『靖国』の「反日問題」が一般紙面に登場することに貢献したのは、2008年2月に入っての自由民主党・稲田朋美議員の行為であろう。配給宣伝会社アルゴ・ピクチャーズによる複数回の公的試写会の日程を尊重しない稲田議員の、個人的試写開催要求が発端である。

 結果として、アルゴ側の配慮により、稲田議員個人のための試写ではなく、全国会議員対象の試写会として開催されることになるのだが、その開催経費をアルゴの負担としたこと(アルゴの抵抗を押し切って)には、どこか釈然としないものが残る。試写会開催の発端は、稲田議員の個人的要求であり、それを取り次いだ文化庁の求めでもあったはずだ。

 アルゴが事前に用意していた試写会に参加するか、一般公開を待つか、それで十分なことではないだろうか?

 そもそも一般公開前に、国会議員が映画の内容のチェックをする必要などないだろう。自由主義の国で、私企業に対し、映画作品の事前チェックを与党国会議員が要求し、しかも開催された試写会の経費も支払わなかったわけだ。国民は、国会議員に対し、そのような振る舞いを求めているのだろうか? また、法的な権限の支えはあったのだろうか? 疑問が残るところだ。

 
 

 ところで、試写会参加後の稲田議員の言葉が興味深い。「論座」の記事によれば、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった、というメッセージを映画から感じた

というコメントをしたというのだが、映画自体には、そのような明確なメッセージは存在しない。

 映し出されているのは、2005年8月15日の靖国神社境内の現実の出来事の一部始終であり、靖国刀の刀匠の地道な作業記録であり、過去の資料映像だけだ。稲田議員の「感じた」というメッセージは、映像には内在しないし、そのようなメッセージ性を帯びさせるための誘導的ナレーションも存在しない。

 事実は、稲田議員自身が心の底では、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった

と考えていることの反映に過ぎないように思える。自分の深層心理の否定に躍起になっているだけのことだろう。

 
 

 ここで、「過去の資料映像」と書いたが、具体的には、

 最後に南京で首を切り落とすスライドが映りましたが、われわれの感覚からすれば、それだけで反日だということになります。しかし、中国人が靖国というテーマで撮るならば、そうならざるをえないと思うんです。

という、自ら(経費を負担し)試写会を開催した右翼・民族派である、「民族革新会議」の山口申氏の言葉が対応するだろう。確かに、そのような映像はある。

 しかし、その写真自体は、撮影地が南京であるかどうかは別として、大日本帝國陸軍関係者による支那派遣軍の行為の記念撮影として残されたものなのである(中国人が撮ったわけではない)。帝國軍人の意識としては、軍刀による捕虜殺害は、恥ずべきこと、隠すべきことではなかったからこそ、自らが記念撮影をし、その記録を残したのだ。そこを勘違いしてはいけない。

 

 軍刀(靖国刀も、もちろん、軍刀である)による捕虜殺害は、帝國軍人の誉れとして賞賛の対象であれ、恥ずべきことではない。むしろ「国体の精華」の発現であったはずだ。

 だからこそ資料映像にあるように、どこかの公会堂の壇上で、日本刀を振り回し誇らかに藁束を切りまくる人物の姿が、ニュースフィルムとして残されてもいるのだ。

 

 敗戦前の日本人が映画『靖国』を「反日映画」と思うだろうか? 少なくとも、問題とされる資料映像は「反日」的ではない。

 

 そして、反靖国派の登場シーンは、圧倒的な靖国派の登場シーンとは比較にならぬほど少ない。

 雨の中、「南京大虐殺」(百人斬り競争)の存在を否定するための署名運動を続ける人々の姿が丁寧に記録されているが、南京大虐殺肯定派の活動は取り上げられてもいないのである(ちなみに稲田議員は、弁護士として「南京百人斬り競争名誉毀損裁判」の主任代理人を務めている)。

 

 稲田議員は「客観的でなければドキュメンタリーではない」と主張していたそうであるが、確かに『靖国』は、上記の意味で決して中立的ではない。映像自体は、過剰に靖国派の主張を伝えているのだ(まさか、それだから「反日的だ」と主張するのではあるまいが)。

 

