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2009年2月 3日 (火)

続々々々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

…という問いかけに答えること。

 

 昨日も書いたが、最優先されるべきは、当人の意思だろう。

 自分の死を自分で決定するとはどのようなことなのか?

 生物としての人間の身の上について考えれば、災害死・事故死という偶発的ケースを除外し、重篤な感染症や様々な進行性の疾患を免れることが出来たとしても、身体の老化の果てに、死は必ず向こうから訪れて来るものだ。何人も、最終的な死を免れることは出来ない。

 自身の決定により、最後に訪れる死を左右することは出来ないのである。

 つまり、自身の決定の対象となり得る死とは、生物的あるいは生理学的な過程の果ての肉体の死ではない。事故死・災害死、そして疾病による自ら望まぬ死もまた、自身による選択的決定の対象とは言えないだろう。

 事故死・災害死は、外部から強要される死であろうし、老化の果ての死は、内部崩壊の結果である。疾病による死は、両者の中間にあると言えるだろうか。そのいずれもが、自らの決定によらぬ死であることにおいては同列のものである。

 自身の決定の対象となる死とは、生物としての肉体として避けられぬ死ではなく、生物としての肉体に生の継続の可能性があるにもかかわらず、自ら選び取る死なのである。

 自殺、自死と呼ばれる死こそが、自身の決定の対象となり得る、自らの身の上に起きる死、自らの身の上に自ら起す死なのである。

 自殺という選択は、死を対象化する能力を抜きには存在し得ない。その意味で、大変に「人間的」な能力の上にのみ実現可能な、大変に「人間的」な選択だと言うことも出来るだろう。

 人間であるからこそ、自殺は可能なのである。

 

 人は望めば自殺をすることが出来るのだ。その意味で、自殺は自己決定の問題である。当人の意思に基づく自己決定は尊重されるべきだろう。

 しかし、ここで考えなくてはならないのは、当人の意思の尊重の重要性であると共に、その自殺への自己決定は、他者に対し自らの権利として主張されるべき性格のものであるのかどうか、ということだ。

 自らの生命を自己の意思でストップすること、つまり自らの意思で自らを殺害することは、「権利」として主張されるべき性格の行為なのだろうか?

 自身に対する殺人は、自身の権利であるのだろうか?

…つまり、自殺をめぐる自己決定権の主張とは、自身に対する殺人の権利の主張なのである、と考えることに論理的錯誤は存在するのであろうか?

…つまり、人は殺人の権利を、権利として主張出来るものなのだろうか?

…という問いかけをし、考えることに、私は意味を見出してしまうわけだ。

 

 さて、次に、異なる視点から、事態を見ておくことにしよう。

 自殺とは、自身の生命を、自身の決定により処分可能であるという事実の上に成立する。ここにも、可能であるのかどうかと、それを権利として主張出来るのかどうかという、異なる二つの側面がある。

 生命の処分権は誰のものなのか?

 一般的な文脈において、自己の権利として処分し得る対象は、自身の所有物として想定されているものだろう。当人の所有物に関しては、当人に処分権が属すると考えるのが、私達の生きる現代社会である。

 だとすれば、自身の生命は自身の所有物であるのかどうか?という問いが、ここに浮上して来るのである。

 所有物となり得るのは、自身の労働の成果、金銭による購入物、他者からの譲渡物、そして相続物件、ということになるであろうか?

 自身の生命は、自身の労働の結果の獲得物ではないし、購入物でも譲渡により得たものでもない。相続物件という主張が出来そうにも思えるが、相続対象と成り得る物件の元を辿れば、これも先行世代の労働・売買・譲渡による獲得物なのである。生命と呼ばれる現象を相続物件とみなすことは妥当ではない。

…つまり、自身の生命は自身の所有物とは言えない。

…つまり、自身の生命の処分を自身の権利として主張することは不適切である。

 

 

 人間にとって、他者の殺害であれ、自己の殺害であれ、行為としては可能なものである。

 しかし、それは、権利という範疇で論じられるべき性格の問題ではない。

 そのように考えるわけだ。

 

 「安楽死」もまた、自殺の延長として考えることが可能な行為である。

 自殺は個人の行為として実現可能なものであるが、安楽死は、その実行に他者の手を必要とする。安楽死は、社会的な場においてしか実現出来ないという制約の下にあるということだ。自殺の延長であると共に、自殺との相違も大きい行為として考えることも必要なのである。

 自殺が権利という範疇で論じられるべき問題でないのだとすれば、安楽死もまた権利という範疇の問題ではないだろう。

 どのような文脈で語ることで、社会的に可能な事態として認め得る地点に到達出来るのだろうか?

 安楽死の実行に関与するということは、他者の殺害に関与することでもあるのだ。

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 まだ問いを続けなければならない。

 
 
 

 

 
(オリジナルは、投稿日時:2009/02/03 19:03→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93904

 

 

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