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2009年1月18日 (日)

Fair is foul, and foul is fair …

 

  1606年、新王ジェームズ1世に敬意を表して上演された。

 ジョゼ・アクセラとミシェール・ウィレムの共著『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』中の、シェイクスピアの『マクベス』上演に関する記述である。

 ジェームズ1世の即位は1603年のことであった。エリザベス1世の死により、スコットランド国王ジェイムズ6世が、ジェイムズ1世としてイングランド国王となったのである。

 その意味では、『シェイクスピアとエリザベス朝演劇』という表題を掲げながらも、書中で取り上げられている作品に関しては、1602年(一説には1603年)の『ハムレット』を除いては、『オセロー』が1604年、『リア王』が1605年と、シェークスピア悲劇の代表作の執筆年代は、エリザベス朝ではなくジェームズ朝であるわけだ。

 ちなみに1603年とは、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた年でもある。文化史的には、出雲阿国の北野天満宮における歌舞伎興行が記録されている年でもある。

 当時の流行に敏感な(つまり権威主義的人間からは軽佻浮薄と評される)人々がカブキモノと呼ばれていたことを思い出しておきたい。歌舞伎もまた、煙草や三味線への愛好と共に、流行最先端のステージとしてカブキモノ達に歓迎され、その観客動員力を誇っていたということになる。つまり、新しい物好きが集まる場であったわけだ。

 伝統に権威を見出すタイプの人間達からは、軽佻浮薄な新しい物好きの不良じみた連中と思われていたに違いない都市民が、初期の歌舞伎や三味線音楽を支えていたということなのである。要するに、歌舞伎の登場は、都会の不良の世界の出来事だったのだ。煙草は輸入され栽培が始められたばかりの最新のドラッグであったし、三味線も外国からの最新の移入楽器であった。

 そんな時代のロンドンでは、シェイクスピアの最新作の上演に、かの国の流行に敏感な連中が立ち会っていたわけだ。わが愛するジョン・ダウランドがヒット・メロディーを作曲していたのも、その同時代のことである。

 

 さて『マクベス』であった。そこでシェイクスピアは、

  Fair is foul, and foul is fair

  きれいは汚い、汚いはきれい

  so fair and foul a day I have not seen

  こんなに美しくいやな日はみたことがない

というセリフを生み出している。ここでは、私は、このような表現を受け入れることの出来る観客の存在を考えてしまうわけだ。そのような表現を「矛盾」として排斥するのではなく、「現実」の表現として(現実を表現した表現として)受け入れる感性の存在に注目するわけである。

 ロンドンの劇場に集まった、当時の流行最先端の演劇愛好者達は、そのような表現を受け入れ、喝采を送っていたのであった。

 論理的矛盾で構成される現実世界の極限を描いた流行作家と、その表現に自らを重ねた観客達の姿、その両者の存在をそこに見出したいと思う。

 

 

       戦争は平和である

      自由は屈従である

     無知は力である

 こちらは、イングソックの有名なスローガンである。

 1949年のジョージ・オーウェルの作品、『1984年』に登場する。

 今から60年前に、ジョージ・オーウェルが描いた未来世界の姿であり、それは年代的には、既に、今から25年前の世界となってしまっているのであった。

 イングソックすなわちイギリス社会主義の統治する「革命後」の世界のスローガンとして、「戦争は平和である」、「自由は屈従である」、そして「無知は力である」が存在することになる。

 この矛盾した(と私達には思われる)表現で形作られたスローガンは、二重思考(ダブル・シンク)をマスターした者にとっては「矛盾」ではない。そこに矛盾を見出すということは、思想警察による逮捕に直結し、最終的にはその者の死を意味することになるのである。

 生き続けることを望むなら、二重思考をマスターし、スローガンの正しさを確信出来るようになる必要がある。いわゆる批判精神は、イングソックの統治する世界では必要がないのではなく、不要なものとなっているのである。

 その背後には、思想警察の存在があるというわけだ。

 それが、オーウェルにとっては35年後の、私達にとっては25年前の世界の姿なのである。

 さて、オーウェルから60年後の現実はと言えば、思想警察の存在とは無関係に二重思考をマスターしてしまっているのが、現在の日本人の姿であろう。

 公務員へのリストラの実行を求めながら、行政による各種規制の強化を訴える人々。両立不能な要求であることに気付くことがないのである。

 二重思考からは、合理性ある解決が導き出されることはない。そのことは、何よりも大東亜戦争中の大日本帝國の歴史が、見事に示していることだろう。日米の国力差を冷静に分析しながら、国力差を無視した開戦を決断出来てしまったのである。

 

 

 

 シェークスピアが描き、観客が受け入れたのは、現実に存在する矛盾を現実として描き出した表現であった。

 オーウェルが想定したのは、現実に存在する矛盾を当事者の意識において非現実化するための、矛盾した、しかし当事者の意識上は既に矛盾の存在しない、表現なのであった。

 現代の日本では、オーウェルの想定した二重思考が、思想警察の存在に頼ることなく実現されてしまっているのである。

 

 

 

 

 

…というような話は、まぁ、ある意味で他人事として書かれている。

 ネコの異名に「家狸」「狸奴」とあるから、野猫は狸(野生のネコ、ヤマネコ)で、家で飼養されているのが猫。つまり「家狸」の別名は「猫」、和名は「ねこま」である云々、という話題には他人事では済まされない側面がある。

   猫は狸、狸は猫

   狸は猫、猫は狸

   猫は狸、狸は猫

   狸は猫、猫は狸

   ・・・・・・、・・・・・・

 

 

 しかし、猫と狸の区別も判らない昔の無知な中国人の話として済ませてしまうという解決法を、今、思いついてしまった。

 これは二重思考ではない、と思いたいところなのだが、もう寝る時間である。判断力は失われてしまっているのだ。

 明日考えよう。あるいは忘れてしまおう。

註 : 内容的には、前回(「衝撃の事実」→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e916.html)同様の、freeml 用のネタ話であるが、オチに至る文中には、この「現代史のトラウマ」にふさわしい話題が書き連ねてある。そこでこちらにも収録した次第。

 参考までに、続編として(?)書いた、「晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい」(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/92309)のこともご紹介しておく。セリフ自体の解釈と翻訳の問題、といったテーマにご興味おありの方はどうぞ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2009/01/12 23:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/91617

 

 

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