 少なくとも、「客観的に」映画『靖国』を観ようという姿勢があるならば、芸術文化振興基金からの助成金750万円が支払れた問題のドキュメンタリー映画は、「反日映画」ではなかったという結論に至るはずである。

 もちろん、助成金の支給基準を「反日」であるかどうかに置こうとすること自体がナンセンスであるわけだが(「芸術文化」を「政治」の従属物にすべきではない)。

 
 

 稲田議員が、映画『靖国』に、

 靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立て、天皇陛下のために死ぬ国民を作る一種の装置だった

というメッセージを見出してしまうのは、(自分では認めたくないであろうが)稲田議員自身の認識の正直な反映であるに過ぎない。

 
 
 

 映画『靖国』が、大日本帝國軍隊に対する批判、大日本帝國そのものに対する批判、あるいは靖国神社に対する批判として機能してしまうのは事実なのだろうが、しかし画面(映像及びナレーション)からは直接的メッセージ性は排除されているのだ。カメラの前に展開された事実が提示されているだけなのである(資料映像の取り扱いにもそれは一貫している)。

 敗戦という経験がもたらした意識の変化を内面化した私達一人一人が、それぞれの主観の中で、靖国神社批判あるいは反日的メッセージとして映画『靖国』を観てしまうのだ。それは私達自身により内面化された、この日本の歴史の反映なのである。

 
 

 映画製作において、李纓監督はあくまでも慎重かつ巧妙なのであり(つまり思慮深い)、稲田議員は自らの思慮不足を露呈してしまっただけ、ということになるのだろうか?

 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/07 00:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103320

 

 

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2009年5月 6日 (水)

やなぎみわ マイ・グランドマザーズ

 

 今夜も、映画『靖国』の話題を続けるつもりだったのだが、それは明日にして、今日のことを書いておきたい。

 
 
 

 体調回復した娘も一緒に、雨の中、東京都写真美術館まで出かけた。

 目的は、

「夜明け前 知られざる日本写真開拓史Ⅱ 中部・近畿・中国地方編」 

「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」

の二つの展覧会。

 

 
 
 

 まず3階展示室の「夜明け前」から。

 

 タイトル通りの内容である。幕末から明治中期くらいまでの写真と撮影具(つまりカメラ)の展示。

 これが面白い。堆朱仕上げのカメラなんて、工芸品である。しかもセッティングのお陰で、カメラボックス内のピント面の画像(もちろん反転している)を見ることが出来る。

 露光に時間がかかるから、撮影とは、写真家にもモデルにも「忍耐」であったろう。

 そんな時代の写真を見て来たわけだ。

 

 肖像写真というジャンルは、そのような写真家とモデルの共同作業の産物なのであった。もっとも、それまでに存在したのは肖像画であり、そもそもモデルは絵描きを前に、じっと我慢を強いられていたわけだ。と言っても、日本に肖像画の伝統があったわけでもない(支配階層のトップ以外に)。

 やはり、カメラの前でじっと時を過ごすというのは、この時代の人間達が初めて経験する時間のあり方だっただろう。しかもその結果、鏡を見る以外に手段のなかった自分の姿との対峙を経験することになる。初期の写真のポーズのぎこちなさを支えているのは、写真家にとってもモデルにとっても未経験の世界であったという事実だろう。

 

 そんな写真を見ながら考えたのは、ここに写されているすべての人間が、老いも若きも、男も女も、みんなとっくに死んでいるのだ、ということだった。

 そこには、赤ん坊もいれば老人もいた。その時点での年齢差も記録されている。しかし、その時点での年齢差を越えて時は流れ、皆が既に亡き人になっているのである。

 実は先日、ジガ・ヴェルトフの1929年のフィルムである『カメラを持った男』のDVDを観ていて、サイレント映像(DVDではマイケル・ナイマンの曲が付けられているが)の中に生き生きとした姿を残した人々の全員が故人となっているのだろうな、なんてことを考えてしまったのだった。

 スチールとムービーの違いはあるが、過ぎ去った出来事が、過ぎ去ってしまった人々の存在が、記録として残されていることの意味、と言うより残されてしまったことが生み出してしまう意味を考えてしまうわけだろう。

 

 残された写真を通して、映画を通して、過去に生きた見ず知らずの人々を、見知ることになるわけだ。写真以前、映画以前の世界では想像もつかぬ経験を、私達はしていることになる。

 

 その上で、おびただしい死者そのものの姿を記録として残したのが20世紀であった。見ず知らずの人々の死体となった姿を見知るという経験。21世紀に、何か変化はあるだろうか、ありうるものだろうか?

