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2009年4月

2009年4月30日 (木)

ダミニスト古本購入記

 

 世の中はゴールデンウィークということになっている。

 
 

 今日は休みを利用して、家族で展覧会めぐりの予定だったのだけれど、娘の体調がイマイチだったので、ご近所散歩の午後に変更。

 

 五月間近の陽射しの下、ブラブラと歩き出した。

 まずはケーキ屋さんでケーキとコーヒーを楽しみ、そのまま駅の方向を歩くと古本屋さんがある。

 祝日だというのに、幸か不幸か、店は開いていた。店内に入り、いろいろと買い込んでしまう。

 
 
 

  『第三十四回海軍記念日を迎へて』 (海軍省海軍軍事普及部 1939) 1000円

 

  倉田一郎 『國語と民俗學』 (青磁社 1942) 500円

 

  尾形半 『暗い廊下 -裏から見たソ連-』 (立花書房 1957) 400円

 

  アレクサンドル・コイレ 『閉じた宇宙から無限宇宙へ』 (みすず書房 1973) 600円

 

  『銃後の人々 祈りと暮らし』 (石川県立歴史博物館 1995) 800円

 

  山田規畝子 『壊れた脳 生存する知』 (講談社 2004) 300円

 
 

 以上6冊購入。店頭の紙袋の中にあった、

 

  ダンテ 『神曲 新生』 (筑摩書房 世界文学大系6 1962) 

 

  地引嘉博 『東欧の社会 ドイツとロシアの間で』 (サイマル出版会 1987)

 

の2冊は処分品ということで、なんと無料でいただいて来てしまった。

 

 母娘もなにやら買い込んでいた。展覧会めぐりの出費に比べればお安いもの、というリクツ。

 
 

 古着屋さんが開店(昨日開店らしい)していたので立ち寄る(娘が主体)。

 駅を超えて、大型古書店へと向かう。

 こちらでは、

 

  川崎浹 『権力とユートピア ロシア知識人の肉声』 (岩波同時代ライブラリー 1995) 550円

 

  安島太佳由 『訪ねて見よう! 日本の戦争遺産』 (角川SSC選書 2009) 550円

 

を購入。

 娘の母は、私の発見した、

 

  「シネマ101 第2号 特集 リュミエール」 (映像文化連絡協議会 八潮出版社 1996) 750円

 

を購入(欲しくなったらしい)。

 
 

 家路は別の道を歩き、いつの間にか出来ていた小さなギャラリー「MOGRAG(mograg …?)」で山口昌弘さんの「逝来手!展」に出くわす。帰宅してから、いただいたチラシを見たら、1986年5月1日生まれで2007年没という経歴。パワーあふれる落書き群に出会ったのだった。画面を埋め尽くすことへのエネルギーに、ある種のアウトサイダーアートを思い浮かべたりする。

 明後日が誕生日。生きていれば23歳。ああ。

 展覧会めぐりをあきらめてのお散歩が、しかし、今はなき山口昌弘さんとの出会いにつながったのだった。

 

 並びのたい焼き屋さんでたい焼き購入し、歩き食い。

 近所の大型店で、娘の靴にキャットフード、そして人間用食材を購入し、無事に帰宅。

 
 
 

 そう言えば、日曜日も似たような展開だった。昼食をチェーン店ではないハンバーガーショップで食べ(美味い)、駅の向こうの大型古書店で散在。

 購入本は、

 

  P・マルヴェッリ G・ピレッリ編 『イタリア抵抗運動の遺書』 (冨山房百科文庫 1983) 750円

 

  松本弥 『図説 古代エジプト文字練習帳』 (弥呂久 1994) 850円

 

  NHK取材班編 『プロパガンダ映画のたどった道』 (角川文庫 1995) 100円

 

  藤澤房俊 『大理石の祖国 近代イタリアの国民形成』 (筑摩書房 1997) 1500円

 

  イアン・ブルマ 『イアン・ブルマの日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』 (TBSブリタニカ 1998) 800円

 

  内田百閒 池内紀 編 『百閒随筆Ⅱ』 (講談社文芸文庫 2002) 600円

 

  京極夏彦 『対談集 妖怪大談義』 (角川書店 2005) 650円

 

  小沢朝江 『明治の皇室建築 国家が求めた〈和風〉像』 (吉川弘文館 2008) 950円

 

 

 

 

 

 しかし、一体、いつ読むんでしょうかねぇ…

 
 
 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/04/29 21:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/102657

 

 

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2009年4月15日 (水)

前衛の終焉

 

    前衛派

 

  前衛派は前衛ではない。後衛である。

  元来前衛は派などという衣装をまとってはいないの

 だ。いつだって素っぱだかで孤独なものだ。

  前衛派は前衛の死体から皮をはがして身にまとい、

 それをユニフォームにする。

 

  ナンテ粋ナンデショ!

 
 

と、辻まことは『虫類図譜』に書いた。1964年の出版であるが、草野新平による「序」によれば、

 

 「虫類図譜」が最初に『歴程』誌上に現れたのは十年前の一九五四年だった。

 

ということになるらしい。

 

 「前衛」も「前衛派」も、当時はまだ、「現実」として存在していたわけだ。

 
 

 『虫類図譜』には、「前衛派」に類する虫として「亜流」も蒐集されている。

 
 

    亜流

 

  彼は羽根の能力を知らず、その形で飛ぼうとする。

 そして重力に支配されている鉛のような地上の知慧を

 羽根の形にする。重さにつぶされて歪んだ自分の脚は、

 彼にとってたくましさの自負となる。

  そろそろと渡りましょう。

  フム。俺は今自由に空を飛んでいるのだぞ。

  とても軽々とな。

  皆よく見ろ!

  落っこちたら世間のせいだぞ。

 
 

 「そろそろと」、綱渡りをする虫の姿のイラストが添えられている。

 

 「亜流」は、今でも簡単に観察出来るだろう。

 
 
 

 「前衛」であること、「アヴァンギャルド」であることはカッコイイことであったはずだが、「前衛」なんて、今では何とも古風な印象を与える言葉だ。「プログレッシヴ」だって、昔の話になってしまっている。

 
 
 

 「前衛」という語に死を宣告したのは、私の経験の中では赤瀬川原平氏であった。

 赤瀬川原平氏と言えば、1960年代の「前衛芸術」を代表する一人であろう。現代日本美術史の教科書からは外すことの出来ない人物である。

 

 その赤瀬川原平氏の著書『超芸術・トマソン』(白夜書房 1985 / ちくま文庫 1987)に登場する「純粋階段」こそが、私の中で「前衛」の終焉を告げた存在なのであった(→ http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/30fd4e8f7bbb0e6a235dfd503d47ca50 伝説の「四谷階段」参照)。

 
 
 

 「芸術」というジャンルの語に「純粋」という語が重ねられる。

 「純文学」なんて言葉は、今でも命脈を保っているのだろうか?

