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2009年2月 2日 (月)

続々々・老眼と自己決定

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

…というテーマ。軽い話ではない。

 そんな話を続けて、今日で4回目である。

 

 

 今夜の『クローズアップ現代』のテーマは、まさにその問題であった。

 意思の疎通が不可能になった時点での、人工呼吸器の取り外しを求めるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性の話である。

 筋萎縮性側索硬化症は、文字通り、筋肉の機能が停止することにより、生命の維持が困難になる難病である。肺による呼吸も、食物の咀嚼摂取も、筋肉の働きによるものだ。もちろん、歩くことを含めて、私達が通常、運動として理解している能力は失われてしまう。寝返りも打てないのである。

 かつては、呼吸器の筋肉の停止が、患者に死をもたらしていた。現在では、人工呼吸器の使用により、肺の筋肉の機能が失われても、生き続けることが可能となった。

 

 番組に登場した男性患者、照川氏は20年以上の病歴を持つ方だ。

 通常の会話能力は失われているが(と簡単に書いてしまっているが、声を出さずに他人とコミュニケーションすることの困難をどこまで想像出来るだろうか?)、頬の筋肉の動きを利用し、周囲に伝えたいことはパソコンに入力することが出来る。つまり、そのことにより意思の伝達が可能になっているのである。

 照川氏は、その能力が失われた時点で、つまり周囲に対する自らの意思伝達能力が失われた時点での呼吸器の取り外しを、病院に求めたのである。

 意思伝達能力の喪失と共に、彼の恐れているのは、瞼の筋肉の機能停止により視覚を失うことである。暗闇と化した世界の中で、身動きすることが出来ず、意思の伝達も出来ない自分の姿。照川氏は、その状態での生の存続を望まない。

 病院の倫理委員会は、一年にわたる議論の後に、彼の求めに応じる報告書を提出する。しかし、病院長は、刑事訴追の可能性を指摘し(番組内では、それが明示的な表現であったかどうかは記憶にないが)、実現には消極的である。

 

 

…というのが、現在の照川氏を取り巻く状況だ。

 

 

 さて、どのように考えるべきか? 

…とは私の考えるべきことではない。私に書けるのは、どのように考えるべきかではなく、私はどのように考えるか、それだけだ。

 

 

 まず、人の生死については、最優先されるべきは当事者本人の意思であると思っている。他人が、当人を差し置いて、口を出し・指図すべき問題ではないと考えている、ということだ。

 特に照川氏の場合、ALSの病歴20年の積極的な闘病人生の後の、現在の心情である。その20年という時間は、私の想像力の殆ど及ばぬ場所にある。

 照川氏の選択に対し、言葉はない。

 

 

 その上で、人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか? この視点から、私が何を考えたのか、それを記しておきたい。

 

 病院長の対応を、不適切なものと考えることは私には出来ない。法的なシステムの下に生きるのが、現代の人間の条件である。

 照川氏の希望の実現には、制度的な対応が不可欠と考えざるを得ない。医師や家族による、恣意的な、安楽死という名目の殺人行為が可能となるような条件は、事前に、制度的に、取り除かれねばならないのだ。

 しかし、制度化は両刃の剣である。患者自身、家族、そして医師、更に周囲の社会に対し、難病患者に対する医療継続の打ち切りを促す契機として機能しかねないのである。早期の安楽死実行の決断を求める圧力として機能する可能性は十分にあると考えておくべきだろう。

 難病患者への救いとして想定されていることは確かだが、難病患者の社会からの(世界からの)排除として帰結してしまう可能性も否定出来ないのである。

 問題の書物、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)での主張の帰結は、不健康な者の排除(ガス殺の対象となったのである)を制度化した、アドルフ・ヒトラー氏のユートピアであるナチスドイツの国家政策として現実化したのである。

 同書で、共著者の一人カール=ビンディングは、安楽死の対象として、

  1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
  2)治療不能な知的障害者
  3)瀕死の重傷者

の3つの事例を提示していたのであるが、その3事例の共通項は「治療不能状態」なのである。

 ナチスドイツは、治療不能な精神障害者に対するガス殺の実行を制度化してしまった。7万人以上が殺害されたと言われている。

 

 照川氏の願いが、ナチスドイツに直結しているなどど言うのではない。

 しかし、歴史的経験を想像力の内に持ち続けることは、少しは役に立つものだ。

 照川氏の願いの制度化を試みようとするならば、そして難病患者の社会的排除としての帰結を希望しないならば、そのような過去の歴史的経験を見据えておくことが必要だ。

 

 その上で、意思の伝達手段の喪失を理由に、安楽死を認めることは、意思の伝達手段を持たない、それどころか意思の存在すら疑問に付されてしまうような重度心身障害者の生の存続に、消極的な態度を社会にもたらすことにつながる可能性をも秘めているのである。

 重度心身障害者の社会からの(世界からの)積極的排除として帰結してしまう可能性がある、ということだ。

 現在の日本のマジョリティーの現実は、そのような危惧にリアリティーを感じさせるものでありはしないだろうか?

 

 そしてもう一つ。

 安楽死の権利とは、論理的には自殺の権利である。

 自殺は人間にとって権利なのだろうか?

 ある種の精神障害者にとっての自殺への誘惑は、侮ることが出来ないものだ。医療行為とは、彼らをその誘惑から守り、生の側へとつなぎとめておくことではないのだろうか? 自殺の権利の容認は、そのような努力を無効にしてしまう。

 あくまでも論理上の話ではあるのだが…

 

 もう一度繰り返すが、照川氏の選択自体を非難する理由は、私にはない。

 しかし、照川氏の選択が、結果としてどのように機能してしまう可能性があるのかについては、私は考えておかないわけにはいかない。

 人は社会の中で生きているのである。照川氏自身の個人的選択は尊重されるべきだが、その個人的選択は、同時に社会性を帯びたものとして機能してしまうのだ。そして、この人間に課せられた条件からは、誰も逃れることは出来ないのである。

 

 
 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/02/02 20:52→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/93796

 

 

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