 
 

 

 2階展示室の「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」は、作られた写真である。

 

 チラシの文面には、

 

このシリーズは、若い女性が思い描く50年後の自分の姿を作り上げたものです。背景、服装、表情にいたるまで、作家と被写体が対話を繰り返しながら生み出した作品には、現実と想像が織りなす濃密な時間が流れています。本展で初公開となる新作も展示します。様々なグランドマザーとの対話をお楽しみください。 

 

と書かれている。

 被写体(モデル)は、皆、年老いた女性の姿だ。やなぎみわにとっての想像上のグランドマザー、あるいはグランドマザーとなった想像上のやなぎみわ? じゃなくて、モデルそれぞれのグランドマザー、あるいはグランドマザーとしてのモデルだった。

 それぞれの写真自体が力強く、それだけで存在感があるのだが、そこに付けられたキャプションを読むと、それぞれの写真にはストーリーも用意されていることがわかる。それぞれが、ある物語性を秘めた時間を定着したものであることが観る側にも理解される。写真自体の力に加えての物語性。

 その上で、観客としては、それぞれの撮影の状況などまで想像してしまう。

 一枚の写真がそれだけで語ってしまうこと。そこに、写真家側が用意した物語性を重ね、観る側の勝手な想像までが重ねられる。

 写真を見ることとは、そのような出来事であり得るのだ。

 

 ところで、このような完全に作り上げられた写真こそが、写真の歴史の初期を特徴付けるものでもあった。

 まず写真は絵画の代替物として登場したのである。しかも、長時間露光の必要は、現在の写真へのイメージの根底にある「瞬間の切り取り」を不可能事としてしまう。

 やなぎみわによる、写真の最新の姿には、写真の歴史も埋め込まれているのだ(というのももちろん、観る側の勝手の想像の一例であるわけだが)。そんな想像力が、3階と2階の展示を結び付けてしまったわけだ。

 

 いずれにしても、見知らぬグランドマザーが、見知ったグランドマザーへと転換され、やなぎみわの伝える物語は、見た者それぞれの物語へ織り込まれていくのである。

 
 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/05 22:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103216

 

 

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2009年5月 5日 (火)

続・映画『靖国』を観る

 

 映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)が「反日映画」と名指され、一般上映が妨害されたのは昨年春のことである。

 

 
 本年の「メイシネマ祭 ’09」での『靖国』上映という機会を捉え、問題の映画『靖国』を観ることが出来た。昨日は、作品自体についての私の評価を書いたわけだが、本日も、李纓監督の映画、『靖国』をめぐる話題を続けたい。

 

 

 
 「論座」の2008年6月号が、「映画『靖国』騒動への疑問」という特集を載せている。まぁ、朝日新聞社という「反日」新聞社の出版物であるが、特集記事中の2006年7月から2008年4月21日に至る時系列での上映をめぐる出来事の整理を、事実関係確認の参考となりうるものと判断することに問題はないだろう。

 

 記事によれば、2007年3月20日に完成試写会が行われ、4月に芸術文化振興基金からの助成金750万円が支払われている。9月には上映館(東京4、大阪1)も決定し、12月11日からマスコミ試写会が始められた(2008年3月31まで計12回)。

 12月17日・24日付けの「神社新報」に、「客観性欠く映画『靖国』に政府出資の基金助成」という記事が掲載され(これは神社関係者限定誌である)、「週間新潮」が12月20日号で「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」との記事を掲載する(こちらは言うまでもなく一般誌である)。

 2008年2月12日に、『靖国』の制作会社である龍映に文化庁芸術文課から、「ある国会議員が『靖国』を見たがっているので、試写の日程を教えて欲しい」という電話。同13日に文化庁から龍映に「ある国会議員とは『靖国』にいい印象を持っていない人」との電話。龍映からアルゴ・ピクチャーズ(配給・宣伝担当)に連絡し、アルゴから文化庁に電話する。