 そこに求められるのは、あくまでも芸術のための芸術である。排除されねばならないのは、商業主義であり、娯楽的要素であり、時には「政治」であった。そんな雰囲気が込められた語として「純粋」が用いられていたわけだ。「純粋」には、眉間にしわを寄せて対峙しなければならない。

 

 階段であるだけの階段。高低差を解消し目的地に導くという役割を放棄した「純粋」な階段。

 日常的意識からすれば、役立たずな階段であり、無意味な階段である。道中で出会っても、通常なら見過ごしてしまうだろう。

 

 ある日、役立たずで無意味な階段(というか役割を放棄した階段は既に階段ではないのかも知れないが)が「純粋階段」として再発見されたのである。1972年のことであった、らしい。

 それが概念として熟成し、「トマソン」と総称される路上構築物として、改めて観察の対象となり、一つのムーブメントとして記録され分類されていくのが80年代のこととなる。

 
 

…と書いて気付くのは、70年代というのが、「前衛」という語が「芸術」の世界と共に「政治」の世界でもまだ命脈を持ち得ていた時代だったのだということだ。

 四谷の純粋階段の発見は、連合赤軍による「あさま山荘事件」と、まさに同じ年の出来事であったのである。

 「政治的前衛」は自壊し、「芸術的前衛」が純粋階段を見出す時代。

 70年代が「新左翼」の自壊の時代だったとすれば、80年代は「旧左翼」の自滅の時代であった。1989年、ベルリンの壁に開いた穴は、社会主義世界を崩壊させてしまった。今や政治的前衛など存在しない。

 「現代美術」、「現代音楽」はジャンルとしては存在するのだろうが、現代人にとっては見慣れた世界の風景の一部に過ぎなくなってしまっている。最早、何をやっても、誰も驚きはしないのだ。眉間にしわを寄せての、あの「純粋」スタイルも消えた。

 

 ハプニングからパフォーマンスへと流れる行為としての芸術もまた、見慣れた光景となってしまったのが21世紀の現実だろう。誰も驚きはしない。

 
 
 

 しかし、純粋階段の発見は、新たな世界の見出し方を取り出す行為であった。

 それまでは人の視野に入ることのなかった路上構築物が、ある時以降、意味ある存在として輝き始めてしまったのである。

 無意味な(と思われていた)対象から、新たに意味を見出す行為。そこにこそ芸術の核心を見出すことも可能ではないか、と思い始めてしまうのだ。

 前衛は、しっかり前衛でありながら、前衛という言葉に引導を渡してしまったのである。

 
 
 
 
 
 

赤瀬川原平 

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D%E6%BA%90%E5%B9%B3

トマソン

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%BD%E3%83%B3

あさま山荘事件

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 
 
 
 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/14 23:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/101223

 

 

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2009年4月12日 (日)

「うそニュース」と「近代史の真実」

 

 日曜の夜になってしまった。

 
 

 「うそニュース」のフォトに、たぬき男いたち男氏のコメントがついていた(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295)。

 

 で、「うそ」をめぐる話。

 
 

 エイプリルフールネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99837)や、かつてのモモタローネタ(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/47855/)を書いた時に目指したのは、「マコトシヤカ」でかつ「アカラサマ」な「うそ」であった。

 
 

 最初から「うそ」を書くつもりで書いているわけだが、騙しおおすことが目的ではない。他人を騙すことが目的ではない「うそ」というわけだ。

…という書き振りからは、「うそ」とは、通常、他人を騙すことを目的として語られるものであるという前提の存在が窺われる。

 実際問題として考えれば、自分自身を騙すための「うそ」というのも存在するように思える。しかし、この場合、それが「うそ」として認識されるのは、他者の視線においてであって、当人にとっては「真実」として把握されているケースが多いのではないだろうか?

 自分で自分を騙しているわけだが、当人にとってはそこに「うそ」は存在しない。

 

 ここで「うそ」という語を用いてしまったために、「真実」という語が登場してしまったが、普段の私が「真実」という語を用いて何かを語ることはない。

 普段の私なら、この手の文脈では「事実」の語を用いるだろう(その前に「現実」か?)。

 まずは当人にとっての「事実認識」(より正確には「現実認識」と言うべきか?)があり、その上で他者との共有可能な「事実認識」がある、という構図になる。当人にとってのみ有効な「事実認識」に関して、それが「うそ」であるのかどうかの判定は難しい。論理的整合性、時系列での整合性等から、第三者にも判定可能である場合もあるが、判断しようがないケースも多い。

 もちろん「他者との共有可能性」を条件にしたところで、関係者全員が錯誤に陥っている可能性を排除することも出来ないわけだ。「歴史」の記述でさえ、当事者を除いた「他者との共有可能性」よりは、当事者にとっての「望まれる歴史」に終始しがちなものである。

 共有可能性の範囲が狭いほど、記述内容には「うそ」が含まれやすくなる。しかし、もちろん、当事者にとっては、そこに「うそ」は存在しない。それこそが、「真実の歴史」と称されることになるのである。

 

 自分にとって都合の悪い「事実」は排除し、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」の「真実性」が問われるわけだ。「真実」という語を用いることで生じがちな誤解を避ければ、都合のよい「事実」だけで構成された「事実認識」は、果たして「うそ」と何が異なるのか?という問いかけとなる。

 
 
 

…と書いて思い出すのが、

 
 

[満洲事変]

昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに、関東軍が満洲全域の軍事占領を図った事変で、昭和八年五月三十一日の塘沽停戦協定によって事実上終結した。日本は、日露の戦勝で満洲に権益を有していたが、「滅満興漢」を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は、既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満洲に波及した。この反日行動を武力で制圧した関東軍の行動は、国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退して、国際的孤立を深めるに至った。

 

 靖国神社 『遊就館図録』 (2003)

 
 

という「歴史記述」である。

 地名の「柳条溝」は誤りで、「柳条湖」であったことは既に常識に属する知識ではないかと思うのだが、それをなぜか「柳条溝」という記述に固執しているのも不思議な話なのであるが、その「鉄道爆破事件」が誰の手によるものであったのかが記載されていないというのは、もっと不思議な話ではなかろうか?

