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2009年2月14日 (土)

続々々々々々・老眼と自己決定

 

人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

 

 

…という話題に、久しぶり、立ち戻る。

 

 

 

 「続々々々・老眼と自己決定」では、自殺をめぐり、

 

自殺とは、自身の生命を、自身の決定により処分可能であるという事実の上に成立する。ここにも、可能であるのかどうかと、それを権利として主張出来るのかどうかという、異なる二つの側面がある。

生命の処分権は誰のものなのか?

 

という問い方をしてみた。

 

 その上で、

 

一般的な文脈において、自己の権利として処分し得る対象は、自身の所有物として想定されているものだろう。当人の所有物に関しては、当人に処分権が属すると考えるのが、私達の生きる現代社会である。

 

という視点を設定し、その検討の後に、

 

…つまり、自身の生命は自身の所有物とは言えない。

…つまり、自身の生命の処分を自身の権利として主張することは不適切である。

 

と結論付けた。

 

 

 この論点について、今回は別の観点から論じてみたい。

 

 

 

 生命の処分権は誰のものなのか?と考えた時に、処分の対象と成り得るものと、その処分の決定権者の関係について、再度、ここでは考えてみたいのである。

 

 処分の対象物に対し、処分権保有者が処分の実行をした際に生ずる変化に着目しよう。

 処分=破棄と考えた場合、処分実行後には処分対象は破棄され、その存在を失う。しかし、処分権保有者=処分実行者の存在はそのまま残る。

 そこに、所有関係に基づく「処分」を特徴付ける性格を見出すことが出来るだろう。所有物の処分後にも、その所有者の存在自体は、そこにそのまま残るのである。もちろん、そこに残されるのは、かつての所有者としてという意味における存在であり、既に破棄された物件の所有者ではないのであるが、その人物の生命は維持されているのである。

 

 それに対し、「自殺=自身の生命の処分・破棄」と考えてみよう。自分の生命が自身の所有物であるならば、その処分・破棄後にも、自分自身が生き続けている必要がある。もちろん、自殺の意味するのは、自身の生命の抹消であり、処分実行後には、自身の生命の所有者であったはずの自分自身の存在は失われてしまうことになる。

 つまり、結論として、自分自身の生命に関し、それを自身の所有対象として考え、自分自身にその処分権が属すると考えることは誤りである、という認識が導き出されるだろう。

 

 

 

 自殺は行為として可能であるが、やはり、それを当人の「権利」として主張し得るような性格のものとして考えることは妥当ではない。

 

 

 

 

 しかし…

 自身にとっての耐え難い苦痛が存在し、その上で、自身の生の存続を望まぬこと。

 それが自殺の理由であり、安楽死(「尊厳死」と呼ぶにせよ)を望む理由として考えられている事態であろう。その当人に対し、苦痛ある生の存続を強要する権利を持つ者の存在を、私は、想定出来ない。

 

 

 

人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

生命の処分権は誰のものなのか?

 

 

 

 もう少し、考え続けてみたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/14 23:40→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/95153

 

 

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