 そして、14日から21日にかけてアルゴと文化庁でのやり取りが続く。アルゴはマスコミ試写の日程を教えるが、「スケジュールが合わない。場所や映写技師も押えたので、フィルムを貸してくれるだけでいい」という文化庁の返答を受け、「誰が何の目的で観るのか教えてもらわない限りできない」と伝える。

 22日の文化庁からのメールで「試写を希望しているのは稲田朋美議員(自民)と『伝統と創造の会』」と判明。その後の交渉の末、26日に、より多くの国会議員を対象とした試写会開催をアルゴが提案し、文化庁が了承。3月3日にアルゴが、全議員に対し試写会開催(協力 文化庁)を連絡。しかし、試写会開催経費をアルゴの負担としようとする文化庁と納得しないアルゴとの間でやり取りが続けられるが、文化庁との対立を望まぬアルゴが折れ、3月12日に国会議員対象の試写会が開かれる(議員と秘書、約80名参加)。

 その後、3月の終わりにかけて、上映予定館が上映中止を決定する事態へと発展してしまう。

 上映中止の背後には、右翼団体の圧力があったと言われているのだが、別の記事によれば、実際に活動に参加した右翼の街宣車は2台で、街宣活動は計3回のみ。しかもその内の1台は、搭乗者1名。実際に展開されていたのは、ささやかな抗議活動である。少なくとも、上映中止の決定の時点では、本格的な抗議活動は存在していなかったようである。

 上映中止は、現実の右翼団体による脅迫ではなく、想像上の脅威に基づくものであったという印象はぬぐえないだろう。それぞれの映画館運営会社の決定なわけだが、それをどう評価すべきだろうか?

 もっとも、それを受けて、他の映画館が上映に名乗りを上げ、4月21日の時点で23館での上映が予定される事態となった(当初の予定は5館のみである)のは、なんとも皮肉な結果であろう。

 

 右翼団体による(ささやかな)脅迫に早々と屈する興行主がいる一方で、あえて上映を買って出る興行主もいたという事実には、希望を見出しておくべきだろうか。

 

 

 ところで、4月18日には、新宿のライブハウス「ロフトプラスワン」で、右翼団体関係者150人を対象とした試写会も開かれていた。

 『靖国 上映中止をめぐる大議論』(創出版 2008)によれば、この試写会の呼びかけ人は、阿形充規(大日本朱光会)、河原博史(同血社)、木村三浩(一水会)、中尾征秀郎(正気塾)、福田邦宏(防共新聞社)、山口申(民族革新会議)、平野悠(ロフト代表)という顔ぶれ。案内状の文章は、

 

 マスコミの論調の多くで「右翼団体による抗議活動のため上映が中止された」という報道がされております。確かに一部団体が上映予定映画館に対して抗議活動を行いましたが、それをもって右翼全体が上映を潰したという見解は事実と大きくずれており、実際、多くの人はまだ映画そのものを観ていないのが現状です。「表現の自由の危機」という報道も目立ちますが、表現・言論活動は映画芸術だけに限らず、政治/思想団体、活動家などすべての人にとって重要なものであることは明らかです。

 

というものであった。

 上映後の討論での、

 

 一部のマスコミによって、われわれが加害者、彼らが被害者という図式を作られてしまった。表現の自由というのは妙に曖昧でがさつで、時として悪用される。つまり加害者と被害者が出てしまうということを、民族派として考えるための布石となった。 (河原氏)

 

 民族派の主義や主張は、テレビなどで何かしゃべっても、かならず短く切られてしまう。しかしこの映画は、最初から最後まで映してくれています。これまで右翼というと、街宣車でがなり立ててる部分しか見ていなかった一般の人が、映画を観て、「民族派というのは、しっかりした理念で行動しているのだな」と目を向けてくれるのではないかと思います。 (阿形氏)

 

 マスコミのバカ騒ぎに乗って、こんな駄作にプレミアがついて上映されることになりそうだ。これは徹底的に無視を決め込むというのが、有効な手段ではないか。 (福田氏)

 