 その一句の挿入の意味は、実際の文章で比較すれば理解しやすいだろう。

 すなわち、

 

  奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

  関東軍による奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに…

 

という違いとなる。

 事実関係の確定という意味で、後者はより正確な記述である。しかもそこにあるのは単なる情報量における厳密性ではなく、歴史的経緯の理解に必須の情報の記載という意味において、歴史記述としての質に関わるものなのである。

 「関東軍による」という語句の排除により、「満洲事変」に際しての、中華民国の対応及び列国の対応の国際社会における意味合いが理解不能になってしまう。結果として、国際社会という視野から、当時の大日本帝國及び関東軍の行動を検証することが出来なくなってしまう。

 残されるのは、関東軍の都合のよさに合わせた記述にしか過ぎない。

 「事実認識」としての流通範囲は狭いものとなってしまうわけだ。

 

 『遊就館図録』の「ご挨拶」には、

 

 …近代史の真実を明らかにするのが遊就館の使命であり、眼目であります。

 

という言葉が書かれているのだが、その「真実」が身内のものでしかなくなってしまうのは残念なことだと思う。

 身内のための「真実」が、外部から見れば「うそ」に近い歴史認識をもたらしかねないのである。国際社会の被害者としての大日本帝國、というような。

 朝鮮民主主義共和国の指導者達には共有可能な歴史理解の構造かも知れないが…

 
 
 
 

…しかし、書き始めたときには予想だにしない展開となってしまった(という言葉に「うそ」はない)。ホントは、コンピュータが、自己保身のためにウソがつけるようになれば、コンピュータも人間並みになったと言えるんじゃないか、というお話に持って行くつもりだったんだが…

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/12 21:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100990

 

 

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2009年4月11日 (土)

「卒業制作優秀作品展」を観る

 

 4月6日から、「平成20年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展」が開催されている。

 
 

 先日、娘と共に楽しんで来た。

 
 

 「卒業制作展」リポート(?)にも書いたことだけど、そもそも、美術大学の「卒業制作」自体が面白い。絵画・彫刻だけが「美術大学教育」の対象ではないのである。

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92750

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92855

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92935

→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93031

 

 その中の「優秀作品」展だ。つまらないわけはない。

 

 「卒業制作展」の時点で強く印象に残った作品が、やはり「優秀作品」として選ばれている姿に出会うのは、(なぜか、どこか)うれしい感じだ。「衆目の一致するところ」というものはある、ということだろう。

 しかし、未見の作品も多いのだ。それだけ大量の作品が、卒業制作として作られるわけだ。ちなみに清掃担当者から聞いた話では、「芸祭」の時期と「卒業制作展」前後が、ゴミの量ではトップを争う状態だそうだ。創作とゴミ。「寓話」が潜んでいそうである。

 
 
 

 展示会場も、美術資料図書館展示室、12号館地下展示室、9号館地下展示室の3ヶ所がメイン会場となっている。スタンプラリー形式のパンフレットになっていて、スタンプを3つ集めると、特製のエコバッグがもらえる仕組みだ。見落としを防ぐための工夫? もちろん、父娘共にエコバッグをゲットしたことは言うまでもない。

 
 
 

 父娘共にお気に入りだったのが、視覚伝達デザイン学科の保田卓也さんの作品だった。

 「プロパガンダの解剖」というタイトルのパネルと本。「レッツ・プロパガンダ」というタイトルのアニメーション。

 アニメのナレーションが、娘の好きなムサビ演劇関係の佐野淳子さんという関係で(?)娘はアニメ、父はよく造り込まれた冊子に夢中。

 戦時日本、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、社会主義のソ連、戦時アメリカ、戦時イギリスと、それぞれのプロパガンダポスターの事例を集めた冊子(それぞれに1冊が宛てられている)には、「現代史のトラウマ」関係者(?)としては惹きつけられざるを得ない。血沸き肉踊るステロタイプな世界だ。

 冊子が美しくプリント・レイアウトされた事例集であるのに対し、アニメの方はプロパガンダ作成マニュアル的な構成だったらしい(娘の話による)。なかなかに皮肉の効いたアニメだったようで、娘にオオウケであった(アニメの方は、後日、機会を作って自分の目でも観たいと思っている)。

 

 「現代史のトラウマ」系作品(?)としては、やはり視覚伝達デザインコースの大学院修了制作、パク・ジフンさんの「近代東南アジアにおける文字政策の研究」が興味深かった。

 タイトルは「東南アジア」となっているが、対象となっているのは、日本、朝鮮半島、中国大陸、台湾なので、実際は「東アジアにおける…」であろうけれど。

 それぞれの近代国家としての成立過程と、文字政策(正書法と字体の確定)が考察の中心となっているのだが、朝鮮半島、満洲、台湾の事例は、日本による統治という共通の時期を抱えている。それぞれの教科書が事例として展示されているのだが、日本統治下では、教育されるのは日本語なのである。それぞれの地域の固有言語への配慮はない。そんなことが一目瞭然なのである。これも、もう一度、ゆっくり読み込んでおきたい作品だと思った。

 

 これも、視覚伝達デザイン学科の卒業制作作品だが、川瀬康子さんの「しいたスタイル ~自閉っ子のための玩具~」も見落としたくない。

 彼女が教育実習先で出会った自閉症の小学生達。その中の一人である「しいた」君。その、しいた君の特性(自閉症児としてのキャラクター、つまり、こだわり等の特徴)を把握した上で、彼の興味関心に沿った玩具を開発する。その際、彼の興味関心のあり方の特徴を絞り込むことにより、逆に人間の認知を支える基本特性が見えて来る。結果として彼の興味関心に的を絞ったはずの玩具は、汎用性を持った玩具として完成することとなった。カラフルな木とアクリルのゲーム形式の玩具である。

 

 父娘推薦作品としてもう一つ、田村陽菜さんの作品「グルーミング・アート 1」及び「グルーミング・アート 2」は落とせない。油絵学科の卒業制作ではあるけれど「本」が二冊。

 それも文章で勝負!な、本なのだ。

 美術作家を目指すぞ!という気負いを欠いて、しかし楽しげに制作を続ける一群の学生の存在。そこにある謎(?)に挑んだ作品(?)、という感じだろうか。毛づくろい(グルーミング)をするネコを眺める心地よさと、気負いのない作者達を前にしての感覚の親近性がタイトルの由来らしい。

 実は、田村陽菜さんは、例の「うそ新聞」の作者である。この卒制「グルーミング・アート」も、昨年の芸祭の時点で予告されていたものだ(「うそ」ではなかった→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/52295 2007年の「うそニュース画像 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Photo/node/PhotoEntryFront/user_id/316274/file_id/35589)。

