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2008年12月 7日 (日)

首相辞任(昭和十九年七月十八日)

 

 責任を取り、辞任をするということ。

 何らかの地位に就いていた人物が、その職責を全うすることにおいて、自らの失敗を認め、あるいは能力の不足を自覚したが故に、その職を去る。

 時を誤ることなく辞任することが出来れば、職務遂行上の問題への評価とは別に、出処進退における潔さに関しては、周囲の記憶に残る人物となる可能性があるだろう。

 昭和19年7月の話である。

 

 

 七月十八日(火)          晴 頗暑 五,三〇 一一,〇〇

 いい気持ちで起きる。御代拝。九時二十分内大臣、九時四十分東条首相拝謁。いよいよ国内の事態も接迫して来たらしい。首相の表情も硬直している。午后また拝謁。いよいよ内閣総辞職だ。かかる事態を招来した国内情勢が困つたものである。夕方大夫の車で下る。入浴。ニュースではサイパン島の玉砕を報じてゐる。予等は已に聞いてゐたことであるからであるが家中悲嘆に暮れてゐる。孝ちゃんは今夜立つて南方へ行くとの事。堀次郎さんも同様。

          入江相政 『入江相政日記』 (朝日文庫)

 

 昭和天皇の侍従であった、入江相政の日記である。

 内閣総辞職は、まだ、国民には発表されていない。

 文中にもある、サイパンの玉砕が、東条内閣崩壊の引き金となった。

 それは、米英軍の反攻が、昭和18年に策定された「絶対国防圏」を越えたことを意味する事態であった。

 

【大本営発表】  (昭和十九年七月十八日十七時)

一、『サイパン』島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の攻撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は『タポーチョ』山付近迄突進し勇戦力闘敵に多大の損害を与え十六日迄に全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む

同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将斎藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一同島に於て戦死せり

二、『サイパン』島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し

          朝日新聞 昭和19年7月19日

 

 民間人と軍の境界が、既に曖昧にされていることにも注目したい。総力戦体制、高度国防国家の論理的帰結である。

 サイパン島では、それが、民間人の集団自決という悲劇として結実してしまう。

 沖縄における集団自決もまた、そのような国家体制が生み出してしまったものだ。軍の直接命令の有無にこだわることは、当時の国民意識への無理解と同義である。

 同日の朝日新聞には、まだ首相の肩書での東條英機の談話も載せられている。

 その最後は、

真の戦争はこれからである、一億決死の覚悟を新たにし、光輝ある三千年来伝統の闘魂を凝集して、究極の勝利を獲得し、もつて聖慮を安んじ奉らんことを、ここに更めて固く誓ふ次第である

という言葉で結ばれている。

 「真の戦争はこれから」という言葉が吐かれてしまう現実の中で、入江の周囲の人物も、南方の戦場へと送られて行くのである。

 

十八日 晴

 〇南千住から帰ると下宿のおばさんが「どうやらサイパンが玉砕したらしいですわ。女子供は豪州に送られたっていいますよ」という。頭に一撃を受けた思いである。

「へへえ、発表がありましたか」ときくと「まだないようだけど……」

 デマだろうと思ったが、一ト月になる、あり得ることである。

 正木さんの家にゆこうと大久保の通りを歩いていたら、どこかのラジオが大本営発表を伝えていた。

「およそ戦い得る同胞は敢然戦闘に参加し、おおむね皇軍将兵と運命を共にせるがごとし」

といっている。

「戦い得ざる」ものはどうしたのだ?豪州へ送られたって?日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!

 しかし、考えてみると、われわれにそれを要求する権利はない。一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ。

「陸海軍が全然背中合わせなんですって!ケンカばかりしているんですって!」

と下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。

 それが蜚語であることを信じたい。しかし自分は、敵に対してのみならず悲憤の念を禁じ得ない。

 サイパン戦ついに終焉を告ぐ。空襲はやがて来るだろう。

 〇正木さん強制残業のため九時過ぎて帰って来る。沖電気では、今年中に命ぜられた生産量を二ヶ月以内に仕上げろとの軍命令があった由。

          山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 (ちくま文庫)

 

 この年、22歳の山田風太郎の日記である。

 医学生であったために徴兵は猶予されていた。

 文中の、

 

「戦い得ざる」ものはどうしたのだ?豪州へ送られたって?日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!

 しかし、考えてみると、われわれにそれを要求する権利はない。一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ。

 

として書かれた認識に、当時の日本人としての常識的な意識(日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!)と、その中での彼の冷静さ(一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ)を見ることが出来る。

 しかし、サイパン陥落という事態に至りながら、実は、東條英機自身には、辞任の意思はなかったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/02 21:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77632/user_id/316274

 

 

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