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2009年4月12日 (日)

「うそニュース」と「近代史の真実」

 

 日曜の夜になってしまった。

 
 

 「うそニュース」のフォトに、たぬき男いたち男氏のコメントがついていた(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295)。

 

 で、「うそ」をめぐる話。

 
 

 エイプリルフールネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99837)や、かつてのモモタローネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/47855/)を書いた時に目指したのは、「マコトシヤカ」でかつ「アカラサマ」な「うそ」であった。

 
 

 最初から「うそ」を書くつもりで書いているわけだが、騙しおおすことが目的ではない。他人を騙すことが目的ではない「うそ」というわけだ。

…という書き振りからは、「うそ」とは、通常、他人を騙すことを目的として語られるものであるという前提の存在が窺われる。

 実際問題として考えれば、自分自身を騙すための「うそ」というのも存在するように思える。しかし、この場合、それが「うそ」として認識されるのは、他者の視線においてであって、当人にとっては「真実」として把握されているケースが多いのではないだろうか?

 自分で自分を騙しているわけだが、当人にとってはそこに「うそ」は存在しない。

 

 ここで「うそ」という語を用いてしまったために、「真実」という語が登場してしまったが、普段の私が「真実」という語を用いて何かを語ることはない。

 普段の私なら、この手の文脈では「事実」の語を用いるだろう(その前に「現実」か?)。

 まずは当人にとっての「事実認識」(より正確には「現実認識」と言うべきか?)があり、その上で他者との共有可能な「事実認識」がある、という構図になる。当人にとってのみ有効な「事実認識」に関して、それが「うそ」であるのかどうかの判定は難しい。論理的整合性、時系列での整合性等から、第三者にも判定可能である場合もあるが、判断しようがないケースも多い。

 もちろん「他者との共有可能性」を条件にしたところで、関係者全員が錯誤に陥っている可能性を排除することも出来ないわけだ。「歴史」の記述でさえ、当事者を除いた「他者との共有可能性」よりは、当事者にとっての「望まれる歴史」に終始しがちなものである。

 共有可能性の範囲が狭いほど、記述内容には「うそ」が含まれやすくなる。しかし、もちろん、当事者にとっては、そこに「うそ」は存在しない。それこそが、「真実の歴史」と称されることになるのである。

 

 自分にとって都合の悪い「事実」は排除し、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」の「真実性」が問われるわけだ。「真実」という語を用いることで生じがちな誤解を避ければ、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」は、果たして「うそ」と何が異なるのか?という問いかけとなる。

 
 
 

…と書いて思い出すのが、

 
 

[満洲事変]

昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍が満洲全域の軍事占領を図った事変で、昭和八年五月三十一日の塘沽停戦協定によって事実上終結した。日本は、日露の戦勝で満洲に権益を有していたが、「滅満興漢」を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は、既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満洲に波及した。この反日行動を武力で制圧した関東軍の行動は、国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退して、国際的孤立を深めるに至った。

 

 靖国神社 『遊就館図録』 (2003)

 
 

という「歴史記述」である。

 地名の「柳条溝」は誤りで、「柳条湖」であったことは既に常識に属する知識ではないかと思うのだが、それをなぜか「柳条溝」という記述に固執しているのも不思議な話なのであるが、その「鉄道爆破事件」が誰の手によるものであったのかが記載されていないというのは、もっと不思議な話ではなかろうか?

 その一句の挿入の意味は、実際の文章で比較すれば理解しやすいだろう。

 すなわち、

 

  奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

  関東軍による奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

という違いとなる。

 事実関係の確定という意味で、後者はより正確な記述である。しかもそこにあるのは単なる情報量における厳密性ではなく、歴史的経緯の理解に必須の情報の記載という意味において、歴史記述としての質に関わるものなのである。

 「関東軍による」という語句の排除により、「満洲事変」に際しての、中華民国の対応及び列国の対応の国際社会における意味合いが理解不能になってしまう。結果として、国際社会という視野から、当時の大日本帝國及び関東軍の行動を検証することが出来なくなってしまう。

 残されるのは、関東軍の都合のよさに合わせた記述にしか過ぎない。

 「事実認識」としての流通範囲は狭いものとなってしまうわけだ。

 

 『遊就館図録』の「ご挨拶」には、

 

 …近代史の真実を明らかにするのが遊就館の使命であり、眼目であります。

 

という言葉が書かれているのだが、その「真実」が身内のものでしかなくなってしまうのは残念なことだと思う。

 身内のための「真実」が、外部から見れば「うそ」に近い歴史認識をもたらしかねないのである。国際社会の被害者としての大日本帝國、というような。

 朝鮮民主主義共和国の指導者達には共有可能な歴史理解の構造かも知れないが…

 
 
 
 

…しかし、書き始めたときには予想だにしない展開となってしまった(という言葉に「うそ」はない)。ホントは、コンピュータが、自己保身のためにウソがつけるようになれば、コンピュータも人間並みになったと言えるんじゃないか、というお話に持って行くつもりだったんだが…

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/12 21:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100990

 

 

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