 「1」に基本的コンセプト、「2」は、そのテーマを深めるためのインタビュー集という構成である。「うそ新聞」の作者であるから、辛辣さをユーモアで包みながらの展開となっており、大いにウケながら読み終えてしまった。

 この「グルーミング・アート」、岡田斗司夫氏が近年提唱(?)している、「プチクリ」というコンセプトが近い感じである。

 
 
 

…と、まぁ、紹介したのは絵画でも彫刻でもない作品だけど、もちろん、絵画彫刻も観ておくに値する作品が揃っている。

 

 それに、作品によっては、卒業制作展時からヴァージョン・アップされていたりするのだ。

 

 不便な場所だけど、出かけるに値すると思う。

 
 

   (武蔵野美術大学にて、4月22日まで開催。ただし日曜日は休館)

 
 
 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/09 20:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100689

 

 

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続々々・「幻想の痕跡」

 

 再び…

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話は、昨夜で終わるはずだったのだが、昨日の記事へのコメントに「葦原将軍」への言及があった。

 
…というわけで、今夜も、『怪』0026号(カドカワムック)の荒俣宏「松沢病院に残された幻想の痕跡に出会う」からのご紹介を続けたい。

 
 

 葦原将軍の話題としては、これまでに取り上げた発言の他に、まず鼎談の冒頭に、

 
 

荒(荒俣宏)  松沢病院を見学するのは、初めてです。それにしても広い敷地ですね。体育館も、コンビニも、集会所も中にあるし、椅子に座って飲み物を飲みながら談笑してらっしゃるのは、入院患者さんですね。われわれ外部の者が話しかけてよろしいですか?

春(春日武彦)  はい、ここは自由です。…(略)…。なにしろ広いので、医師は自転車で回診しなきゃいけません。…(略)…。

荒  この病院がこんなに駅の近くにあるとは、思ってもいませんでした。なんでも、五十年も居る患者さんもおいでだとか。普通の病院だとなかなか考えられませんね。もうここで、町と病院の共同社会が形成されてしまっている。

春  長い時間かけて、町と一体になった感じがありますね。近くのお店で何か買ったり、もう街に溶け込んでますよ。

京(京極夏彦)  他の疾病で入院する場合、入院が長引くすなわち症状が改善しない、悪くなるということですし、最後にはお亡くなりになってしまうわけですけれども、ここの患者さんの場合はそうではない。

春  葦原将軍のような方も居て、ここに居ながら、いろいろな色紙や証書を出して金儲けをしたりしていましたものね。

荒  販売とかは昔は自由だったんですか。揮毫などを売ったりと。

春  別に、本人がしたければしてもいい。わりと自由だったみたいです。…(略)…。

京  地域全体が本当の意味での開放病棟的に機能しているんですね。病院としても町としても。僕も暮らせるなあ、ここなら。

 
 

という形で登場する。

 

 実際、『ウィキペディア』には、

 
 

 病院に来る新聞記者や参観人に勅語を乱発しては売りつけたりした。葦原将軍の乃木希典との会見や、伊藤博文に金を無心して無視された事もある。また、明治天皇が巡幸した際に、「やあ、兄貴」と声をかけたこともある(大澤真幸『思想のケミストリー』紀伊国屋書店、118頁)。日露戦争時、「相撲取りの部隊を出してロシア軍のトーチカを破壊せよ」と発言するなど戦前のジャーナリズムを大いに賑わす人気者であった。奇矯かつ過激な言動は格好のゴシップネタとなり、新聞記者の間では「記事のネタに困ったときは葦原将軍に話を聞きに行け」と言われたくらいであった。
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E5%B0%86%E8%BB%8D

 
 

と、その「逸話」が紹介されている。

 
 
 

荒  おっと、とうとう遭えましたよ。葦原将軍の遺品です!

春  そこにデスマスクも脳みそも、あります。

荒  大礼服や帽子も、ほとんど自作、サーベルも安ピカの手作り品ですね。

京  もうちょっと立派なのかと思ってました。でも、かわいいな、素朴で。

春  この葦原将軍に関して、だれか伝記を書かないかと思うんですけれどもね。種村季弘産は、予告だけして亡くなっちゃったし。

荒  当時は言論が弾圧されていましたが、この人は狂人だということで、どんな言論を発してもフリーだったそうですね。

春  マスコミが、何かにつけて話を聞きにきました。葦原将軍の話だからということで、過激な発言もお目こぼしになったんでしょう。

荒  そうですね。それで皆利用したんですよね。

春  そのあとが、山下清ですよ。彼の発言も比較的フリーだった。でも、さらにそのあとが居ないですよね、そういう役割を引き受けられる人が。

荒  いないですね、また表に一切出てきませんしね。でも以前、春日先生がおっしゃったことで、今は葦原将軍のような、宇宙的な広がりを持つ誇大妄想を語る人は居なくなった。俺は誰かに狙われているとか、小さい、しょぼい妄想しか存在しなくなったという話。妄想が小ぶりになったというのが、わたしには印象的でした。電気治療を跳ね返すくらいの妄想が、なかなか出てこない。

京  自分は偉いんだという人が居なくなってしまった……。

荒  デーモン閣下くらいですか。でも、『閣下』どまりですね。あとは有栖川で『殿下』が出たけれども、皇帝とか将軍と自称する人はいないなあ。

京  だからみんな、宇宙にいっちゃうんですね。でも、コリン星あたりじゃ偉くはないね。

 
 

…と、ここでは、『ウィキペディア』の記事にもあった、ジャーナリズムとの関係にも触れられている。

 ちなみに、その『ウィキペディア』によれば、山下清はサヴァン症候群ということになるらしい。

 葦原将軍の方は、確定した診断名はないという話だが、症状としては「誇大妄想」だろう。

 
 

 さて、鼎談には、

 
 

荒  元気になる妄想や、精神の異常状態を、人工的に体験すること(薬物使用についての言及-引用者)はまあ、本人の自覚次第としても、自分でどうしようもないのは統合失調症などの発症です。後遺症とは違う、薬害とも違う形になりますよね。発症すると、自力だけでは治せないですよね。

春  そうですね。家族や社会がパラメーターに入ってきますから。それと、統合失調症の研究が遅れている理由は、動物実験ができないことです。統合失調症のマウスなんて、イメージすることすらおぼつかない。