 私は東京大空襲を経験しているものですから、目頭が熱くなるほど心を打たれました。最後に南京で首を切り落とすスライドが映りましたが、われわれの感覚からすれば、それだけで反日だということになります。しかし、中国人が靖国というテーマで撮るならば、そうならざるをえないと思うんです。我々はそう騒ぎ立てることもないでしょう。 (山口氏)

 

といった意見は、それぞれに興味深いものだろう(右翼・民族派と自負する人々の多面性を窺うことも出来る)。

 

 上映中止騒ぎでは、右翼・民族派の皆さんも「マスコミ報道の被害者」なのであった。

 

 

 

 明日は、稲田朋美議員とその同僚の行動について考えてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/04 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103140

 

 

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2009年5月 4日 (月)

映画『靖国』を観る

 

 映画『靖国』(2007年 李纓監督作品)を観て来た。

 

 「反日映画」であるとして、昨年春の一般上映が妨害されたことは、まだ昔話ではないだろう。

 

 その『靖国』が、「メイシネマ祭 ’09」の上映作品のトップを飾ったのだった。

 で、朝から小岩まで出かけて、「反日映画」という評判の作品を、じっくり観て来た、というわけだ。

  

(写真は、小岩駅前で出会ったチンドン屋さん、「メイシネマ祭り」会場の小岩コミュニティーホール、上映作品のポスター)

 

 

 

 この映画『靖国』、「反日映画」としては不合格、ですね。

 

 つまり、そのまま何も編集に手を加えずに、ナレーションを少し加えれば、靖国神社の宣伝映画として通用してしまうだろう、というのが私の判定。

 現状では、制作側の誘導的ナレーションは存在せず、2005年8月15日の靖国神社境内のドキュメントと、現役の最後の靖国刀の刀鍛冶である刈谷直治氏(当時90歳)の神社奉納用日本刀制作風景とインタビュー、合祀取り下げを求める日本人と台湾人遺族の神社との交渉風景とインタビューと過去の歴史映像だけで構成された映画であるに過ぎない。カメラの前に展開された事実の提示、それが映画『靖国』の基本なのである。

 ここに、「反日的」という評価の対象となりうるナレーションを加えれば、確かに「反日映画」になるのだろうが、そのような付加物はない。

 

 それは、撮影を担当していた堀田康寛氏のカメラワーク(もちろん背後には監督の存在もあるわけだが)が、常に全体状況とその場面の中心人物の動きの双方を押えるという姿勢に徹していたことにもよるように思う。

 たとえば、思い入れたっぷりな(「意味深な」とでも言うべきか)アップの多用は排除されているのだ。過剰な心情表現の排除が、映画全体を通して行き届いているのである。

 

 2005年の「靖国神社」に関する記録映像であることに、意図的に踏みとどまろうとしているように見える。

 

 しかしそれは「中立的な映像」であることを意味するわけではない。左右の主張をそれぞれ等価なものとして取り上げ、自身は真ん中の安楽椅子に倒れる、というような安易な姿勢は存在しない。

 アジテーションの前にまず事実を、その禁欲的姿勢が、中立的に見える映画作品として結実したと考えるべきだろう。

 

 

 

 靖国神社について考えるのは、映画を観た一人一人であるべきなのであって、どのように考えるべきかを提供することは目的とされていない。そのように、制作の姿勢を評することが出来るだろうか?

 凝った味付けの料理を提供することではなくて、良質な素材を提供すること。それが目指されていたように見えるし、そのことに成功した作品であるように、私には思えたのだ。

 

 映画を観ることもしなかった人々が映画の上映に反対した事実は、実に滑稽であるが深刻でもある。

 反対する対象が何であるのか、その内容を知らずに反対することほど愚かな行為はないだろう(と私は思う)。

 

 

 

 たとえば映像中で、家族の靖国合祀に反対する台湾人が激昂する姿は、その心情と論理を理解すれば当然のものであろうが、そうでない者には唐突で場違いな印象をもたらしもするだろう。

 「靖国派」の追悼式会場に出向いて妨害を企てた「反靖国派」の青年が会場から排除され負傷する姿も、ヒロイックであると同時に独りよがりな行為にも見えてしまう。反対党派の集会で妨害行為をすれば、当然の帰結でもあるのだから。