京  逆に、ほっとけばいい精神疾患というのもありませんか。それはそれで精神の安定が保たれているので、そのままでも良い、というような。たとえば、自分のしたことを覚えていないような場合、それを天井裏の妖怪がしていることだ、と信じこむ。でも、そう信じ込むことで精神の安定が得られているなら、本人も周囲も、それでかまわないのではないでしょうか。

春  そうなんです。わたしもそう思います。心を治すことは、風邪を治すようにはゆかない。ポイントは、本人にとっての幸せは何か、ということです。妄想を持っていてもそれなりに幸せということはありますよ。まわりが許容できるかどうかですが。

荒  統合失調症にかかると、たいていあまり幸せそうではなくなるみたい。

春  まわりからはじかれてしまうわけですよ。ただ昔だったら、どこの町にも一人くらい有名な人が居たわけです。今は街にそういう包容力が無くなったということが、いえます。

 
 

というやり取りも記録されている。

 
 
 

 葦原将軍は幸福だったのだろうか? その墓碑銘には、「狂聖」という語が刻まれているそうである。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/08 21:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100589

 

 

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続々・「幻想の痕跡」

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話は、昨夜で終わるはずだったのだが、昨日の記事へのコメントに夢野久作の『ドグラマグラ』への言及があった。

 実は、『怪』の記事中でも、取り上げられている。

 
 

 そこで、今夜も、『怪』0026号(カドカワムック)の荒俣宏「松沢病院に残された幻想の痕跡に出会う」のご紹介を続けたい。

 
 
 

荒(荒俣宏)  こちらは拘束具関係ですね。ボローニャ、癲狂院の製作とあります。こっちはベネチアだ。海外の病院とも連携をとっていたんですね。海外から輸入した足枷もある。

春(春日武彦)  全部イタリア製ですよ。昔はわりとイタリアが粗っぽい拘束具を開発したようですよ。電気ショック療法もイタリアが発祥地ですし、ロンブローゾもイタリア人ですし。

荒  ここにある写真は、榊俶院長ですか。『ドグラマグラ』に出てくる人だ。安政四年。江戸の下谷に生まれ、ドイツ留学。明治十九年日本で最初の精神医学担当の大学教授に任命され、日本人で最初の精神医学の講義をしたんですね。学生の講義をすべて病院の中で行って、榊門下たちはすべて、巣鴨病院で診察を担当した。榊院長はヨーロッパの新しい先進医学を日本に導入し、三十九歳で亡くなっているんですね。門下生には呉秀三、なるほどね、確かに『ドグラマグラ』に出てくるわけですね。この人がドンだったんですね。

春  日本の精神医学は、やはりドイツのクレペリンが源流ですよ。この人が精神疾患の分類体系を確立したわけですし。

荒  そうですね、性格や適性検査の理論も精神病理学も、ドイツが盛んでしたしね。呉秀三先生はどこへ留学したのかな。やはりドイツか。クラフト=エヴィングに学んだのですか。性的倒錯の大家に弟子入りしたとは! イタリアの精神医学の伝統を引いた人はいないんですね。皆ドイツだから、療法はまともだったわけね。

京(京極夏彦)  まともじゃないと困る(笑い)。でも、精神医学の巨人である榊に呉両氏は『ドグラマグラ』の主役ですからね。あの小説はドイツ精神医学を基礎に解読するのが正しいんだね(笑い)。

春  フランスだけはまた全然系統が違いますよ。あの国は独特だからなあ。

荒  そうなんですか。その対立関係も、あとで調べてみたいですね。

 
 

 記事(鼎談)の前書き部分に、病院の歴史が紹介されているのだが、その中に、

 

明治三十四年(1901)には、精神病者の解放治療をめざした呉秀三が医長(明治三十七年から院長制へ移行)に就任。

 

という記述がある。そこが『ドグラマグラ』の設定につながるわけだ。

 
 

 ドイツ精神医学摂取の事情は、小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書 1997)では、

 

 明治期以降の医療、ことに精神医療が近代国家としては著しく立ち遅れていたのに対して、アカデミズムとしての精神医学の摂取は比較的迅速に行われた。すでに1876年(明治九年)にはドイツ人医師ベルツが、当時の東京医学校(東京大学医学部の前身)に招かれて内科学の講義を始めていたが、その中の一部に精神医学の講義が含まれていた。1886年には、ドイツ留学から帰国した榊俶によってわが国初の精神医学教室が帝国大学医科大学(のちの東京大学医学部)に開設され、今世紀初頭までには続いて設けられた各地の帝国大学医学部に次々と精神医学の講座が開かれていった。教授のほとんどは榊の門弟、つまり東大医学部出身者であり、大学精神医学においてもわが国特有の(出身大学別の)派閥が形成される契機ともなった。

 このように、わが国の大学精神医学が東京大学中心の保守的な学閥によって展開していたこともあって、精神医学そのものもまた、ドイツ精神医学の無批判な移入に終始することになった。のちの第一次大戦における日独交戦の期間を除けば、圧倒的多数の精神医学の教授たちがドイツ留学の経験者によって占められてきた。

 戦後に至って、医学全体が次第にアメリカからの影響を受けはじめたのちにも、精神医学はなおしばらくのあいだ、ドイツ精神医学の強い影響下にあったことは周知のとおりである。とりわけ精神病理学は、今日でもなおその長い一方的な影響下から完全に脱却しきれたと言い切ることはできない。

 日本の大学精神医学が、その誕生直後からこのようないわば「ドイツ精神医学至上主義」ともいえる体質を抱き続けてきたことが大きな背景となって、ナチス・ドイツ台頭後も依然としてナチ精神医学を無批判に摂取し続けることにつながったといえる。前述の国民優生法による断種の推進を前提とした精神障害者の疫学調査は、当時の東大精神医学教室によって着手されたものである。

 

と書かれている。視点が異なれば、自ずと評価も異なる、ということだろう。ドイツ精神医学至上主義がナチ精神医学の無批判な摂取につながったという指摘なわけだが、治療の場である松沢病院へのナチ精神医学の影響の有無もいささか気にかかるところだ。

 
 
 
 

 まぁ、それはさておいて、『怪』の記事。昨夜の荒俣宏発言の後は、

 
 

春  夢野久作の『ドグラマグラ』もそれに近い感じはありますよね。出版の機会が訪れたから、改稿の無間地獄から脱して何とか終了できたんでしょう。ただ、その強制終了は、早すぎたら意味がない。なりふり構わず踏ん張るから、成果を残せる。以前は編集者が作家の自宅に泊まりこんで、作品を書かせた。粘ったのです、ぎりぎりまで。重要なのは熟成ですよ。今は精神医学の治療がいい薬のおかげで早くなってきていますから、妄想もまた熟成されていかない。

京  狂人の芽を摘んでしまう、ということですか。

荒  それは名言だ、京極さん! 葦原将軍のような熟成されたサヴァンが消えた真の理由がはっきりした。結論が、ちょうどよきところで出ましたね。お疲れ様。

 

と続いていたのであった。

 

 あくまでも、鼎談の掲載誌は『怪』なのである。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/07 21:05 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100457

 

 

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続・「幻想の痕跡」

 

 東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話。

 

 昨夜の続きである。

 
 
 

 『怪』0026号(カドカワムック)の「松沢病院に残された幻想の痕跡に会う」という記事の内容紹介だ。

 

 昨日の荒俣宏氏のセリフからもう一度、その続きまで。

 
 

荒(荒俣宏)  ところで、本日は資料館見学ですが、事前に部長先生の許可をいただきました。中に入ってよろしいでしょうか?

春(春日武彦)  どうぞ、この資料館の正式名称は、「日本精神医学資料館」です。例の、皇居のお濠を渡ろうと計画した人が作ったという奇怪な小船が、入り口に展示してあります。

荒  え、これなんですか! こんな手製の船で皇居に何しに行こうとしたんですか?

春  昔は電波も音も、精神に影響する波動はすべて皇居からやってくる、と。

荒  昔、天から電話がかかってくるとか、電線から声がするとかいう話がありましたが、皇居からのも、あったんですか。

春  今は皇居のマジカルな力もすっかり価値が下落して、そういう話を聞きません。最近だと、怪電波は都庁からきたり、NHKからきたり。

 
 

 精神障害の世界における、皇居の地盤沈下、つまりマジカルなパワーの源泉としての天皇の認知度の低下ということだろうか?

 いわゆる「ネトウヨ」諸氏の意識を見ても(詳しいわけではないが)、わが「国体」への関心度の低下が窺われるという印象を持っている。右翼を称する人間から、「国体意識」が失われつつあるのだから、精神障害というある意味で感度の高い人々の関心が皇居から都庁やNHKへと移行しているというのもうなずける話であろう。

 日本文化史的観点からも興味深い事実だと思う。

 
 

 さて、ここからがホントの昨夜の続きである。

 
 

荒  それからもうひとつ、せっかくお目にかかったので伺いたいのですが、こういうアーティスティックな作業、これは昔、十七世紀くらいに精神病院を見物したホガースという画家が、病人たちの変な行動に気が付いて、皆壁に色んな画を描いたりして、もしかしたらこの人たちはアーティストなのかもしれないというところからはじまって、とうとうローザンヌで狂人アートの研究もはじまりますよね。このアーティスティックな能力、機能と、脳との関連に関して最近はサヴァン症候群が話題になっています。精神の障害がある人の中に、絵とか音楽とか数学とかに超人的な能力を発揮する例がある、という現象ですね。われわれ、妄想系の作家にとっても関心のある問題です。これ、どうお考えですか。

春  わたし個人としては、ロマンと過大評価とが混同されている印象がありますけどね。統合失調症などでみてみますと、技術的な機能は精神疾患が発生してもそんなに落ちないといわれています。ただし、絵の場合、構図に緊張感が失われて、描かれている要素がすべてバラバラになってしまう。本人たちも気がついてまずいと思うわけです。そうすると不安に駆られて空白をびっしりと埋めてゆくんです。でも、そんなことをすると画面は壁紙みたいにアクセントを失ってしまい、それゆえに偏執的な独特のトーンが生まれてくる。昔、わたしが知っていた絵描きの患者さんは、発病以来次第に構図がゆるくなってきて、苦し紛れに、画面全体を黒く塗りつぶして、その上に白く線を浮き出させる銅版画のメゾチント方式で描くようになった。すると全体の画面が闇に沈みますから、余白がなく、緊張感がでる。そういう工夫で、なんとか構図が散漫になるのを防いでいました。

京(京極夏彦)  作家でいうと、プロットが作れない、オチの付け方が分からない、の状態ですか。

春  そう、構図やオチを決められないというのは、ある意味で悲惨な話ですよ。

荒  人間やはり、二、三歩先の見当がつかないと先に進めませんからね。

春  そうですね。構図が散漫になってしまうことでおきる不安。つまり、それがいままでずっとお話してきた精神的な不安定状態の真相でもあるのです。

京  良いのか悪いのか判断できないから、どんどん隙間を埋めていってしまう。

荒  でも、われわれが助かるのは、物理的に締め切りが来て、作品を自動的に終了させてくれることですよ。天の救いの強制終了です。人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから。

 
 

 実際に、「アウトサイダーアート(アール・ブリュット)」という呼び方で、精神障害者による作品がカテゴライズされ、関心を持たれつつある。私自身、かつて世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン」展を観て以来、興味を持ち続けている分野だ。

 まぁ、それはそれとして、ここでは、「プロット」と「オチ」という京極氏の表現に惹かれてしまった。

 絵画作品や立体作品を見ていて、どの時点で作家が完成と判断するのか? というのは、よく思うことなのである。

 文章にも、同様な側面があるだろう。改稿を繰り返してもフィニッシュに至らない状況。しかし、そんな時には、何を自分が言いたいのかが既に見失われていたりもするものだ。

 一方で、書き続けることによって、まったく別の眺望が開けるようなこともある。わかっていることを書きました、という状態から、書き続けたことで新たにわかった(それも思いもよらぬ展開として)、という状況への転換。

 絵画作品などでも、下描きの精緻化としてではない描き方があるように思える。完成形が、当初から明確にイメージされているとは限らないのである。

…なんてことを考えながら、荒俣氏の「人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから」という発言にも心から同意している私なのであった。

 
 
 

 あらためて数えてみたら、鼎談部分でも14ページという分量である。これだけでも読むに値する、と言うか、(その前に)買うに値する一冊だと思った(と購入→ますます部屋が狭くなる、を正当化している)。

 
 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/06 22:22 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100371

 

 

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「幻想の痕跡」

 

 角川書店が出している、『怪』という雑誌(カドカワムック)の最新号(0026)に、「松沢病院に残された「幻想の痕跡」に会う」と題された記事がある。

 「荒俣宏の脳内異界探偵」というシリーズのひとつで、「驚愕の松沢病院コレクション」というサブタイトルも付けられている。

 

 巻頭の方の、4頁ほどが荒俣宏氏の文と写真で構成されたカラーグラビアページで、続きは後ろの方に別に、同行した京極夏彦氏、そして案内役の作家にして精神科医の春日武彦氏を交えた鼎談形式の記事となっている。

 

 言うまでもないことだとは思うが、「松沢病院」は、長い歴史を持つ精神科の病院である。本格的公立精神病院第一号の後身ということになるらしい。

 その東京都立松沢病院内にある、「日本精神医学資料館」を訪問しての紹介記事だ。

 
 
 

 グラビアのキャプションの言葉を用いれば、「患者の作品、松沢病院の歴史、精神病治療の歩みなどが2部屋にわたって展示されている」施設ということになる。

 かつて使用された拘束具や電気治療器もあれば、院内で発行印刷されていた同人誌、患者が制作したカルタもあれば仏像もあり、果ては「葦原将軍」のホルマリン漬けの脳なんてものまである。

 
 

 鼎談形式の記事には、「ところで、本日は資料館見学ですが、事前に部長先生の許可をいただきました。中に入ってよろしいですか?」という言葉がある。見学は許可制なのだろうか?