 つまり、映像自体は、神社の対応に激昂する台湾人の姿を伝え、反靖国派の青年の行動の顛末を記録しているだけであって、それ以上の説明を加えないことにより、彼らのためのプロパガンダ映画に陥ることは避けられているのである。

 しかし、すべては記録されてもいるわけだ。

 

 そこに何を見出すのかは、観客の側の問題なのである。

 

 

 

 対立が存在する問題を対象にした時に、善悪の対立として図式化するのではなく、その対立そのものを描き出すこと。

 そこが目指され、達成されていた作品。

 そのように言うことが出来るだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/03 22:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/103024

 

 

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2009年5月 1日 (金)

神の国の戦争

 

 「広島」の「リトル・ボーイ」「長崎」の「ファットマン」どちらも

 侮蔑と皮肉と悪意に満ちた「ジェノサイド」の話になるが耐え難いか。

 少なくとも「現場」に居合わせた人々にとっては、許せぬ冗談だろう。

 要するに「チビ」と「デブ」と云う米国流ジョークを、ジョークに

 させ難い空気があるんだろう。井伏鱒二の小説「黒い雨」がそれだ。

 そんな事を許した「神」への「怨嗟の声」が、延々と語り継がれる。

http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102657 「Comment 20」及び「Comment 21」参照)

 

…という言葉を読んで、そう言えば、この日本は「神国」だった、「神の国」だったんだ、ということを思い起こさせられた。

 

 そこから「神の国の軍隊」という一文(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html)が生まれた。

 

 神の国の神にとって、リトル・ボーイとファット・マンはどのような存在なのだろうか?というようなことを考える。

 

 神の国の神は、リトル・ボーイやファット・マンを望んだのか望まなかったのか?

 

 そんなことを考えてみようと書き始めたのが「神の国の軍隊」であった。明らかになったことは、リトル・ボーイやファット・マンによる殺戮を経験する以前に、大日本帝國の軍事・政治指導者が、若い兵士に自殺攻撃を求めていたという事実であった。

 神の国の神は、そのような大日本帝國の軍事・政治指導者達の行為を容認するのであろうか?

 

 

 

 日本が神国であるのは、北畠親房によれば、

大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。
 

からであった。ここでは、天皇の存在が、「神国」を支えているのである。

 

 

 あの大東亜戦争では、まさに、その天皇の存在が脅かされてしまったのである。敗戦必至となった戦局の悪化が意味するところは、敗戦後の天皇の地位の危機、、日本における天皇という存在の危機であった。つまり、日本が「神国」であることの危機であった、ということになる。

 大東亜共栄圏の確立という名分で始められた戦争は、米英軍による反攻の結果、戦争当初の占領地域の喪失の果てに、開戦前の国境線まで侵される事態に至ってしまう。本土空襲が日常化し、硫黄島、そして沖縄に米軍が上陸する。

 戦争の継続目的から、大東亜共栄圏の確立という名分が失われてしまって久しかったのが、昭和20年の春という段階であった(あの阿南陸相による「決戦訓」は、そのような状況下で書かれたものだ)。

 戦争の継続目的は、「国体の護持」、すなわち敗戦後の天皇の地位の保証の確保に収斂していくことになる。

 

 大日本帝國の敗戦は、帝國政府の「ポツダム宣言の受諾」により確定したわけだが、その決定は、連合国による「国体の護持の保障」への期待の上に成立したものであった。

 

 「国体の護持の保障の確保」のために、戦争終結の決断を先延ばしにしていく過程で自殺攻撃を強いられた(志願制というタテマエではあったが)のが、陸海軍特別攻撃隊の隊員達であった。

 神国の神は、そのような犠牲を望んでいたのだろうか?

 そもそも、大東亜戦争は、神国の神の望むものであったのだろうか?

 

 

 

 神国の神が大東亜戦争を望み、特別攻撃隊の犠牲を求めていたのだとすれば、リトル・ボーイやファット・マンに至る歴史も、神は自ら招いたこととして受け入れる(そして反省する)はずである。「自己責任」とは、そのようなことなのである。

 

 しかし、大東亜戦争が神国の神の望むところでなかったとすればどうだろうか?