 いずれにしても、いつか訪れて見たいと思っている。実は、私の叔父のひとりが、松沢病院で生涯を終えた人物なのだ。院内で、なにやら「作品」を作り続けていたらしい。他人事ではないのである。

 
 
 
 

 記事の内容から、興味深かったところをご紹介すると、

 
 

荒(荒俣宏)  ここには院内の同人誌が残されていますね。自家出版だ。あ、印刷作業療法というのを実験していたんですね。「設立以来半世紀以上の歴史を持つわが国の精神病院の印刷作業療法の草分けである」か。松沢病院の印刷作業は昭和五年に開始され、一日平均四人で病床日記その他の印刷物を引き受けて始めた。ほっほう、すごい印刷物を発見しましたよ。「全世界最初の初宇宙神殿建立、天上公園を建設」という本、どうもこの印刷作業療法のひとつで成果のようです。しかも袋とじガリ版刷りになっています。宇宙や地球のことと、この世界のお話であるように思われます。今この本の序文を読みますよ。「小生御厚情を賜り居りまして、誠に喜ばしく、有難く、厚く御礼を申し上げます。およばずながら、本に印刷してあります宇宙や地球のことと世界の人のお話であるように思われます。宇宙や地球のことと、事実なる宇宙や地球がいかにありましょう宇宙の森羅万象とよくあいまして、世界の人のお話の意味が成立しております。」と。

春(春日武彦)  昔はですね、こういう壮大で誇大妄想的な患者が多かったというその実例ですね。

京(京極夏彦)  天上公園の請願がある。院長先生宛ですね。よほど強く願われていたんですね。

 
 

なんてやり取り。

 「天上公園を建設」の文章・文体が独特で面白い。

 
 

京  もう一歩深く知りたいところは、妄想なり錯乱状態なりが、治療することで本当に快方に向かうのか、という点です。どうなんでしょうか。

春  医学的にいうと、いわゆる神経細胞間の伝達物質がどうとかいわれますが、ただそれを調整する薬を使っても、ある程度は良くなることはあっても、完全にケロリと良くなることは無い。発症には、相当複合的な原因があるものと思われます。

京  何かのきっかけで、記憶喪失が回復するように正気づいたりすることはないのですか?

春  妄想は、急に我に返って、俺はいままで何をやっていたんだろう、という展開にはまずなりません。いつのまにか消えてしまうことはありますけど。ただ、わりと劇的に消える場合があって、それは本人の健康状態が悪くなって死にかけるか、体が極端に衰弱状態にあるときです。つまり、我が身が危急存亡の際に立たされると、気が狂っているどころではなくなってしまう。

荒  死ぬ寸前に、精神状態が回復する、ということもあるんですか。

春  あります。ですから合併症の手術などをしますと、精神科の薬は一時的に減らせます。精神状態も改善する。ところが体が良くなってくると精神科の薬も増やさざるを得なくなってくる。そういう意味では、一種の贅沢病かもしれません。

荒  大脳皮質みたいな、贅沢な脳の部位を使っているから。

春  そうそう。

荒  生きるか死ぬかの瀬戸際、原始的な動物脳に頼る状態になると、もう妄想だとかそういうものは吹っ飛ぶということなんですね。

京  ということは、我々は日々脳内で贅沢をしているということですね。

 
 

 これからが話の佳境で、芸術にまで話が及ぶのだけれど、本日はここまで。

 

 精神病院が他人事ではない人たちの「鼎談」というところが、話を面白くしているように思える。

 
 

 この続きは、明日にしたい。

 
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/04/05 23:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/100265

 

 

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2009年4月 1日 (水)

陸軍冬期戦研究所(とらぬタヌキの肉算用)

 

 斎藤智久『智久日録』(幽玄閣  昭和31年)には、戦中の疎開先での様々なエピソードが書かれている。

 

 斎藤智久の本業は英文学者だったらしいが、同書を読むと、姻戚関係を通しての陸軍中枢部の軍人達との交流が窺われるところが興味深い。

 また、いわゆる学者一家という印象で、家族がそれぞれに民俗学であったり物理学であったりといった分野で活躍していたらしい。

 

 
 群馬の奥野村への疎開は、昭和19年の晩秋に済ませており、翌20年1月27日の空襲で小石川の自宅が焼かれた際には、疎開済みの家財だけは無事だったということだが、相当量の蔵書を焼かれてしまっている。蔵書を焼かれる気分には、想像するだに辛いものがある。

 同書によれば、その日は、東京に滞在中で、品川での会合を終え帰宅した時には、自宅は既に焼け落ちていたという。

 

 その品川での会合もまた、私には、興味深いものだ。民俗学関係の集まりだったらしいが、

  シュケムトビク氏の蒐集せる土民の用具類を観察す。

  鼻長き神像面白し。 

という記述からは、ハイアイアイ島住民の貴重な民族資料が、当時の日本国内に存在していたことが推測されるのである。その後の資料の消息は不明であるが、空襲の犠牲になった可能性はありそうである。また、資料の提供者が海軍関係者であるらしいことにも興味を覚えた。

 

 
 さて、奥野村への疎開は、陸軍関係者の紹介によるものだったと書かれている。当時の奥野村には、「陸軍冬期戦研究所」と呼ばれた、軍の研究所があったのである。

 狸の養殖が、研究所の課題であったらしい。

 つまり、軍用の毛皮の供給源としての狸、ということであろう。

 ここで興味深いのは、研究所の設立年代である。同書によれば、それは昭和14年であった。満洲事変により、既に満洲は大日本帝國の支配領域であった。

 対ソ戦を前提とした陸軍の戦略構想を考えれば、その時点での毛皮の供給源の確保は、実際的問題であったのだろう。

 