 特別攻撃隊員の犠牲や、かつて地上になかった惨状の中で失われた広島・長崎市民の命に対し、その責任を負うべき者は誰なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/05/01 22:37 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102842

 

 

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神の国の軍隊

 

大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

 

     北畠親房 『神皇正統記』

 
 

…ということなんだな。

 
 

 神の国の住人なのである、この私たちは。

 あまり実感はないかも知れないが、20世紀の前半の日本では常識だったのである。人間が空を飛ぶ道具で戦争をする時代に、しかし、日本は神国でもあったのだ。

 

 
 
 

 あの大東亜戦争は、大日本帝國臣民に向けられた、

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス

という言葉で始まり、

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有眾ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

という言葉で終わる昭和天皇の言葉で開始されたのであった。 

 

 まさに、

 大日本国は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。このゆえに神国と云ふなり。

という認識が、国民にとっての現実だったわけだ。

 

 

 

 遂に来た一億待望の一瞬 撃滅へ、無二の関頭

 見よ敵補給限界点割る

 神機到る! 未曾有の戦果の下敵撃滅の神機到る! 陸、海、空の全空間を埋め尽くして死闘相次ぐ沖縄の決戦場、わが特攻隊の猛攻により敵艦船の数は特に著しく減少するが、必死の補給に狂奔する敵はたちまちこれを補充し、否前を凌駕する艦船数を以てすることさ再三であった、然しながら決戦的様相の最高潮に達するやさすがに物量を誇るアメリカの補給もわが必死必中の特攻隊を以てする連日連夜の猛攻の前には漸く頂点をつきここ一両日来全般的には著しくその数を減じ、補給の速度も漸次緩慢化するに至った

     『読売新聞』 昭和20年4月19日

 

 これが当時の新聞紙面である。

 

 「わが特攻隊の猛攻により」とは、つまり、称賛される戦果の陰には、機体の喪失と共にパイロットの死があったことを意味する。

 「神機」とは、すなわち操縦者の積極的な死への期待に支えられたものだった。

 陸海軍の特別攻撃隊にはそれぞれ名称があったのだが、現代社会で自爆攻撃の代名詞となった「カミカゼ」もまた、その特別攻撃隊の一つであった。「カミカゼ」すなわち「神風」である(「しんぷう」と訓むのが本来だったが、当時のニュース映画で既に「かみかぜ」として紹介されていたらしい)。

 ここでは、敵に対する神の風(鎌倉時代の故事のように)となることが、自殺攻撃を志願したパイロットに期待されていた、ということになるのだろう。

 

 

 決 戦 訓

 仇敵撃滅の神機に臨み、特に皇軍将兵に訓ふる所左の如し
一、皇軍将兵は神勅を奉戴し、愈々聖諭の遵守に邁進すべし。
 聖諭の遵守は皇国軍人の生命なり。
 神州不滅の信念に徹し、日夜、聖諭を奉誦して之が服行に精魂を尽くすべし。必勝の根基茲に存す。
二、皇軍将兵は皇土を死守すべし。
 皇土は、天皇在しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。誓って外夷の侵襲を撃攘し、斃るるも尚魂魄を留めて之を守護すべし。
三、皇軍将兵は待つ有るを恃むべし。
 備有る者は必ず勝つ。
 必死の訓練を積み、不抜の城塁を築き、闘魂勃々以て滅敵必勝の備を完うすべし。
四、皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。
 悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。
 挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉く之を殺戮し、一人の生還無からしむべし。
五、皇軍将兵は一億戦友の先駆たるべし。
 一億同胞は総て是皇国護持の戦友なり。
 至厳なる軍紀の下、戦友の情誼に生き、皇軍の真姿を顕現して率先護国の大任を完うすべし。
右の五訓、皇軍将兵は須く是を守し、速かに仇敵を撃滅して宸襟を安んじ奉るべし。

     『読売新聞』 昭和20年4月21日

 

 阿南陸軍大臣の発表した「決戦訓」がこれである。

 

 

 神の国の将兵の体当り精神への期待、つまり兵士への自殺攻撃敢行への期待が込められた大日本帝國陸軍最高首脳の言葉、ということになる。

 近代総力戦の時代、20世紀の大日本帝國の実話である。

 

 

 

 

 しかし、「神国」の神は、本当にそんなことを望んでいたのだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/30 22:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102780

 

 

   

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