 ただし、大東亜戦争は対米英戦争として始まり、戦場も南方地域であった。戦局の逼迫と共に、北方の寒冷地の戦場用として想定されていた狸の毛皮の確保の優先度は低下してしまう。

 斎藤智久の疎開した昭和19年の時点では、予算の削減という事態に発展していたようである。

 

 
 陸軍との関係からの疎開先の選定ということで、研究所の陸軍軍人との交流が深かったようで、研究所の内情への言及は詳細で信頼度が高い。ちなみに、「陸軍冬期戦研究所」という正式名称は通常は用いられず、「勝々山部隊」と称していたらしい。『智久日録』刊行当時には研究所の建物も残されており、付近一帯は、村民からも「勝々山」と呼ばれていたということだ。

 

 予算削減という提案に直面した当時の所長、清水七郎大佐は、狸を毛皮の供給源としてではなく食肉として位置付けることによる、事態の打開を図る。

 毛皮としての価値に加え、食肉としての価値を強調することにより、研究所としての存続を画策したわけだ。

 

 
 そこに巻き込まれたのが、斎藤智久であった。

 悪化する当時の食糧事情の中でありながら、陸軍研究所という性格上、食糧の確保は難しいものではなかった。一般の食糧事情からすれば、実に恵まれた環境にあった、はずなのだが、新たな研究課題である。

 連日、所長宅に招かれての食卓に上がるのは、狸の肉なのであった。

 やはり、不味かったらしい。空襲の被害に遭った、神田のホテルのコックや、向島の料亭の板前など、一流の料理人を研究所嘱託として採用していたようだが、狸の肉のハードルは高かったようである。

 

 

 昭和20年4月1日の斎藤智久の言葉が、すべてを物語っているだろう。

  団栗を食べる狸を食べんが為に努力せしも、

                団栗は団栗として食べる方がはるかに美味なり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          (エープリル・フールの「freeml」用のネタ)

 
 
 

 
(オリジナルは、投稿日時:2009/04/01 19:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99837

 

 

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ダミニストによる日本経済へのささやか~な貢献

 

 また浪費、ではなくて日本経済へのささやかな貢献である。

 
 

 仕事が休みだったので、昼間から家族と出かけた。

 娘もついに中学卒業というわけで、進学先への提出書類を、先週に卒業式を終えたばかりの中学校まで受け取りに行った。

 そのまま駅へと雨の中を歩き、改札口へ。

 立川に到着。エキナカで食事(先日、娘と見つけた本屋の奥の喫茶店である〉。

 その書店スペースで、本を買う。

 今日は新刊本だ。室内事情のため、新書サイズにおさえる。

 
 

  雨宮処凛 『排除の空気に唾を吐け』 (講談社現代新書 2009)

  佐谷眞木人 『日清戦争 「国民」の誕生』 (講談社現代新書 2009)

  茂木健一郎 『化粧する脳』 (集英社新書 2009)

  福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』 (中公新書 2009)

 

 雨宮処凛は、私というよりは娘(とその母)用である。読書は図書館利用にシフトと言う娘の母に対し、これは著者のために買わなきゃ、という理屈で購入。

 『日清戦争』は、「国民の誕生」というサブ・タイトルに惹かれての購入。

 『化粧する脳』の著者は、例の饒舌氏との議論の舞台となっているMLの主宰者でもある。著書もたまには読まないと…

 『「戦争体験」の戦後史』の著者の関心対象は、高田恵理子に重なるところがあるという印象だ。こちらはどのように料理して見せてくれるのか、まずはお手並みを拝見。

 実はもう一冊。これは既に娘の手元にある『聖☆おにいさん』。立川が舞台、なので新刊を立川でゲット。これが本日のお出かけの目的…??

 
 
 
 

 銀行で口座の状態を確認し、中央線を(というか立川を)代表するオタクデパートのフロム中武へ。

 切手だの古銭だのの店が目標。

 余計なものを買い込む。

 
 

  1241年 南宋銭 「淳祐元宝」 600円

  康徳10年 満洲帝國 1分 700円

  康徳10年 満洲帝國 5分 735円

  1974年 ニカラグア 10(単位がわからない) 200円

  1978年 アフガニスタン 単位不明 2000円

  1977年 ソ連 1ルーブル 300円

  1978年 ソ連 1ルーブル 300円

  1979年 ソ連 1ルーブル 300円

  1980年 ソ連 1ルーブル 300円

  1980年 ソ連 1ルーブル 300円

  戦前の記念メダルのセット(国内) 500円

 
 

 基本的に、今は存在しない国の貨幣がコレクション(?)のターゲットだ。

 1241年の南宋銭は、ウチで一番古い年代のものとなった。鎌倉時代、日本における貨幣経済浸透の立役者(?)の一枚である。

 満洲帝國の貨幣も、最近の狙いどころ。

 1974年のニカラグアはソモサ政権時代。その後サンディニスタが政権獲得。米国の干渉により、ニカラグアは内戦へと突入していくことになる。

 1978年のアフガニスタンは、ソ連侵攻の前。クーデターはあっても、国民は戦争を知らない。

 1977~1980年のソ連の1ルーブルは、モスクワ・オリンピックの記念硬貨としてデザインされたもの。年号の入った面のデザインが、それぞれに異なる。言うまでもなく、1979年のアフガニスタン侵攻により、当のモスクワ・オリンピックは、西側諸国の不参加により名を知られる「歴史的」大会となってしまった。

 戦前のメダルは、赤十字だったり、大学生のスポーツ大会だったり、なんかの行事の記念品として作られたものが10種類ほど(1920年という年号が刻まれていたりする〉。娘のアクセサリー転用も考えれば、実用品かも知れない。

 

 集めてどうするんだ? と聞かれても困る。

 歴史をモノを通して感じることが出来るような気がする、くらいのところだろうか?

 
 
 
 

 南口のモノレール駅そばの書店に移動。

 こちらでは、財布の紐を固くして我慢。この書店、棚を見るだけで楽しい。センスを信頼しているのだ。ここでの本との出会いは、立川散策のお楽しみの一つ。

 駅ビルの上の喫茶店で一休みし、中華街で食材ゲット。

 山野楽器でのCD、DVDチェックは我慢。

 

 これで、本日のお出かけスケジュールは終了。

 一家は、日本経済へのささやか~な貢献を果たしたのだった。

 
 
 
 
 
 

 
 

(オリジナルは、投稿日時:2009/03/25 22:31→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/99227

 

 

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